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わたしのことをかんがえて

作者: 丹羽美幸











プロローグ


悠々と流れる川の水面に、私の体が映っている。私の長い枝の先端は痩せ細り、葉は枯れてしまっている。新芽は固い蕾のまま、開かずに干からび始めている。私は自身の惨めな姿を見て、目を背けたくなる気持ちと、まだ生きたい、芽を膨らませたい、という願望が混ざり合い、慄くように枝を震わせた。私を支えるこの土が、もう駄目なのだ。根元には黄ばみ始めた苔が広がっている。この土から吸い上げる水は、嫌な匂いがする。土の中で生きていた微生物は息絶え、養分は消失してしまった。もう、この森は死にかけている。辺りを見渡すと、私の子どもたちは、数多く姿を消してしまった。あの子たちの笑い声や囁き声も、もう聴くことができないのだ。私は深く目を瞑る。遠い昔、この大地にチグリス川しかなかった頃の景色を思い出す。肥沃な土地と、豊かな水源のもとに私は生まれた。強い太陽の日差しと、大粒の雨を降らす雲が交互に訪れ、私の体は伸びやかに育っていった。幹が太くなり枝が伸びる様子は、空に向かって羽ばたけるような感覚をもたらし、爽快な気持ちになる。子どもたちもすくすく育ち、新芽が萌えると、喜んで葉を揺らせていた。私の周りには雄大な川と青い空が広がり、その景色は永久に変わらないと思っていた。


いつしか、嗅いだ事のない匂いを感じるようになる。私たちの森から少し離れたところから漂ってくる臭気は、ものが燃えるときに発生していたのだ。動物が燃える匂いや、石と石をぶつけて発火させる時の焦げるような匂い、植物を燃やす匂いが混じる。その匂いを嗅ぐたびに私は目眩を感じた。それからすぐ後に、二本足で歩く生き物が森に現れた。それが人間だった。彼らは布を身に纏い、何かを喋っている。手足を使って石や木を運び、自分たちの住居を作り始めた。遠方に見えていた人間たちの集落は徐々に大きくなり、この森の近くまで距離を縮めてきた。そして、私や子どもたちの体に近づき、鋭い刃物で枝を一気に切り落とした。最初に痛みが走るが、すぐに感覚は無くなる。枝は、すぐに再生し、伸びたらすぐに切り落とされた。私の体が頑丈だからだろうか。人間の生活を支える上で、枝は多岐に使用された。私の体の一部が、家屋や船や神殿など、この森から離れた場所で甦り、活用されることは大きな喜びだ。私は自身の体に養分を巡らせ、人間の為に体を再生させることに気持ちを投じた。


集落は更に大きくなり、多くの人間がこの森を行き交うようになる。毎朝、山羊の乳を搾り、大きな容器を荷台に乗せて運ぶ少年が、いつも私のふもとに腰をかけて体を休める。朝の眩しい光が差し込む中、梢を抜ける風が彼の額の汗を乾かす。そして気持ち良さそうに目を閉じながら私の体に耳を傾けてくれる。私の鼓動が聞こえるでしょう?あなたたち人間と同じで、私も生きている。彼は痩せた腕を伸ばし、掌で幹を撫でながら、しっかりとその音を聴いている。私のもとでゆっくり休んで欲しい。私は人間と共存しながらこの森で生きて行く。人間の生活を支えながら、新鮮な酸素をふんだんに送り続ける。そう願っていた。私の体に異変が起きるまでは。


ある日、土からの養分が全身に送り込めない日が訪れる。最初は気のせいだと思った。体の循環が悪くなっているのだろうか。しかし、時間を経ても新芽の蕾がなかなか開かない。そのまま、固く閉じた蕾の中の萌芽は枯れてしまった。なんだか、全身が気怠い。以前に増して、人間が振るう刃の鋭さに激しい痛みが走る。今まではこんな苦痛はなかった。枝を何本か切り落とされても、しばらく経てば脈がドクドクと動き出し、再生に向けて体が疼くような感覚が訪れるのに、何も感じない。私は、どうかしてしまったのだろうか。子どもたちの表情も無くなり、笑い声もいつしか消えてしまった。


私のからだを巡り、人間たちの争いが繰り広げられるようになった。この丈夫な幹と枝、そして、肥沃なこの森の土地を狙い、遠く離れた集落から聞きなれない言語の人間たちが闊歩し始めた。彼らは、私たちの森に粉状の毒を蒔き、根を腐らせ、この幹を一気に伐採しようとしたのだ。毒と、私の体の養分がせめぎあい、簡単に根を腐らせることは出来ない。だけど、ゆっくりと、体が朽ちていくのが分かる。この森の近くの集落に住む人間たちも槍や石を持ち、森に侵入した部外者を攻撃し始めた。人間の険しい表情、罵り合う声、そんな光景を私は見たことが無かった。私はただ、この幹や枝を利用して、人間が豊かな暮らしを送ることを望んでいた。私の存在を発端にして醜い争いが起きるとは、なんて残酷なことなのだろう。まだ、私の体の芯に流れる脈は少しだけ動いている。私の鼓動は弱りかけているが、辛うじて命を保っている。しかし、この森は近いうちに消滅するだろう。どうか、私が放つ種が違う土地で甦り、芽を咲かせて欲しい。いつしか、あの少年がしていたように、私のふもとで誰かが安らぎを覚えるような時間が、この先の未来に繰り返されて欲しい。誰かが私のことを想ってくれたなら、思い切り養分を吸い上げ、空に向けて真っ直ぐにこの枝を広げて呼吸をしたい。私は、川の水面に映る衰えた自分の姿を見つめながら、未来へ祈りを捧げた。


     1


 夜半に降った雨の影響で、今朝の新宿御苑は強い土の香りがする。柔らかな土を踏みながら、私は園内の遊歩道を歩く。少し霧がかった空気の中、周囲の杉並木は水分を含み、しっとりした表情で佇んでいる。空を覆う杉の枝と枝の隙間から朝の白い光が漏れると、それは天から降りてくる階段のように見えた。神聖さを感じる景色の中、私はある一本の木を目指して足を運ばせた。その木は多くの杉並木の中でも、特に真っ直ぐ、太い幹を伸ばし、空に向けて射抜いているような姿をしている。木の名称はレバノンシーダー。ヒマラヤスギ属のこの木は、中東地方にあるレバノンという国に生息していて、その一部が新宿御苑へ移植されてきたようだ。私はレバノンシーダーに寄りかかった。何故だろう。御苑の中には、多くの樹木が生息しているのに、私はこの杉の木に惹かれている。私は掌を幹にあて、そっと撫でる。そして、体を寄せ、幹に耳をあてて目を瞑ると微かな連続音が聞こえる。

トン…トン…トン…

幹を通して聞こえる音は、水を吸い上げる音でも、幹内の細胞が動いている音でもない。インターネットで調べると、樹木が発する音は、風によって枝や葉が揺れ、それが幹に木霊しているだけということが分かった。だけど私にはこの音が、レバノンシーダーの鼓動のように感じる。その音からエネルギーを補充するかのように、私は幹に耳を密着させる。そして、鞄からスマートフォンを取り出した。レバノンシーダーの間近でカメラを起動させる。レンズは、幹を覆う樹皮が水滴で濡れているところを捉えた。樹皮のところどころに、うっすらと産毛のような苔が生えている姿も接写する。幹から少し離れて、レバノンシーダーの上半身を見上げ、朝靄の中で枝を伸ばしている姿を撮る。自分にとって、大切な儀式のように、私は集中してレバノンシーダーをレンズ越しに捉える。何枚か写真を撮った後、スマートフォンの画面からインスタグラムを開いた。私は「楓」というハンドルネームで自分のページを持ち、そこに、撮った写真をもとに投稿文を綴る。


「朝靄に包まれたレバノンシーダーは、柔らかなリズムで鼓動を聴かせてくれた。雨上がりの土から、水分を吸い上げているかのよう。その音に、元気をもらいます」


投稿完了のボタンを押す。もう一度、レバノンシーダーを見つめ、呼吸を整える。鉛のように足元が重くなっていく感覚を払いのけるように、私は腕を伸ばし、空を見上げた。よし、行こう。心の中でそう呟き、出口に向かって歩を進めた。


     2


 西新宿駅に隣接したビルは、一階に衣料品、二階に化粧品や雑貨を扱った量販店と大型書店、三階にレストラン街を設けた、若い客層をターゲットにした商業施設だ。私の職場であるレストランもその中にある。お値打ちな手打ちパスタに、自由にお替わりが出来るフォカッチャが人気で、全国にチェーン展開しているカジュアルイタリアンの店だ。私は新卒で入社して、今年で十年目。半年前から西新宿店の店長に抜擢された。


朝の新宿御苑の空気を吸い、清々しい気持ちで出勤したのも束の間、ランチタイムのスタートと同時にひっきりなしにグループ客の来店が続いた。今日は週末で、しかも世間では給料日だ。懐が温かくなると、新宿界隈に勤めるOL達が一斉に動き出す。こんな日に限って、学生アルバイトは全員休みだ。ちょうど期末試験の時期で、普段は遊んでいる学生が付け焼刃のように勉強をするから短時間のバイトすら出られないのだ。今年の新卒で、この店に配属された男性社員は、職場の長時間勤務と、立ち仕事が主体の労働に根をあげ、「仕事によるうつ病の可能性あり」という医師からの診断書を持参して来た。それ以来ずっと欠勤している。仕事を続けるのか、辞めるのか、その意志すら確認出来ていない状況だ。人員不足の状態で本部からのヘルプが無いまま、馬車馬のように動き回りながら日々をやり過ごしている。キッチンを一人で回しているうちに、フリーターの沢井さんが私に向かって声を張り上げた。

