私の喪失
まだ眠っていたいのに容赦なく鳴り響くベルの音。それが聞こえると、私の視界は、真っ黄色に染まる。うんざりするほどの、黄色。イメージで言うと、レモン色の絵の具に画家が巨大な筆の頭を突っ込んで、それをぶちまけたかのように。そんなものが目に入ったら、頭を殴られたようなものと同じだ。この乱暴さがないと、寝起きの悪い私は起きれない。長年使われてきたことにも納得できる、荒々しい起こし方だ。刺激の強い警戒色に感じられる音。否応なしに起きなければいけないと本能に訴えかける。
目覚まし時計を止めたけれど、まだパンチドランカーのように目がちかちかとする。壁に手をついて身を引きずり、洗面所にたどり着く。鏡の中にふてぶてしい女がいる。まあ、それが自分なわけだが。力いっぱい冷水が出る方に蛇口を捻り、冷水を顔に浴びせる。これでようやく、眠気が少しは治まる。びしょ濡れになってしまった寝間着を洗濯機の中にぶち込んで、下着のままで居間をうろつく。床に脱ぎ捨てられた衣服の中から、シワの目立たないものを探して身に着けていく。我ながら、品性のかけらもない。
床に胡坐をかいて、右手でテレビの電源をつけて、左手をバランス食品の入った袋に突っ込む。粘つく口の中で崩れたクッキーが出す不快な音。どぶ川のような汚い茶色。目をつむってもそれは視界に居続けるから、甘んじて受け入れる。
テレビの中では、キャスターが明朗快活な声でヒットチャートを読み上げていた。三十位の圏内に私はいない。代わりにピックアップ紹介で私のことが取り上げられた。音楽ファンを自称するキャスターが熱意たっぷりに私のことを語ってくれる。不特定多数から支持されて手に入れた順位も嬉しいのだろうけど、やっぱり心のこもった言葉があると、特別な気持ちになる。
「音色さんの歌は、独特の世界観があるんですよね」
独特な世界観。私の曲は、そう形容されることが多い。何度も聞き飽きているし、複雑な気持ちにならざるを得ない。幼稚園の頃、「今のピアノの音、赤いね」と言ってみんなから好奇の目で見られたことが、頭の中を過った。甘ったるいはずのクッキーに入ったチョコチップが、不意に苦く感じられた。
画面の右上に表示された時刻表示が八時になったところで、部屋を出た。今日は、スタジオに入る前にリリカと喫茶店に行く予定だ。ウインドブレーカーのポケットに手を突っ込みながら、迷彩の帽子を目深にかぶって猫背で歩く私は、不審者だ。真下を見ながら横断歩道を渡る私の世界は、黒と白。けれど、クラクションや雑踏で視界はモザイクアートのように色づいている。私が地面を見て歩くのは、無表情な地面になら、そんな毒々しい色が混じっても辛うじて見ていられるからだ。
「ほら、また下向いてる」
横断歩道を渡りきったところで、肩を叩かれた。顔を上げるとリリカが目の前に立っていた。
「背中曲がるって言ってるでしょ?」
「前を向いて歩く視界は、配色がうるさくて好きじゃない」
支離滅裂な私の言葉を、慣れたように「はいはい」と受け流す。おざなりな態度でも、リリカは私の唯一の理解者で、憧れの歌手だ。
「もう、メジャーには戻らないの?」
不健康なほど苦いブラックコーヒーを飲みながら、リリカに尋ねる。彼女が自らメジャ―レーベルとの契約を解約して二年が経っていた。
「戻れたら、戻ろうかなって」
「セルフプロデュース始めるとともに、メジャー抜けるなんてかっこいいかもしれないけどさ」
「まあ、惰性で始めてもよかったと思うんだけどね。でも、人気に翳りが出始めてきたの分かってたから、踏ん切りつけたかったのよ」
屈託のない笑みで笑う彼女。けど、憧れだった彼女がライブハウスとバイトを梯子して暮らす数年前の私と同じ生活を送っているのは、どうも納得がいかない。「彼女はもっと評価されていいのに」なんてインディーズバンドの動画に並んでいるコメントそのままの言葉を心の中で呟く。
「音色はさ、本当の自分出して受け入れられたから、長く続くと思うよ」
「どうかな、私、色物だと思うし。パフォーマンスが奇抜とかいう宣伝文句で片付けられて終わりそう」
「そういう評価、自分に下せるのは、音色が若いからかな。客観的なところもあるからだと思うけれど――なんというか、音色の曲って青いんだよね。それが眩しいんだけど」
「青い? 私の中ではもっと色々混ぜたつもりだけど」
ガトーショコラにさっくりとフォークを入れる彼女。その手つきが私の中から都合のいい部分を切り取ったように思えて、不快だった。突っかかった私に、顔をくしゃっと丸めて苦笑い。
「ごめん、今のは音色のことちょっと茶化したかもしれない。音色の見えている青じゃなくってさ。なんというかさ、自分のことを理解されたくない気持ちと理解してほしい気持ちが混在しているようで。そういう感情って、ある年齢越えてから吹っ切れたりするから」
