死の淵に際して
「俺は、今から死ぬ」
崖の上に立った私は、自らを鼓舞するように、そう言った。あくまで私は能動的に死ぬつもりであるのだが、それを邪魔する生への執着もまた、ある。
深呼吸、三回。それで、覚悟は決まった。いや、そう自分に言い聞かした。
「俺はこれから死ぬのだ」
眼下には荒れ狂う海。ここから飛び込んだら、十分な致命傷を負う事ができるだろう。
思えば、私の人生は、死を常に意識しているものであった。
死。
誰にも避ける事が不可能である、その現象に、私は大多数の人間と同様に恐れ、慄いた。私にとって、死ぬ事は恐怖であり、自らの終焉がそれ既に避けることのできないものとして、立ち塞がっている事が、我慢ならなかった。
その私が、今から死のうとしているのは、皮肉この上ない事であろう。
私も出来うるなら、死にたくはない。しかし、それが出来ない事情が、あった。
事の発端は、二年前にさかのぼる。
当時、私は葬儀屋で働いていた。死というものを、己の収入源として、ベルトコンベアが右から左へと物を流すように処理する、そんな仕事に私は一応の満足を得ていた。
私は死を恐れる人間であるが、だからこそ、怖いもの見たさ、というものでは無いだろうが、死というものから目を背ける事が出来ずに、その仕事に就いていた。
その時である、あの女が私の前に現れたのは。
彼女は外見的には美しい女性であった。十人中十人が、とは言わなくとも、過半の人が振り向く程度の。それは、彼女の父の葬儀であった。最近では何でもインターネットで済ませられるのだが、それは葬儀屋でも例外では無い。故に、遺族とも葬儀前日に出会うのが、普通である。
死体は、老人のものであったが、その娘は、ひどく若い印象を受けた。その当時は、高齢出産でもしたのか、と思ったが、死体の年齢を聞き、驚いた。彼は、その年齢にしては、異常な程老けて見えた。
葬式は、つつがなく終わった。家族葬のような代物であり、問題も起きなかった。
彼女は、葬式が終わると、ソソクサと帰っていった。最近は、親子の情も薄くなっているのか、と私は思った。
問題が起こり始めたのは、その後からである。
「葬儀屋さん」
私は、所用で外出していたのだが、そこで声をかけられた。見ると、あの女である。
「ああ、矢張り。先日はどうも」
彼女は、そう言い、お辞儀をした。私もつられてお辞儀を返す。
「その後は、どうですか?」
「ええ、初七日も済みまして、漸くゆっくり出来そうなんです」
彼女はそう言って、笑った。
私は思わずその顔に見惚れたが、それが運の尽きであった。
彼女は、私の隙を見逃さず、茶店へと入る事を提案した。私は、それに頷いた。
彼女に連れていかれたのは、こじんまりとした所であった。私はかねてより均一化されたチェーン店といったものを好んでいなかったので、この店には好感を持てた。
「この店は、珈琲が美味しいの」
彼女はそう言うと、二人用の席の一つに腰かけた。口ぶりからすると、常連らしい。私は彼女と向かい合わせになる席に、座った。
店の中は、ガランとしており、客の姿は見られなかった。一見、繁盛してはいないようであるが、平日というのも、関係しているのかもしれない。
「貴方は、運命という物を信じるかしら?」
彼女は、珈琲を一口飲むと、そう言った。
私はリアリストの気があるようで、そんな物は詐欺師の常套句程度にしか思っていなかったのだが、彼女がそう言う人間であるとは考えにくかった。
「袖振り合うも多生の縁ってやつですか?」
彼女の求めている答えとは違うだろうと思いつつ、私はそう答えた。
「まあ、それもあながち間違いでは無いわ」
でも、そうじゃない。
彼女は首を振った。
私は、彼女が何を言おうとしているのか、皆目見当が付かなかった。
「こう、急に言っても理解できないと思うけど」
彼女はそう前置きをして、言った。
「貴方と私は、前世で合っているの」
その言葉は、懺悔をする耶蘇教徒のように張り詰めていて、その表情は、余りにも真剣なものであった。私には、彼女がウソを吐いているようにはとても見えなかった。
「前世……」
しかし、だからといって、そう簡単に信じられるものでも無い。彼女が何らかの勘違いをしている可能性も、あるだろうし、そうでなくとも、余りにも突拍子も無い言葉であった。
「信じられないのも、無理は無いわ。でも、事実は事実。動かせないものなの」
彼女の言葉は、まるで絹にしみこむ水のように、私の心に入ってきた。しかし、私の理性が、彼女の言葉を頭から足まで信じ込むことを阻害していた。
「その……証拠はあるのでしょうか」
私はおずおずとそう切り出した。
彼女は、首を振る。
「残念だけど……信じられないのは分かっている。でも、夢が」
「夢?」
「そう、夢。夢に見るの。貴方に会ってから。それも、一度では無く、何度も」
彼女は、そこまで言うつもりは無かったのだろう。たどたどしく、しかし何やらの確信を持っているように、話し始めた。
