アフォガード
「真田さんのところの息子さんね、この前結婚したんだけど、奥さんが十二も下なんですって」
すごいわよねぇ、と続いた常連さんの感心した声を、僕はカウンター越しに引きつった笑みで受け止めた。
十二歳差はすごいのだろうか。まあ、世間一般に言ったらすごいのかも。干支が同じってことだもんな。
常連さんが興奮気味に続ける。
「それにね、お互い初めてのお付き合いでゴールインだっていうのよ。素敵よねぇ」
なるほど、それは「素敵」なのか。勉強になります、という意味を込めて、僕は曖昧に微笑んでおいた。
カウンターの少し離れた席で、ひとりの青年が笑いを噛み殺しているのが視界の隅に映る。辛子色のカーディガンがよく似合う、僕の恋人。僕が真実を飲み込んで、常連さんに気圧されているのがおかしくてたまらないのだろう。
——ちなみに、僕は恋人と十六離れてます。
そう口にしたら、目の前のご婦人は椅子から転げ落ちるかもしれない。頭の隅でそんな妄想をこっそりと弄ぶ。外には出せない、僕の本音。
結局、「真田さんのところの息子さん」の話題に熱心な常連さんが帰るまで、恋人は肩を震わせ続けたのだった。
◆
お客さんがはけて、彼と二人きりになれたのは、午後四時を少し過ぎたころだった。
窓の外には、お向かいさんが丁寧に手入れしている庭の花々が見える。今日は気温が下がったが、芝桜の白が整然と地面を覆うたび、穏やかな季節の訪れを感じて嬉しくなる。
住宅街にひっそりと佇むこの小さな喫茶店は、この界隈のご近所さんたちの厚意で成り立っている。誰もが同じような時間にやってきて、毎度同じような話をして、同じような時間に帰っていく。息づく人たちの生活のなかに、僕がほんの少しだけお邪魔している、という感覚。
新卒で勤めた会社で身体を壊し、渋々父から引き継いだ店だけれど、今やこの店は僕の一部となっている。
ぼんやりと雲の流れを眺めて満足できるような自分は、もともと社会の忙しなさについていくことに向いていなかった。そう認めるまでには、結構な時間がかかった。なけなしのプライドを自らへし折らなくてはいけなかったから。
時間をかけたぶん、今は自分の生き方に満足している。年齢を重ねてそれなりに鈍感にもなれたから、謝罪のしすぎで胃を痛めた日々にも、なにかしらの意味があったのだろうと思える。
話し声のない店内はしんとして、お湯を沸かす小気味良い音だけが響いていた。
ここにいると、時間がゆっくりと過ぎる。店の北側に備え付けられた小さな暖炉の火花が爆ぜる音が、僕も含め、訪れる人たちの心を慰めてくれる。父がこの店を構えたとき、僕は暖炉の存在に感激した。お金持ちっぽい、とはしゃいだ僕に、父は苦笑いをしていた気がする。
「うちの恋人は十六も下です、って言えば良かったのに」
僕の目の前に席を移動して、悪戯っぽく恋人が笑う。社会人になって今年で二年目。生意気に吊り上がった眦は、子どものころよりは幾分印象が和らいだように見える。
日曜くらい家でゆっくり休めばいいのに、恋人は毎週、律儀にこの店に入り浸る。彼もまた昔ながらの常連だ。ブラウンのジャケットがトレードマークの、小洒落たお祖父さんとふたりで店に来ては、足の届かないカウンターに一丁前に座っていた姿は今でも鮮明に思い出せる。
「……言えるわけないじゃないか」
「今度会ったらおれが言ってあげようか?」
「遠慮しとくよ」
口の中で笑ってから、僕は彼の前に卵サンドを盛った皿を差し出した。遅すぎる昼食となってしまったが、彼の好物だ。荒く潰した茹で卵に、アンチョビを少しだけ混ぜ込んだ、うちの自慢のサンドイッチ。それにあわせて苦味の強いブレンドを淹れてやる。
父はこのサンドイッチを作るとき、パンに薄くマスタードを塗っていた。僕の代になってからはバターを塗る。
反抗するつもりなんかない。ただ、僕がそっちの方が好きだから。それだけだ。
ほんの少しだけ変わっていく味を、受け入れてくれるお客さんもいれば、拒絶するお客さんもいる。マスタードを塗ってくれ、と言われれば、僕は素直に応じることにしていた。
そのときの状況に合わせて、一番安らげるものを。
若さの盛りを過ぎて張りを失った分、僕の心は柔軟になった。柔らかくなったから、なにか不測の事態がおきても「そんなもんだよな」と受け止められるようになった。
それはきっと、良いことだと思う。
特別に大盛りにしたサンドイッチを目にして、彼の声は弾んだ。
「出た。親の仇サンド」
「変な名前をつけるんじゃない」
彼曰く、「親の仇のように卵をこれでもかと詰め込んでいる」から、そのネーミングらしい。物騒な名前に不満を重ねるまもなく、彼がそのうちの一つを口に詰め込む。
「うまい」
「それはよかった」
嬉しそうな表情は、いくつになっても変わらない。
彼と恋人になったのは三年前のことだ。
