前編
「……さま! ……聖女様!」
遠くで誰かが自分を呼ぶ声がする。
それがあまりにも悲痛な、縋るような声だったから、仕方なく女は意識を浮上させた。
叫び出したいほどの痛みを飲み込んで、再び目蓋を開く。
皮肉なくらい真っ青な空を睨みつけていると、誰かが急いで近づいてくる気配がした。何か重いものが地面を駆ける足音、薄い金属板同士が擦れ合う音、ほのかな血のにおい——
「聖女様!!」
一面が青空だった視界に、横からニュッと男が入り込んで来た。甲冑を身につけ、顔の半分は血だらけで、「ああ、右目はきっと失明しているのだろうな」と女はぼんやり思う。
「聖女様! しっかりしてください!」
「………………うる、さい、」
男がしきりに声をかけてきて、鬱陶しいので返事をしてやった。
本当は「護衛騎士の分際で、気安く声をかけるな」と言葉を続けたかったが、汚い呻き声しか出なかった。それでも無理やり声帯を震わせて、掠れた声で言い放つ。
「……ふん……おまえ、生きて、いたの……運のいいこと」
「俺が貴女を遺して死ぬわけがないでしょう!」
男は今にも泣き出しそうな顔をして、地に伏していた女の上体を抱き上げた。鼻をつく鉄錆びた臭いと激痛で女が顔を歪めると、それを見た男の顔が彼女以上に歪む。
「大丈夫ですからね、貴女のことは俺が必ず助けます」
「む、」
「無理じゃないです。もう喋らないで」
まだこちらは「む」しか言っていないのに、即座に発言を否定されて腹が立つ。
しかも「もう喋るな」とは、いつの間にこの男はこんなに偉そうな口を叩くようになったのだ。少しは自分の立場を弁えろと言ってやりたいのに、上手く声が出ない。
それは多分、己の腹に穴が開いているせいだろう。さっきから馬鹿みたいに血も溢れている。
女は血が嫌いだった。自分が血を流すのも嫌いだし、他人の血が流れるのも大嫌いだ。
だから、男の顔半分が血塗れなのも気に食わなかった。
「……ラシュ、」
聖女として、今まで決して呼ばないようにしていた彼の名を呼ぶ。
間抜けなくらい驚いた顔をする彼の頬に、女はそっと柔く触れて、顔の傷を治してやる。
「おまえは……その方が、いいわ」
最期にそう満足げに笑って、女は目を閉じた。
◇
今からざっと二百年ほど前のこと。
とある平和な王国に突如として魔王が攻めてきた。
邪悪な魔王の目的は、世界を征服し人間たちを滅ぼすことであった。人々は恐怖に怯え、この世の終わりを覚悟した。
しかし、一人の聖女の登場によって事態は一転する。
女神の導きによって選ばれた彼女は、その手を一振りするだけで、千の魔物を打ち払い、千の傷を癒すことができた。
そして最後にはその命と引き換えに魔王を倒し、この国に平和をもたらした————
「ふん、くだらない」
そう呟いて、シグリットは本を閉じた。
金色の目を吊り上げて、『王国聖戦記』と記された表紙を睨む。
なにが女神の導きによって選ばれた聖女だ。
一振りで千の魔物を退治しただの、千の傷を癒しただの、いいように書かれているが、肝心の自分の傷は一つも治せなかった。
それで結局、魔王と相討ちになって死んでいる。
そんな女のことを記して、一体何になるのか。甚だ理解に苦しむ。
「……紙の無駄だわ」
険しい顔をしたまま、シグリットは席を立つ。無駄に分厚い本を元の本棚に戻して、さっさと部屋を出る。
後手に扉を閉めた拍子に、部屋の前に掲げられた「蔵書室」という木のプレートがカタカタと揺れた。
「あっ、シグリット! やっと見つけた」
しばらく廊下を歩いていると、ふいに後ろから声をかけられた。聞き馴染みのある声だったので、特に驚くこともなくシグリットは振り返る。
声の主は予想通り、同じ修道院の仲間だった。彼女はシグリットと目が合った途端、たじろいだ様子を見せた。
