言語論的推理小説集①「ベラスケスのまなざし」(第38回小説推理新人賞予選通過作品)
アメリカからの留学生マイク・ニューコープが自室のベッド・フレームにタオルをかけ首を吊った日、死体が発見された朝|(むろんこの時点ではまだ「死体」と断定されたわけではない)から昼過ぎまで文字通り大騒ぎとなったが、警察が慌ただしく現場検証をし、アメリカ人にしては小柄な彼の身体が運び出され、そしてその死がやがて医学的に確認されて夕刻になる頃にはもう、学生寮は重苦しく哀しい空気が立ちこめているとは言え表面的には平静を取り戻していた。マイクの部屋は内側から施錠され、寮母の沼田百合子が合鍵を使い宙吊りになっている彼を発見したのだが、そこはいわゆる密室で、警察の検証では他殺の可能性を示すような異常な状況、つまり事件性は見当たらず、事は当初から誰しもが確信していた通り一人のアメリカ人留学生の自殺で処理されたのだった。しかし異常は本当にゼロだったかと言えば、マイクの机上にはカラープリンターで刷り出されたベラスケスの「ラス・メニーナス」が一枚置かれ、その下方の|(絵画内の世界を立体空間に見立てれば前方の)、少年に踏みしだかれる格好で、けれどもそのことに意を介さぬ素振りで鎮座している犬の前足のあたりにサインペンで「Pond」と書かれていたという、死を仄めかす遺書のようなものなのか、あるいはまるで無関係な代物なのか、つまるところ遺書らしき遺書が一つも残されていない中でそれは彼が死を選択した際にその机に載っていたものだから、異常とは言えないまでも意味深とは言える状況があるにはあった。
マイクはサン・フランシスコの大学からの留学生で、留学の目的は日本語と日本文学の学修だった。昨年秋学期から在籍し、半期の留学期間を残していた。出身はサン・フランシスコから六十キロ北のボデガ・ベイという町で、緯度で言えば大学のあるこの町と一度ほどしか違わなかったが、アルフレッド・ヒッチコックの「鳥」の舞台にもなった|(狂った鳥たちさえ出現しなければ)麗らかなその町とこの東北内陸の雪深い町とでは、冬の気温は二十度も違った。暮れから正月にかけ例年より早めに降った綿花が舞うような雪を前に、寮の窓からマイクが「イッツ・ソー・ビューティフル」と呟きながら目を瞠る日が幾日も続いた。けれども、年明けの授業再開の頃から周囲はマイクの異常を察するようになった。授業は週に十コマほどでほとんどが二限以降の開講科目だったが、一限の授業が始まる前に出校しカフェテリアでその日の授業の準備をするのがマイクの日課だった。そんな彼が、年明けになると、朝起きなくなった。当初はそれでも、何かに急き立てられるように授業時間には間に合うよう慌てて身支度を整え寮を飛び出していたが、一月末の期末試験の期間になると出校がほぼ停止するようになった。寒さで参っちゃったかな。マイクと親しくしていた学生たちは冗談交じりに言った。しかし、やがて彼が寮の自室に引き籠もるようになると、寒さが原因ではないことを誰もが察した。というのも、一日に一度、あるいは二日に一度、食事を摂りに食堂に降りてくる彼は、目は虚ろで足どりは覚束なく、しかし大型のカセットレコーダーを肩をそびやかすようにして抱え、テーブルの上に大儀そうに据えると、右手には箸、左手には先端にマイクロフォンを結わえつけた二メートルほどの角材を握り、目の前で食事をする寮生の頭上で前後左右させるのだった。「オー、マイ・マイクのマイク!」などとマイクに向かって僚友がお道化れば、マイクは眼力を振り絞って睨みつけた。「あいつ、ヤバい」と学生は席を移ろうとし、マイクのマイクはその背中を追った。おさまりの悪い空気が食堂じゅうに漂った。この土地の若者は優しい性格の持ち主だった。気づいていても、人が傷つくようなことは一切口にしない。だからかえって、それ以降周囲が日に日にマイクから遠ざかり、マイクは日に日に孤立していくことになった。そして、マイクが首を吊ってからさほど間を置かず寮が平静を取り戻したというのは、ある意味、平生を取り戻した、とも言えるのだった。しかし寮を去ったその張りつめた空気が数日もすると今度は大学に乗り移った、そんな気配があった。
マイクの死の翌々日にはボデガ・ベイから彼の両親がやってきて遺体搬送の手続きがとられた。共にふくよかで赤顔の夫妻は粛々とマイクの死を受け入れているようであったが、二人に付き添ってきたサン・フランシスコの大学のカウンセラーは終始口を真一文字に結んでいた。
「『ザ・バーズ』だけではなく」とカレン・ナカソネいう名のそのカウンセラーは言った。「『ザ・フォッグ』の舞台にもなったんです」
日系三世と言ったか四世と言ったか、それにしては日本語が流暢な女性カウンセラーだった。「ザ・フォッグ」の舞台にもなった、と言って学長、次に学生部長に向かって一瞬微笑んだので友好の証かとそれこそ一瞬思ったが、つかの間、「呪いにまつわる町なのですよ、ボデガ・ベイは」と笑みをさっと引っこめ言った日本人とは違う化粧をしたその四十代半ばの日本人のような女性は、「ね、あなた」と学生部長のほうに一瞥をくれたのだった。ジョークかと思い相好を崩そうとした彼女より一回り近く若い学生部長はけれども、カウンセラーの当たり前だがアメリカンで、このうえなくクールな視線にたじろぐしかなかった。そう、伏し目がちに汗で湿った両拳を膝の上で握りしめたその学生部長こそ、ボクだった。
「ワタシドモの大切な学生を一人、この国で失ってしまいました。四週間以内にリポートをまとめ、電子メールで送ってください。ウィル・ユー?」
最後だけ彼女は英語でそう言ったが、その「ウィル・ユー?」の語調はどちらかと言えば「ウィル・ユー!」に近く、ボクは動揺し、ひきつった表情を相手に見られたと思った矢先、学長がすかさず「イエス!」と返事をしていた。それにつられるようにボクも「イエス!」と返事をしたのだった。いっぽうミズ・ナカソネは、Tシャツの上に羽織ったキャメルのコットン・ジャケットの前を合わせるように、学長とボクの前で背を反らせたのだった。
早速翌日には学長命で学内に調査チームが設けられることになった。メンバーは、総合文化学部長の矢崎昭教授、マイクの身元引受人でであった英語コミュニケーション学科の尾崎茂学科長、臨床心理学専攻でマイクのカウンセリングの手配をした|(が、マイクが部屋から出ず実現しなかった)初等教育学部長の遠藤義男教授、それに学生部長のボク、学生部学生サポート課の職員二名だった。ちなみにボクは兼務職で二年任期の学生部長の職にある日本語日本文化学科の准教授で、前半一年の任期を終えたところだった。調査「チーム」と言っても、実際的にはボクとサポート課職員が教員や学生から聴き取りをして作成する報告書を、残りのメンバーが点検して完成させるといった業務分担だった。
「知りませんっ」と池田美保は苛立つように言った。短時間ではあるが警察に事情を訊かれ、級友からもこの間興味本位の冷ややかな視線を浴びてきたのだろうから無理もなかった。
「ごめん。いちばんの被害者はあなたかもしれませんよね」とボクは彼女に同情した。
美保はこの四月に三年生に進級した英語コミュニケーション学科の学生で、昨年九月にマイクがこの大学にやってきてからずっと、彼が学業に馴染むのをアシストしてきた。昨春に二週間だけではあったが、こちらからマイクの母校であるサン・フランシスコの大学に語学研修に行き、そこで当時はまだ日本への留学に関心がある程度だったマイクと二言三言会話を交わしたのが縁だった。いつもマイクの傍らにいたこと、そして何より彼女の苗字が警察や周囲の関心を惹いたのだった。そう、「ポンド」を日本語にすれば池田の「池」である。ボクの目からは、実年齢よりも二三才は若く見え、活動的で陰の姿が想像できない彼女は、男性といわゆる情交的なトラブルを起こすようには思えなかったが、マイクの死後何日かが経つと例の思わせぶりなダイング・メッセージ|(にとれはなくはない「Pond」)が、いきおい独り歩きを始めたのだった。
「わたしは、べつに被害者じゃ」と言い美保は唇を固く結んだ。
加害者呼ばわりをされるのはもちろんだが、闊達な美保にとっては被害者視されるのもまた不本意な様子だった。
「先生、ほんとうにわからないんです。暮れの学生交流委員会のクリスマス・パーティーのときにはいつもとぜんぜん変わりなくて大はしゃぎしていたのに、年が明けたら急にあんなふうになるなんて」
「年末はみんな里帰りしていて寮には人がいなかったのでしょ? ホームシックになったとか?」
「ホームシック? あのマイクが? わたしにはそうは思えません」
「確かにここの学生よりは大人っぽく見えますが、まだみなさんと同じ二十歳なのですよ」
「そーいうのじゃなくて、彼、タイプじゃないんです、ホームシックになるような」