「店長、レジ金が僅かです!千円札が十枚きりました!」

給料日だから、一万円札で会計をするお客が多いから、あっという間に紙幣が少なくなる。

「ごめん沢井さん、いま金庫開けるから、ダッシュで両替に行ってきてもらっていい?」

「了解です!」

私は濡れた手で金庫を開け、一万円札の束と、銀行の両替カードを渡した。本来、両替作業は社員しかやってはいけないという規則がある。しかし、今のこの店の状況で悠長なことは言っていられない。沢井さんは私の次に勤続年数が長い従業員だ。フリーターとはいえ社員並みに仕事ができる女性で、私より三歳若い。私の片腕となって動いてくれる貴重な存在だ。他には、ホールを担当してくれている五十代半ばのアルバイトの主婦、山根さんも大切な戦力だ。人員不足を配慮して、多くシフトに出てくれるが、大きな皿を何枚も重ねて動き回る際の表情に疲労感が滲んでいる。時々、山根さんが前屈みになって食器を運ぶ姿を見ると心配になるが、彼女は気丈に仕事を続けている。

 

 ランチタイム終了後はデザートタイムが訪れる。この店は、ティラミスやパンナコッタなどのイタリアンスイーツも充実しているので、ティータイムとして利用する女性客が多い。ランチタイムで発生した大量の食器の山を片付けられないまま、デザート盛り合わせを作りつつ、ディナーの仕込みを同時進行で行う。休憩をとる時間は微塵もない。大きな寸胴な鍋に、大量のトマトとニンニク、ミックスハーブを投入し、トマトソースを煮込む。ニンニクの香りと鍋から発する熱気に、私は目眩を感じた。夕方の六時を回ると、ディナー客が続々と続く。厨房のパスタ用鍋は十台ほどあり、それぞれタイマーを設置してゆで時間を管理している。タイマー音が一斉に鳴ると、どの鍋のパスタにどのソースをかけるか、間違いを起こさぬように神経を集中させなければならない。パスタは、茹でたてのものにソースを絡ませないと、一気に伸びてしまう。パスタをざるに上げてお湯を切り、フライパンでオリーブオイルとニンニクで炒めるパスタもあれば、ソースをまぶせて具材を乗せるだけのパスタもある。それを瞬時に判断しながら、体を機械のように動かす。無心になって厨房業務をこなすうちに、あっという間にラストオーダーの時間が訪れた。沢井さんは額の汗を拭いながら声をかけてきた。

「店長、今日はなんとか乗り越えましたね。」

「毎月二十五日は給料日だから忙しくなるって、ずっと学生には言っているのに、アテならないわね。沢井さんは休憩なしでやってもらって…今日はごめんね。私、あと片付けるから、もう仕事あがってね。」

「大丈夫です。店長もずっと通しだし。私、食器片付けます。」

二十二時に閉店し、片付けが全て終了したのは、日付が変わる二十分前だった。張りつめていた緊張感が抜け、私は誰もいない店内で一人、ソファ席に横たわる。戦場のような一日だった。足が棒のようになり、しばらく動く気力も無い。天井のライトが眩しくて、私は顔に両手を覆う。ぼんやりとした意識の中で、ポケットからスマートフォンを取り出し、インスタグラムの画面を開く。すると、トップ画面に新宿御苑のレバノンシーダーの写真が現れた。それは、私が撮ったものではない。私がインスタグラム上でフォローをしている一人、「いつき」という男性が撮った写真だ。彼の投稿はほとんどが新宿御苑で、以前から意識して見ていた。彼も、私をフォローしていて、お互い投稿すると、「いいね」ボタンを押しあっている。彼は、今日の夕方に新宿御苑を訪れ、レバノンシーダーの写真を撮っていた。そして短い文章が添えられていた。


   「西陽を浴びた幹に触れると、湿り気を感じる。寄り添ってゆっくりと耳を傾けると、水をゴクンと飲んでいるような音が聞こえる。まるで、人間みたいだ。その音を聴くと、僕の体に血が巡るような感覚を覚える。掌にじんわりと潤いが伝わる」


まるで、私の投稿に呼応するような内容だ。偶然だとしても、こんな風に同じ景色を見て気持ちを共有している人を近くに感じることが嬉しい。私はスマートフォンを思わず胸に抱いてしまう。今の私にとって、「いつき」の投稿を見ることが一番の楽しみになっていた。体はへとへとに疲れているはずなのに、心の中に温かいものがじんわりと広がる。私はソファ席に寝そべりながら、しばらくいつきの写真を見つめていた。



      3


 梅雨に入り、長雨が続いている。職場では相変わらず人員不足が続き、私は終電ギリギリに帰宅する日が続いていた。午前十時の出勤前に、週に何度か新宿御苑に寄り、散策をすることが私にとって心を解放する時間となっていた。霧雨が降る朝の新宿御苑はほとんど人気が無い。静寂に包まれた杉並木を歩き、レバノンシーダーに会いに行く。レバノンシーダーは雨露に濡れても、大きな枝を真っ直ぐに伸ばし、いつもと変わらない姿で佇んでいた。幹に耳をあてると、いつもの鼓動と、雨によって枝がさわさわと揺れる音が重なり心地良い音を奏でていた。幹の根元に生えている苔は水を含み、いつもより濃い緑を纏っている。レバノンシーダーを離れ、さらに遊歩道を歩くと、道沿いにあじさいの花が美しく咲いていた。青、紫、水色、ピンク、白。ブルートーンの淡いグラデーションが花弁を彩っている。雨空に似合う色彩が自然に生まれたことに、改めて感心する。憂鬱な梅雨の季節でも花の美しさを感じることができて嬉しくなった。スマートフォンを取り出し、あじさいを接写した。少し離れたところで、あじさいが群生し、丸みを帯びたブルーの丘を成している景色もカメラに収める。私は遊歩道を抜け、日本庭園に隣接する東屋のベンチに腰掛けた。弱い雨粒が、池の水面を微かに揺らしている。鈍色をした池の中には、のったりと鯉が泳いでいた。私は湿った木製のテーブルに肘をつき、スマートフォンを取り出した。そして、あじさいの写真をインスタグラムに投稿する。


「静かな雨が降る朝。誰もいない遊歩道は、あじさいの散歩道になっていました。青、紫、水色、白。雨空を水滴で滲ませたような色彩が道に広がり、歩を進めることも愉しい。梅雨の時期だけの、嬉しい光景です。」


インスタグラムの世界で「楓」と名乗り、見た景色を絵日記のように投稿する行為は、今の私にとって「人間らしい感覚」を保つための必要な作業に思えた。家と職場の往復だけで過ぎていく日々は、余りにも色褪せている。あと数分だけ、ここに座って何も考えずに過ごしたい。空を覆う雲は次第に厚くなり、雨脚が強くなってきた。池の水面は濁り、ざああと木々を濡らす雨音が、東屋の中で膨れ上がる。その音は、私の胸の内に不安の種を蒔いた。その種から得体の知れない何かが芽生え、根が脚に絡みつくような感覚に襲われる。私は両腕を抱え込んだ。この嫌な予感は何なのだろう。池の中は濁り、鯉の姿は見えなくなっている。私は重い脚を動かし、東屋を離れた。傘を強く叩く雨音が、私の気持ちを不安定にさせたままだ。それを振り切るように、足早に新宿御苑をあとにした。


 この天気の影響か、店は比較的穏やかなランチタイムとなった。食器洗浄機のボタンを押し、一息ついたところで、パートの山根さんが私の元へやってきた。

「店長。あの、少しお話があるんですが。」

こういう出だしは、まず良くない内容だと心得ている。私はごくりと唾を飲み込んだ。

「はい、どうしましたか?」

「ここ最近、腰の調子がよくなくて。ずっと痛み止め飲んだりしていたんですけど。こないだね、初めて整形外科に行ったんです、そしたら、ヘルニアになりかかってるって。」

山根さんは困惑した顔で、腰をさする仕草をする。

「ヘルニア、ですか?」

「はい。病院の先生は、私の年齢で立ち仕事をして、重いものを運ぶことが多いから、それが原因だっておっしゃるの。腰を治したいなら、今の仕事は辞めたほうがいいって言われて…。」

そこで山根さんは俯いてしまった。私も返す言葉がすぐに出てこない。

「でもね、お店に人出が足りないのは分かっていますし、すぐに辞めようとは思っていません。ただ、今のペースでバイトに出るのはちょっときついかなと。」

「山根さんに、ホールの仕事を全面的にお任せしたのは、私です。負担をおかけしてすみません。こんなことを言うのは心苦しいですが、現状、山根さんが抜けてしまうのは非常に辛いです。本当によくやって頂いているので。」