「え、なに、シグリットどうしたの?」
「? 別にどうもしないけど」
「いや顔よ、顔。めちゃくちゃ怖い顔してるんだけど」
「…………」
そう言われて、シグリットは無言で自分の頬を二、三度揉み込んだ。そのまま相手に向き合って口を開く。
「それでどうしたの。私に何か用があったのよね?」
「そうそう、アンタにお客さんよ。いま司教様が客間に案内してる」
「お客?」
客など、全くもって心当たりがない。そもそもシグリットは孤児だ。五つの時から修道院に世話になり、今年で二十になる。
「なんかお金持ちっぽかったよ。それに若くて爽やかな感じの男の人でさ。もしかしてどっかで見初められちゃった?」
「なによ、人のことを勝手に見て品定めするなんて気色の悪い男ね」
「見初められてる可能性は否定しないんかい」
「まあいいや、もし玉の輿だったら修道院に寄付よろしくね」と、ちゃっかりした発言をする仲間に別れを告げ、シグリットは客間の方へと向かう。
そこまで広い建物でもないので、何度か角を曲がればすぐに目的地には到着した。
「……なるほど、……城……秋の祭事で……シグリットを……」
薄くボロい扉の奥から微かに話し声が聞こえて、ノックをしようとした手が止まる。
会話の内容から察するに、ひと月前に王城で行われた秋の祭事でお客はシグリットを見かけたらしい。
秋の祭事は年に一度の豊穣祭のことだ。この国で信仰されている女神は実りの神でもあるため、豊穣祭は修道会が主だって執り仕切ることになっている。
もちろんシグリットも修道院に属しているから、秋の祭事には駆り出されている。ただ、シグリットは役職者でもなんでもないので祭事中はほとんど裏方に徹していた。たくさんの人の目につく儀式は司教クラスが大抵行う。
唯一、人の目についたといえば、儀式直前でギックリ腰になってしまった者の代わりにした、やたらめったらデカくて重いロウソクを持つ係だが、そのパートはすぐに終わって実質五分ほどしか人前に出ていない。
その僅か五分の間にシグリットを「見かけて」訪ねてきたというのなら、見初めたどうこう関わらず、やっぱり少々気色が悪い。
形の良い眉の間にシワを寄せ、シグリットは扉を三回ノックした。
「はいどうぞ」
司教の声を聞いた後、そのままガチャリと入室する。
シグリットが一歩踏み出したと同時に、向かい合った長椅子の奥側に居た人物が勢いよく立ち上がった。
次いで手前側に居た人物がやや遅れて立ち上がる。こちらが司教だ。腰が悪いのでゆっくりしか動けない。
「シグリット、貴女にお客様よ。こちらはラシュティバルトさん」
司教はシグリットにそう紹介すると、「お茶のおかわりを取ってくるわね」と言いつつ、部屋から早々に出て行ってしまう。
すれ違いざま、なぜか司教は親指を立ててこっそりウインクをしてきた。おそらく先程の言葉は方便で、気を利かせてくれたのだろう。さっきの仲間と同様、何か勘違いをしているようにも見えるがもういい。
そんなことよりも今は目の前の男のことだ。
シグリットが視線を向けると、見覚えのある男が居ても立っても居られない様子で足早に歩み寄って来る。
赤茶色の髪を上げ、目鼻立ちの整った端正なその顔立ちは、二百年ぶりに見ても全く変わっていなかった。
「お久しぶりです、シグリット様」
嬉しそうにそう言った男の顔を、シグリットは正面から見上げて凝視する。
「…………目は、」
「え?」
「その右目は、見えているの」
きっとその時、訊くべきことは他に沢山あったと思う。もしかしたら、「おまえは誰だ」と惚けてしまって、赤の他人のふりをした方が良かったのかもしれない。
けれどシグリットにとっては、何においても気になって、やはり訊いておきたいことはそれだった。
