仕事中毒な王太子は婚約者の令嬢に見捨てられそうになる
暑い中、やらなければならないことはたくさんあるのです。
現実逃避で書いてしまいました。
何番煎じだかわからないですが、全部詰め込んでみました。
これもきっと暑さのせいです。
今日も王太子の執務室からは書類をめくる乾いた音が聞こえてくる。その次に聞こえてきたのは不備のあった書類に何かを書きこむ音と、近侍に指図する低い声。開け放された扉からは処理の済んだ書類の束を抱えた役人が出てくる。すぐに別の者が新しい文書の山を抱えて扉をくぐる。
ミドハドージェス王国のアンセニオ王子は大変優秀な次代の王である。文武両道に秀でているのはもちろんのこと。昨年の立太子後に国王より重要な政務を引き継いだばかりにもかかわらず、的確な判断と優れた思考能力を発揮し、次々と起こる難題を解決しまくっている。煩雑な書類を驚くべき速さで読みこなし、不正を見抜き、納得できなければ現場まで足を運んで確認する。運動不足解消と称して騎士たちの訓練に参加することさえある。
これほど忙しいのに王太子の表情は変わらない。肖像画が大人気になるほどの美貌も相まって、城の役人たちは「自動式人形」「最高級陶磁器」などと陰でこっそりあだ名をつけていた。
その日も朝から大臣たちとの打ち合わせや役人たちからの報告が続き、さらに大量の書類をさばいて部屋から送り出した。淡々と次のものを、と声をかければ近侍が今までのものとは異なる数通の文書を手元に置いて来る。
「こちらは貴族家からの相続や婚約等に関する文書でございます」
無言で頷いた王子は上から機械的に目を通していく。数多い貴族家の動向には王家としても目を光らせておかなければならない。特に代替わりや婚姻等は勢力図の変化にも繋がるので大切なことだった。ただ個人的に知っている者の名が出てくることも多いので、先程よりは砕けた口調になった。
「レイバン男爵が隠居か。確か70歳に近かったな?」
相変わらずよく覚えていらっしゃる、と感心しながら近侍は答える。
「はい。跡継ぎのご長男を授かるのが遅かったため、今まで頑張っていらっしゃいましたが、ようやくご成人されたと喜んでおられました」
「うむ、男爵の領地は狭いが隣国への街道が通る重要な地だ。新しい男爵にも期待しよう」
そう言いながらサラサラと承認の署名をして、次の文書を取り上げる。
「メディーナ伯爵家の長男とロドリヘス侯爵家三女の婚約許可願い。侯爵が末娘可愛さになかなか首を縦に振らなかったものだが。エミリオの粘り勝ちか」
「はい、確かエミリオ殿は我々の後輩でいらっしゃいましたね」
王太子はこれにもすぐに署名しながら答える。
「そうだ、あんなに気持ちのいい青年は滅多にいないぞ。家格がどうとか、侯爵がごねていただけだ。ああ、カルロス、何か祝いの品を送っておいてくれ」
「かしこまりました、殿下」
他にも数通の嘆願書や届け出を問題なく承認した王太子は最後に残った文書を手に取った。何も考えず読み始めた王子だったが、その文書は他のものとは明らかに異質であったため、思わず声をあげてしまう。
「何々?婚約解消願い?それはまた大変なことではないか」
近侍のカルロスは黙って側に立ち尽くす。
その珍しい文書には女性側からの婚約解消を望む旨とその理由が箇条書きに事細かく記載されていた。王子は無意識に眉間に力をこめて真剣に読み進める。
1.この婚約は家同士、親同士が決めたものであり、当事者が10歳にも満たない幼い頃に定められたものであること。よって婚約に際し当人たちの意思は無関係であったこと。
『それは珍しくもないだろう。特に高位の貴族ともなれば派閥なども気にしなければならないのだ。自分勝手な恋愛結婚はむずかしいからな』と王子は思いながら次へ進む。
2.幼いころは頻繁に会う機会もあり、将来の夢についても語り合うなど良好な関係を築いていたが、貴族学院入学後は男性側が生徒会活動や仕事に忙しくて会える機会が激減したこと。
『生徒会活動か…私も会長を務めたからわかるが、あれは真面目に取り組むほど忙しくなるからな。だが役員に選ばれた以上は学院のために尽くすのが当然だろう。生徒のため、ひいては婚約者である令嬢のためにもなるのだから』
自分も覚えがあるからか、どうしても男性側に同情したくなる。
3.学院祭後に行われた小夜会で着るための衣服を贈られたが、令嬢に似合う色・形ではなかった。おそらく男性側が幼少時の記憶のみで指示したもので、現在の令嬢の好みや外見がどうなっているかには興味がなさそうであり、婚約者としての義理で贈って来たらしいこと。
さすがにこれは令嬢側に同情する。『それは良くないな。仮にも婚約者であれば、相手の好みを前もって知っておくのが礼儀だろう…あれ?そういえば…私の贈ったものは、あまり喜ばれた記憶がないな…。今の彼女には…どんな色が似合う?』王子の脳裏に浮かんだのは幼い頃お転婆だった少女の姿のみ。頭を振って次に進む。