いえいえ、そんな、と山根さんは謙遜する。

「どれくらいのペースなら、お仕事出来そうですか?」

私は改めて聞いた。

「そうですね、週に一日くらいなら…。」

頭を鈍器でぶたれるような感触だった。週に五日のペースで来てもらっている山根さんが、週に一日になったら、空いた穴はどう補填するのだろう。私は動揺を封じながら、言葉を吐き出す。

「週に一日でも、来ていただけると助かります。甘えてすみません。」

山根さんは深く頭を下げて、ホールの仕事へ戻っていった。私はしばらく、シンクの中のグラス類をぼんやり見つめたあと、深呼吸をして、無心になって洗いものを片付けていった。片付けの作業が終わり、ディナーの仕込みが始まる前に、私は本社の人事課に電話をかけた。

「あの、以前から人員が不足しているので、ヘルプ依頼をかけていましたが、その件はどうなりましたか?」

「今ね、どの店舗もそういう要望が多くて、こちらもいっぱいいっぱいなんだよ。もう少しで、ヘルプ出せると思う。スタッフ募集もずっと掲げているけど、掴まらないのが現状で。申し訳ない。」

人事課長の、焦燥感を帯びた台詞が早口で流れる。

「こちらも、既にシフトが回らない状況です。早く対応して頂きたいです。」

私は語気を強めて言った。

「うん、承知しているよ。君のサービス残業手当は、更に増やすから。本当にあと少しだけ待ってよ。」

これ以上話をしても堂々巡りだろう。私は挨拶をして電話をきった。お金で解決する問題ではないのだ。厨房の片隅の置かれた椅子で休憩している山根さんは、ぐったりと腰をおろし、やや身を屈めている。かなり無理をして仕事をしているのだろう。辞めることは時間の問題だ。私は、手早くニンニクの皮を剥き、その作業に意識を集中させた。


 今日は珍しく二十二時代の電車に乗って帰路につくことができた。この時間は帰宅するサラリーマンやOLが多く、お酒や香水の匂いが雨の湿気と混ざり合い、べっとりと絡みつくような空気が電車内に充満していた。私は扉近くに身を寄せ、スマートフォンを眺める。私が投稿したあじさいの写真に対して、「いいね」ボタンは三十八件。その中にいつきからの「いいね」は無かった。いつきの投稿は、今日は無い。私は窓に映る自分の顔を見ると、そこには目の下のクマが膨らんだ、疲れた女の表情が映っていた。思わず深い溜息が漏れる。私はイヤホンを耳に装着し、家に着くまで音楽を聴きながら気を紛らわせた。


 入浴後、すぐにベットに潜りこむ。いつもはへとへとに疲れているから、すとんと眠りに落ちてしまうけれど、今夜は寝付けない。頭の中で山根さんの台詞が増幅する。この先どうなってしまうのだろう。何度も寝がえりをうち、スマートフォンを眺めると私のインスタグラムの投稿に対していつきからの「いいね」ボタンが押されたところだった。私は目を見開き、スマートフォンを握り締める。いつきの投稿も、同じタイミングで掲げられていた。木の枝を這うかたつむりの写真だった。


「こんな雨の日に、元気に動き回るかたつむり。雨は憂鬱だけど、こんな風に動くキミを見ていると、ちょっと嬉しい。小さな触角を動かせて、何を感じ取るのかな。あじさいの彩る新宿御苑にて。」


私はその文章を読み終えた後、枕に顔を埋めると涙が出てきた。山根さんの病気の件と、いつきと繋がっていたことの嬉しさが一挙に押し寄せ、私は布団の中で蹲る。いつきに対して何を求めているのだろう?二人の間に、形を成すものは何も無い。だけど、今日私が訪れたあじさいの散歩道は、彼も辿ってくれた。雨が降る中、きっと同じように傘をさして。目に見えないような細い糸で私たちは繋がっている。会ったことも無い人に対して、「繋がっている」なんて、勝手な思い込みだ。だけど、今の私はこの細い糸を胸の内で守りたい。虚しさで押しつぶされそうな私を、見ていてくれる人がいる。そう思うだけで救われる。今日の雨のように、私の頬を伝う涙はとめどなく、静かに流れた。


       4


 梅雨が明けると、強い日差しが照りつける猛暑が訪れた。今年の夏は例年と比べるとかなりの暑さで、四十度近い猛暑日が何日も続く。人員不足の状況を何度も人事課に報告して、ようやく入社したアルバイトは、三十代の主婦だった。二人目の子供が小学校入学したことを機に、家庭に支障のない範囲で仕事を再開したいという希望で入社した。

「柴崎と申します。飲食店の仕事は学生時代以来です。ここのお店の料理が好きで、子どもの手が離れたらお仕事がしたいとずっと思っていました。よろしくお願い致します。」

にこやかに挨拶をする柴崎さんは丁寧な化粧が施された顔に、カールされた髪を頭の高い位置でポニーテールにしている。実際の年齢より若い印象を受けた。私は彼女の指先に目が止まった。赤やオレンジのネイルにラメが光っていて、とても飲食店で働くような手では無かった。

「あの、そのマニキュア、すぐにとってもらえませんか?」

「すみません、これ、ジェルネイルなんです。除光液じゃ取れなくって。来週、ネイルサロンで取ってくるのですが、それまでこの状態なんです…すみません。」

「分かりました。」

三十代も半ば過ぎで、そんな指先でサービス業が出来ないくらい何故想像が出来ないのだろう。不信感でいっぱいになるが、今の状況で不満を言っていられない。気持ちを入れ替えて柴崎さんに仕事を教える。山根さんの不在の穴は予想以上に大きかった。特にランチタイムは、山根さんが完璧にホールを仕切ってくれていたから、フリーターの沢井さんが補助的に厨房に入ってくれた。これからは、沢井さんが柴崎さんにずっと付いてホール業務を教えているので、私は開店からほぼ通しで一人で厨房を動き回る状態だ。


厨房内は強風で冷房をかけても、異常気候ともいえるくらいの外気の暑さと、幾つかの寸胴鍋から発させる熱気で、常に蒸し風呂状態だ。私は首に巻くタオルを何度も交換しながら汗を拭っている。この季節と逆行しているかのように、店では「チーズフォカッチャ・フェア」をやり始めた。通常のフォカッチャ以外に、チーズを練り込んだフォカッチャもお代わり自由にしたら、飛ぶようによく出る。高温を発するガスオーブンが常に稼働していて、鍋とオーブンの両方の熱が私を攻撃している。私は食欲が無くなり、ほとんど水分だけを摂取しながら、仕事をこなしていた。

「店長、最近痩せたし、かなりお疲れですよね?」

閉店後、沢井さんが心配そうな表情で声をかけてきた。

「うん、この暑さでちょっとバテ気味。だけど、大丈夫。」

「ちゃんと食べてくださいね。それで、これ…。お口に合うかどうか分からないんですけど、良ければ食べてください。」

沢井さんが手にしていた紙袋の中には、タッパーが入っていた。

「ゆうべ、煮豚を作ったんです。豚肉はビタミンが豊富だから、夏バテ予防になるし。多めに作ったので、店長にもどうかなって。」

「すごい、煮豚作れるんだね。」

「数少ない私のレパートリーの一つなんです。食べてもらえると嬉しいです。」

沢井さんは少し照れたような表情をして微笑む。私は沢井さんにお礼を言い、紙袋を受け取った。この業界はスタッフの定着が悪く、常に人のことで悩みが絶えない。だから、こんな風に声をかけてもらえると喜びをしみじみと感じる。今夜は帰宅したら、煮豚を食べながら久しぶりにビールでも飲もうかな。珍しく晩酌を楽しもうとする自分がいた。


      5


入社して二週間目になる柴崎さんが、仕事中に困惑した顔で、私にスマートフォンを見せてきた。

「すみません、上の子どもの担任からメールが来て。子どもが家庭科の時間にミシンで自分の手に針を刺しちゃったみたいで。」

私に差し出されたスマートフォンには、浮腫んだ手に、血が沁み込んだティッシュの画像が映っている。

「先生とのやり取りもこんな風にメールで交わされるんですね。」

自分でも、抑揚の欠いた声が出てしまったことに後悔した。

「今は仕事をしている主婦が多いから、通話よりもメールが多いです。娘がすごく痛がっているみたいで…。出来れば、病院へ連れていきたいと思っているんですが。」

「分かりました。仕事をあがってください。」

「人が少ない時に、ごめんなさい。」

柴崎さんは頭を下げたあと、足早に更衣室へ向かった。私は、まな板の上に置いてある玉ねぎを淡々とみじん切りにしていく。わざわざ怪我をした写真を私に見せなくてもいいのに。何を言っても早退するんだから。それに、ミシンの針が刺さって多少血が出ただけで病院?大袈裟な。私の中で沸々と嫌な感情が生まれてきた。それを振り払うかのように、玉ねぎをひたすらみじん切りにしていく。つんとした痛みが、瞼から鼻孔にかけて押し寄せ、じんわりと涙が喉を伝う。


急遽人員が欠けた影響で、ランチタイムの片付けはいつもより時間を要した。十五時で仕事を上がる予定の沢井さんは、せわしそうに食器を片づけていく。

「沢井さん、もう時間だし、あがっていいよ。」

「あと少しで片付け終わるし、これが済んだらあがります。」

いつもは夜まで仕事をする沢井さんが、今日は珍しく十五時あがりを希望しているから、仕事後に予定があるのだろう。表情にも余裕が無かった。十五時二十分を過ぎた時点で、沢井さんは急ぎ足でタイムカードを押して店を後にした。柴崎さんの早退によって、沢井さんに負担をかけてしまった。苦い気持ちを抱えながら、私は首に巻いているタオルを取り替える為に更衣室へ向かった。

