梅花の香と桃花の夢
初めまして。
異世界ファンタジーが書きたくて書きたくて、しかし小説書くのはブランクがありすぎた為のリハビリ短編です。
リハビリと言っても、とても気に入っています。
香りを感じられたり、空気や温度を感じてもらえたら嬉しいな、と思いながら執筆しました。
一人でも多くの人に読んでいただけたら幸いです。
私の家は特に裕福でもなく、かと言って貧しかったわけでもなく。ただ中堅どころの文官をよく輩出する家であった。
主だっては、故郷の地方文官になるものが多かったが、ごく稀に仕事の優秀さを買われ、中央へ呼ばれることもあった。
私の祖父などは、王政のその一端の末尾に席を置かれ、一族も大層喜んだ。死すその日まで仕えあげた時は、終生よく仕えた、と先王より誉を頂き、我が家のわずかながらの庭には、王より賜った桃の木がある。
子供の頃より、祖父の誉話と共に味わったものだった。
私は祖父の顔は知らねども、祖父の人となりはよく知る友人のように思えるほどに父母や一族の者たちから聞かされたもので、いつしか私も王政の末尾に微力ながらも加えられることを望んだ。誉が欲しくないといえば嘘にはなるが、王のお膝元で王の国政のお手伝いができることに胸が高鳴った。
そう、私の夢は中央で文官として働くこと。
まずそれには、生まれ故郷のこの土地でしっかり働きを経てからどこにでても恥ずかしくない自分自身の土台を作り上げねば。
私はいつしか、祖父と同じ道を望み、同じ段階を踏んでいた。
「橙佳、これも追加だ。今夜は帰れんぞ」
執務室の扉が開けられて、同僚のうんざりとした声が降ってきた。
両の腕に抱えられた山ほどの木簡を私の卓に無造作に下ろすと、疲れ切った顔を隠しもせずに嫌そうな表情をこれでもかと見せつけてくれた。
「戾映、丁度良いところに」
同僚の戾映は丸い顔によく似合った丸い腹を突き出して、迷惑そうに鼻息で返事をした。
「何が、丁度良いところに、だ。お前もさては俺様を体良く使いパシリにするつもりだな?」
低く唸る様は、本人は野生の狼が牙を剥き唸っているつもりなのだろうが、丸みを帯びた顔や体の輪郭からして鋭さは微塵も感じられない。その為よく同僚や上司からうまく使われてしまうのだが、戾映の元々の人の良さや面倒見の良さがその原因であることに本人は無自覚である。
私もついつい戾映に頼ってしまいがちである故に、こうした不満で不遜なことを良く言われている。
「いや、どうせ戻るんなら今仕上げるものを持って行ってくれないか。ついでと言えば聞こえはよくはないが、お前も執務室に帰るだけの道すがらに、功績を持ち帰れば気分も軽くなるというものだ」
筆を止めずに言ってやると、また鼻息で返事が来た。
「上手いこと言う奴だ。ならばこの部屋を一周回るだけの時間をくれてやる。それまでに仕上げられるならお前の丁度良いに付き合ってやろうじゃないか!」
おや、些か彼は機嫌がよろしくないようだ。
「どうした?いつもに増して牙を突き出した猪の様だぞ?
何かあったのか、落ち着け」
私は筆を置き、小休止を入れることにした。この不機嫌で野獣気取りの人の良い同僚の様子の方が気になったのだ。
「茶を飲んで行け、座れ」
卓の隅にある鈴を鳴らす。
最近やっと付けてもらえた、私専用の小間使いを呼ぶ為の鈴である。
まだ成人前の少年であるが、よく働く下男である。
名を趙馳と言う。
貧しい者を助ける為の雇用として、領主様の雇用事業の一つとして、学がなくとも官舎に勤められる機会をとして迎えられた一人だ。
卑しくなく、礼儀正しいのを気に入っている。
「お呼びですか、ご主人様」
「ああ、趙馳。もう帰るところだろうが、帰る前に、戾映にお前の美味い茶を飲ませてやってはくれまいか?
