表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

走れ、次席

作者: トモ倉未廻
掲載日:2026/01/12

 一番があるから二番があって。二番があるから最初の一番があるんだよ。

 ――と、いっていた誰かがきっと、人間に順位をつける意味なんてないのさ、と、いま現在の学歴社会を笑ってしまいたかったに違いない。


 飛び降りた。

 階段から。階段の一番てっぺんから、教室を飛び出してから十メートルぐらいを助走に使って、踏み込んで、飛んだ。

 階段を。

 もちろん階段は飛び降りるものじゃない。歩くものだ。けれどそんなことはこのさい、どうでもいい。蹴り上げた足から踊り場に着地してぐるりと身体を反転させて、もう片方の足でまた踏み込む。

 飛んだ。

 人がいたらそりゃあもう危ないことこの上なかっただろうけど、幸いなことにすっかり夕陽が差し込んでいる学校はそもそも人がいないんじゃないかと思うぐらい人がいない。――放課後の学校でどうして全力疾走しているかといえば、それは追いかけられているからだ。

 追いかけられる?

 いつも追いかけてるのは俺のほうなのに?

 息切れしかかっている頭は酸欠状態でいまの状況に憤慨している。

 なんだってこんな目に合うんだ、というべきか、なんだって俺が逃げなくちゃいけないんだ、というべきか。どっちにしろ物凄く理不尽に思うのに、いますぐ駆け出す足を止められないというのが一番の問題だ。きっと。

 二階の廊下に着地する。

 勢いあまって前のめりに転げかけたのを伸ばした手の先がなんとか窓枠を掴んだので支えた。思わずため息をつく。腹の底から、特大の嘆息を吐き出すみたいな深呼吸をして、俯いていた顔を持ち上げた。

 窓の外、向かい側の校舎の屋上の上に広がっているのは、文字通り燃えるような赤い空だった。茜色ともいう。雲ひとつなく、見上げている位置からは傾いた太陽も見えない。きれいなグラデーションのかかった用紙を貼り付けたような空だった。

 ――綺麗だなぁ、と現実逃避したくなる。というよりも、空を見上げた瞬間に、もう現実から逃げていた。

 走っているのには、理由があった。

 追いかけられている。まさしくその通りだったけれど、ただ追いかけられてるだけならここまでむきになる必要もないわけで。

 むきになるのには理由があった。

 いつもと立場が逆転していたからだ。

 負けたくなかった。

 ようするに、意地になっていた。


「次席君。人を追いかけるっていうのは、どういう気持ちなんだい?」


 と、優しさも思いやりも、多分神様が人間に与えた素晴らしい気遣いというものを全部母親の胎内にでも忘れてきたんじゃないだろうかと思うぐらい不躾な質問を三島がしてきたのは、部活動をしている生徒達がそろそろ帰り支度をはじめようとする頃だった。

 自分はといえば部活には参加してないが、ちょうど先生に目をつけられて「じゃあこれお願いね!」と押し付けられた、今度クラスに配るプリントの束をフォッチキスで全部とめ終わったところだ。あー、疲れた、と机に突ッ伏せたときににゅっと赤い陽射しをさえぎった影に、何事だと目だけをあげてみれば、あいかわらずきれいな顔をして、三島がそんなことをいったのだった。

 人を追いかけるって、なんのことだ。

 意味わかんねぇこというな、と思うとそれがそのまんま表情に出たみたいで、三島は小さく肩をすくめてみせる。

 そんなどうでもいい、しいていうなら見てると苛立らせるぐらいしか能のない仕草に、きゃっきゃと黄色い歓声をおくる女子がいるのがいつも不思議でならないのだが、今は不思議に思うのも面倒くさくて仕方ない。バッテリー切れでむかつくのも疲れるからしたくない。

 今日は閉店だ。こんちくしょう。

 と心の中で宣言して、見上げていた目をおろしたついでに頭をごろんと動かす。右の頬から額へ、机に接している部分を変えて視界から三島を消して、さっさとどっかに行けというジェスチャーを、野良犬を追い払うみたいにやった。