 

狭い更衣室に入ると、ロッカーの一つが少しだけ扉が開いていた。沢井さんのロッカーだった。今日の慌てぶりからして、ロッカーの鍵を閉めることを忘れたのだろうか。私は何気なくその前を通り過ぎたところで、少し開いた扉から見えるものに目が止まった。それは不自然なくらい大きな保冷バッグだった。一体何に使うのだろう。私は制汗剤を体に吹きつけながら、更衣室の鏡に映る自分の顔を見た。汗で化粧は落ち、目の下のクマは黒ずんでいる。しばらく美容院に行っていない髪は、毛先がパサついている。実際の年齢以上に見られてもおかしくない表情に、失望と、やりきれなさが膨らむ。ずっとこんな仕事をしているから、若さを保つなんて無理だ。その瞬間、黒くてドロドロとした感情が湧き出てきた。それは、ねっとりと私を包み始めた。視線の先は沢井さんの保冷バックだった。私は何をしようとしているのだろうか?人の私物を見ようとしているのか。やってはいけないと警鐘を鳴らしつつ、闇の感情は「見る」方へ突き動かす。彼女は職場に何を持ちこんでいるのだろう。私の手は、魔物に憑依されたかのように、沢井さんのロッカーを開け、保冷バックの中身を開いた。そして目に飛び込んできたものに息を呑んだ。ビニール袋に入ったミックスバジルや岩塩、完熟トマトが三個、モッツァレラチーズ、フォカッチャを製造する際に使う強力粉。全て店で使用しいているものばかりだ。私はすぐに保冷バックから手を離し、ロッカーの扉を閉めた。沢井さんの、一生懸命に働く姿や煮豚を差し出してくれた時の、少し照れたような表情を思い出す。あれは、「良い自分」を見せる為の演技だったのか?私は激務に追われ、閉店後に行う在庫管理がおざなりになっていた。彼女はそれを知っている。こんなに沢山の品を持ち帰られても、現に私は気づかなかった。私の心に鋭い刃が刺さり、じわじわと血が流れている感触が全身に広がる。脇から嫌な汗が噴き出した。足が固まり、無機的な更衣室の蛍光灯が、やけに眩しく感じる。厨房に戻らなくちゃ。私はふらふらとした足取りで更衣室を出た。


夏休み期間だからだろうか。子ども連れのお客が多く、店内は賑やかな声で包まれていた。ジェラートやパンナコッタの注文が多く、ティータイムはひたすらデザート皿に盛り付けをする作業が続いた。ジェラートをすくい、生クリームやフルーツを添える。作業に集中していたその時、私服姿の沢井さんが突然現れた。私はすぐに言葉が出てこない。

「あの、忘れ物しちゃって、取りに来ただけです。忙しいのに早あがりしちゃってごめんなさい。」

「ううん、大丈夫。」

自分の声がひどく掠れていることに動揺する。

「店長、大丈夫ですか?なんだか、元気がないような…。」

「大丈夫だから、気にしないで。」

私は沢井さんの顔をまともに見ることが出来ず、俯き加減で答えた。今はもう、早くここからいなくなって欲しい。

「無理しないでくださいね。失礼します。」

彼女が厨房から出る際、後ろ姿を確認した。手には大きな紙袋を下げている。きっと、保冷バックの中身を取りに来たのだろう。鍵がかかっていないことに気づいて、慌てて戻ってきたのだろうか。私は彼女に向って何て言えばよいのだろう。店の物品を盗んでいたでしょう?そう問いたださなきゃいけないのに、声帯が固まったかのように、言葉を発することが出来ない。厨房内の視界が滲んでくる。懸命に涙をこらえながら、仕事に集中する。しばらくして、店から派手に食器が割れる音が聞こえてきた。店内で遊びまわる子ども客が、食器を床に落としてしまったようだ。私は、学生アルバイトと共に清掃道具を持って、そのテーブルの元へ駆けつけた。

「ごめんなさい。子どもたちが落ち着きなくて。」

数人の母親グループと談笑するうちの一人がそう言って詫びる。子どもたちは、食器を割ったことへの反省か、母親たちの所有するスマートフォンで動画を見ながら席についている。

「いえ、大丈夫です。お怪我は無かったですか?」

怪我は無いです、と答えた母親は、すまなさそうな顔をした後、すぐにグループの会話に戻って行った。

あの先生、頼りないわよね。だけどカワイ先生は結構イケメンよね…。弾むような会話を聞きながら、ガラスの破片を回収する。皆、私より若い母親たちだ。流行を意識した小綺麗な服装をして、きちんと化粧をして、子連れでティータイムが出来る人達。私も結婚して子どもがいたら、こんな風になれたのだろうか。子どもがはしゃいでも、ろくに注意もしない母親たちより、私はずっと惨めな存在だ。私は、ずっとこんな風に生きていくのだろうか。

「…っ痛。」

大きなガラスの破片を素手で掴んだ際、思い切り親指に突き刺してしまった。血がぽたぽたと床に落ちる。

「店長、大丈夫ですか?」

驚いた学生アルバイトは、慌てて空席のテーブルから紙ナプキンを束で持ってきた。今にも涙が零れ落ちそうな状態で、視界がぼやぼやとしていた。落ち度があるにも程がある。学生が持ってきた紙ナプキンを、ギュッと傷口にあてる。想像以上に深い傷だ。

「あとはやっておきますから、店長、処置しにいってください。」

学生にそう促されて、厨房へ戻った。開いた傷口から痛みがじんじんと手に走る。パイプ椅子に座りながら、深呼吸をする。身体中にかいた汗が、一気に引いていくのが分かる。馬鹿みたいだ。こんな風に崩れ落ちるなんて。怪我をした親指に、きつく防水テープを貼り、密着型の手袋を二枚重ねにして仕事を再開した。包丁を握り締めても、上手く力が入らない。遅々としたスピードで野菜を刻む。

「店長、顔色が悪いです。怪我の影響もあるし、ちょっと休んだほうがいいんじゃないですか?」

学生アルバイトが二人で駆け寄ってきた。心配そうな顔つきで私を見つめる。

「今日はこのあと、さつきちゃんが来るし、店も割と暇な時期だし、店長、よければ早退してください。私たちで頑張ります。」

さつきちゃんは、学生アルバイトの中でも一番長く勤めていて、仕事が出来る子だ。閉店業務を学生アルバイトだけに任せるなんて、普段はとても出来ない。けれど、私の心のコップは水が溢れた状態で、思考が回らなくなっていた。

「ごめんね。言葉に甘えて、今日は帰るね。」

そう詫びて、職場をあとにした。


     6


「美味しいフォカッチャにコシのある手打ちパスタが、子どもの頃から大好きでした。私の家族はこのお店で食事をしながら、笑顔になれる時間を過ごせました。この会社を志望した一番の理由は、私もお客様に笑顔を提供したいと思ったからです。」

会社の最終面接で、そう話したことを思いだした。内定をもらった時は嬉しくて、その日の夜は渋谷店で友人とパスタとピザをたらふく食べてお祝いしたっけ。あれから何年経ったのだろう。脇目も振らず仕事に邁進した。今の私は、お客の笑顔を見たいと心から思っているだろうか。空を見上げると、暗くて低い雲間から光が差し込んでいた。夕立が去った後だろうか。アスファルトから湯気のような熱気が立ち込める。私はふらふらとした足取りで新宿駅を通過する。体が自然に、新宿御苑のほうへ導かれた。日没の少し前の新宿御苑は、朝と同じように閑散としていて、園内の草花は心なしか、やや俯き加減で佇んでいる。私の頭の中にどんよりとした靄が生まれ、それを抱えたまま歩き慣れた道へ進んだ。真夏の強い日差しや夕立に負けない杉の木たちは、堂々とした姿で枝を真っ直ぐに伸ばしている。やがて、レバノンシーダーが見えてくる。私は歩を進めながら、レバノンシーダーの真横に人の姿を確認した。その男性は、レバノンシーダーに寄りかかり、何かを押しあてている。よく見ると、それは聴診器だった。私の心臓の鼓動が一気に早くなる。彼は、もしかして…。男性のほうも、私が誰なのか予想ができるのだろうか。私の姿を見た後も何事も無かったように、聴診器を幹にあてている。二人の間を、濃縮された沈黙が包み込んだ。


私はその男性のいる反対側の幹に寄り添う。男性に対して声を発することが出来ないまま、レバノンシーダーに耳をあてた。今日も、静かで優しいリズムが聴こえた。この音を聞くと、混線した糸がゆっくりと解れていく。その糸が私から離れ、空に消えたように思えた瞬間、私の瞼から涙が流れた。涙は泉のように湧き出て、温かく頬を伝う。ずっと貯め込んできた負の感情を吐き出すかのように、私は嗚咽を抑えながら幹に顔を押しあてる。どれくらいの時間、そうしていたのだろう。辺りが夕闇に染まり、東の空に星が瞬くのが見えた。