質問を受けた男は一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた後、またすぐに笑みを浮かべ直した。
「はい勿論。両目とも貴女の顔がよく見えます」
「……そう」
なら、いい。それならいい。この男に関して気がかりだったのは、それだけだったから。
シグリットが静かに頷くと、再び男は口を開く。
「私のことを覚えておいでなんですね」
「そうよ。だったら何だっていうの」
「ああ、その不躾な物言いはやっぱり貴女だ」
「どういう意味よ」
シグリットがきつく睨み上げても、男はニコニコと微笑んだままだった。この勢いだと罵倒されても喜びそうだ。気色が悪いので絶対にやらないが。
「この世に生まれ直して二十数年、貴女のことを想わない日はありませんでした。私がこうして生まれ変わっているのだから、きっとどこかに貴女もいらっしゃるだろうと……、そう信じて探し回って、ひと月前に王城の隅でロウソクを不満げに持つ貴女を見かけた時の感動は忘れられません」
やっぱりあの五分間のロウソク持ち代打の時に、この男は自分を見つけ出したらしい。
もう今更シグリットは驚かなかった。相変わらず、二百年経ってもこの男は目敏いというか、マメというか、執念深いというか……。
シグリットが少し遠くを見るような顔をする一方で、男は続ける。
「今日こうして伺ったのは、単純に貴女にお会いしたかったのもありますが、一番はとあるお願いをするためです」
そこで男は言葉を止めて、不意にシグリットの前に傅いた。美しい所作で恭しく彼女の手を取ると、芯の通った声で告げる。
「俺と結婚しましょう、シグリット様」
◇
今からざっと二百年ほど前のこと。
シグリットは、「シグリット・リレア」という名の聖女だった。
魔王がもたらした世界の危機を救うため、女神の導きによって十五の時に選ばれた。
手を一振りするだけで、千の魔物を打ち払い、千の傷を癒す……ことは流石にできなかったが、魔物を倒す力も、傷を癒す力も確かにあった。
聖女になってから約五年間、シグリットは王国騎士団と共に魔王討伐の任務にあたった。騎士団の実力は申し分なく、実際に危ないところを何度も助けられたことがある。
ただひとつ文句があるとすれば、騎士団から派遣されて来た護衛騎士の男についてだ。
その護衛騎士の名はラシュティバルトといって、その長ったらしい名前通り、非常に鬱陶しい男だった。
『前線に出過ぎないでください!』
『もっと周囲をよく見てください!』
『怪我人を一人で担いで行かないでください!』
『新人を片っ端から口で負かさないでください!』
『寝る前は返り血を拭いてください!』
『地べたでいきなり寝ないでください!』
『前に出過ぎです! 下がって!』
『貴女はもっと周りを頼って!』
腹の立つことに、こういう風に言われている時は大抵向こうの方が正しいので、いつもシグリットはむっつり黙って反省するしかなかった。
特にシグリットが傷を負った時の口うるささは凄まじく、「貴女は自分の傷は治せないんですよ! なのにそんな無茶をして!」と、いつもの倍くらい怒られた。
今思えば、彼は危惧していたのだろう。シグリット自身が取り返しのつかない傷を負うことを。
結果だけ見れば、彼の懸念は正しかった。
シグリットは魔王と相討ちになって、腹に負った傷を治すこともできずに死んだからだ。
その後のことはあまりよく知らないが、像が立ったり、シグリットの名前が流行ったり、誕生日が祝日になったりと、まあ色々あったらしい。蔵書室の『王国聖戦記』で読んだ。
それからあの本には、聖女の護衛騎士についても、聖女の死後どうなったのか一文だけ記述があった。
シグリットが死んだ後、あの男は……
「それ何してんの? シグリット」