 腕を持ち上げて、振る。シッシ、どっか行け。もううるさいんだから。

 けれど何を思ったのかその手を唐突に握り締めれた。

 握ったのは、もちろん教室にもうひとりしかいないのだから、彼なのだが。

「俺は人を追いかけるよりも追いかけられるほうが多いからいまいち分からないんだ、人を追いかけるっていうのは楽しいものなのかな?」

 多いから、という部分で謙遜しているようにも聞こえるけど、物凄くむかつく部分での謙遜だな、とも思う。

 多いなんていうな。いっそのこと、追いかけたことなんてないといわれるほうがまだすっきりする。

 だってそうだろう。高校に入ってからずっと主席で女の子にももてるんだから、追いかけたことなんて一度もないだろうな。

 でもそんなの知るか。お前の事情なんて知ったこっちゃないね。と、手を三島の手から奪還する。乱暴に振り払った。

 ついでに、そんなに人を追いかけてみたかったらストーカーにでもなってみやがれ、と口を滑らしそうになったけれど、それはさすがに問題があるので寸でのところでやめておく。

 でも……三島がストーカーなんて、な。

 ストーカーだってようするに恋愛の不成立から始まるわけだから。

 そもそも三島にストーカーになれる素質があるのか、と、どうでもいいことにふと気づいた。亀が甲羅から顔を出すみたいに、顔をあげる。机の上に顎を乗せる感じで正面をむいて、三島を見た。

 自分を見る視線に目ざとく気づいて三島はにこやかに笑う。世の中どこで誰に盗撮されるか分かったもんじゃないと言わんばかりの、世界は絶えず自分を注視していると思っているような、同い年の同じ男に向けるのはもったいないんじゃないかと注意したくなるぐらいの、そら寒いぐらい完璧な笑顔だった。

 その笑顔を見て素直に、思った。

 三島はきっとストーカーになんてなれないだろうな、と半分敗北した気持ちだ。

 ストーカーはなれないとかいう話ではなくて、気づけばなってしまうもんだろうと頭の隅っこで冷静に突っ込みをいれてる自分もいたのだが、気づいてもむなしくなるだけなのできっぱりと無視することにした。

 女子はもちろん、恋愛対象が別に女子でなくたっていいと思う連中はこの笑顔でころりと落ちる。手を握る子は絶対女子でないと駄目だ! と豪語する連中もときたま落ちる。「きれいだとは思うけど落ちるってなんだよ落ちるって」と首をかしげると、真剣な顔をして周囲の人間に「お前はおかしい」と心配されるのが日常だ。どっかの進学校やテレビのなかだけだろうと思っていた、超絶にかわいらしい他校の女子生徒が校門前で三島を待っている、なんて現象も見る。――ストーカー、成立しない恋愛感情から相手に嫌がらせをして自分のストレスの捌け口にする行為。いやいや、三島はなるほうじゃなくてさせるほうだろう。誰が三島を振るんだ、振られるほうの間違いだろ。「貴方が手に入らないなら殺して私も死ぬ!」なんて状況がとても似合いそうだ。

 全然、嫌味じゃなくて。

「人を追いかけるのは、楽しいものなのかな?」

 考えている最中、ずっと三島の顔を眺めていたのが悪かったのかもしれない。美少年なんて言葉も中途半端な同級生は同じ質問を繰り返してくる。

「……まあ、状況にもよるんじゃね?」と適当に答えた。お前には一生縁のないことだろう、といってやるべきかすこしだけ悩む。なんでも手に入りそうな彼が唯一手に入らないのが誰かを追いかける気持ち、なんていうのは詩的だなと思ったけど、同じぐらいに馬鹿馬鹿しくも感じたので。「いつも同じ状況で人を追いかけてるとは限らない」

「状況とは?」適当な答えに真剣な顔で聞き返してくる。今にも二次方程式でも暗唱しそうな雰囲気だった。実際、ここでなにか問題を振っても、自分の頭ですぐさま作成できる問題なんて迷う間もなく解答されてしまうんだろう。

「楽しい追いかけっこだとはかぎらないってこと」模範解答とまではいかないが、ありきたりな返答を出す。

「相手のペースに合わせて走るのは面倒だから?」

 目を丸くした。

 本気で言ってるのか、こいつは。

「いやいや。それ、すでにもう追いかけっこじゃなくてただの伴走になってるから」

 いつだって早い者や優れている者は一番で、一番がいるから二番目がいる。二番目がどんなに一生懸命走っても追いつかないから一番は一番なわけで、距離が縮まないなんて安心してたら実は手を抜いてましたなんてオチは、どこの冗談だ。と、思わず顔をしかめそうになって、別のところでぞっとして目を細めた。