「こんなことを言ってもその、分からないだろうけど」
彼女は、夢の内容を話し始めた。
夢の中で、彼女は娼婦であった。体を売り、その日の稼ぎを得る、そんな毎日。夢や希望などそんなものは無くその日を生きていくので精一杯の日々。
そんなある日、彼女は一匹の猫と出会った。その猫は、いつの間にか彼女の側によりそっていた。彼女は、猫が側にいることに、不思議な安心感を感じていた。
「お前さんは、いつもここにいるねえ」
彼女は何時もそう言い、その猫をかわいがるのが日課であった。
猫は、他の人にはてんで寄りつかなかったが、不思議なことに彼女には懐いていた。
ある日、猫が来なかった。彼女の知らないうちに、子供達にとっちめられ、瀕死の重体に陥っていたのだ。彼女は、猫が現れないことにいらだっていたが、ある日、不意に現れた猫を見ると、驚いた。その体の至る所に傷が走っており、未だ言えず、その皮膚の裏側がはっきり見える程であった。
「なんと……」
彼女はそれ以上言葉を発することが出来なかった。猫は、息絶え絶えに、彼女の指をなめると、バタリと倒れた。
彼女は、その猫がいなくなってから自分の支えになっていたかを思い知った。その矢先にこの出来事である。彼女は、猫を医者に急いで連れて行った。しかし、彼女の稼ぎでは、猫を治せるだけの金を払うことは出来なかった。しかし、猫は、治すせなかった場合には、必ず死ぬと言われたのである。
彼女は途方に暮れてしまった。
いや、それ以上に彼女は疲れていたのだ。今の生活に。
故に、川を見たときに身投げしようと、ふと思ったのである。
「お前さんには悪いねぇ。一緒に死んでくれるかい?」
猫は、了承するように、にゃおんと一言鳴いたのであった。
彼女の夢の話はこれで終わりである。
「にわかには、信じがたいな」
私は、あえてその否定する言葉を選んだ。そうしないと、信じてしまいそうであった。
「そう言うとは、思っていたけど……」
話さざるを得なかった。そういう事だろう。
しかし、結論を求めれば、彼女の思いすぎなのでは無いだろうか。彼女にとって、夢の相手は、私では無い可能性すら有るのだ。
「そんなことは、無いわ。あれは、貴方なの」
「しかし、だからどうだというのですか」
確かに、そうだ。彼女は前世では私をペットとしていたと言う。しかし、それはそれ以上の理由を求め得られないのではないか。
「いえ、それはそうなのだけれど」
彼女は、ややためらいがちに口を開いた。
「私は、貴方を愛していた。それは、確かに猫と人間という種族の差はあれど、それは確かなの」
彼女は、そこで言葉を切った。私は、先を促した。
「ええと、つまりね。貴方に結婚を前提としたおつきあいを申し込みたいと思っているの」
彼女の言葉にどう答えれば良いのだろうか。
そもそも、彼女の言葉が全て真であるとしても、現在の状況は彼女が己の元ペットに求婚しているという事以外の何物でも無い。私にすれば、その様な、あるかないかの前世の因縁を理由にそんなものを求められても、こちらとしては、困るのだ。
「仮に、私も、同じ夢を見るようなことがあれば」
結局は、そう答えるより他には無かった。
しかし、私は、彼女の言う夢を見ることは出来なかった。
「人生などは思い通りにならないものだね」
私は、そう言い、ため息を吐いた。彼女は、笑って答えた。
「でも、信じてる」
私は、彼女の言葉に何かをごまかすように、ただ笑うことしか出来なかった。
彼女との関係は、あやふやなものであった。恋人という関係でも無く、かといって友人でも無い。言うなれば、他人が一番近いのであろうが、私達はどこかで通じ合っていた。私も、初対面の出来事にもかかわらず、彼女と出会い続けていたのは、そういった、他の人物とは違う関係性を求めていたからかもしれない。それは、言葉にすることは無かった、確かにそうであった。
その知らせが来たのは突然の出来事であった。
彼女とのつきあいが始まってから、二年後の事である。私は相変わらず夢を見なかったし、彼女は相変わらず夢を見ていた。
その日、彼女と会う約束をしていたのであるが、待ち合わせ時間を過ぎても、一向に彼女は姿を見せなかった。普段、遅れる時は一報を入れる人物であるだけに、半時間を過ぎても何も来ないのは不審であった。
私は、その後さらに半時間待ったのだが、彼女からは一切音沙汰が無かった。
私は、諦め、彼女の携帯に喫茶店で待つとの連絡を入れ、珈琲を飲みに行った。
向かったのは、彼女と最初に入った喫茶店である。
「ああ、これは」
入ると、途端に店主がそう言った。彼女と出会ってからこっち、私も彼女と一緒にこの店をよく利用していたので、彼ともすっかり顔見知りになっていたのだった。
「その、彼女さんのこと、お悔やみ申し上げます」
店主は注文通り珈琲を置くと、そう言った。彼は私と彼女が恋仲であるように錯覚していたので、そういう風に彼女のことを呼んでいた。