「楓さん。やっと会えましたね。」

幹の向こうから、優しげな声が聞こえてきた。

「はじめまして、いつきです。」

彼は、幹を周り、私と向かい合った。私は泣き腫らした目でいつきを見た。ポロシャツにジーンズとスニーカー。短めの前髪から覗く黒目がちな瞳は、真っ直ぐに私を見つめる。

「ずっと前から、あなたのことを考えていました。」


私も、あなたのことをいつも考えていた、そう胸の中で呟く。いつか、こうやって出会えることを望んでいた。突然その時が訪れると、何を話したらいいのか分からない。そして今は涙で濡れている。俯いたままの私に、いつきはそっとハンカチを差し出してくれた。

「ありがとう。」

受け取ったタオルハンカチで涙を拭う。顔を上げ、いつきの顔を見つめた。

「こんな顔で恥ずかしいです。すみません。」

「謝らないでください。涙の理由は、今は聞かないから。」

いつきは大きな掌で幹を撫でながら、呟く。

「レバノンシーダーが、僕たちを繋いでくれたのかもしれません。」

いつきは手に握りしめている聴診器を私に差し出した。

「あの、木の鼓動を聴いてみませんか?」

私は頷き、聴診器を受け取った。耳に栓を差し込み、ゆっくりと円盤を幹に押しあてた。目を瞑ると、幹の奥から、はっきりとした音が私の耳に届いた。

トクトクトク…

トットット…

ゴウゴウゴウ…

複数の音の重なりが奏でられている。それは、レバノンシーダーの体の器官がしっかりと機能し、生命を保つための絶え間ない活動の証のようだ。私はずっとこの音を聞いていたいと思った。重なり合う音は、私を介抱してくれているかのように、優しく響く。私は、片方の耳栓を抜き、いつきに差し出した。彼は、私の右腕に触れる距離に近寄り、栓を左耳入れた。二人で、レバノンシーダ―の鼓動を聞く。それが、出会ってすぐの二人には自然の流れだったし、私達だけの神聖な儀式のように思えた。

「ここには沢山の樹木があるけれど、こんなにはっきりと鼓動が聞こえるのは、レバノンシーダーだけなんです。」

「そうなんですね。私はレバノンシーダーしか耳を当てたことが無いんです。何故か、この木に惹かれて。」

「レバノンシーダーは、メソポタミア文明が発祥した時代から、人間の生活を支えていた。長い歴史をかけて、大地に根を張って生きてきたんです。」

いつきは一旦幹から体を離し、聴診器を耳から外した。

「ずっと、インスタグラムで楓さんの存在を意識していました。僕と、近い距離にいる人だなって。今日、ここで会えるとは思わなかったです。」

改まった口調で話すいつきに、どう言葉を返していいのか分からず、私は微笑みを返すしか出来なかった。

「お話したいことが沢山あるけれど。楓さん、今日は早く帰ったほうがいいかもしれません。右手の怪我、大丈夫ですか?」

私は怪我した親指に巻いたテープから、血が滲んでいることに気が付いた。まだ傷口が塞がっていない。痛みがズキズキと走る。

「私、こんな顔ですみません。手はさっき、職場で怪我をしてしまって。」

私は深呼吸をして、いつきに伝えたい言葉を話す。

「いつきさんに出会うことが出来て、嬉しいです。私も、ずっと前から意識していました。いつか会えたら…なんて思っていました。だけど、いざお会いできると上手くお話が出来なくて…すみません。今日はちょっと、仕事で辛いことが重なって。それで、仕事を早くあがってここに来たんです。」

私は、真っ直ぐないつきの瞳を見ながら、もたつきながらも、懸命に言葉を繋いだ。

「それで…また、会うことが出来たら嬉しいです。」

最後は俯いてしまった。また会いたい。その言葉を発しただけで、顔から火が出そうだった。

「僕も、またここで楓さんとお話がしたいです。インスタグラムから、楓さんに直接メールを送ってもいいですか?」

「はい。私もメールを送ります。」

「そのハンカチは、楓さんが持っていてください。今日、出会えたことの証として。」

いつきは頭に手をやって、少し照れながらそう話した。二人で出口まで歩き、そこで別れる。いつきはもうしばらく新宿御苑を散策したいと言い、園内へ戻って行った。私は、いつきと別れた後、足が宙を浮いているような感覚を覚えた。これは、夢じゃない。現実の出来事なんだ。インスタグラムの世界で繋がっていたいつきと、出会うことが出来た。横断歩道の前で歩を止めると、街の喧騒が、塊となって夜空に吸い込まれていくようだ。ビルの合間から覗く月が、いつもより強い光を放っているように見える。私は、いつきからもらったハンカチを握り締め、新宿の霞んだ夜空を見上げながら駅に向かった。


    7


「楓さんがお休みの日に、一緒に新宿御苑を散策したいです。」


いつきと別れた後、すぐにメールのやり取りが始まった。お互い知らないことが多いけれど、今は、繋がった糸を途切れさせたくない。お互いがそう思っていると信じたい。私はすぐに手帳を開いた。


「今度の水曜日は、いつでも大丈夫です。」

「わかりました。では来週の水曜日に。時間は追って連絡します。」


私は、いつきとこんな風に会話をしていることが未だに信じられない気持ちと、嬉しさで興奮していた。翌朝、出勤前に外科へ行き、親指を簡単に縫合してもらった。指に包帯と防水テープを巻きつけ、なんとか仕事が出来る状態で出勤する。店に入ると、柴崎さんが開店準備の手を止め、私の元へやってきた。

「おはようございます。昨日はすみませんでした。娘の怪我は大したこと無かったです。」

「よかったです。」

私は一呼吸置き、柴崎さんに改めて顔を向けた。

「柴崎さん、ホールのお仕事はだいぶ慣れてきたようなので、今日から私と一緒に厨房の仕事を覚えてください。」

柴崎さんは一瞬不安な表情がよぎったが、すぐに威勢よく返事をした。

「はい。よろしくお願いします!」


昼前に沢井さんが出勤してきた。

「おはようございます。店長、体調は大丈夫ですか?」

私が早退したことは、学生アルバイトとのメールのやり取りで聞いたらしい。

「ありがとう。もう、大丈夫。」

私は軽く頭を下げる。

「手、どうしたんですか?」

「昨日、割れた食器の片付けをしたときに粗相しちゃって。さっき病院行ってきたの。」

「今日も、無理しないでくださいね。」

「うん。柴崎さんと一緒に厨房を回すわね。」

昨日のような動揺は収まっている。だけど沢井さんの言葉の一つ一つが、虚像となって私の前に立ちはだかる。彼女をこのままにしておくわけにはいかない。在庫管理をしていなかった自分にも非がある。それを踏まえて、時間をとって話し合いをしなければ、と思った。


柴崎さんに付きっきりで仕事を教えることは大変だが、彼女はもともと包丁の扱いは上手かった。野菜の下処理は思ったより早く終わったので、私は隙を見てスマートフォンに目をやる。いつきからメールの着信があった。


「手は大丈夫ですか?今日も無理をしないでくださいね。」


その文面を見ただけで、心にランプが灯るようだ。とても単純なことだけど、今の私にとって、いつきからのメールは私を温かく包み込んでくれる。仕事が終わると、更衣室で着替えをする前に、素早くメールを打つ。はやる気持ちを抑えきれなかった。


「ご心配おかけしました。怪我は大丈夫です。実は私、飲食店で働いています。チェーン展開をしているイタリア料理店で店長をやっています。すぐにメールの返信が出来なくてごめんなさい。」


私は自分の職業をざっと説明した。しばらくして、いつきから返信がきた。


「大丈夫そうでよかったです。とはいえ、楓さんはレストランの店長で、気の休めない立場ですね。無理をしないでと言っても、常に気が張っていますよね。僕は心配することしか出来なくて、もどかしいです…。」


いつきは自分の職業について話さないが、私も敢えて聞かなかった。帰宅して寝るまでの間、何気ない会話をメールでやり取りする。私はいつきと会える日までを指折り数えながら、毎晩眠りについた。


        8


いつきと会う約束の日が訪れた。空には大きな入道雲が広がっていて、暑い一日になることを予感させた。まだ真夏日の気温が続くが、暦では初秋を迎え、ツクツクボウシが盛大に鳴いている。いつきは既にレバノンシーダーの横で待っていた。

「すみません、お待たせしました。」

「僕も、今、来たところです。」

レバノンシーダーの大きな枝によって作られた木陰が、すっと汗を乾かしてくれる。葉をなびかせる風が、涼しさを運んできた。お互いメールのやり取りをしていたとはいえ、顔を見ながらゆっくりと話したことがないので、緊張した空気が漂う。少し間があって、いつきが話し始めた。

「インスタグラムの、今までの楓さんの投稿を見ながら思うことがあって。」

いつきの台詞から敬語が消え、それが私の緊張を解してくれた。そして、今までの自分の投稿を振り返る行為が途端に恥ずかしくなり、俯いてしまう。

「この人は、いつも無理をしているんじゃないかって。そう思ってた。文面には仕事の事は書かれていないけれど、それが伝わるんだ。レバノンシーダーは、人の心を癒す…というか治癒する力があると僕は思っていて。だから、心に傷を負いながら生きている人を引き寄せる気がする。」