ふいに横から声をかけられて、シグリットは思考の海から浮かび上がった。
声の方を向くと、修道院の仲間が不思議そうに自分の手元を覗き込んでいる。
シグリットの手元——蔵書室の机の上には、分厚い本に古紙とハサミ、それから一輪の青い花が並べられていた。
「押し花を作っているのよ」
「押し花?」
「そう。最近よく花が手に入るから」
「ふぅん、花がねぇ……」
「ええ」
「…………」
「…………」
「あ〜‼︎ そっか! なるほど花‼︎ 花ね!」
突如として膝を打ち大声を出す仲間に驚いて、シグリットの肩が跳ねる。ちなみに彼女は先日「玉の輿なら修道院に寄付よろしく」と言っていた人物である。
「何よいきなり。うるさいわね」
「それってあれでしょ、あのラシットハルトナルトさんからもらった花でしょ?」
「そうだけど、ラシットハルトナルトさんは誰なのよ」
恐ろしく言いづらい名前になっている。もう最初の「ラ」と最後の「ト」ぐらいしか原型を留めていない。
「初めて来た日からもう一月くらい経つんだっけ。なんか最初はものすごい大きな花束を贈ってくれてたよね」
「……花束は管理が大変だからやめろって言ったら、今度は毎回違う花を一輪だけ贈ってくるようになったわ」
ラシュティバルトが今世で初めて訪ねて来たあの日。
突然結婚の申込を受けたシグリットは、「嫌よ」とバッサリすっぱり断った。
落ち込み固まる男を追い返し、その日はそれでお開きになったのだが、そこでハイおしまいと言う訳にはいかなかった。
その数日後、あの男は「いきなり結婚は先走りました」といかにも反省している風の顔で再びやってきて、それから週に一度は必ず何かしらの理由をつけてシグリットに会いに来ては贈り物をしていく。
ちなみに最も多い理由は「今日は青空だったから」である。馬鹿なのか。
あの男のことを思うと、シグリットの眉間に自然とシワが寄る。口をへの字に曲げ、黙々と手を動かす彼女の様子をぼんやり眺めていた仲間は、不思議そうに問うた。
「ねぇ」
「なに」
「シグリットはさ、その人のこと嫌いなわけじゃないよね」
いきなり核心を突くどころか抉ってきたその言葉に、シグリットの手がピタリと止まる。
「確かにいつもしかめっ面して会ってるけど、それはアンタの標準装備っていうか、今に始まったことじゃないしさ」
「…………」
「結構な面倒くさがりのくせに、毎回もらった花をこうやって押し花にしたりして大切に保管してるし」
「…………」
「それに何より、どんなに悪態ついたとしても、“もう来ないでほしい”とはアンタ絶対に言わないじゃん」
「…………」
自分は側から見てそんなに分かりやすい人間だったろうかと、シグリットは思う。
きっと無意識のうちに浮かれていたのだ。もう会えないと思っていたのに、急にひょっこり目の前に現れるから。駄目だと分かっているのに、無遠慮に手を差し伸べてくるから。
指摘に対して否定も肯定もしないシグリットに、さらに仲間は続ける。
「いきなり結婚まではいかなくてもさ、恋人とかにはなってみてもいいんじゃないかなぁとか、外野から見てる分には思ったりするんだけど」
「……そうね」
目を伏せたまま、シグリットは小さく頷く。
ちょうど押し花の作業が終わり、花を挟んだ分厚い本をそっと閉じる。
その閉じた本のタイトル——『王国聖戦記』を睨みつけながら、シグリットは言葉をこぼす。
「でも私とあの男は、一緒にならない方がいいわよ」
今日の花は、この本の四五八ページと四五九ページの間に挟んだ。ちょうどこの辺りは、聖女が死んでからすぐ後のことを記している部分でもある。
その四五九ページの、前から数えて三行目。
繰り返し繰り返し何度も読んだから、あの一文がどこにあるのかもう覚えてしまっている。
『聖女の死後、彼女の護衛騎士はその跡を追って殉死した。』