どうも疲れて噛み付かれてしまいそうだ」
「はい、畏まりました。戾映様、少々お待ち下さいませ」
ペコリと華奢な体で頭を下げられると戾映は強く出られない。
戾映には趙馳と同じ歳の弟がいて、どうしても栄養の行き届かない成長をした姿に不憫になるのだと言う。
本当に人の良い男だと思う。
切なそうなか細いため息をついて、力なく来客用の脚に腰をどっしり下ろした。
「お前、せっかくの家族のいる家に帰る時間を押しとどめてまで働かせたのだ、駄賃は持たせてやれよ」
それは言われるまでもなく私も心得ているつもりだ。たまに、ではあるものの、下男の給金だけでは苦しい生活の大きな改善はできていない。けれど、彼の賢明な働きには報いたい気持ちもあり、私の懐から幾分かの小遣いの様に小銭を渡すことも実は少なくない。
貧困が蔓延しているわけではないが、全くの少数とも言い難いのが今この地方の現実だ。
死人を食らうほど追い詰められている報告は受けてはいないが、それでも年端も行かぬ子供達が飢えていると言うのは切ない話だ。戾映の様に弟のいない私でもそう思うのだ。
「お待たせいたしました」
趙馳が盆を持ってくる。茶を淹れて室内に暖かな茶の香りが舞い踊る様に充満していくのを感じ、私も席を立ち戾映の近くの脚に腰掛け直した。
「趙馳、すまなかったね。これは僅かだがお詫びだ。妹に菓子でも買ってやると良い」
趙馳には歳の離れた小さな妹がいる。時々空腹が我慢できなくなると、この官舎の門まで兄を迎えに来ることもあり、見かけることもある。
今日なんかは引き止めたので、来ているかもしれない。
「ありがとうございます!それでは私はこれで失礼致します」
ペコリと頭を下げて趙馳は足早に出て行ってしまう。やはり引き止めた為に時間が遅くなり、妹の事が気になってしまったのだろう。
明日また来た時に詫びるべきか、考え至り趙馳の茶を飲む。
香ばしく甘い香りが鼻に抜けて行く。
「美味い茶だ。こうなれば甘い菓子も欲しくなるものだが」
何もない部屋を戾映はキョロキョロと見渡すが、私の部屋に余分な食料などあるはずもない。
それはそれとして、先程この戾映の持ってきた木簡の山を見て、思うまでもなくため息が漏れる。
慌てずとも一晩で充分仕上げられる量と言えばそうなのだが、まあ今は
「そう言えば、お前は何をそんなに不機嫌なんだ?ついでの用事を頼まれるのは何も今に始まった事ではないだろう?」
丸い目を胡乱に細めて戾映は、ふん!と鼻息でまた返事する。
「俺だって、俺様だってなぁ!そりゃ上機嫌に笑って仕事やりたいさ!ただな、堪らなくなる事だって、たまにあるだろ」
よくは分からないが、よくない事があったのだろう。
「趙馳の茶で嫌なものを洗い流せ、あの子は不憫な身の上であるのにあんな健気ではないか」
そう言うと、こちらに強く出られないのを知って言う。
「怒るなとは言わないがな」
静かに茶器を仰げば、戾映も続く。
大体の予想はできているが。
ここの官吏たちは戾映の人の良さにつけ入るのが上手いのだ。
「俺様は兎に角、怒ることもあるのだ」
茶を飲み干し、幾分か落ち着いた声で戾映は呟いた。「俺様」と自らを呼称する時は怒っている時だ。そして、何かあったかは話したくないらしい。
「茶を楽しめ」
私はそれを言うに留めた。
その日の夜半過ぎ、戾映の持ってきた残業分も大方片付いたところで私は一息つく。
あの後、茶を飲み干して自分の仕事に戻っていった同僚は、何がしかの自己内の諍い含め踏ん切りをつけたようだった。
去り際に、私の家の自家製の茶で私の手伝い申し出も引き受けてくれた。
先王より祖父が誉として賜った桃。その木の葉を数枚干して刻み茶として香りを楽しむのだ。
戾映はそれを望んだ。
実がなれば、また分けようとも思う。
本当に香りが良いのだ。花を咲かせては香り。緑を茂らせては香り。冬の最中もまた萌ゆる季節の香りに想いを馳せると心踊るようだ。
私の家では無くてはならぬ存在の桃の木は、私の今すらも象っている。
祖父の誉話を何度も何度も聞かされるうちに、私の憧れとなった。
この私の憧れは、とても甘くそして爽やかな香りをしていた。
そう、だからこそ私は今の激務も、今以上の苛烈な国政をも望めるのだ。きっと職務によって命落とすことになろうとも、苦痛を味わってすらもきっとそれは、甘く良い香りがするのだ。
