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タナトスと戯れる夜  作者: なつ
第一章 第一の犠牲者は愚かにも
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 左手首に行く筋も走る線。今でこそその欲望を抑えているものの、時折ひどい誘惑に駆られる。あの血が抜けてゆく感覚というのは経験したことがあるものでなければ共有ができない。

 そんなものは逃避だと怒るものもいるだろうが、逃避できるなら誘惑に負けてしまったほうが、はるかに都合がいい。けれども自分でさえ、何から逃避しているのか分からない。分かっていないから、繰り返すしかない。

 だけど、別の逃避があるのならそちらに身を任せたほうが安全だ。留学から帰ってきてから色々と試してみたが、年上の異性に身を任せてしまうことが、最も安全であり、誘惑を抑えこむことができる。そのおかげで何気ない日常の幸せを、再び感じられるようになった。

 それを成長というのかもしれない。

 それなのに、この一週間はどちらも引き伸ばされている。

 笠倉岬は自分の左手首に口付けをした。

 押さえろ、

 暴れるな、

 暴れるな、

 暴れるな。

 呪文のように何度も唱える。そうすることで誘惑から逃れようとするように。携帯を取り出し、履歴を探る。三ツ谷恭治のところで操作して電話を掛ける。

 数回の発信のあと、相手が出た。

 場所と時間を決めて電話を切る。

 時計を見ると、そろそろ家を出ないと講義に間に合わない。大学まで二時間近くかかるというのはそれだけで不利だ。けれど、下宿を許してもらえない。それは多分仕方のないことだ。留学から帰ってきてからの様子を見ていれば、自分であれ放っておくことなどできないだろう、それがわからないほど子どもではない。

 けれど、親は何も知らない。

 知らないほうが幸せなのだから。

 それに余分な口出しもしない。

 だから岬は自由でいられる。結構な身分だ。

 急いで支度を済ませると家を出た。今日の講義は三限と四限だ。一般教養に過ぎない講義で受ける価値などない。けれど、単位を得るためにはそれを取らなければならない、なんとも無駄なシステムである。広く浅い知識などなんの価値もないというのに。わずかに始まった専門の講義をもっと増やしたほうが結果的に有能な人材を育成できるとは考えないのだろうか。

 家から十分の最寄のバス停からバスに乗り、駅まで十五分。電車に乗り、四十分。さらに地下鉄に乗り換える。二十分。歩いて二十分。

 乗り換えがスムーズに行き、多少の時間がある。お昼を取ろうか三秒悩んでから、途中にある学食に入った。適当に料理を選び、お金を払うと席を見渡す。十二時を半ば過ぎたところで、席の多くは埋まっている。どこかに知り合いが座っていないかときょろきょろしていると、遠くから岬を見ている視線に気がついた。

 サークルの先輩の平林文哉と堂本王子だ。岬は会釈をしてから三秒、二人の席の近くに移動した。隣は開いているようだが、二人の前の膳にはすでに料理が載っていない。

「おはよう、こっちに食べに来るなんて珍しいんじゃない?」

 汚れただみ声で文哉が手を揺らす。

「おはようございます、行きがけですよ。お昼にしては珍しいかも、です」

「それだけで足りるの?」

 今度は王子が短い髪を掻きながら下から覗いてくる。王子という名前とは似て非なる存在だ。

「岬ちゃん、朝食べてきましたから、これはお菓子のようなもんなんです」

 岬の膳に乗っているのはおかずの煮魚とフルーツのりんごが二つだ。組み合わせとして断然おかしい。けれど、文哉と王子の隣に岬が座るのと関係は似ている。通常ではありえないことなのに、大学だとまかり通る。

「最近サークル来ないよね、そろそろ飽きちゃった?」

「いいえ、そうではないです。他に用事が、少しありまして。今日も講義が終わってからスケジュールが分刻みで決まってますから」

「へぇ、芸能人並だ」

「ここでお昼を食べていられるのも数分しかないんですよ。先輩方は全然講義受けてないですよね?」

「要領が良いんだよ」

「それに最初から五年計画だからな。周りと流れてる時間が違うわけだ」

 引きつくような笑いを文哉が漏らす。岬には気持ち悪くてたまらないのだが、なぜか二人ともサークルの中では人気がある。それが全く理解できない。おかしいのは岬なのかもしれないが、それなら別におかしくても構わない。

 すぐにお昼を食べ終わると、二人よりも先に席を立つ。さらに何か言ってきたが、これから講義なので、と返事をして食堂を出た。

 時間を確認する。残り五分。ここから共通棟までかかる時間とほぼ等しい。岬は早足で共通棟へと向かった。

 講義室に入りすぐに結城静江の姿を探す。岬にとって数少ない親友の一人、留学帰りということもあり、顔なじみが少なかったにもかかわらず、なぜか彼女と被った講義が多く、岬が静江に声をかけたのがきっかけだ。それに、岬がようやく戻ってくることができた日常以前に静江はまだいる。静江の手首の傷はなかなか癒えない。

 岬がおはようと声をかけると、彼女は一度だけ軽く微笑んだ。瞬間的に、静江が何かに怯えているのを感じる。それが何かまでは分からないけれど、静江は分かりやすい。それなのに、いつも隠そうとする。だから無理に聞き出すことも岬もしない。

 隣に座り講義を受ける。

 四限も同じ、教室を一緒に移動して同じように講義を受ける。価値のない内容をノートにメモを取ることも怠らない。周りから見れば、まじめな学生だろうか。構わない。

 講義が終わり立ち上がると、まだ座っている静江に話しかけた。

「結城、どうする?」

 はっと気がついたように静江は顔を上げる。

「うん。これからちょっと行くところがあるから」

「また例の?」

「違うよ」

「だめだよ、自分を安く売っちゃ」

「売ってないって」

「大体分かってないんだよね、あいつら。わたしたちの価値って百万は下らないわけじゃない。それを二万くらいで安売りするなんてさ」

 それは自分のことだと、岬は心の中で舌打ちをする。

「売ってないって」

「ならいいんだけどさ。わたしは心配なのだよ、結城ちゃん、君のことがとーってもね」

「大丈夫だよ。もう増えてないでしょ、キズ」

「困ったことがあったら何でも相談するのだよ」

「いつも繋がらないじゃん」

「それはほれ、あの時でしょ。電波が届かないのだからしょうがない」

「それじゃ相談できないよ」

「あら、何か困ってるの?」

 岬はもう一度静江の隣に座った。

「そうじゃないけどさ」

「さあさあ、岬お姉さんに言ってごらん」

「自分のが背が高いからって」

「だって、結城って妹みたいなんだもん」

「それ屈辱なんだけど」

「ちゃんと食べないからだよ」

「別に困ってることもないし。これから行くとこあるから」

 ぱっと立ち上がると、静江は講義室を出てゆく。

「いやー、怒らないで。いやー、待ってよー。もう、ほら、電話。困ったら電話よー」

 その携帯が小さく震える。

 メールのようだ。

「アイーシャとドラクの物語が始まるよ」

 差出人は知らないアドレスだった。


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