成人を迎えたその日、彼はこの店を訪ねてきて「付き合ってください」と頭を下げてきた。僕は驚いた。とてもとても驚いた。驚いた末に、その場では「なにかの間違いだと思う」と断った。
けれど、彼は粘り強かった。せっせと店に通い詰めては、「何がどう駄目で付き合えないのか、納得がいくまで説明しろ」と迫ってきたのだ。
「コーヒーを飲めたら大人だって言ったじゃん」
そう不満げに言われたこともある。
僕は本当にそんなことを口にしたのだろうか。違うことをぼうっと考えながらお客さんと話すことがよくあったから、自信がなかった。
自信の強さだけで勝負すれば、僕は彼に完敗だった。
その後一年間、口説きに口説かれ続け、僕は折れた。折れたというと人聞きが悪いが、正確にいえば、きちんと彼を好きになっていた。ひとりの人間として。
ふと、さっきの常連さんが「初めてのお付き合いで」と話していたのを思い出した。子供のように頬いっぱいにサンドイッチを詰め込む恋人を見て、僕は素朴な疑問をこぼす。
「初恋っていつだった?」
一緒にいる時間が長いから、つい深く彼を理解しているような気がしてしまうけれど、実のところ僕は、彼をよく知らないでいた。踏み込み過ぎないことが礼儀だ、という考えが僕にはあったから。
でも、唐突に彼の初恋を知りたいと思った。どんな恋愛をしてきて、何がどうなって僕へと行き着いたのか。
「……ちなみに僕は中学のころ。同級生の子で……告白しないまま終わった」
一方的に聞くのはフェアじゃない。そう思い、僕はよく分からない思い出を白状した。彼は目を見開き、無言で咀嚼を続ける。
真剣に話し合うことはそうそうない議題だ。でも、いきなりすぎた。
ほんの少し後悔し始めたころ、彼はごくりと喉を動かした。そして僕が差し出したコーヒーをひと口飲み、ぽつりと言う。
「……あんまり良い思い出じゃないな」
言葉の意味の割に、声は明るかった。胸のあたりがざわりとうごめく。カップをもう一度傾けて、彼は続けた。
「十二歳のときにじいちゃんが死んで、もう本当、この世の終わりだーってくらい、すっげぇ悲しくてさ」
たしかに、彼はおじいちゃんっ子だった。全身全霊でお祖父さんを尊敬しているのが、傍目にもよく分かった。だからお祖父さんが亡くなったとき、彼は随分と憔悴していた。
「ひとりで喫茶店に行ったんだよ。それで、じいちゃんが一番好きだったコーヒーを飲んでみたくて、頼んだ」
僕は彼の話をじっと聞いていた。
彼の少し掠れた声が好きだ。若さの奥に秘めた、思慮深さも。
「でもさ、そのころコーヒーだけって飲めなかったから。一緒にアイスも頼んだんだ。アイスにかけたらいけると思って」
「…………」
「そしたらさ、そこの店主になんて言われたと思う?」
彼は笑っていた。笑って僕を見ていた。その微笑みの優しさに、彼の亡き祖父の面影が重なって見えた。
「『そのコーヒーは酸味が強いので、アイスにかけてはいけません』」
「…………」
僕はなにも言えなかった。ひたすらに気まずくて、彼に申し訳なかった。
でも、当時の僕はきっとそう言ったのだ。アイスにかけるのであれば、苦味の強いものじゃないと合わない。父から教えられた知識を優先させて、彼の幼い願いを一蹴してしまった。
しかし彼は、なおも笑っていた。
「おれ、びっくりしちゃってさ。何なんだよって。こっちはすっごく落ち込んでて、じいちゃんと同じコーヒー飲みたかっただけなのに。真面目な顔でそう言われて」
「……その節は、あの」
「でもさ」
彼はカウンターの上で指を組み、僕を見つめた。幼さのない、真摯な瞳だった。
「びっくりしたのと同じくらい、この人は大人で素敵だな、と思った」
「…………」
「それが、おれの初恋」
きっぱりと言い切ると、彼は力の抜けた笑みに戻り、再びサンドイッチに手を伸ばした。僕はなんだか顔が熱くて、でも顔を隠すのもおかしい気がして、いたずらに布巾を取って手の中でこねた。
「そっか」
苦し紛れに、僕は呟いた。
初恋。十二歳のころ。成人を迎えたあの日の告白。
たくさんの記憶が蘇っては消えていく。
僕は大人になり、柔軟になった。でも、心の根っこのところは、十代後半からさほど変わっていないように思う。
「心は永遠の十七歳」だと主張する常連さんの気持ちが、僕には少しだけ分かる。十七そこそこあたりで、心の芯は固まってしまうのだ。
新たに知った恋人の事実に、僕はいてもたってもいられなくなる。すごい秘密を聞いてしまった気がした。十六も歳上なのに、余裕なんてこれっぽっちも持てない。
僕が心の芯にやわらかな年輪をまとわせて「大人」だと唱えている間に、彼は少しずつ、僕の根っこへと近づこうとしている。
ときどき、僕は彼の持つ熱に怯みそうになる。彼が本当の意味で僕にたどり着いたとき、僕は一体、どうなってしまうのだろうか。
「……そっか」
暖炉のなかの火花が、ぱちりと爆ぜる。
恋人はまた、笑いを噛み殺していた。
了