 ふとこの間のことを思い出したのだ。

「――まさかとは思うけどな、三島」

 まさかとは思いたいのだけど、自分のためにも。

「なんだ?」

「お前、この間のテスト」

 言葉を切ったのは無意識だったけれど、テスト、と声に出した時、ちょっとだけ目をまるくしたのを見て、ああやっぱりと納得した。宙ぶらりんになっていたものが、すとん、と落ちたみたいに楽になって、切った言葉の続きが自然と口から出てきた。

「……やっぱ、手ェ抜いたりしたわけ?」やっぱ、と自分でいうのも結構つらい。

「してない」しかめっ面をして三島は否定する。

「嘘つけ」

「どうして手を抜く必要があるんだ?」

 そういわれると返答に困る。「……、俺に勝ってほしい。とか?」いいながら誰がそんなことを思うんだろうと想像した。端麗で完璧で人間じゃないような三島よりも、凡人で平均的な人間そのものような自分に勝ってほしいと思う人はいるんだろうか?

「手を抜くのは嫌いだ」しかめっ面のまま三島はいった。

 体育の百メートル走の記録で奇跡が起こったのは一昨日のことだった。

 ゼロコンマの差とはいえ、三島に勝利した奇跡は、頑張れば三島にだって勝てるんだということを証明する一方で、なんで勝てたの? と首をかしげたのも確かだったのだ。三島になんで勝てたの? そもそもあいつに勝てるの? そんな感じの、変な違和感。

 勝つためにいつも二番にいるんじゃなかったのか、二番の意味を忘れてしまったような変な気持ち。

 次席君。次席君。三島が同じクラスのくせして俺の名前を忘れてるんじゃなかろうかと思うぐらい、徹底して呼ぶ「次席」の二文字の通り、ずっと主席たる三島を追いかけてきた。追いかけるからには追い抜いて追い越す、そうしたいから追いかける。なのに実際、たったひとつではあったけど、百メートル走で勝っても、勝った気がしないなんて衝撃的だった。周りの三島大好きの人間たちから、「あの時は三島も調子悪かったんだよ」とか言われるのはいいとして、自分でもそう思うなんて。

 勝ったのに納得がいかない、なんて事があるなんて――、意外だった。

「次席君。追いかけっこしようか」

 唐突に三島はいった。前振りもなにもない言葉だ。

「は?」顔を上げる。今度は顔だけ三島にむけるんじゃなくて、上半身ごと起き上がって万年主席の優等生を見る。「なんだって?」

「手を抜いたか抜いてないかは、実際走ったら分かるだろう?」名案だとばかりに彼は頷いた。「俺は、自分がどうでもいいと思ったからといって安易に勝負を投げ出す人間だとは思われたくないよ」

 ――どうでもいいって、やっぱり百メートル走はどうでもいいと思ってたのか。

 でも手は抜いてないっていう気なのか。

 睨みつけてはみたがちょうど三島は黒板の上にある時計に目をやっていたところだったので、気づいていないようだった。あと一分かそこらで下校のチャイムが鳴りそうな具合に、「12」の文字の中心よりすこし手前に長針がある。