「治癒、ですか?」

「レバノンシーダーはとても丈夫な木だから、昔、中東地方であらゆる建材として利用されていた。レバノンシーダーは美しくて豊かな森を形成し、人間の生活を支えてきた。やがて、レバノンシーダーを巡って、人間同士が争いを始める。木を乱用する者が出てきたんだ。枯れる薬を蒔き、根元から伐採しやすいように弱らせてね。森は、一気に衰退してしまった。」

いつきは幹を優しく撫でながら話す。その指先は、幹から芽吹く新芽を指していた。

「レバノンシーダーは強い再生能力を持つのに、人間の私欲によって、その力を失ってしまう。レバノンシーダー自身が傷ついた歴史を持つ木だから、弱った人の心に寄り添ってくれる、そう思えるんだ。そして、確かな鼓動を聴かせてくれる。重なりあう音階が、気持ちを落ち着かせてくれる。」

「私、ずっと疲れていて。職場ではがんじがらめだし、仕事以外に特に誰かと遊ぶわけでもない。自分から動き出すことが出来なくて。ここにくるとパワーを補充できるような気がしていました。それで、インスタグラムに写真を載せていたんです。」

「楓さん、東屋のベンチに座って、ゆっくり話をしよう。」

私達は、肩を並べて、池のほとりにある東屋に向かって歩き出した。


 日本庭園の中の池には何匹かトンボが群がっていて、季節は夏の終わりを告げていた。私はいつきに、自分の置かれている状況を話した。人員不足でずっと疲弊していること。本部が充分な対応をしてくれないこと。従業員の融通の利かなさ。そして、沢井さんの話も。いつきは頷きながら、真剣に聞き入ってくれた。

「私、すごく自分の心が卑しくなっていると思うんです。幸せそうな家族連れのお客さんをみると、辛くなる。自分の置かれている立場と比べちゃって。卑屈になっている自分に気付く瞬間が一番落ち込みます。」

「人間はさ、『過去からの成長の変化』と『他者との比較』で幸福度を測るんだ。楓さん自身、新宿御苑にいる間は、自分にとって大切な時間を見出すことができる。だけど、職場へ行けばあらゆる人間に指示しながら仕事し、あらゆる人間を相手に接客をする。休みなくずっとその状態を続けば、誰かと自分を比較せずにはいられないし、過去を振り返らずにはいられない。必要以上に自分を陥れてしまう。」

私は頭の芯が痺れるような感覚を覚えた。いつきの言葉のひとつひとつが、矢のように突き刺さる。

「そして、いつしか企業の歯車になり擦り減っていくんだ。気が付くと、歯車は疲弊して動かなくなり、錆ついていく。」

いつきはそこで言葉を止め、私の瞳を見つめた。

「僕自身の事を何も話していなくてごめんね。」

私は首を振り、遠慮がちにいつきの目を見る。

「僕の父親はコンビニの経営者だったんだ。僕が小学生の時に脱サラして、コンビニの世界に飛び込んだ。ずっと景気は良かったし、両親は力を合わせながら、うまく軌道に乗せていた。」

入道雲が動き、太陽が現れたり消えたりして、池の描写が変わる。私はその様子を目で追いながら、いつきの話を聞く。

「変化が訪れたのは、今から十二、三年前。大型ショッピングセンターが街の至るところに出来始めた。プライベートブランドの安い商品、二十四時間営業、スーパーならではの豊富な品揃い。コンビニからそっちに人が流れるのは時間の問題だった。そしてコンビニ本部が打ち出した『ドミナント戦略』。これは、同じ地域に何店舗もコンビニを出店するやり方で、物流負担の軽減と、電子マネーの強化や、顧客の囲いこみを狙った戦略だった。本部には福音だったとしても、オーナー側は顧客の分散で、しのぎを削ることになる。そして人件費が跳ね上がった。それまでの時給で人を雇えなくなり、父親は昼夜関係なく店の歯車になって働き続けた。やがて、スタッフの募集をしても応募が来なくなってね。外国人を雇わざるを得なくなる。両親は彼らに対して、必死に日本の接客マナーを教えていた。父親は一気に老けたよ。半年の間に完全に休んでいたのは三日くらいかな。僕も高校生の頃から店に入り、仕事を覚えていた。家族総出で、とにかくコンビニを維持する為に働き続けた。父親は、腰と胸の痛みが酷くなっていたのだけど、鎮痛剤を飲みながら、騙し騙し働いていたんだ。経営が傾いても、僕を大学に進学させる為に。」

いつきの横顔に、暗い雲の影が差し込む。

「僕が大学二年の時、父親は仕事中にいきなり倒れた。すぐに救急車で運ばれたけれど助からなかった。心筋梗塞だった。あまりに突然の死で、僕と母親は全く心の準備が出来ていなかったよ。放心状態から抜け出した時は悔しさしかなくて。こんな仕事をずっとしていたから命を蝕まれた、そう言って母親は泣き崩れた。それを止めることが出来なかったのは自分の責任だと…。母親は、もうコンビニを経営出来ないと本部に伝えたら、『契約終了に伴う違約金が発生する』と言われた。」

私は、ただ黙って聞くことしかできない。いつきの握られた拳を見つめる。

「一千万円。母親と僕は茫然とその数字を鵜呑みにすることしかできなかった。一家の柱を失った喪失感に呑み込まれて、本部と闘う気力もない。母親は無知で、僕は無力な学生だった。住んでいたマンションを売り、違約金は返済出来たけれど、僕と母親は収入源を失った。二人で派遣やアルバイトを掛け持ちしながら暮らしを保ったんだ。その後、母親は心身共に弱り、まともに働けなくなる。僕は大学を中退し、あらゆるバイトを掛け待ちして生活費を稼いだ。」

入道雲は次第に翳りを帯び、東屋を抜ける風は、ねっとりとした湿度を含んでいた。いつきは足を組み替え、ベンチの木目を指でなぞりながら呟く。

「僕ら家族は、コンビニという組織に支配され、大切なものを失った。コンビニに限定するわけじゃない。現代が生み出した、消費社会。もしくは、『人間の幸福度を計る、歪んだ物差し』に押し潰された。」

「いつきさんが、そんな過去を背負っているなんて…。辛い話をさせちゃって、なんだか申し訳ないです。」

「僕が自分から話しているから気にしないで。楓さんに聞いて欲しいんだ。僕は、その後就職をせずにフリーターのまま今に至る。父親が亡くなる前から、ずっとコンビニに忙殺されていて…。辛くなると、ここに来ていたんだ。そして、レバノンシーダーの幹に寄り沿っていた。大学を辞めてからも、ずっとそうしていた。ここは僕にとって、とても大切な場所だよ。インスタグラムで楓さんの投稿を見つけた時から、僕は以前の自分を重ねていた。辛くて、逃げだせなくて、どうしようもなくて、何かに救いを求めていた時のことを…。だからね、とても君に会いたかった。」

いつきは真っ直ぐに私を見る。その瞳の強さに射抜かれて、私は背筋を伸ばした。

「レバノンシーダーには花言葉があるんだ。正確には、木言葉かもしれないけれど。」

「どんな言葉ですか?」

「私のことを考えて」

私は耳を疑った。

「それが、花言葉?」

「うん。とても自己主張の強い言葉でしょう?花言葉、というより、欲求に思える。」

飾り気のない率直な花言葉を持つレバノンシーダーに対して、私は驚きと共に親近感を覚えた。

「僕はね、レバノンシーダーだからこそ、この花言葉が生まれたのだと思う。長い歳月をかけて育んできた美しい森を侵害されたことを、人間に伝えたかったんだ。自分たちのことばかり考えないで、私のことも考えて、と。」

私はいつきの話を聞き、何故自分がこの広い新宿御苑の中で、レバノンシーダーに惹かれたのか、分かった気がした。レバノンシーダーの心の叫びが、いつきと私を導いたのかもしれない。

「コンビニを手伝っていた頃も、様々なアルバイトを掛け持ちしていた頃も、ひたすら生活の為に働き続けた。心がみしみしと折れていくのが分かるんだ。仕事をする上で、様々な自分を作りながら人と接してきたけれど、限界が近づく。そして僕たちは、レバノンシーダーの元へ導かれた。辛い過去を背負うレバノンシーダーだからこそ、僕らに訴えたかったのかもしれない。『企業の歯車になって、命を切り落とされないで』と。」

私は、朽ちていく枝や、触れただけでハラハラと落ちていく花弁を想像する。根から栄養を吸い上げる力が無くなりつつあるのは自分も同じだ。

「楓さん。あなたはもっと自分のことを考えて生きて欲しい。仕事にひたむきなのは良いことだけど、気がつかないうちに、心身が壊れてしまうんだ。企業も、この社会全体も、あなたを守ってはくれない。」

やがて、池に雨が降り注ぐ。池の水面に佇む落ち葉が緩やかに旋回しているが、やがて池の端の方へ流れ、塊になって水の中に澱みを作っている。それをずっと見つめていたら涙が溢れてきた。息をつく暇もなく、ずっと走ってきた。いつきの言う通り、このままだと私は壊れるだろう。