児戯に等しき妄想だとしても、私はこれを抱えて行くだろう、この命の果てまでも。
「お前は時々恐ろしいやつだと思い知らされる」
呆れた戾映の声音を思い出す。
いつしかこの話をした折に奴が心底呆れ返った面持ちで呟いた。
私もそう思わないでもないが、もうやめよう。仕事に戻ろう。
少しでも早く終わらせて、仮眠を取ろう。
終わりが見えている木簡の束を手に取り、残務処理を再開した。
今年の桃は豊作で、多くの実をたわわに実らせて、よく枝を伸ばしよく葉を茂らせて、来年の豊作も約束していてくれそうで、家人共々喜んでいたのだが、意外なところから実りの知らせが私に届いた。
地方での働きを認められて、私が中央へ呼ばれた。
いつかは、と望んで日々励んではいたが、まさか突然国政への道が切り開かれるとは思いもよらず。
しかし時は待ってくれるはずもなく、私は強い風に吹かれ舞い上がる木の葉のごとくに中央政権へと仕事の場を変える事となった。
現実は妄想とは違い、様々な別れを含み私は一人で今中央にいる。
地方での激務など本当に児戯であったと痛感する程に、苛烈に熾烈を極める激務に次ぐ激務である。
けれども苦楽すら感じる間も無く、日々を費やす事に必死であった。
故郷の家人たち、桃の木、趙馳や戾映や同僚たち祖父の誉話など脳裏を掠めなくなるのに然程の時は要しなかった。
忙殺とはよく言ったもので、私は忙しさに自らを殺していった。
私は我を忘れ働いた。
気付けば下官として中央政権の末端を担いもう五年は過ぎていた。仕事にも慣れ、中央のやり方としての作法も身に染み付いて、田舎者だという誹りの声も聞こえなくなって久しい。
そもそもが人の足を引っ張り合うような暇さえ無いのだ。
そう言う事柄にかまけている者達は、つまりは仕事をしていない、仕事が出来ない者として淘汰されていつの間にか消えていた。
職場は騒がしくそしてとても静かなのだ。
それが当たり前となり、当たり前の忙殺の日々が続いていた。
その日はやはり、いつもの職務をこなす日だったのだが、各省に配布する通知書間の草案たる竹簡に目を通していた。
私の事務処理の能力も買われて、卓の上には山の竹簡が積まれている。
私専用の卓だけではなく、休憩用の脚の上にまで山となっている。
「はぁ」
深呼吸をして姿勢を正す。
次の竹簡、と手に取り巻を広げると内容がここにあるべき物では無いのが分かった。
下官が触るものではない、もっと上の官吏が携わるものだ。
何故これがこんなところに紛れ込んだ?
疑問に思いつつ巻き直して届けるために傍へ避けて置いた。
本来ならすぐ届けた方が良いのだろうが、今日は仕事量が多い。せめてあと一山崩してから気付いた事にしよう。
私はより速度を上げて事務処理を進めてた。
今日は調子が良いのか、午前に目標は達成できた為、重い腰をあげる。
「ああ、きっと私がお叱りを受けるのだろうな、仕方がない」
つい、愚痴が溢れた。
竹簡を届けてお小言をもらう時間のために山を崩したのだが、少しばかり一息つく時間を費やしてもバチは当たるまい。
小狡い打算を交えつつ、避けて置いていた竹簡をもう一度確認して、どこに届けるか、と思案する。
直に直属の上司に届けるか?と思うも、その上司も地位は低い。またその上司の上司に届ける道筋が安易に予想がつく凡夫である。悪い上司ではないが、忙しすぎる故の思考が些か停止している為、何がしかの諍いが起これば私に火の粉が飛ぶだろう事も容易く想像がつく。
なれば、直接関係する省庁に届けるが吉、と私の脳髄は導き出した。
移動位置としては、私の勤める下官庁舎からそれなりに離れた、中央高官庁舎だ。足を踏み入れたことはないが、一応私の身分でも立ち入りは許されている場所だ。
官吏同士の移動はそれなりに自由に許されて入る。必要ないから行かないだけで。
そう、本来は私のような下官が行く場所ではない。
そして、それなりに離れている。宮廷内は広い。
私の今日の午飯は食えないな、と歩き始めながら溜息をついた。
まあ、午飯より休息だ。
どれ程ぶりだろうか、こんな時間に卓に向かっておらず背筋を伸ばして歩いているのは。