若いころの自分を思い出す、と付け加える彼女。まだ若々しいけれど、笑うと目尻にうっすらと皺が入る。それに気づいたとき、心臓が鈍く疼いた。私も、いつか老いる。当たり前だけれど意識していなかった事実が、突き付けられたようで。
それから音楽活動の抱負なんかも話し合って、互いに刺激のある会話になった。でも一番胸に残ったのは、自分が勝手に感じたあの胸の疼きだった。
***
乱暴に開けたスタジオのドアのノブが、壁にぶち当たってでかい音を鳴らした。なんだか分からないけれど、噛み砕けないものがあって、私は罠で捕らえられた野生動物のように唸っていた。
「今日はいっそう殺気立っていないか」
ベース担当の柏木が、ギター担当の新井に耳打ちをする。固定のサポートメンバーは柏木と新井を入れて、全員で四人。その誰とも、折り合いが上手くついていない。いつも私のイメージが伝わらず、あたり散らしていることもあって警戒されている。
気持ちを落ち着けるために、煙草に火を点け、深呼吸する。私だって、怒鳴りたくて怒鳴っているわけじゃない。
「今日は曲は作らない」
自嘲しながらそう言うと、サポートメンバーの皆が安堵の息を漏らした。音の色が見える私と、そうでない皆が衝突する音作りは、皆にとっても心労のある作業だとは知っているつもり。
「この前の曲に、詞をつけるから」
スタジオのミキサーを操作する森田に音源を流すよう促す。ギターをかき鳴らしながら歌う、自分の声が流れてくると、視界の中に様々な色が流れ込んできて、混ざりあったり分かれたり。私は、色を頼りに音をつなげていくから、青いだなんて一言で片づけられるものじゃない。
反発するように、「赤」という言葉を歌詞の中に入れた。
鏡の中の自分が 不意に醜く思えてきて
僕はナイフを取り出して 真っ赤に塗り潰した
生臭い身体は 今日も臭い息を吐いていて
心まで汚れそうで 独立したかったんだ
魂
「君は自信に満ち溢れて本当楽しそうだね」
そう言うと君は泣いた
バカな時代だね青春は
自分以外の世界が見えていない
もう君を自分ごと傷つけないよ
苦笑いの下で警戒しないで
そんなの都合のいいどうしようもないよね
僕の腕の傷がまだ残っているのに
理解されないと喚いて 君を理解すること放棄して
目を背ければいいのになんて 勝手なこと言ってばっか
ごめんね
むき出しの自分はギラギラしているから
落ち着いてるときに会いたい
バカな時代だね青春は
きっと君に見てほしかった
もう君を自分ごと傷つけないよ
話を折って遠ざけたりしないで
分かってる何度も破った赤い約束の跡が
僕の腕にまだ残っているんだ
笑顔よりも泣き顔の数が多くても傍にいてくれたよね
損得じゃないでしょ人と人はなんて
ひどいことした僕が言えた言葉じゃないよな
もう君を自分ごと傷つけないよ
苦笑いの下で警戒しないで
そんなの都合のいいどうしようもないって
分かってるんだ 分かってはいるんだ
何度も破った赤い約束の跡が
僕の腕にまだ残っているから
今さらだけど怖がらずに会ってくれますかなんて
僕が一番怖がっているくせしてね
曲名は「赤い約束」とした。メンバーの皆には、背景のストーリーを話した。「僕」はリストカットの常習癖があって、「君」は「僕」の友達。「僕」は自分を傷つけることが、「君」を傷つけることでもあるとようやく分かって約束をするけれど、意志が弱くて何度も何度も破ってしまう。そうして疎遠になってしまった二人のすれ違いを、私が「僕」の代わりに叫ぶ。
「設定は凝っているけれど普遍的なものを感じるね」
新井がそう言うと、皆が頷いた。私が作る歌は正直、ゲテモノだ。主人公は、闇や秘密を抱えている女の子で、疎外感や失意に塗れている。きっと自分を投影しているんだろう。それが受け入れられると安心するし、否定されるととんでもなく腹が立つ。そんな私に、「普遍的」という言葉は、大きな救いだ。
新井の提案で、詞のイメージに合わせて、攻撃的なエレキギターの音色と、それを裏打ちするかのように、アコースティックギターの音色を重ねることになった。彼曰く、「他人を傷つけてしまう衝動と、それを不本意だと嘆く自分勝手な優しさ」を表したのだそう。レコーディングが終わったと同時に、ロックな曲ができたぞと皆で騒いだ。
夜のライブハウスでの公演も済ませて心地よい疲労感とともにベッドに飛び込む。打ち上げでしこたま酔っていた私は、メイクも落とさないままに眠りの中へと堕ちていった。
また、けたたましいベルの音が私を起こした。
相変わらず寝覚めの悪い朝だ。ふらふらと洗面所へと向かう。鏡の中には、いつにもましてブスな自分がいる。酔った勢いで化粧も落とさずに寝たから、肌は荒れ放題。自分の自堕落さにため息をつく。そして、いつも通り冷水を思いっきり顔に浴びせたところで、違和感に気づく。
あの感覚が、ない。
目の前を真っ黄色に塗り潰されて、幻惑されて目が眩むようなあの感覚。私が、大きな音を聞いたときに覚える、いつもあの症状が、ない。
――ない、ない。