「ちょうどいい」満足そうに三島が頷いた。

「……、なにが?」嫌な予感がしたので思わず聞いた。

「チャイムが鳴ったら」言いかけた三島の声に調子を合わせるみたいに、長針がふるえる。カチン、と聞こえるはずもないのに「12」の中心に音を立てて、長針が乗っかった。

 あ、と思う。三島を見た。

 笑って、三島が振り向いた。みんなが憧れてみんなが惚れるような笑顔で。

「走れ、次席」


 ――訂正をいれるのなら、だ。

 教室を飛び出したときに後ろから「百数えたら追いかけるから」と三島がいったのに対して、「それは追いかけっこじゃなくて鬼ごっこだろう!」と突っ込むべきだった。とか。

 そりゃあ校舎中を逃げ回っていたら気づけば百メートルぐらい走ってそうだけど、障害物競走じゃあるまいしどっちが早いかなんて分かっても意味がないだろう。とか。

 いや、それよりもだ。ちゃんとルートを決めて同じスタートラインで走らなかったら、そもそも走ってる意味自体がないんじゃないのか。とか。

 いうことだけはいっぱい、あったはずなんだけど。

「ど、どれもいい忘れてたぜ……こ、こんちくしょ、」

 悪態をついてなんとかモチベーションをあげようと思うのだけどうまくいかない。

 そういえばいつまで逃げればいいのか、とか、プリントのこととか、そのあたりのことも全然聞いていない。プリント、先生待ってるよな。怒ってるよな、と今更のように思ってため息をついた。俺は三島と違って天才ってわけじゃないからちゃんと先生の要望を受けないといけないんだぞ、と毒づいて、前かがみになっていた上半身を起こす。どっと噴出していた汗が今は冷たいぐらいで、大太鼓みたいに鳴り響いていた心臓がやっと平静を取り戻そうとしている。三階の教室から二階の階段のすぐまで逃げて、頭の中は冷静になっていた。

 制服の袖で顔を拭う。喉がからからに渇いている。

 とりあえず、断言できるのは。これは追いかけっこじゃなくて鬼ごっこだということだ。

 ハンデでもないのに百数える追いかけっこなんて聞いたことない。

 そして、先にゴールまでついたほうが勝ち、の追いかけっこじゃなくて捕まったら負け、の鬼ごっこなら、持久力は物凄く大事だ。あと作戦も。

 だって、普通にやって三島に勝てるわけがない。

 どこか逃げ道のある場所に隠れて、見つかりそうになったら逃げてを繰り返して。

 高校生になってまでなんで鬼ごっこをして、しかも真剣に作戦まで練ってるんだ。俺は。と思わなくもないけど、勝負事に手を抜くような奴だとは思われたくない、っていう三島と同じ気持ちを持っている。

 三島だから勝てない、なんて言い訳はしたくない。

 やるからには全力。きっと三島だってそうだろう。

 それにこれに勝ったら一応、納得できそうじゃないか。ひとつぐらいは三島より優れてるって。

 だから……、

 すぐ傍の窓ガラスになにかがぶつかったのはそのときだった。

 石ころのような硬いものがあたる音ではなくて、振り向くとちょうどガラスに映っている顔の、額の部分に、吸盤がぺたりと張り付いていた。お土産でよくみるマスコットがぶら下がっているような大き目の透明の吸盤で、一番着目すべきは吸盤の後ろで尻尾みたいに矢みたいな木の棒がぶらぶらと上下に揺れていることだろうか。矢みたいな、というよりはそもそも普通の矢の先端についている尖った部分のかわりに吸盤がついている、そんな不思議な形をしている。

 もちろん、そんなものがいきなり飛んでくるわけもない。

 とてつもなく嫌な予感がして窓の向こうを見ると、向こう側の窓がひとつ開いていた。

 そこに三島が佇んで、いつもの笑顔でこっちを見ている。

 弓を持って。

 思わず顔をしかめてしまった。

「ちょっと待て、」いくら全力投球でも飛び道具はないだろう。飛び道具は。その前に弓道部から弓を借りてきたって、吸盤つきの矢なんてないぞ。どこから調達したんだ、そんなもの。自前か?

 ……あれに当たっても、捕まったことになるのか?

 まるで、缶ケリの缶を石でこかしたらどうなるんだ? と同じレベルの疑問だったが気にしている場合じゃない。飛び道具なんて違法だ。

 唖然として見つめているこっちに三島はもう一回笑みを深くすると、弓を持って右側へ走りはじめた。

 そこではっと我に返って背中を返し、階段を駆け下りる。

 これが三島の作戦だ。

 校舎は中央の中庭を囲ってロの字になっているから、三島がぐるりと廻ってきたら弓の射程圏内に入ってしまう。中庭をはさんだ距離でもきれいにちょうど顔の写っている部分に矢を当てることが出来る腕前は伊達じゃない、運動神経もいいくせにどの部活にも所属しない理由を、「ひとつの部活に埋もれさせておくには惜しい逸材だから」と自分で断言するぐらいには優秀なのだ。