時折上官に出くわしては一礼しつつ、何故こんなところにいるのかと問われれば事情を説明し先を急ぐふりで私は散歩を楽しんだ。
今日は良い日だ。
日差し柔らかく暖かい。
この国は海を抱え温暖な気候に豊かな恵みも多い。
人間性も大らかな傾向にある。
そう言えば今は早春。
年が明けたばかりではあるが、毎日こうも忙しくては季節を楽しむことすら忘れていた。
竹簡の季節に合わせた行事や催事の文面にしか季節を確認する術がない日々だった。
そう、今は冬だ。
ああ、陽の光を感じて季節を思うのはいつ頃ぶりか。
嘆息が漏れた。
長い回廊が途切れ、外に面した屋根だけが続く渡り廊下が見えた。
冷たい空気が肌に触れる。
ああ、冬だ。
故郷より僅かに寒いだろうか。
思いながら迷わず歩みを進める。
私は胸いっぱいに冬の外気を吸い込む。肌はたちまちに温もりを失い、鼻の先や指先が冷え始める。けれどそんな事は気にする必要もない。
ああ、冬だ。
渡り廊下も長い。
陽の光が差し込むので、むしろ寒さより温もりを感じる。不意にそよそよと冷たい風が吹いた。その風が私の鼻腔に花の香りを運んできた。
「梅だ」
梅の香りだった。
なんと甘やかで、そして深い香りなのだろうか。
思わず足を止めてしまうほど、その一瞬の香りに感激してしまった。
確か宮廷内の奥の奥、後宮間近に王所有の梅園があると聞いたことがある。
先王は桃園を所持して、今代の王は梅園を。
なんとも豊かな情緒ある国ではないか、と思い至り、不意に外気で冷えた頬に温もりが一筋落ちるのを感じた。
「………」
一筋、ひとつ、ふたつ。
ポロポロと暖かい雫が冷たい頬を、いや間に合わず目から溢れてこぼれ落ちて行く。
「あ、ああ、ああ」
私の口から鼻から嗚咽なのか嘆息なのか判別つかぬ呼気が漏れた。
梅の香りから、故郷の祖父の誉の桃を思い出した。
今日この時まで忘れていたのだ。
私が今ここに立っているその根拠そのものの、あの毎年実を結び、葉で茶を入れて。
視界が溢れ出る涙で塞がれて、私は身動き取れず瞼を閉じて故郷を思い出す。
ああ、家人たちは元気にしているだろうか?庭の祖父の桃は、今年も実を結ぶだろうか。戾映はもう嫁をもらっただろうか?私はまだまだ貰えそうにない。
閉じた瞼の中で目まぐるしく懐かしさの色が渦を巻いていく。
趙馳はその妹は、飢えてはないだろうか。
あの子の淹れた茶が飲みたい。
我が家の桃の葉の茶が飲みたい。
梅の香りを乗せた冷たい風が私を包むようにそよいでいく。
体は冷えて行くのに、胸の奥から熱いほどの温もりが溢れてくる。それが堰を切って涙として溢れ出しているのだ。
嗚呼、私はこれを忘れていたのか。
忙しさに我を忘れ心を捨てたように生きていていたのか。
それも気付かぬ程に疲れていたのか。
もう一度胸にいっぱい冷えた外気を吸い込んだ。仄かに梅の香る冬を吸い込んだ。
涙を袖で拭い去り呼吸を整えた。
姿勢を整え、目的地を目指す。
今日は職場に泊まらず、久方ぶりに家に帰ろう。
そして故郷に友人に書簡を送ろう。
私は何とかやっている。
元気であることをどうか教えて欲しいと伝えよう。
目指す高官庁舎への歩みはそれまでと変わらない一歩ではあるが、私にはもう同じものではなかった。
その重みも意味も、私が理解したのだ。
私は橙佳。桃の花から貰った名前だ。
そう、私がここに在るのは全ては桃から始まるのだ。そして遠く離れて故郷を忘れたとしても、私が桃となれば良い。
王の膝下で国政の末端を担える喜び。
そう、私は常に至福にあったのだ。
夢から覚めた思いだ。
午後も明日もこれからも忙殺の日々だろう。だが、私は己の誉を矜持に生きて行くだろう。
幼い頃はこの名を恨んだものだが。
春の陽気ももう間も無くの日差しを受けて、私は歩みを進める。これからも、変わらず。
終わり。
最後まで読んで頂きまして、感謝感激です!
ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
短い話で、また、拙い文章力ではありますが執筆者として書きたいこと表現したいことを織り込めたと自負しております。
各々の読者さまがたの感じられた感想を聞かせてもらえるのならこれ以上ない喜びになります。
また別の作品で、またの機会もどうぞよろしくお願いします。