「タイプ?」
「何か月か付き合っていれば、友人としてですよ、わかります。どう言ったらいいのかな、向こうの大学でも寮暮らしをしていたんですよね、うーん、悩みがあったとしたらやっぱり女性かな」
「でも、こちらに来てからは特定のガール・フレンドがいたとか、そうした噂はなかったのでしょ、あなたが疑られるくらいなのだし、あ、いや、失礼」
美保は、芝居がかった、いわば脱臼まがいの肩の落とし方をした。
「先生、わたしって、もしも、仮定の話ですよ、恋愛してたらそんなに意外ですか?」
事実恋愛をしていると見られたら真意ではないとでも言いたげな口ぶりでもあったが、実際、美保が周囲から好奇の目で見られていたのは彼女が、けして悪い意味ではなく、色恋沙汰に溺れるようなタイプには見えないからで、けれどもそのようにうわべで学生を見てしまい人格づけてしまうことこそが昨今の教育界にあって深刻な問題を引き起こす一因であることをボクも当然ながら、一教員としてわかっていた。
「で、マイクには付き合っている女の子がいたのでしょうか、ほんとうのところ」
「女の子? 女の子、女の子。さあ、わたしにはわかりません」
こしうた参考人聴聞をしばらく続けていかなければならないかと思うと、ボクはもはや学生部長職に食傷気味になっていた。つづまやかに分類すれば、問題ひとつなく学生部長二年間の任期をやり過ごせる教員と、相次いで深刻な問題に直面し続けて這う這うの体で二年間の任期を終える教員|(言葉を換えれば、あいつが学生部長になってしまったばかりに問題を呼び込んでいるとしか思えないと陰口をたたかれる教員)の二パターンがあるらしいが、どうやらボクは後者の公算が大きかった。
奏楽が始まり、ボクは教員席にいる共通教養部門の鈴木典道准教授の顔を認めた。近いうちに彼にも話を訊かないといけないだろう。ミズ・ナカソネへの報告書提出期限は三週間後となっていた。「女の子? 女の子、女の子」と美保は躊躇いがちに言った。鈴木准教授はボクよりいくらか年長の書道教員だった。上背の割に脂肪を全くと言っていいほど纏っていないいわゆる優男系だったが、学生の間ではおねえ系で通っていた。甲高い声、そして言葉遣いもさることながら、女子学生には対面で書道指導をするのに、男子学生には決まって背後から彼らの手に自分の手を添え指導をするという噂だった。そして、この大学に日本文化を学びにきたマイクも、鈴木准教授の「書道特殊実習」を受講していたのだった。檀上から表情を窺う限り、鈴木准教授に普段と変わりがあるようには見えなかったが、おねえ系の所作の内に隠蔽されているものがないとは限らない。ボクは大きく息を呑みあらためて檀上から会場を見渡した。町の文化会館を会場にして行なわれる入学式、卒業式の司会は学生部長の務めだった。
みなさんがたは、アベノミクスの恩恵を実感できているでしょうか。どこかで聞いたメッセージと思ったら、何のことはない、半月前の卒業式の式辞を学長は使いまわしていた。景気回復は一部の大企業だけ、多くの国民、ましてやこうした地方においてはおおよそ現実味を帯びていない。そうした中、みなさんがたの思いに地方再生がかかっているのです。学長は国際社会学部の創設とともに赴任してきた国立大学の名誉教授だった。二年前、学長選挙となれば外部から縁もゆかりもない人物をそのたびに担ぎ出してきたこの大学にあって、それまでの任用期間が短かったとは言え、開学来の生え抜き学長となった。経済系の人間らしく合理的な着想で次々に施策を投じているが、文化系の教員からは、独走しすぎ、教員とのコミュニケーションを決定的に欠いているといった批判が少なからずあった。この「地方」を重視するスピーチも、真に地域の利益を考えているわけではなく、もっぱら隣県にあるグローバル教育で全国に名を馳せている大学を意識したものだと誰もが受けとめている。
その学長のスピーチはいつしかマイクの話題に及んでいた。教員席からの舌打ちが聞こえるようだった。なにしろ目出度い席の目出度い式辞のはずなのに、さきほどからネガティブな話題ばかりだった。学生にむやみに上昇志向を植えつけるスピーチも困りものだが、さすがに華やかな座で「死」が扱われると真意を疑いたくさえなった。ボクを含む教職員は学長の話の成り行きを見守るしかなかったが、本学は対話のある大学です、悩みや不安があれば、一人で抱えこまずに何でも教員に相談してください、と学長はどうにか、マイクを引き合いにだした話を破綻せずに収めたのだった。コミュニケーションを心がけるべきなのは他ならぬあなたじゃないのか、という声がこれまた教員席から聞こえてきそうではあったが。
と、そのとき、会場の一端から突然女性の嗚咽があがり、病の発作ともとれる場違いな轟音に学長の式辞は途切れ、会場を埋め尽くす人々の視線は一斉にその右前列にいる女性へと注がれたのだった。むろんボクは彼女が誰だかを知っていた。たった今の学長の話が彼女の琴線に触れたのかもしれなかった。それにしても、ここにきてこの入学式は確実に破綻してしまうのではないか、ボクは一瞬そんな危惧に身を震わせたが、すぐさま学生サポート課の女性職員が彼女の肩を抱えて会場から連れ出したので、多少場はざわついたものの、ほどなくして学長は誰かに向かってというわけでもなく一礼をし、式辞を締めくくった。落ち着きを取り戻す座の空気を感じながら、ボクの耳には彼女、寮母の沼田百合子の嗚咽の残響がいつまでもあったのだった。
「珍しいですよね」と初等教育学部で美術を教える佐山忠弘教授は言った。「近ごろはめっきり研究室に来る学生が減った、どころか、教員間の交流も希薄になった。ついこの間までは、わからないことは、図書館に行くとか、こうして先生のように教員に訊くとか、自分の足で解決しなきゃない時代でした。ほんと、誰も訪ねてこないもんだから、イマイ話題からも疎遠になるし、ランデ・ヴーのチャンスもなくなった」
なきゃならないの「なら」を省くこの地域特有の言い回しに、東京出身のボクはいっこうに馴染めなかった。
「いまい? あと、らんでぶー?」
「おっと、どちらも旧聞に属するボキャッブラリでしたか」と佐山教授はとぼけ、煮詰まっているのが見た目でわかるコーヒーをボクに勧めるのだった。「で、何の話でしたか?」
鈴木准教授や沼田百合子をさしおいて訪ねた研究室なのに、ここまでの時間はまるで無駄だったことになる。
「ベラスケスです。『ラス・メニーナス』。ウェブではいちおう調べてみましたが、文学畑の人間にはうまく理解できなくて」とボクはコーヒーを啜る振りをした。
「そうそう、ヤンキーの机に残されていた絵画のことでしたね」
「先生、マイクは、アメリカ人という括りだけで言うならですが、前にアクセントのあるヤンキーです。語尾にイントネーションをもってくると、別の人類を意味します」とボクは、前にアクセントのあるヤンキーももはや旧聞だとわかりつつあえて忠告した。
「ああ。このへんにもわんさかいる、例の、軽自動車なのにマフラーをやたらと太くして乗っている、あの小癪な連中のことですね」
何が「例の」で「あの」なのか不明だったが、それだけが小癪な連中の符牒ではない、と言おうとしてボクは諦めた。いっこうに話が前に進まない。
「例の、あの、『ラス・メニーナス』について詳しく教えていただけるとありがたいです」
「おうおう、そうそう。それにしても」と佐山教授は身を乗り出しボクの顔を蚤とり眼で見るのだった。「先生、実によく似てらっしゃいますな。みなさんが一様に言われるのももっともだ。お顔のどこかのパーツがぴたり、というわけではないけど、全体的な雰囲気が」
実によく、話が逸れるのだった。
「似ていると言われるのがいいことなのか、どうなのか」
「もちろんいいに決まってますよ。なにしろ今をときめく有名人なんですから。ねえ、ニシゴリケイ先生」
「はあ」とボクはこれ見よがしの溜息をついた。「『ラス・メニーナス』は」
「おうおう、そうそう」と佐山教授は何かを思い出したかのように膝を打つのだった。「あらかじめお断りしていきますが、ヤンキイ、いやヤンキーが亡くなってから、先生がお二人目なのですな、『ラス・メニーナス』のことをお訊ねになるのは」
「私の前にも? どなたが?」
「はあ。いかんせん、人ひとりが亡くなっている案件ですので、軽率には言えません。プライバシもあるでしょうし」
「プライバシ」はどこかの橋のようだった。
「けれでも、その方がここをお訪ねになられてからわたくしも少々勉強しましたので、先生にはより濃い情報をお伝えできると思います。ここからのお話は瞠若ものですよ。ラッキイですな」
そして佐山教授の『ラス・メニーナス』講義が始まったのだが、それは瞠若ものどころか、過不足のないウェブ情報だった。