「だからっ」二段をすっ飛ばして、三段目に着地して、「てっ」着地した足の膝を折り曲げて、「――っ、ありかよっ!」一階の廊下に着地する。

 最初に廊下を踏んだ足にびしっと痺れを感じた。眉間にしわを寄せた顔のまま周囲を見渡して、運悪く、三島を見つける。

「げ」と、一言。口から出た。

 なぜなら三島が持っているのは弓道の弓でも吸盤が張り付いた矢でもなくて、それはそれで物凄く問題なのだが、いま彼が持っているのは白い球体、いわゆるバレーボールと呼べる代物だったからである。

 しかも別の階段から降りてきて先回りしたので、同じ廊下にいたりする。

 ようするに、直線距離。遮るものなし。

「……、み、三島くん?」まさかそこから投げないよなバレーボール、と懇願する気持ちで三島を見る。投げるならまだいい。スパイクとかぶちかます気じゃないよな、こんな逃げ道のない場所で。

 同じクラスのバレー部員が「三島のスパイクは殺人並みだからなぁ。普通の奴が受けたら昇天しちゃうかもなぁ」とかいっていたのを、これ以上悪いタイミングがあるかと思うぐらいの最悪ななかで思い出した。

 ボールが当たって死んだ、なんていう話は聞かないから大丈夫か。

 いやちょっと待て。硬球は胸に当たって心肺停止とかなら、聞いたことあるけど。

 そんなことが均等に頭を過ぎった後で、思った。

 ――、バレーボールだったらどうなるわけ!

「っ!」さっと血の気が引いた。自分の顔を見ることはできないけれど、耳の傍で血が地面のほうへ落ちていく音がする。きっと青褪めた顔をしている、「み、三島! ちょ、ちょっと待った! それは反則だろ! 鬼ごっこで飛び道具は反則だろ!」

「鬼ごっこじゃないだろう?」と、三島はやさしく訂正する。が、完璧に微笑んでいる顔のそばで、バレーボールが何度もまっすぐ上に打ち上げられている。

「追いかけっこだ」

「なおさらだろ!」

 突っ込んだ直後、三島の手のひらで弾んでいたボールが大きく宙に浮いた。天井にぶつかりそうなぐらい浮いて、そのまま当たり前に……、落下して。

 三島がこっちを見据えた、と思った瞬間、足が後ろへ一歩だけ。続けて身体が動いた。やられる! と、学生が思うにはかなり似合わないことが頭のなかをあらかた埋め尽くして、ボール見てないと避けれないよな、と考えるのも忘れて、とにかく全力で走った。後ろを向いて全力で走ろうとした、

 の、だが。

 足が、正確にいうなら足首になにかがひっかかったのはその時だった。分かったのはそれだけで、強引にひっぱろうとしたひっかかった足の分だけ体のほうが即座にバランスをくずしたのは、見ていた廊下がぐるりと回転したので分かった。

 そのまま、廊下に倒れこんだ。

 反射的に両腕で顔面を覆ったけれど、それ以外ほとんど受身をとれなかった。のに、痛みは全然感じなかった。おかしいとすぐにわかって、顔を庇っていた両腕をはずして下を見る。

 くすんだ白色が見えた。

「マット?」

 そう、文字通り。マット。

 体育館の準備室に山積みにされているマットのひとつが、場違いにも一枚廊下に敷かれていた。

 おかげでケガはしなかったわけだけど、なんだってこんなところに。

 怪我をしなかったことを喜ぶべきか、マットの存在をいぶかしむべきか。どうしようと考えている最中に肩をぽんっと叩かれた。顔をあげると、バレーボールを片手に持ったままの三島が心底嬉しそうな顔をしてこっちを見ている。

 その顔は、落とし穴に誰かがはまったのを見て喜ぶ子供とか。ロシアンルーレットでわさびを大量に入れた寿司を食べた人間の反応を見て楽しむ子供とか。――どっちにしても子供っぽくて、お世辞にも、ほめられた顔ではないのだけれど。

 見上げているうちに、ため息をついていた。ああ、なるほどな、と分かってしまったのだから仕方ない。

「追いかけっこじゃないじゃんよ。三島くん」口振りだけ批難した。もともと最初から詰め将棋みたいに、ここで追いかけっこを終わらせると決めていたのだろう。でないと転倒したときの安全策にマットを引いたりなんてできない。

 足にひっかかったのを見ると、これも体育館の準備室に落ちてそうな縄だった。

 バレーボールも布石か。そりゃ、ボールを持ってる人間が向こうにいてそっちに逃げようなんて思わない。

 でもそれってようするに、俺が負けたってことか?