4.王宮で開かれる舞踏会に同伴することはあったが、最初に一曲踊るだけ。その後は重要な客への挨拶が済むと、会場内で右と左に分かれる。男性は主に政治・経済に関する話を好み、女性は高位の貴族夫人や令嬢たちとの交流を図るのに忙しく、舞踏会が終了するまで同席することは稀である。
『まあ、舞踏会とはそういうものだからな。私だってこの機会に様々な意見を聞かなければならないし、女性は女性で付き合いというものがあるだろう』
5.在学中に王家からの命により学院が制度改革を行い、奨学金制度が発足。これにより成績優秀でありながら経済的に入学が困難であった下位貴族や平民の子弟が進学できるようになった。
『ん?確かにこの奨学金制度に関しては私も父上に進言した覚えがあるが。婚約解消に関係あるか、これ?』
6.婚約者である男性が貴族学院の生活に不慣れな新入生の世話係を引き受けて、彼女たちのために時間を多く割くようになったため、令嬢と会話する時間すらほぼ消えたこと。
『彼女たちって…なんでここの部分が強調してあるのだ』
嫌な汗が流れるのを感じる。
7.男性が学院内では常に下位貴族令嬢を含む取り巻き達と過ごしており、廊下ですれ違っても気づいてもらえなかったこと。婚約者との数少ない貴重なお茶会でも彼らが一緒にいて、令嬢の知らない話題で盛り上がり口をはさめなかったこと。
『な…高位の貴族子弟は学生のうちに気心の知れた学友の中から、信頼できる将来の側近を選ばなければならないのだ!現に私だってカルロスをはじめ、騎士隊長の弟とか宰相の息子とか…取り巻きにおだてられて喜んでいるわけではない!』いったい何を言い訳しているのか。
8.ついには昼食を共にすることすらなくなったこと。それにより大事にされない名ばかりの婚約者と噂になった。他の生徒たちから憐みの目で見られ、軽んじられることも多かったこと。更に令嬢がその社会的地位を利用して下位貴族令嬢を虐めたなどの、ありもしない罪をなすりつけられたが、婚約者の男性に訴えても相手にするなと言うだけで、傷ついた令嬢を慰めてもくれなかったこと。
『…!』
眉間の皺が深くなる。
9.卒業後は令嬢も将来の地位を見据えての教育を受けるのに忙しく、自由な時間さえままならなくなったこと。それにもかかわらず、婚約者の男性からは通り一遍の時候の挨拶と家臣か誰かに適当に選ばせたと思われる贈り物のみで、仕事を理由に同じ建物の中にいながら顔を出すことすらしなかった。また忙しさ故に私的な手紙を送っても読んではもらえそうにないこと。
『……!……!』
文書を持つ手がプルプルと震え始めた。
10.結婚式の日取りだけは決まっているが、それも国の公式行事として定められたもの。今に至っても婚約者の男性側から直接の求婚の言葉さえなく、結婚後の将来の展望について二人で話し合う機会すらない。以上のことから男性側に令嬢への愛情が全くないと推察せざるを得ない。また令嬢側も愛のない政略結婚と割り切って王太子延いては国王となる男性を生涯支え続ける自信はない。よってここに
ミドハドージェス王国アンセニオ・フリアン・ラ・バルデラス王太子殿下と
エステファニア・ミラグロス・デ・モンテマジョル公爵令嬢との
婚約解消を願い出るものである。
『!!!』
ガッターン!と椅子が倒れる大きな音が廊下にまで響き渡る。何事かと顔を上げた役人たちの目にうつったのは、必死の形相で廊下を駆けていく王太子の姿だった。部屋に残されたカルロスはため息をつきながら散らばった書類を拾い集める。そこへ入って来た影を見て、彼はすぐその場に片膝をついた。
「王妃殿下」
「よい、カルロス。立ちなさい」
カルロスは立ち上がり、ややうつむき加減にその場に控える。
「アンセニオがようやく気づいたか…手遅れになる一歩手前といったところかの」
王妃は彼を睨みつけると小言を言いだした。
「あのバカ息子が一番悪いのは当然だが、お前たちも同罪だとは思わないか?いくら優秀だからと言っても公務を詰め込みすぎであろう!」
王妃の叱責にカルロスのみならず控室にいた役人たちも直立不動となる。
「いや、より罪深いのは我が夫だな。息子が成人したのをいいことに、自分が趣味に費やす時間を増やすために仕事を押し付けて…こんなことでエステファニア嬢に見捨てられたらどうするつもりか!」
エステファニア嬢を気に入っている王妃が思いっきり怒りをこめて、手に持った扇をギリギリとねじり上げた。それを見てカルロスも役人たちも、国王に神の加護があらんことを祈るしかない。
その後
アンセニオ王太子は単身モンテマジョル公爵邸へと駆けつけ、
エステファニア嬢の前に土下座して、今までの愚かな行為に対する許しを請い、
さらに跪いて熱烈な求婚の言葉を捧げ、
一生彼女だけを愛し、大事にすると宣言し、
涙目であれもこれもと誓いを立てて
ようやく彼女が求婚を受け入れてくれたのだった。
きっと一生奥さんに頭が上がらない。
お読みいただきありがとうございました。
暑さ厳しき折、皆さまもご自愛くださいませ。