「ラス・メニーナス」は宮廷画家ディエゴ・ベラスケスが一六五六年ないし五七年頃に描いた作品と言われる。絵画に描かれる「部屋」の中央には一人の幼気な少女がいて、マルガリータ王女とされる。彼女から見て右手、絵画正面から見れば左手に一人の侍女(マリア・アグスティーナ)がいて王女の横顔を窺っている。逆の側には別の侍女(イサベル)がいて、彼女の視線は王女ではなく「こちら」側|(この絵を観る側)に向けられている。その背後には女官らしき女性が二人(マルセラ・デ・ウリョアとネルバル)、またその傍らには犬(モーセ)を足蹴にする少年|(小人のニコラス)ともう一人のやや年かさの小人の女性(マリバルボラ)がいて、さらに奥の扉からは男性執事(ホセ・ニヒト)がやはり「こちら」に視線を送っている。そして絵画に向かって左手には巨大なキャンバスが立てかけられ、それを前に、絵筆とパレットを手にしたベラスケス本人とされる男がこれも「こちら」を向いている。
問題は、王女の頭の背後にある鏡だった。そこには二人の人物が映し出されており、それはマルガリータ王女の両親であるフェリペ四世国王夫妻とされる。つまり、この絵が構成するシチュエーションは、ベラスケスがアトリエでマルガリータ王女の肖像、ないしは王女を中心とした光景を描いているその最中にフェリペ国王が訪ねてきた、まさにその瞬間、ということになる。絵画世界の中にいる多くの者が「こちら」側を見ているが、「こちら」にいる者とは絵を現在のこの時点で絵を観る者ではなく、過去のその時点に存在した国王夫妻ということになる。ということは、この絵画は、本来絵画とその鑑賞者が交わす本質的な契約を欠いていることになる。絵画の中に一人の人物が描かれているとして、その視線がこちらを向いているとすれば、それは描き手を見ているのと同時に今この時点でその絵画の前にいる鑑賞者をも見ていることになり、描き手の視線を鑑賞者が共有するというのが、こうした絵画における通常の「契約」だった。ところが、「ラス・メニーナス」では、鏡に国王夫妻を映し込むことにより、鑑賞者に描き手と同質の位置に立つことを拒んでいた。描き手と同じ位置に立つためには現在の鑑賞者は一七世紀スペインの国王夫妻になりすまさなければならない。これはいささか厄介だった。さらに厄介なのは、本来画家ベラスケス本人は絵画に描かれる世界の外側にいて、鑑賞者と同じ視点から彼のアトリエの様子を見ているはずなのに、こともあろうか、その彼が、彼が描く絵の内側にいて「こちら」を見ているのだった。ミシェル・フーコーが言うには、そのように国王やベラスケス本人が、絵画に面と向かってそこから自ら絵画との関係を結ぶという鑑賞者の主体的行為を代行、はたまた奪ってしまうことによって、絵画空間そのものは自己完結を来たす。ようは、この部屋が抱える符牒は「密室」――というのが、佐山教授がボクに披露した「ラス・メニーナス」をめぐる知識だった。なんども言うが、それだけならわざわざ大学教授の研究室を訪ねなくてもウェブで用が足りたのだった。
「で、ここからは、ワタクシがこの絵に見出した謎です」と教授はボクのそんな思いを見透かすように言った。「今いちど、よおくご覧になってください」
佐山教授は美術全集の頁を開きボクに差し出した。
「ほら、いますよな、ベラスケス」
ボクは目をすがめたが、認められるベラスケスと言えばやはりキャンバスの前で絵筆を持つ髭の男だけだった。
「おわかりになりませんか、マルガリータ王女の視線」
「というと?」
「微妙に違うでしょう。右隣にいる侍女の視線とも、背後にいる絵の中のベラスケスの視点とも」
そう言われてみると確かに、王女の顔の向きもあるが、否、王女の身体の向きからするとその首の捻りかたがいささか不自然で、絵の中から「こちら」側に目を向けているとして、侍女やベラスケスに比べ、王女は心なしか左前方を見つめていて、その視線は鏡に映った国王夫妻と交わっているようには見えないのだった。美術全集から顔を上げたボクに佐山教授は小賢げな笑みを投げた。
「ベラスケスですよ、いますな、そこに、ちゃんと。絵画の外にいて、そこからこの絵を眺めるようワタクシたちに教えてくれている」
ということは、鑑賞者がこの描き手の視点に立ちこの絵と向かい合うとき、左手にはフェリペ四世国王夫妻を従えていることになり、国王夫妻が現前にある部屋の現実の光景と、傍らにいる自分のキャンバス上の描かれた光景とを交互に見比べている、そんな場を擬似体験することになるのだった。なにより王女の目は両親ではなく、画家に注がれており、だからそれは両親よりも画家が強い視線を彼女に向けている、その証に他ならなかった。はて、ウェブではこうした解釈は見当たらなかったが、佐山教授のオリジナルの解釈だろうか。
「つまり、これは密室ではない、と」とボクが言うと、佐山教授はいくらか怪訝そうな目つきをしたが、すぐに表情を緩め、咳払いをひとつした。
「先生は今回のお立場上しかたはありませんが、探偵目線になられますな」
「あ、いえ、確かに。すみません」
「いえいえ、謝られることはないですよ。前にいらした方も同じようなスタンスでしたし」
いったい誰なのだろう、とボクはあらためて訝しがった。マイクの机に「ラス・メニーナス」が残されていたのを知っている人間は限られていた。けれども、その中の誰かが佐山教授をすでに訪ね、マイクの死と「ラス・メニーナス」の関係を話したのに違いなかった。レポートをしたためる実働班として動いているのはボクと学生サポート課の職員二人だけのはずだった。その職員からは、佐山教授を訪ねるどころか、「ラス・メニーナス」を調べるといった報告すら受けていなかった。あるいは調査委員会のメンバーから情報が漏れ、それを聞きつけた人間がにわか探偵よろしく興味本位で動いているのか。
「いいですか、先生」と佐山教授は話を続けた。「とすれば、この絵の中でベラスケス然として絵筆を持っているこの男は何者なのか、そうした問いが当然湧いてくるのですよ」
気を取り直す多少の間をおいて、ボクはもういちど美術全集に視線を落とした。
「ああ。ベラスケスとされてきたこの人物は、実のところベラスケスではなかった、と」
「はい。その可能性も。むろん定説通り彼はやはりベラスケスで、ベラスケス自身がベラスケスのいる光景を俯瞰している、そうした夢世界的な視座も否定できはしませんが」
定説からすれば、この絵画には空間的座標軸と自己中心的座標軸の両方が混在することになり、それが認知障害のような神経医学分野でもこの絵が注目される理由にもなっていた。しかしもし絵画の中にいる画家がベラスケス自身でないとすれば、そうしたこの作品へのアカデミックな関心が藻屑となるのは言うまでもない。
「ありがとうございます、先生。すごく勉強になりました」
「故人は死を前にこの絵と向き合っていたことだけは確かでしょうな。いざ人ひとりが死を選択するとなれば、何らかの痕跡が残ると思ったほうが自然です。そりゃまるっきり周囲が理解できない、そんな自死も稀にはあるにはあるでしょう。だが幸いなことに、ことマイクさんにおいては、ある意味ちゃんと、手がかりを残して逝ってくれた。寂滅の傍らに、いかにもといった具合に置かれていたのですし、これは九分九厘彼の死にかかわる何らかのメッセージだとワタクシは考えます。あるいは――」と佐山教授は足を組み直しこめかみをこねた。
「あるいは?」
「あるいは、先生もおわかりですよね。マイクさんの死の原因をカモフラージュするために誰かが意図的に置いた。ポンド、でしたか、筆跡はいかがでした?」
「ご両親も親しかった学生も、彼の字に間違いない、と。癖のある字でしたし」
「そうですか。となるとますます置き文っぽく見えてきますな」
人を探偵呼ばわりしながら、むしろ佐山教授のほうが探偵ゲームに興じているのは明らかだった。
「どうもありがとうございました。たくさんヒントをいただきましたし、報告書が出来上がった折には先生にもお目通しいただければと思います」
「『池』に関係する人たちは当然お調べなんですよね」
「はい。私とサポート課の職員とで手分けしてあたっています」
「そうですか。たいへんなお役目、ご苦労をお察しします。お力になれることが他にもありましたら、どうか遠慮なく」
ボクは佐山教授にあらためて一礼をし、研究室を辞した。ニシコリ選手は濁らないんです、とは、結局言えずじまいだった。
予定では次に話を聞くのは沼田百合子だったが、ほとぼりが冷めるのを待ったほうがよさそうだったので、ボクはもういちど学生寮のマイクの部屋を見分することにした。沼田百合子を刺激しないように、寮母の彼女には内緒で、学生サポート課の職員に部屋を開錠してもらったのだった。