「鬼ごっこのつもりもない」まるで気持ちを見透かしたみたいに、三島はいう。

「じゃあ、なんのつもりだよ?」

「人を追いかけてみたかった?」

 疑問符に疑問符で返すのは反則だ。それにそれだと全然答えになってないし。

「なんで俺なわけ?」

「いつも俺を追いかけてくるのがお前だから」

「なんで飛び道具?」

「追いつけない相手に純粋に走ることで勝負を申し込む馬鹿がいるか?」と、三島は首をかしげた。一応これが百メートル走の勝敗のフォローのつもりなんだな、と分かる。全然その点は納得いかないが、負けると分かっているから小道具を使った。判断としては間違ってないだろう? ということらしい。

 でも、階段を駆け下りてすぐに待ち構えるなんてことをやっておいて気づかないのか、と心の中で呆れた。万年主席の三島を心の底から、こいつ馬鹿だろう。と思えるチャンスだったので、露骨にため息をついた。

 あの、吸盤つきの矢を射った場所からすぐに近くの階段に駆け出したにしても、階段がすぐ後ろにあった自分より先に一階の廊下にたどり着いたのだ。

 その時点で、百メートル走の結果は間違いだったってことになるのに主席のくせして気づかないかな。三島くん。

 気づいているのだから教えてやるべきか。どうだろう。

 お前は一生追いかける側の人間にはなれないよ、と教えてやらないのと同じで話題を変えることにした。

「感想は?」一時的にでも嘘でも、人を追い掛け回した感想は?

「追いかけられるほうがいいな」校舎を三階から一階まで走らされた感想がそれか、と思うぐらい味気なかった。

「だろうな、」と、ため息をつく。

「いつも俺を追いかける次席君の気持ちが分からないな」と三島はひとりごとみたいにいった。

 ちょっとむっときたので、「それ、むかつく言い方」口を尖らせていう。気持ちとしては付き合っている女の子に、「貴方の考えが分からない」と言われるのとおんなじぐらいだろうか。腹立たしさは。こっちだって好きで追いかけてるんじゃない。

 でも、と思う。ひっそりと。

 確かに、なんで三階からここまで全力疾走したの? と同じ口調で、なんで三島を追いかけるの? と聞かれてしまったら。

「お前がいつも、俺の前を走ってるからだろ」どこをどう嘘をついたのかは自覚できないけど、漠然と半分ぐらいは嘘だろうなと思った。

 前にいるから追いかけている。一番がいるから二番がある。当然の事だけれど、すこし違う。ただ二番手を走っているだけなら、追いかけているなんて思わないだろうから。追いかけていると自覚しているのは、そう、結局。

 追いかけたい、と思っているからで。

「走ってなかったら追いかけないか」また人の気持ちを見透かしたみたいに三島が目を細めていうので、「後ろ走ってたら追いかけてることになんのかな」と、自分の中できちんと答えになっている素朴な疑問をどうでもいいことのようにいってみた。意趣返しのつもりだった。

 三島はほんの一瞬黙り込む。

 怒ってるような、戸惑っているような、そんな顔をして彼はこっちを見下ろしてから、「ああ。いい忘れてた」まるでなにかを取り繕うみたいにちょっと口早に呟いて、「捕まえた」と、宣言して手を差し出してきた。

 手を握ってやったほうがいいんじゃないか、と見上げているこっちも不安になりそうな目をするのは反則だ。払いのけてやりたいのにやってやろうとマットの上の手を動かせないのだから。

 ので、どうしようか逡巡するうちにほとんど逃げるようにして気づいた。

 追いかけっこに、捕まえるなんてルールはない。

「三島さっき、追いかけっこっていってただろ」逃げ道に転がり込む。

「ああ」

「追いかけっこしてたんなら、俺のこと捕まえられないじゃん。お前」

 追いかけっこは捕まえるんじゃなくて、追い越すだけ。追い越してゴールに先に到着するだけ。捕まえなくたっていい、そうしなくたって勝敗はつく。主席と次席みたいなものだ、追い越したら名前が変わる。捕まえる必要なんてない。

 指摘してやると、三島はほんの少しだけ困ったような顔をして、「別に鬼ごっこでもいいけどな」と珍しく言い訳するように応えた。


(終)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