「私も、そう思います。」

私は静かに応える。

「会社に対して、今の楓さんが置かれている状況を伝えるんだ。勤怠のデータを克明に拾いあげること。物を盗ったスタッフとも、話をしなければならない。全て痛みを伴う作業だけど、楓さんの心が折れる前にやってほしい。もし、上部の対応が充分ではなかったら、会社を辞めるという選択肢がある。君は、今の環境から逃げることが出来るんだ。違う仕事が出来る。自分から可能性を狭めてしまってはいけないよ。」

「…はい。」

行動しなくてはいけないと、ずっと思っていた。立ち上がる力を持つこと。そして、私の背中を押してくれる誰かを必要としていた。

「いつきさん、ありがとう。」

私は涙を拭う為に、鞄からハンカチを取り出す。それは、二人が出会った時にいつきからもらったものだった。洗っては使用し、いつもお守りのように持ち歩いていた。

「こないだのハンカチ、持ってきてしまいました。」

「このハンカチは楓さんの涙を拭う運命なんだ。幸せなハンカチだよ。」

私は思わず笑みがこぼれた。そして初めて二人で笑い合った。


    9


 店長に就任してからの期間を対象に、私と従業員   の勤怠データと時間ごとの売り上げを、パソコンを用いてデータ化した。本部へヘルプの要請をしたものの、何も援助が無かった状態で、どれほどの客数と料理数を限られた人員でこなしたか、それを明確にするのは、根気が必要な作業だったが、疲れた頭を動かし何とか資料をまとめあげた。そして、人事部へ訪問するアポイントを取った。

 

人事部長と面会する機会はほとんど無い。いつも課長と電話でやり取りをするばかりだった。広い会議室の中、テーブルを挟んで部長と向かい合うと、想像していたイメージとは異なり温和な表情で接してくれた。私は時間がかからないよう、要点をまとめて説明をした。

「昨今の人手不足の問題や人件費の高騰は、承知しています。それ故に、現状のままの経営だと店を支える人間が疲弊します。人員を補充できないのであれば、それに見合った営業時間の設定、定休日の見直し、メニューの改定など、様々な措置をとることは、難しいでしょうか?」

部長は私の話を聞きながら、私の目をしっかりと見た。そして、資料に目を通す。数十枚に及ぶデータを凝視するかのように、眺めていた。ページを捲る手は、行ったり来たりを繰り返している。

「これ、厨房は君ひとりでやったの?」

「はい、大体は。」

会議室に、重く圧し掛かる様な沈黙が流れた。しばらくして、部長は重い口調で呟いた。

「これは酷い。」

私は頷くしかなかった。部長は神経質そうに眼鏡のフレームを何度も手にかけている。

「君が店長として責任を全うする姿は素晴らしいが、こんな勤務状況を続けていたら、おかしくなってしまうよ。課長はそれに対して、見て見ぬふりをしてきた。僕は何も聞かされることもなかったし、自ら足を運んで現場を見ようとしなかった。まず、君に謝りたい。」

部長は頭を下げた。

「私が、闇雲に動き続けたことにも問題があります。自身の体調など、気にかけたことが無かったです。しかし、このままだと体を壊し、結果的に会社に迷惑をかける形になっていたと思います。」

私は正直な気持ちを話した。

「人員不足に伴い、残業手当を多く頂いていましたが。根本的に労働環境を変えて頂くことを望みます。」

「君からもらった資料を、会社全体で見直し、すぐに対処したい。早急だけど明日から西新宿店に、実際の労働環境を何人かで視察に行く。そして、今後の改善策を練り、すぐに対応するよ。」

「有難うございます。よろしくお願いします。」

私は深く頭を下げた。


翌日、人事部長を含め、三人の本部の人間が西新宿店に訪れた。ランチタイムからディナータイムにかけて、私を含め、沢井さんと柴崎さんと、夕方からの学生アルバイトが一名で、どのように店をまわしているか、仔細にその行動をチェックしていた。私は、ランチの仕込みからディナーのピークまでをほぼ一人で回し、補助的に沢井さんが厨房の手伝いに数回入った。途中、フォカッチャの焼成が間に合わなくなる。フォカッチャの提供が遅れてしまったことをお客へ詫びる為に何回かホールへ出た。そして休憩を取らないまま、閉店の時間を迎える。皿の片付けがほとんど出来ない為、オーダーストップ後に食器洗浄機を稼働させる。すべての片付け作業を含めると、二十三時を回った。

「ご苦労様でした。毎日、こんな感じなんだね。」

部長は私の顔を覗きこむように見る。

「はい。今日はまだバタついていない方です。学生アルバイトが全員欠勤の日は、私とフリーターのスタッフの二人で、日付が変わる頃まで帰れない日もあります。」

「課長曰く、西新宿店の売り上げに対し過重に人員を補充できないと聞いていたのだが。これだけの人数で店を回すことは度が過ぎている。人員の補充を含め、メニューの見直しが必要だ。パスタ以外のサイドメニューで、売れ行きの悪いもの見直しと、ラストオ―ダ―の時間の見直しを早急に行います。」

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

丸一日かけて、本部の人間が現場を視察してくれた。どう改善されるか分からないが、部長と面談して翌日に動いてくれたことに、波だった気持ちが落ち着く。


私は閉店作業の最後に、在庫管理を怠らずに行うようになった。管理ノートを作り、ひとつひとつの備品や、冷蔵庫の材料を必ず確認する。閉店作業が沢井さんと二人きりになった日、私は沢井さんに向かい合った。

「一緒に、在庫確認をしましょう。」

「はい。」

沢井さんは何事もなかったような様子で作業に取り組む。

「沢井さん、ミックスバジルの瓶の中身も、目視でいいから、大体の量を記入してね。あと岩塩も。」

沢井さんは、瓶をずっと見つめている。ピンと張りつめた空気が流れた。よく見ると、瓶を見つめる沢井さんの目は、焦点が合っていない。在庫を記入するペンの動きは止まっていた。

「沢井さん。」

私は静かに呼びかける。沢井さんの視線は宙に浮かんだままだが、大きく息を吸い込んだ後、固く目を瞑る。やがて口が開いた。

「店長、申し訳ございませんでした。」

その声は震えている。

「店長が在庫管理を始めるようなってから、私が物を持ちかえっていたことがバレたのだと思いました。私がロッカーの鍵を閉め忘れて帰った日に、慌てて戻って…あの日、店長はまっすぐ私の顔を見てくれなかったから、もう、分かってしまったのかなって…。だけど翌日は何事もなかったように接してもらえて。毎日毎日そればかり考えていました。バレなきゃ大丈夫だろうと思う自分がいました。卑劣な行為をして申し訳ございませんでした。」

涙声に混じり、とぎれとぎれに沢井さんは言葉を繋いだ。

「解雇されることは当然だと思っています。私が行ったことは犯罪です。そんな人間を店に置いておくことはできませんよね。どうか、解雇してください。」

嗚咽を交ぜながら、彼女は繰り返し、クビにしてください、と呟く。

「沢井さん、顔をあげてください。」

彼女は涙でぐしょ濡れになった顔で私を見つめた。

「あなたの行ったことは犯罪です。だけど、私はこのことを警察に言わないし、本部にも伝えない。あなたに裏切られる可能性はゼロじゃないけれど、もう一度、あなたを信じたい。」

私はゆっくりと、彼女を包むように話す。

「在庫管理を怠っていた私にも問題がある。店を管理する人間として、責任能力を欠いていました。沢井さんを一方的に責めることはできません。ただ、このことを踏まえて、在庫管理は徹底して行います。開店準備のスタッフには、このノートと在庫状況が一致しているかどうか、確認してから作業を行ってもらいます。」

私は、手にしている管理ノートを両手でしっかりと抱いた。

「沢井さん。気持ちを入れ替えて、この店で仕事をする気持ちはありますか?」

「はい。もし許されるのであれば、続けたいです。」

「私はもう一度、あなたを信じたい。ずっと、沢井さんは私を助けてくれたから。どんなに大変な日も、笑顔で頑張ってくれたから。とても感謝をしているの。だから、信じたい。」

私は涙が溢れそうになるのを懸命に堪えながら沢井さんを見つめる。

「二度と物を持ち帰らないと、一筆書いて、持ってきてください。」

「はい。店長、有難うございます。」

「さあ、作業を再開しましょう。」

私は沢井さんと肩を並べて、備品の確認を行う。

もしかしたら、沢井さんを許すべきではなかったのかもしれない。また物を盗まれる可能性もある。人間の深層に潜む闇は計り知れない。そう理解しているけれど、私はもう一度沢井さんを信じたかった。この店は私だけでなく、従業員の力を合わせて成り立っている。「信じる」ことをしなかったら、ここの土台は揺らいでしまう。また裏切られたら、私は深く傷ついて涙を流すだろう。大きな失望を乗り越えても、また襲ってくる新たな失望に対して打ちのめされる。それでも、沢井さんの良いところは私の心に沁みついている。人と接しながら仕事をする上で、闇を避けてばかりではいられない。私は冷凍庫を開け、冷気によってかじかむ指先に息を吹きかけながら、ベーコンやバラ肉の在庫をつぶさにチェックした。


    ⒑


 九月とはいえ、日差しの強い暑さが続いているが、木々の合間を抜ける風は、さらりとした爽やかな空気を運んでくる。空を見上げると、柔らかな鰯雲が広がっていた。私はいつきと肩を並べ、遊歩道を歩く。東屋で身の上話をしてから二週間が経っていた。