学生寮棟はキャンパスの西のはずれにあった。講義室や教員研究室が集まる大学中央棟からは歩いて十分ほどの距離になる。建物の入口はひとつだが、正面玄関から入って向いがホール、右手がメールボックス、そして左手には男子部屋、女子部屋それぞれ別のオートロック施錠の入口があり、その先のエレベーターないしは階段で、十階までの居室に出入りする構造になっていた。つまり、建物の内部は男女二層構造になっていて、どちらも外部からのアクセスは制限されている。学部構成上、女子学生の比率が高く、男子室が百室なのに対し、女子室は三百室あった。この何年かは、毎年ほぼ満室の状態が続いている。入館料が七万円、個室使用料は共益費、朝夕食費込みで月六万円、冬場には暖房費が上乗せされる。交換留学生には入館料が免除されていた。
居室は十畳ほどの広さで、扉を開けるとすぐにユニットバスがあり、先に進むとベッドスペースとなる。手狭な空間を少しでも有効に使うために、ベッドは床から梯子で昇る構造|(まわりくどく言えば二段ベッドの一段目がない構造)になっていて、マイクはそのベッド・フレームにタオルをかけ首を吊っていたのだった。突き当りは窓、それを挟むように小さなキッチン・スペースと勉強机とが背中合わせに配置されている。ありふれた寮個室だったが、大学校舎より築年が浅く、さらに校舎棟はいちばん高くても五階どまりで、寮棟じたいはキャンパスの若きおおみつけ役とでもいった風情だった。
八階の部屋には倦んだ空気がまだ残ってはいたが、マイクの所持品はすでにすべて処分されていて、ついこの間まで主がいた部屋というよりは、新たな主を今や遅しと待ち構えている部屋のようだった。ボクは「ラス・メニーナス」が置かれていた勉強机まで行き、その表面を指でなぞってみたが、うっすらとすら埃は積もっていなかった。誰か――と言ってもそれをする人間は一人しか思いつかなかったが――が、定期的に部屋を清掃しているのに違いなかった。佐山教授は「ラス・メニーナス」がマイクの遺書の類だと断定したが、果たしてマイクの死につながるものが本当にあっただろうか、とボクはあらためて神経を研ぎ澄ました。「ラス・メニーナス」に書き込まれた「Pond」。それはやはり「池」としか解釈できない。池田、池内、池尻、池山。学籍簿上で名前に「池」がつくのはその四通りで、学生数にすれば七人だけだった。女子が四人、男子が三人。そのうち男女それぞれ一人はマイクとの接触がこれっぽっちも認められなかった。残る五人のうち池田美保を含め三人への聴取は終わっていて、いずれもマイクの死に至るような深い関係性を見いだせていない。池尻優香、池山崇志。未聴取の二人にも一両日のうちに学生サポート課職員が面談をする手筈になっていた。むろん「池」は人名とは限らないし、また、人名であったとしても学内の人間に特定されるとは限らない。実のところ、管理課の職員が大学構内にある三つの池をさらっていて|(関連調査としてではなく、例年通り雪のシーズンが終わる時期の大清掃だったが)、あるべきものがない、あるいは、あってはならないものがあるといった異常は発見されていなかった。マイクの行動範囲を大学の外にまで追い、片端から池をさらい、あるいは「池」のつく人物を探し出していくのは非現実的だし、そんな人的余裕は当然ながらなかった。とはいえ、ミズ・ナカソネを納得させるためにはメッセージ解読がひとつの大きなポイントになっていることは動かしようがなかった。だからボクは、何らかの「池」情報が浮上してくるのを、ある意味、期待してもいたのだった。ただし、「池」が名前につく学生がマイクのいじめに関わっていたといった類の情報が露見するようなことがあれば、その先がますます面倒なことになることも、もちろんわかってはいた。
開けっ放しにしていた扉をノックする音がして振り返ると、戸口に見覚えのある顔があった。
「あなたは確か――」
「はい、初等教育学部の山口孝彦です。去年、先生の授業をとっていました」
日本文化学類の教養科目で毎年二百人を超える受講者があるのだが、大教室のいちばん前に陣取り、授業の半ばで決まって十五分ほど居眠りをしていたので、その顔は記憶によく残っていた。
「ありがとうございました。単位を出していただいて」
「単位を出してあげたわけではないと思うよ。試験できちんと及第点をとったのでしょう」
「でも、先生の採点は甘いって噂だし」
「本人はそういうつもりはないけど、ところで、寮生だったんだ」
「はい」と頷き、山口孝彦は隣室を指差した。そちらの住人ということらしい。
「今日は? 授業は?」
「午後からです」
「それで、私になにか?」
「先生、ここなんですけど」と山口孝彦は、やおら部屋の床を指差した。「女性が出入りしてました」
ボクの表情は一瞬強張ったが、すぐに気を取りなおした。
「生活に慣れるまで寮母さんが付ききりで面倒をみていたと聞いていましたが」
「いや、沼田さんの声じゃなかったと思います。それに、沼田さんは用がなければ男子棟には入ってこないっす。マイクともいつもロビーで話してました」
「そうですか。それで君が耳にした声というのは、若い女性?」
それが沼田百合子でなければ、学生であることを予期してボクはそう聞いたのだが、山口孝彦は考える素振りすら見せずに首を振り、心なしかボクの顔を覗きこんだ。
「違います。二十代後半とか三十代とか、もう少し上かも」
それは「女の子」ではないのでは、という池田美保の直感とも符合していた。
「その人に心当たりは?」
「ない、です」
「女性はどうやったらこちら側に入れるのでしたっけ?」
「住人が部屋のボタンで開錠すればいいだけです」
ようはオートロックのマンションと同じ構造で、部屋からボタンひとつで電気錠を開けられるのだった。
「で、どれくらいの頻度で『訪問』があったのかしら」
「年明けまで週に一回か二週間に一回か。その後はぱったりなくなって、そうこうするうちにマイクの様子がおかしくなった」
「それでも、下からここまで誰にも気づかれずに上がってこられますか?」
「自分の場合は二回に一度くらいかな、エレベーターで他の寮生と顔を合わせるのは」
「それじゃあ、五十パーセントの確率で誰かに出会ってしまうということじゃないですか」
「はい。確かに」
「では、この寮でその女性の存在に気づいている人がいるのでは?」
「さあ。ウチの学生って、優しいっていうかなんていうか、気づいてても他言しないところがあるし」
「うん、あるよね、そういうところ。でも、食堂とかでひそひそ話くらいにはなるでしょう、そんなことがほんとうにあったら」
「先生、もしかして俺の言うこと疑ぐってますか?」
その時点ではマイクは日本に来てまだ三か月足らずだったわけで、行動範囲も限られていたはずだった。とすればおのずと、その「女性」は大学関係者の公算が濃厚になる。
「いえいえ。そういうわけじゃ。で、どうかな、ここの住人から噂みたいなのは?」
「う~ん。聞いたこと、ないっす」
山口孝彦は真剣な素振りで思いを巡らしそう答えると、肩口から部屋の入口を振り返った。ボクは成り行き上、山口孝彦を押しのけるように、反射的に駆け出していた。外廊下からはっきりと靴音がした。扉は開けられたままだったので、それまでのボクと山口孝彦の話を立ち聞きされていたかもしれない。
「ちょっと待って」と廊下に飛び出し、ボクはその男の背中に声をかけた。
男はまるで、ボクの制止を退ける度胸も逃げる妙案も持ち合わせていないといったように、率然とたたらを踏んでその場に立ち止まった。顔をこちらに見せるまでもなかった。
「ちょうどお話をうかがおうと思っていた折です」とボクは振り向きざま半身になった男に声をかけた。「鈴木准教授」
「鈴木准教授」とボクはもういちど呼び、続けた。「どうされましたか、というより、その前に、どうやってここに入ってこられましたか?」
「先生」と口を挟んだのは山口孝彦だった。「オートロックつっても、先生たちだったら顔見知りの学生の部屋を訪ねるのはフリーですから。ましてや――」
「ましてや?」
「こっちは男子棟っすから、鈴木先生が入ってくるぶんには……」
山口孝彦の口ぶりには明らかに鈴木准教授の素性に対する胡乱な思いが含まれていた。
「ははん。本来はここにいらっしゃる目的で、でもその前にわざわざ寄り道をしていらしたと」
ボクがそう言うと、鈴木准教授は何かに怯えるように肩をすぼめたのだった。
「先生、マイクの生前にもちょくちょくここにいらしてましたか?」とボクは思い切って訊いてみた。
「ちょくちょく、というわけでは」
「山口君、ちょっと」とボクは耳打ちをした。
「で、鈴木先生、どうしてこちらへ?」
ボクのその質問を背で聞きながら山口孝彦は部屋から出ていった。鈴木准教授が疑わしそうにその動きを見送った。
「いえ、あの、実はわたし、マイクに貸していたものがありまして」
「それを回収しにいらしたと?」
「回収しになんて、人聞きが悪い」