「お悔やみ……」
「はい、交通事故でしたか。痛ましい事です」
店主の顔は、不謹慎な冗談を言ってるようには見えなかった。その顔は、まるで、傷心中の人間を見ているかのようであった。いや、まるで、ではなく彼には私がそう見えるのか。
「失礼ですが、それをどちらで?」
私はそう聞いた。彼は答えた。
「ええ、彼女のご母堂がお見えになって」
私はそれを聞くと、珈琲を一気にのみ、店を出て、一目散に彼女の家に向かった。
私はそれまでに何度か、彼女の家に招かれたことがある。一軒家で母親との二人暮らしをしていたはずである。
インターホンを鳴らすと、彼女の母親が出てきた。私が、彼女の名前を口に出すと、先日見たときよりは一掃老け込んでいるその女性は、ああと思わせぶりに頷き口を開いた。
「貴方は確かあの子のお友達でしたね。その、あの子はつい先日交通事故で……」
まだ、気持ちの整理が付いていないのだろう。彼女はそこで口を止めた。そこから先の言葉は、出てこない。
「遺影に線香でも上げていっては貰えませんか」
女性は、私を家に上げると、二階にある和室に招いた。
そこには彼女がいた。額縁の中に飾られて。
私は、線香を一本上げると、逃げるようにその場から立ち去った。
彼女の家を出てみると、まるで今までのことが夢のように思えてきた。彼女と出会ったことから、全て夢の中での出来事のように。
その夜からである。私があの夢を見るようになったのは。
夢の中では私は猫であった。猫であったが、人間を愛していた。種族単位では無い。ある特定の人間を愛していた。彼女は美しかった。何時もつらそうな顔をしていたが、それすらも美しいと思わせる何かがあった。私は、同族のメスになど見向きもしなかった。ただひたすらに彼女に恋い焦がれていた。私は、彼女を見たその日から、彼女の元へ通い、可愛がってもらうのを日課にしていた。
しかし、猫の私が人間の彼女を想うなど、無理な話であったのかもしれない。彼女の元へ通うある日、私は子供らの襲撃を受けた。彼らは投石を武器にして、私を隅に追いやると、いじめ抜いた。
猫の身である私にもドレスコードの概念程度はある。意中の相手に会うときには、念入りに毛並みを整えるのは猫社会では基本中の基本だ。
私は、ひとまずけがの回復を待ったのだが、それが思うようには行かなかった。傷が化膿を始め、自分でも命の危機にある事は明白に分かっていた。この時、私の脳内にいっぺんの欲求が巻き起こった。もう一度だけで良い、死ぬ前に彼女を一目見たい、と。
私は半ば執念のみで彼女の元へ向かった。彼女に見つからないうちに帰るつもりであったが、彼女はめざとく私を見つけてしまった。彼女は私を急いでどこかへ運んでいった。そこでなにやら話をしているようであった。しかし、猫の私には人間の言葉は分からなかった。
気がつくと、彼女は私を抱いて川の畔に立っていた。私の顔は彼女に向いていたのだが、彼女の目に映る風景から、そこが川である事が分かった。
「一緒に死んでくれるかい?」
彼女は言った。
私は人間の言葉をとんと理解できなかったが、彼女のその言葉だけは理解できた。
私は己の内にある様々な感情を乗せて一言鳴いた。にゃおん、と。
私は己の運命を呪った。よりによって、彼女が死んだ後にこの夢を見るとは。彼女が、その身を現世に止めている内にこれを見ることが出来ていれば。
私は、それから何かに憑かれた様に、葬儀屋を辞め、あてどなく全国をさまよった。そして、ある自殺名所に辿り着いたのである。
「彼女が死んだのに、俺だけが生き残っては、無意味だ」
前世から引き継いだ彼女への想いはそう叫んでいた。
私は死ななければいけなかった。
何度目かの躊躇の後、私は意を決して足を踏み出した。
恐怖、嫌悪、恍惚、不安。ありとあらゆる感情が渦巻く浮遊感の中、私は見た。
今までの人生がそこにはあった。いや、それだけでは無い。夢に見た猫の時。そしてそれ以前の記憶。私の脳内に魂の記憶が流れていった。
「………!」
私が声にならない叫びを上げたのは、その記憶のいずれにも彼女が移っている事であった。あるときは人間、またあるときは鹿や獅子といった獣であったが、私には彼女だと確信が持てた。
いや、もう一つ理由がある。私と彼女はあらゆる時空で、お互いを想い合っていたのだが、そのいずれもが、その恋心が実を結ばないのであった。あるときは身分差に遮られ、あるときは闘争に敗退し。それでも、彼女と私は、希望を失うことは無く、あるときは心中を、あるときは後を追い、次の私達にゆだねようとしたのであった。
私はそれに深く感動を覚えると共に絶望した。
彼女と私はどうやっても結ばれる運命に無い事が、悟られたためであった。
しかし、次の、来世の私も彼女に出会ってしまうだろう。そして、惹かれるだろう。ならば……ならば少しでも彼らが幸せになるように。そう私は他人事のように願うのであった。