「今年の猛暑の影響で、新宿御苑の木がなんだか疲れて見えるね。」

いつきが杉並木を仰ぎながら呟く。

「人間も弱ってしまう暑さだったから、直接日差しを受ける木は、乾いた土から水を吸い上げるのに大変だったと思う。それでも樹木ってすごい。多少疲れて見えても、緑は青々としたままだし、枝を真っ直ぐに伸ばしている。生命の強さを感じるね。」

私は目線を、頭上にある緑のトンネルに向けた。

「そうだね。葉を枯らすことなく、この暑さを乗り越えたんだ。多少疲れて見えても、生命を保つための根幹は逞しいよ。」


 やがて、レバノンシーダーの元へ辿りつく。レバノンシーダーの麓に佇むと、涼やかな空気が私たちを包んだ。

「あの…。あれから、会社に対して動きました。」

私は、人事部長と面談したことをいつきにメールで伝えていた。その後の動向は、まだ触れていなかった。

「私の職場へ視察が来て。過酷な労働環境であったことを認めてもらいました。その後、本社から厨房業務が出来る人間が二名、それぞれ週に三日来てもらっています。また、人員が不足している店舗を対象に、ラストオーダーの時間を一時間早くしたり、ティータイムを無くして、ランチタイムとディナータイムの営業のみにするような動きが出ました。うちの店も、その対象です。」

「楓さんが動いたことで、会社が変わろうとしている。世間では、従業員が泣き寝入りしている企業が横行しているけれど、楓さんが勤めている会社は、耳を傾けてくれた。楓さんが折れてしまう前に、そういう動きがあったことが嬉しいよ。」

「私は、どうかしていました。機械のように働き、歯車はどんどん擦り減って…。その痛みすら麻痺していたから。」

私は、木の枝の隙から洩れる日差しを仰いだ。

「いつきさんが、私の肩を押してくれたから、行動することが出来たと思う。とても感謝しています。」

いつきは掌でレバノンシーダーの幹を撫でながら、根元を見ていたが、やがて顔をあげた。

「楓さん。君の名前を教えて欲しい。‘楓’はハンドルネームだよね?」 

私は、自分の名前すらまだ話していなかった。いつきとの間では「楓」という名前が、すっかり馴染んでしまっていた。

「みお、です。美しい音、と書いて。」

「美音。綺麗な名前だね。だから、レバノンシーダーの鼓動を聴こうとする耳を持っていたのかな。」

「そうかもしれない。レバノンシーダーの鼓動に出会うことが出来た。それだけでも嬉しいし、この名前で良かったと思う。」

くすぐったい気持ちが芽生え、頬が赤くなっているのが分かる。私には綺麗すぎる名前で、人に伝えるときに照れてしまうのだ。

「いつきさんは本名だよね?」

「うん。漢字で書くと樹木の‘樹’という字でいつきと読むんだ。」

「すごい。だから樹さんはこの場所に導かれたのかな。」

「僕らは繋がっている。ここで出会う運命だったんだ。」

運命。今までそんな言葉を意識したことはなかった。私達は、体についた無数の傷を癒す為に、レバノンシーダーの元へ導かれたのだ。

「美音さん、歩こう。」

肩を並べて遊歩道を歩く。樹木の根元を見ると、柔らかな土の中から、幾つか気根が顔を出していた。小さな瘤をつけた姿で、大木を守るように根元でひっそりと佇んでいる。樹は優しい眼差しで気根を見つめている

「僕、ここで草木の手入れをするアルバイトをしているんだ。植物は、日によって違う表情をする。僅かな変化でもそれを見つけ、適切な手入れをしながら、健康な状態を保つようにしているんだ。」

「それで、聴診器を?」

「ううん、実際の仕事に聴診器は必要ない。ここで仕事をするようになって、もっと踏み込んで樹木の知識や健康状態を知りたいと思って。木も、人間と同じように体の器官を動かしながら、生態を保っているからね。」

樹は一旦言葉を止め、気根の群れを見やりながら続ける。

「樹医になりたんだ。」

「樹医…木のお医者さん?」

「そう。この仕事は免許も国家資格もない。だけど、樹医として、造園業や公共の森林公園で働く人は実際にいる。僕は、真似ごとで聴診器をあてているだけなんだけど、専門的な知識を得る為に、ここで働きながら、勉強ができる学校へ行こうと思ってる。」

「樹さんにとって、木の存在は大きいと思う。やりたいことがあるなら、それを活かす仕事に就くことは、素晴らしいと思う。」

「新宿御苑で働くまで、仕事に対して生きがいなんて感じたことは無かったよ。仕事は、生きるために必要な縛りだと思っていたから。だけどね、そうやって諦めていたら、この社会全体に飲み込まれる。利便性や快適度を求めた人間の欲望はどんどん膨れ上がり、企業はそれに追随して生きていくしかない。結果的に、従業員への扱いは粗野になっていく。」

「私も、今の仕事は好きで始めたけれど。現場の内部を知るほど、人の闇の部分に触れることが増えて、辛くなる。今回のことで、会社は様々な措置をとってくれたけれど。サービス業は従業員の離職率が高いから、どうしても希薄な人間関係しか構築できない。世間は『お客様』を相手に、過剰なほどのサービスをするけれど、会社を支える人間に対して、真剣に向き合おうとしていないの。従業員に対して、一通りのケアが出来たら、また距離を置かれる。」

しばらく歩くと遊歩道を抜け、芝生が延々と広がる広場に出た。そこは空が抜けるように広く、周りは低木の松が点在している。私達は松の木の日陰のもとで腰を下ろした。広い空の彼方には、新宿の高層ビル街が見える。こうしている間に、あのビルの中には無数の人間が動き回っているのだ。

「こうやって、少し距離を置いて新宿という街を眺めると、なんだか不思議な気分になる。僕らは流れに巻き込まれ、知らず知らずのうちにあの渦の中で動き回っているんだ。」

いつきの右腕が、私の左腕にそっと触れた。温かな体温が伝わってくる。

「ここにいると、透明なフィルターを通して人の流れを観察することができるみたい。そして、私自身の足元を見つめることが出来る。今まで、何故あんなに愚直に働き続けたんだろうって思う。」

松の枝から降り注ぐ木漏れ日が樹の髪にあたり、きらきらと光っている。樹は、杉並木の方向を見やり、言葉を繋いだ。

「レバノンシーダーは明治時代初期、この公園に移植されてから、ずっとこの地で根を張って生きてきた。新宿が大都会になる前からこの場所を見守っている。人間の欲望が渦巻く街の中で、自身の辛い宿命を背負いながら生きてきた。だからだろうか。翻弄される人間を引き寄せ、息吹を与えてくれるみたいだ。」

「うん。優しい温もりを感じる。」

そう呟きながら、互いに体を寄せ合い、遠慮がちに手を絡ませた。私はいつきの肩に頭を持たせ掛ける。首筋に流れる太い血管がドクドクと動いている。私の耳はゆっくりと下降し、いつきの左胸近くにきた。いつきは、そっと体をずらし、私の耳の位置に心臓が来るように動いてくれた。お互い言葉を介さず、あたり前のように私はいつきの鼓動を聴く。それは、しなやかで力強いリズムを刻んでいた。深く、柔らかな音階。これは、胎児が羊水のなかで母親の鼓動を聴いているような感覚かもしれない。私を優しく包んでくれる音をずっと聞いていたい。

「こうしているだけで、パワーをもらっているみたい。」

「人間も木も、絶えずエネルギーを生み出し、動き続けている。だからね、自分のことを守る行為は必要なんだ。僕たちは機械じゃないから。」

樹の鼓動が意志を持つように語りかけてくる。ずっと動きを止めないから、このからだをまもって、と。

「美音さんに、こうして鼓動を聴いていて欲しい。」

そう呟きながら、寄り添う私の肩を抱いた。

「僕はずっと辛かった。だけど、いま生きている。僕の心臓は動き続けている。美音さんも生きて欲しい。折れる前に、立ち止まって欲しい。」

その声に呼応するように、私は囁く。

「生きたい…」

「僕たちは、この社会の中で生きていかなきゃいけない。だけどね、もう、自分を見失うような働き方は駄目だ。人間らしい感情を保ちながら生きたい。そして、この場所で四季の美しさを感じながら、君と共に生きていきたい。」

大きな掌が私の頭を撫で、抱き寄せた。鼓動も汗も吐息も、樹が生きている証。当たり前のようにある命が、とても尊いものだと感じる。

「私を、見つけてくれてありがとう。」

私は、樹の広い胸に顔を埋めた。この先、私はどう道を歩むかまだ決めていない。だけど、生きていく方法はいくらでもある。自分を痛めつけるようなことはもうしない。目を瞑ると、野鳥のさえずりや、梢が揺れる音と共に、都会の雑踏を耳の片隅に感じる。樹の鼓動と共に聞こえる様々な音階。その調和を耳に宿しながら、太古の昔から命を繋いできたレバノンシーダーの声をはっきりと聞いた気がした。

わたしのことをかんがえて。わたしのいのちはひとつしかないのだから。

樹と私の間に、金木犀の香りを乗せた風がふわりと通り抜けた。お互いの体の温もりを確かめながら、秋の訪れを感じた。

 


 








 













 
















 



  








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