「だって現に、正面からではなく、こそこそと裏口から入っていらしてるじゃないですか」
「それは、その、あの」
「何か知られたらまずいものでも?」
「いえ、ですから、それは、あの」
「先生、どちらにしても、マイクの持ち物はこの通り綺麗さっぱり片づけられています。プライベートなものは親御さんが持ち帰られたかもしれませんし、処分されたかもしれません。判断がつかなかったものだけ寮母さんが保管されていると思いますが」
「そのようですね」と鈴木准教授は言い、心なしか懐かしむように部屋をぐるりと見回した。
ここで見つかってしまったことで、マイクの遺品の中には鈴木准教授に関係するものが含まれていた、あるいは含まれていることが知れてしまったことになった。こうした行動を起こしていなければ、万一不審なものが含まれていても、出元が彼にまで辿られることはなかったかもしれない。
「失礼ですが、先生、マイクとはどのような間柄でいらしたのでしょう」
「あいだがら、なんて、そんな。共通の趣味があって、たまにお話する程度でした」
「先生は英語を?」
「片言ですけど。けどマイクは、これも勉強だからとだいたいは日本語でやりとりしていましたが」
鈴木准教授の所作は同性愛者を強く意識させるほどのものではなかったが、ただし、そうした先入観をもって接すれば、口調といい、目の伏せ方や息を吐くときに漏れる細い声といい、そのことに疑いの余地はないように思われた。
「その共通の趣味というのをお伺いすることは?」
さすがにボクのその問いには鈴木准教授の顔に警戒の色が浮かんだ。
「プライバシーにかかわることですので」と鈴木准教授は予想通りの返事をした。
「その通りですが、いずれ寮母さんの手元に残っているマイクの所持品のリストを公開することになると思います。借用品があれば持ち主に返却して差し上げるのが筋ですし。事前におっしゃっていただければ、現品をお返ししてリストから除外しておくこともできますけど。先生のご所望しだいです」
鈴木准教授は目を潤ませてボクを見つめ、ボクが見つめ返しているうちにやがて苦渋を滲ませた表情になった。
「少し考える時間をいただいてもよろしいでしょうか」
これもまた予想通りのリアクションだったが、ボクのオファーを断れば後々問題になるとも限らなかった。もちろん、リストが公開されても白を切ることはできたのだ。名乗らなければ、それで済む。けれども彼がこれほど動揺するということは、よほど大切なものなのか、あるいはリストに載っただけでそれが鈴木准教授のものであることが容易に特定されうるものであるのに違いなかった。
「承知しました。なるべく早いほうがいいと思いますが、結論が出ましたらお知らせください」とボクは言い隣室の山口孝彦を呼んだ。
じきに、首を傾げながら山口孝彦が再び部屋に戻ってきた。
「山口くん、どうだったでしょう」
素振りからは確信がないのは明らかだったが、ボクがそう尋ねると鈴木准教授が訝しげに山口孝彦の顔を覗きこんだ。
「そうだったような、でも、違うような」と山口孝彦は消え入りそうな声で答えた。
「どういうことなんでしょう、先生。わたしをお試しになられている?」と堪りかねた態で割りこんできたのは鈴木准教授だった。
「いえ、この部屋に女性らしき人物が出入りしていたらしいのです。その声を彼が壁越しに聞いていたので、確認してもらったまでです。もし先生の声だとわかれば、これ以上よけいな詮索、というか調査をしなくても済みますし。ところで、先生のほうは心あたりがおありになりませか。先生の他にもここを訪ねていた人物がいたのかもしれません」
「さあ」と吐き捨てるように即答した鈴木准教授は、もし自分以外の誰かがこの部屋の空気を共有していたとしたら不快極まりない、とでも言いたげだった。その意味では、鈴木准教授にはかなり脈がありそうだった。
「先生、今いちどお訊ねしますが、年明けからマイクが変調をきたしたことに何か思い倣されることは」
「ここや大学の食堂で学生たちに集音マイクを突き出して自分が噂になっていないか確かめようとしていた、という例の件ですか」
「むろんそれはひとつの顕著な症状にすぎませんが、そのことも含めた不調の、そのきっかけについてです」
「暮れにファカルティ・デベロップメントの研修会がありましたよね。その日、たまたま学食で彼を見かけたので声をかけたら、普段とは変わりはないように思いました。翌日から帰省して、授業が始まる直前にこちらへ戻ってきましたが、大学でいっこうに姿を見かけないので案じていたらあのようなことになっていて」
「先生は熊本でしたっけ? 帰省されている間にマイクと連絡は?」
「クリスマスと新年のメッセージ程度ならメールで」
「両方ともマイクから返信があった?」
「いえ、クリスマスはマイクからわたしに先にメッセージがあって、正月はわたしからマイクに送りましたが、彼から返事は……」
「そして、返事がないうちに、返事をしようもない状況になってしまった」
「まあ、そういうことになりますか」
鈴木准教授は何かを追うでもなく窓の外を見つめた。
「先生、ひとつお訊ねしますが、ベラスケスの『ラス・メニーナス』はご存知でしたか?」
鈴木准教授が思いのほかの反応を示したのでボクはかえって当惑してしまった。なぜその絵のことをあなたはわたしに訊くのか。彼の驚愕に満ちた表情にはその問いがあった。
「ああ、失礼しました。先生だけではなく、つまり公表はしていないのですが、ここに」とボクはマイクが使っていた机の表面を指差した。「『ラス・メニーナス』が置かれていたんです。もちろんプリントですが、マイクが首を吊ったときに」
「そ、そうでしたか」と鈴木准教授は冷静に振る舞おうとしたが、彼の揺らめきは隠しようがなかった。公表していないとはいえもはや学内に知れ渡っている「ラス・メニーナス」だったが、鈴木准教授にその情報が届いていないらしかった。マイクとの関係を勘ぐり周囲が彼にそれを伝えるのを躊躇ってきた、そうしたこともじゅうぶんにありえた。もうひとつだけ。もうひとつだけ条件が整えば、とボクはひそかに念じたのだった。
「いったいあの絵の何が先生をそれだけ慌てさせているのでしょう?」
「なぜって、それは先生の口からいきなり『ラス・メニーナス』がでてきたものですから」
「マイクの死に関連があるかもしれませんのでお話を伺っても?」
「あくまでそう見る人がいるという話ですが」と鈴木准教授は観念したかのように話し始めた。「あの絵で、ベラスケスはどこにいるかということです」
佐山教授はマルガリータ王女の視線の先にこそベラスケスがいると持論を語ったが、鈴木准教授は、画家ベラスケスは絵の中でベラスケスとされる男の視線の先にいるのだ、と言った。その画中のベラスケスはマルガリータ王女とは別の視線、つまり女官や侍女たちと同様にフェリペ四世国王夫妻に注がれているようだが、実は絵の中の鏡には映りこんではいないものの、国王の傍らに画家ベラスケスがいて、絵の中で最も重要なのは画家ベラスケスが誰を中心にこの絵を描いたかということであり、佐山教授説ではそれはむろんマルガリータ王女になるが、鈴木准教授説|(あるいは少数派ながらそうした見方をする人々の説)では画中のベラスケスということになるのだった。その根拠は、画中でベラスケスとされる人物がいったい何を描いているか、それは「こちら」側にいる人物に他ならない、そして「こちら」側にいる人物とはこの絵を描いている画家ベラスケスに他ならない、ということになる。したがってそれは、二人の男がそれぞれ相手の男を描き合っていることになり、ここまでの話を聞けばその先の「解釈」が容易に想像できるが、同性愛関係こそがこの絵の鍵であり、画中のマルガリータ王女や女官ら、その他の人物はそれを扮装する存在にすぎない、そう鈴木准教授は言い切ったのだった。そしてそのことは、画中の画家がベラスケスではないことを敷衍する有力な論拠にもなりえた。画中で絵筆を持つ男がベラスケスでないとすれば、誰か?――それは画家ベラスケスの愛人である、と。
「それで先生はマイクと『ラス・メニーナス』のそのお話を?」
「いえ」鈴木准教授は顔を赤らめてかぶりを振った。「門外の知識をたとえプライベートといえども学生に伝えるのは憚られます。あくまでわたしの専門は書道です」
鈴木准教授は研究者然としてそう言った。けれども「ラス・メニーナス」にそうした見方があったとすれば、偶然のようでいて、しかし実は必然的にその絵が二人を引き寄せていた、そう考えることもできるのだった。ボクは「報告書」の文案を頭に刻んだ。もうひとつだけ。それさえつながれば――。
「先生、最後にお伺いしますが、先生は『POND』という言葉に何かお心当たりはありませんか?『ポンド』、『池』です」
「『池』、ですか。それがマイクと何か?」
「はい。この机の上にあった『ラス・メニーナス』にアルファベットでピー・オー・エヌ・ディー、『ポンド』と書き込みがあったのです、マイクの筆跡で」
「間違いなくマイクの字だと?」
ボクが頷くと、鈴木准教授は腕組みをして天井を見上げた。ボクと山口孝彦もその視線の先を見つめ、鈴木准教授の回答を待った。
「覚えがありません」とやがて鈴木准教授は言った。「『ポンド』にも『池』にも」
その立ち振る舞いや言葉に偽りはないように思えたが、ボクは再度問いただした。
「もういちどよく思い出していただけませんか。マイクとのやりとりの中に関連するようなキイワードがなかったか」
「先生は」と鈴木准教授はため息をついた。「やっぱり彼の死、否、それ以前の彼の不調にはわたしが関係していると思われている」
「現時点では何も断定できません。あらゆる可能性を検証しているところです」
「さきほども申し上げたように、暮れに帰省している間にマイクはおかしくなってしまったのです。わたしにはそのわけがわかりません。それを重ねてお断りしたうえでもういちど言います、『池』も『ポンド』もわたしとは一切係りがありません」
鈴木准教授の弁はきっぱりとしていて、ボクにそれ以上の追及を躊躇わせた。ここでいったん引き下がるしかなかったが、それでも「ラス・メニーナス」に秘められた暗号がこの場で明るみになったのは大いなる収穫だった。
中央棟に戻り午後からの演習科目の準備をしようとコピー室に入ると、近くの教室から英語コミュニケーション学科の松永大輔教授の授業が聞こえてきた。受講者が三百人を超す教養科目でもマイクロフォンを使わず地声でやり通す大声の持ち主だったが、小教室の授業でもそのポリシーは一貫していて、向かいや隣室で講義をする教員から、集中できないと教務課に教室変更要請が出ることもしばしばだった。相変わらずだ、とボクは苦笑しコピー機にオペレーション・コードを入れようとしたその矢先、松永教授の学期冒頭の講義に引き込まれることになった。ボクはコピー室を出、抜き足で講義室に近づいた。そして扉越しに松永教授のバリトンに耳をそばだてると、頭の中で思考がめまぐるしく回転し始めた。そのまま扉を開け講義室に入ってしまうところだったが、辛うじてこらえ、けれども講義終了のチャイムが鳴る前にボクは矢も楯もたまらず松永教授の研究室を目指したのだった。
授業に熱が入ったのか、松永教授は十分以上経ってようやく研究室に戻ってきた。
「おやおや先生、お待たせしましたかな?」と松永教授はやはり大声で言い、失礼、とボクの正面に立ちはだかって研究室の鍵を開けた。「どこぞの国立大の学長さんが、スマフォやめますか、それとも学生やめますかって入学式で言って賛否両論、みたいなニュースがあったじゃないですか」
こちらから研究室を訪ねているわけだから当然要件があるのをわかっていながら、何はともあれ自分の話題を持ち出す、というのはよく知られた松永教授の行動パターンだった。
「一理あると思うのです、ワタシは、あの話」と言いながら、松永教授は手を差し延べボクに研究室に入るよう促した。「このあいだのオリエンテーション・キャンプ、新入生の行動を観察していたら、バスの中でも研修所のホールでもずっとスマフォをいじってるんですな。周囲にこれから四年間の友になるかもしれない人間がいるにもかかわらず話そうとしないんです。そして放そうとしない、スマフォを。ワハハハ。いいんですかね、リアルな世界で友達ができなくても、バーチャルでもなんでもどこかで誰かとつながってさえいれば、昨今の若者は」
入れと招かれたものの、松永教授の研究室は床一面から天井へと本がうず高く積まれていて、その頂上にはさらにプラモデルが置かれていたりして、どこをどう歩けばよいものやら、そしてひとまずどこに落ち着けばいいものやら、皆目見当がつかなかった。見かねた教授がボクを追い越し、後についてこいと言わんばかりに屈折した歩行ルートを示しながら奥のデスクに近づくと、ボクにスツールを差し出した。積まれている本に触れないよう、ボクは慎重にそれを床にセットし、腰かけた。
「先生、ところで」と、松永教授が机の上の弁当を引き寄せたところでボクは話を切り出した。
「失敬、失敬。ご用がおありでしたな」と言いながら松永教授が弁当の包みを持ち上げたのでボクは頷いた。じきに部屋がソースの匂いで充ちた。
「前の授業で『木』のお話をされてましたよね。すみません、通りがかりに聞こえてきたものですから、つい廊下から講義を立ち聞きさせていただきました」
「『木』? ああ、ツリー、ウッド、ボードの話のことですな」
「はい。はえているものがツリー、伐採され断片になったものがウッド、さらに板状になるとボード。英語では三通りの言い方をするけど日本語では、ボードは『板』とも呼ぶけれども、基本的にはどの形状、状態であっても『木』で言い表すことができる、という」
「はいはい。もちろん逆に、日本語のほうが語彙が多い例もあります」と松永教授はボクから切り出すまでもなく、訊きたかったことを話し始めてくれた。「兄弟姉妹なんていうのがそうですな。英語でそれらに相当するのは『ブラザー』『シスター』で、ふつうは、どちらが上でどちらが下かは言葉に含意されない。さらに英語には『兄弟姉妹』をすべて表す『シブリング』などという言葉があったりする。こうなるともう、上か下かどころじゃなく、男か女かさえ含意されないということになります」
「北極圏に暮らす人々の中には『雪』を表すのに二百もの単語を持ち合わせる部族がいると聞いたことがあります」
「二百はちょっと大袈裟でしょうが、確かにわれわれよりはるかに多い『雪』の語彙を持つ部族はある。で、ワタシが問題としているのは、どうして言語間においてそうした語彙種数の差異が生じたのかという、その原理ではなく、自分が生まれた土地の言語によってわれわれ人間の世界の見え方が異なってくるということです。たとえば日本人の場合は、『兄弟姉妹』という言葉がある言語を生まれたときに選択せざるをえないわけです。だからその後、家庭内でいつも傍らに暮らす人間が自分より目上か目下かを意識しなければならない世界から逃げられなくなる。けれども、英語では上下どころか男女さえも意識しない家庭という世界というか空間がありうる。もっと言えば、両親をファースト・ネイムで呼びさえするのですから、『父』『母』さえ意識しない家庭という空間がありうる。そうした理解なしに、日本人がアメリカ人に対して、君のブラザーは君より年上なの年下なの、なんてしつこく尋ねることは、われわれにとっては当たり前でも向こうにしてみれば、なんでそんなにこだわるのか、という行き違いを招きかねない、つまりそういうことです」
松永教授はポットから急須に湯を注ぎマグカップに茶を入れた。何年か前に奥さんを亡くしてからは毎日自分で弁当をつくり大学に持ってきている、以前そんな話を聞いた覚えがあった。
「それで、先生、ひとつお伺いしたいことがあるのですけど」
ボクは松永教授を訪ねた核心の話題を持ち出した。松永教授は白飯をほおばりながら頷いた。
「英語の『ポンド』という単語ですが、日本語でそれに相当するのは『池』だけでしょうか」
「ああ、はい。『ポンド』もこの手の話ではしょっちゅう引き合いに出されますな」
「というと?」
「日本語で『池』というと、大きな水たまりではあるが湖と呼ぶには小さすぎる、そういったあたりでしょうか。これは英語の『ポンド』と『レイク』の関係とほぼ共通しています。われわれがどうやって『池』と『湖』を識別するか、それは、『琵琶湖』とか『不忍池』といったその固有な名称からとか、固有名が不明の対象にあっては見た目の大きさに対する経験的判断ということになりますが、いずれにせよ、われわれは『水たまり』『池』『湖』という言葉を所持してしまったがためにそれらを区別せざるをえない、あるいは、所持してしまったがためにわれわれの目には『水たまり』や『池』や『湖』が見える、そういうことになります。どうでしょう、アフリカとかの砂漠で水に恵まれない土地では、果たしてわれわれのように『水たまり』にまつわる語彙をいくつも持っているでしょうか。もっていないとすれば、その人たちにはわれわれのようには『池』や『湖』見えない、ということになる」
ボクは頷いて、松永教授に気づかれないように右手を裏返して腕時計を見た。
「ところで、ここでもうひとつ、日本語で厄介なのが『沼』です。池みたいに清冽である種風流な代物ではなく、もっとワイルドで青草が辺りに生い茂り水面にも透明感がない、そうした『池』|(?)に対してわれわれは『沼』という単語を所持している」
「つまり」とボクはここで思わず身を乗り出したのだった。「英語の『ポンド』は『池』だけでではなく『沼』でもあると」
「『メドウ』という日本語の『沼』に近い言葉もあるにはありますが、たいていは清冽であろうと濁っていようと『ポンド』で通っているはずです」
「そうでしたか。私のようなどっぷり日本文学畑の人間には思いつきもしませんでした。餅は餅屋ですね」
「お若いのに、餅は餅屋なんてお似合いになりませんな」と言って松永教授は上機嫌そうな笑みを浮かべた。「まあ、こうした言語観はワタシのオリジナルではなく、もちろんソシュールをはじめとした言語論的転回です。難しい理論のようでいて実際のところわれわれは生活の至るところで、いわば意図的な『転回操作』に接している。どう見たって『緑荘』にしか見えないアパートに『グリーンハイツ』と名づけたりするのは、『言葉によって世界はつくられる』の悪しき実践例ですな。それから、プロ野球の『クライマックス・シリーズ』なんていうのもそう。長いペナントレースで順位が決しているはずなのにもう一度短期戦で日本シリーズに出るチームを決めるといった暴挙を、『クライマックス』などというそそるネイミングで隠蔽している」
松永教授が前の授業から戻るのが遅かったこともあって、午後の授業開始時間が迫っていた。先に昼食を済ませておけばよかったが、気分が高揚しておおよそ食事に気が回るような状況ではなかったのだった。松永教授はなおも講釈を続けたい様子だったが、ボクはこんどはこれ見よがしに右手を裏返して腕時計を見た。教授が箸を宙にかざし、気のせいか疑わしげにボクの動作を見ていた。
「すみません、先生、まだまだお話をおうかがいしたいのですが、あいにく三限に授業が」とボクは言った。
「あら、これまた失敬、失敬」と言って松永教授は天井を見上げた。本やプラモデルの陰に壁時計はすっかり隠れてしまっていた。
立ち上がりながら礼を伝えると教授は何か言いたげだったが、それ以上引き留めることはしなかった。ボクはスツールを戻し、本のタワーを倒さないよう注意深く、それでも来たときよりはいくらか足早に屈折したルートを逆戻りして扉を目指した。
「先生、ボク先生」と、その背中に松永教授が声をかけてきた。
ボクは身体のバランスを保ちながらゆっくり振り向いた。
「わたしに訊ねるまでもなく、『ポンド』の複数の意味くらいでしたら辞書に載っていましたな」
学生に辞書を引けと口酸っぱく言う教員らしからぬ行動と松永教授は言いたかったのだろうか。
「それと、何か大学でトラブルでもあるのですか?」
「とおっしゃいますと?」
「いえ、先生の前にもお一方、同じ話を聞きに来られた方がいます」
ボクの当惑した表情が松永教授にもはっきり見てとれた。
「それが誰であったかはプライバシーにかかわる問題と?」
「はい、ご本人からくれぐれも他言はしないでほしいと」
「ラス・メニーナス」の件で佐山教授の研究室を訪ねたのと同じ人物と考えるのが妥当のようだった。松永教授がボクの訊きたかったこと、つまり日本語のほうが英語よりも語彙の多いケースを勝手に話し始めたのは、けして偶然ではなく、先の人物の関心事でもあったのだ。さて、その人物は松永教授の前ではマイクの死との関連について触れなかったことになる。似たようなトピックで立て続けに聞かれてはさすがに、学内の事情に疎い、というか無頓着な松永教授にしても、他言無用と念を押されつつ、「誰かが訪ねてきた」という事実だけは内密にしておくのを抑えられなかったのだろう。佐山教授はあのように大掴みに見えるが実のところは猜疑心が強く、「ラス・メニーナス」について訊ねる理由を明かさなければ、ボクにも口を開かなかったのだった。しかし、いずれにしても、とボクは松永教授の研究室の扉を後ろ手で閉めながらあらためて思った。誰かが同じような動きをしている。そしてその人物は自分より先回りをしている、と。そして、このとき舞い上がって「ポンド」の「沼」以外の含意を松永教授に確認しなかったボクは、あるいは、これ以前にも以後にも丁寧に辞書を引かなかったボクは、先回りをしていたその人物に決定的な一撃を受けることになるのだった。
テーブルの上にはいわゆる薔薇系の雑誌が三冊置かれていた。この北の地の観測史上もっとも早咲きとなった桜が今や満開となり、寮の窓からも向かいにある市民緑地の鮮やかな桜並木を見ることができた。そうした目の前に映る風景とこの雑誌とが交錯する場の空気は、いかにも居心地が悪いようにボクには感じられたが、ここからがボクの正念場だった。気は急いていたのだが、新学期のゼミの立ち上げに追われてしまい、松永教授の研究室を訪ねてからもう十日が経っていた。報告書の提出期限まではあと一週間だった。サン・フランシスコのミズ・ナカソネには電子メールで送付できるとはいえ、その前に書類を調査チームに上げ、必要な訂正をし、そのうえで学部長、学長、理事長の承認をえなければならなかった。学生サポート課職員からの事実関係にかかわる調査報告はボクの手元に届いており、あとはボクが自分の調査結果を絡めそれらひとつにまとめる段になっていたが、残された時間は限られていた。名前に「沼」がつく学生に当ってみるという選択肢もあったが、もはやそうした物理的余裕はなく、あとは、もうこの時点でリスト上にあがっている「沼」で押し切るしかなかったのだった。
沼田百合子は「寮母」で通っているが、あくまで通称で、本来の肩書は「学生部学生サポート課主査・学生寮担当」だった。学生寮に住みつき学生と生活を共にしているわけではなく、所定の時間に出勤し、退勤していた。マイクが自殺した朝は、マイクが定時に食堂に降りてこないのは慣習化していたが、出勤直後に、虫の知らせが彼女をマイクの部屋へ導いたと、彼女はその日警察に話していた。テーブル越しにあらためて向かい合うと、彼女は美しかった。四十代半ばだったが、色白細身のうえに長身で、白いジャケットを着こなすその姿はおおよそ「寮母」の印象からはかけ離れていた。二十歳そこそこのアメリカ人の学生が恋に落ちても不思議ではなった。何年か前、大学本部のキャリア支援センターに配属されていたときには、就職活動にはまだだいぶ間のある一年生男子が彼女目当てに、「今から自分のキャリアを築いていきたい」などとこましゃくれたことを言って訪ねてくることもしばしばだったらしい。
「これは私から鈴木准教授に戻しておきますね」とボクは沼田百合子が用意してくれた封筒に三冊の雑誌を入れた。「実際のところマイクにはそんな気があったのでしょうか」
沼田百合子は意外そうにボクを見つめた。その視線には鋭さがあった。しかしボクはそれに屈するわけにはいかなかった。
「リバー・フィニックスに似た綺麗な青年でした」とボクは言った。「男色系の鈴木准教授がのめりこんでもおかしくはない」
「わたしよりも」と沼田百合子がいくらか強い口調で言った。「先生のほうがよくご存じなのではないですか、マイクにそうした性向があったかどうか」
「沼田さん」とボクは沼田百合子の気迫に臆しないよう言葉に力をこめた。「マイクは沼田さんに好意を抱いていた。だから、死に向かうそのとき、たまたま持ち合わせていた絵画のプリントに『ポンド=沼』と書き込んだ。どうして、彼が年明けにあのようになってしまったのか、それは、他の学生が皆帰省してしまいこの学生寮に一人残ったマイクと沼田さん、あなたとの間に何かがあったからです。私的なことでしょうから、向こうへの報告書にはその具体的な『何か』についてはあえて言及しなくても済むでしょう」
「先生は、そのようにしてこの件を葬り去りたいのですね」と言いながら、沼田百合子はテーブルの上で拳を固く結んだ。
「とおっしゃいますと?」
「いまだにこのようなことがまかり通るなんて信じられません。このようなこと、とは、今先生がまさになされているように、教員の罪を職員に着せ自分は何事もなかったかのように振る舞う、一言でいうならなすりつけです。先生はもしかすると、それだけでなくマイクの首を吊ったのも私だと?」と言って、沼田百合子は透明なビニール袋から一枚のプラスチックのカードを取り出した。
「ポイントカードですよね、コスモスの」とボクは言った。「それもマイクの遺品ですか」
「はい。財布の中ではなく机の引き出しの奥にあって、処分品として残りました」
「発行してもらったものの使っていなかったと」
「おそらく。最近は使っていなかった、ということになるかと思いますが」
そう言って沼田百合子は、再びボクの目にしっかりと視線を据えたのだった。
「先生、奇妙だと思われませんか?」
「奇妙?」
ボクはカードを引き寄せ裏返した。マークの署名がカタカナでしてあった。
「ここからいちばん近いスーパー・マーケットはビッグ・ストレージです。自転車で五分くらいのものです」
「確かに」
「車やバイクを持たない寮生はたいていビッグ・ストレージで買い物を済ませています。もちろんマイクもそうでした。でも、コスモスになるとどんなに近くても小方で、車でないと無理です。先生、お住まいはどちらでしたか?」
「赤石ですけど」
「赤石にはコスモスがありましたよね。市立病院の向かいに」
ボクは言葉に窮し茫然と沼田百合子を見つめていた。
「日本に来て早速いい先生に出会えたとマイクは言っていました。先生の現代文学の授業が最初だったのですね、昨年の秋」
ボクは、残暑もすっかり去り秋めいてきたその日、数名の日本語日本文化学科の学生とともに教室の前方に座っていたマイクを思い出していた。
「そうもしないうちに恋心に変わっていくのが手にとるようにわかりました。アメリカ人にしては小柄とはいえここの学生に比べれば大人っぽく見えた。けれども、しょせんは幼さが残る二十歳の若者だったんです。日常のあどけない表情の中に、日本人よりも顔に出やすいこともありますが、確かに人を好いている喜びがありました」
この段になって、ボクは沼田百合子を甘く見ていたかもしれないと後悔し、警戒しはじめたのだった。
「ところが、昨年の暮れになってマイクの様子が一変した。周囲の噂になっては立場がないとその人にきつく言われた、そうマイクはわたしに話しました。雄弁に、というのではなく、辛うじて、声を絞り出すようにして。あのような行動をするようになったのはそのことがきっかけだった、それは間違いないと思います。でも、たったそれだけではあそこまでへこたれることはなかったのです」
色白の沼田百合子の表情がよりいっそう色白く見えた。
「よくある陳腐な話と言ったらそれまでですが、相手は結婚していることをマイクに言わなかった。ほんとうにここの学生は優しいですよね。わかっていてもマイクが傷つくと思うと言うに言えなかった。だけど、その優しさこそが、マイクのあそこまでの落ち込みのいちばんの原因だったかもしれません。君たちはなんで今まで教えてくれなかったのか、ということになりますから」
「それで、沼田さん、彼女はよき新年が訪れる前にマイクに真実を告げ交際を絶とうとした、と」
「年が明ければ、二年間研究で海外に行かれていたご主人がお戻りになることになっていたわけですし」
「沼田さん、沼田さんはマイクからそうした話をお聞きになったのですか。推測ではなく?」
「わたしが聞いたと言っても今となっては立証できない、そうおっしゃりたいのですね」
今度はボクが沼田百合子の目を見据え、頷いた。
「先生、これを」と言って沼田百合子が差し出したのは一枚の絵だった。
喪服だろうか、黒いドレスをまとった少女が片手に脱いだ黒いグローブを持ち、もう一方の手をベンチにかけていた。右手奥には王子や侍女らしき人物が四人いる、中世風の絵画だった。
「マルガリータ王女です。ベラスケスの絶筆を娘婿のマーソが完成させたと言われています。よくご覧になってください」
ボクは言われるままにその絵を見分したが、沼田百合子の主旨を諮りかねた。
「似てらっしゃいます、先生に。そう言えば、この絵のマルガリータ王女もテニスの錦織選手にも似ていないことはないですが、そもそも女性に向かって男性に似ているなんて失礼ですよね。――でも身にまとわれた空気のようなものが。いえ、先生はとてもお綺麗です」
「珍しい苗字の夫と結婚してなおさら、名前からしてボーイッシュに思われますし――。で、何がおっしゃりたいのでしょうか?」
「学生部長をされていればこの寮の鍵も難なく使えますね、牧先生。階段を使えば寮生に会うこともめったにありませんし」
「それで、さきほどからお話になられている女性というのは私のことだと?」
「先生以外にどなたがおられますか?」
「もはや誰にも立証できないと――」
沼田百合子はかぶりを振った。
「ちゃんとマイクが残してくれたではないですか、メッセージを。ベラスケスの絵を。佐山教授とお話になられましたよね、あの絵の中で画家ベラスケスはどこにいるか。それはマルガリータ王女の視線の先です。つまり、わたしたちがあの絵に向かうとき、もっとも注目しなければならないのはマルガリータ王女なのだと。そして、そのマルガリータ王女が十四歳になったときの肖像がそれです」と沼田百合子は牧の手元を指差した。
「沼田さんの主張の根拠は」と牧は声を震わせた。「私がこの絵の人物に似ているということだけなのでしょうか」
「いいえ、もちろんそれだけではありません、牧先生。『ポンド』です、牧泉水先生。英語の『ポンド』は『沼』だけでなく、日本語でいう『泉水』も含意するそうです」
そこで牧はようやく松永教授のくぐもった表情の理由を推し量ったのだった。沼田百合子の「沼」ばかりに注意が向いていたが、牧泉水の「泉水」も松永教授は当然ながら踏まえていたのだろう。
「間違いないっス」と言って、そのとき二人の間に殺伐とした空気をまとって割って入ってきたのは山口孝彦だった。
牧は唖然として彼の顔を、そして沼田百合子の顔を見つめた。
「こないだ先生がいらして壁越しに鈴木准教授の声を聞きましたよね。あんときオレ、妙な感じというか、訳がわかんなくなったんです。聞き覚えのある声であるようなないような。なんだかとてつもなく居心地が悪いような。でも、今わかりました。なぜならそれは、オレが聞いていたのは鈴木准教授でなく、先生、牧先生のほうの声だったからです」
ここに至り牧は、両掌で顔をさすりあげた。もはや言い訳のしようがなかった。昨年の九月、一回り以上も年齢の違うマイクに、教員と学生という立場でありながら牧は恋をしてしまったのだった。一目惚れから始まり、そして授業後に研究室で個別指導をするうちにいつしか人懐こいマイクに気を許すようになっていった。マイクのほうから強引に唇を寄せられてからは、自分にはそんなことはありえないと思っていたが、まさに転がるような成り行きになった。いつかは止めなければならないと思いつつ、若く見た目の映えるアメリカ人に好かれる自分に有頂天になっていた。一か月、二か月が瞬く間に過ぎ去っていった。けれども、それ以上引き延ばすのは困難だった。人口三十万人を超えるとはいえ、この町は狭かった。どこに行っても誰かの目があった。ましてや一緒にいるのはハンサムなアメリカ人だ。じきに二人の交際は学生に知れ渡るようになり、そして何より夫の帰国が迫ってきた。そう、自分には夫がいるのだ、と告げたときのマイクの取り乱した様子を思い出すと、今なお心が激しく痛んだ。自宅に避けがたく漂う男の気配を「父親」と騙し、それを疑いもしなかったマイク――。心の痛みを打ち消そうとして、この三週間、その死の理由づけに没頭してきたのだった。没頭するうちに、マイクの死は自分とは関係のないところに原因がある、そう自分に言い聞かせるようになっていたのだった。
「沼田さん、もし」と牧は声を絞り出した。「もし、これがマイクでなかったら沼田さんはやはり同じようなことをしていましたか」
沼田百合子は一瞬、この人はいったい何を言っているのだろう、という表情になったが、すぐにきっぱり言った。
「もちろんです。子どものいないわたしにとっては、ここで暮らすすべての学生がわが子も同然です。今回のような『死』といった大きなことだけでなく、たとえ些細なことでもわが子が傷を負うようなことがあれば、納得ができるまで原因を追究すると思います。でも――」
「でも?」
「でも、親代わりとしてのわたしの仕事はそこまでです。つまり、あくまでプライベートです、今回佐山先生や松永先生をお訪ねしたのも。ここでわたしの望みは充たされました。ですから、あとはどのような報告書を先生がお書きになられようと、そうした公的なものには一切口出しする気はありません」
牧は調査チームに正直に報告をしようとも思ったが、自らの恥部を晒すようなことを大学が受け入れるはずはなかった。不祥事はとことん揉み消す。そんな隠蔽体質はこの大学に限ったことではない。けれども、それでは何もかもが救われなかった。牧は入学式の沼田百合子の嗚咽する姿を思い出していた。一人の寮生にあれほどまでに感情が移入する姿を。それからすれば、今こうして、涙の一滴もこぼれないこの自分はなんという冷酷な人間であろうか。自分はマイクを弄んだにすぎないのだ。そんな自分自身に腹立たしくなる自分を感じ、思わずアイム・ソー・ソーリー、マイク、と牧は心の中で叫んだ。暮れのあのとき、「イズミは僕のことが好きじゃないんだ」と英語で叫んだマイクに反射的に「ノオ!」と答えてしまったことをこの期に及んで牧は後悔していた。「そうじゃない、あなたが好きなの」の「ノオ!」の積もりだったが、それであれば「イエス!」と答えなければならなかったのだ。「ノオ!」は、彼らの言葉では、「そうよ、大っ嫌いよ!」に他ならなかったのだ。自分はなんて酷いことをしてしまったのかと激しく首を振り、そして伏せていた目を上げると、白いジャケットに身を包んだ沼田百合子が憐れむような目で、しかし背筋をまっすぐにして牧を見つめていたのだった。【了】