第9話 境界の崩壊、神の転落
白の間全体が、リア=フィエルの純粋な祈りに呼応するように、激しく軋み始めていた。
青、金、そして灰色――
ミランが観察鏡越しにしか見たことのなかった地上の空の色が、神界の概念的な白へと侵食し、混じり合っていく。まるで、二つの異なる現実が、無理やり縫い合わされようとしているかのようだった。
机の上に並ぶ転生記録の書物は、次々と光の粒子へと分解され、虚空へ溶けて消えていく。
それは単なる記録の消失ではない。転生ルートそのものが消えていく…
神界が定めてきた「理」が、急速に意味を失いつつある。
「……もう、境界が保てない。このままでは、ゼフィリアが崩壊する」
ミランの脳裏を、根源記録庫で見た創造神アルマの古い警告がよぎる。
――神が地に降りる時、世界は再び創られるだろう。
だがそれは、希望に満ちた新生ではない。
転生システムが完全に崩壊し、ゼフィリアという「模造の大地」が、無数の魂の欠けと共に混沌へ沈むことを意味していた。
ミランは胸元の銀の印章を強く握りしめる。
彼の使命は、創造神の築いた秩序を守ることだった。そして今、秩序を守るためには――この歪みの根源であるリアに直接触れ、神界の干渉そのものを断ち切るしかない。
「アルマ様……あなたはなぜ“無”を、そこま恐れたのですか」
声は白の間に吸い込まれ、返答はない。
「なぜ、僕が真実を知ることを、禁じたのですか」
沈黙だけが、神界の答えだった。
ミランは踵を返し、転生管理局の誰も足を踏み入れない忘れられた場所――神界の外縁に存在する《封印の門》の前に立つ。
石造りの門は古く、光の鎖で封印されている。中央には金色の紋章が刻まれ、冷たい感じる警告文が宙に浮かんでいた。
《立入禁止。創造神の命により封鎖中。境界を越える者は、神の理を失う》
その警告は、もはや彼の心には届かない。
ミランは目を閉じ、胸元の印章へと意識を集中させた。
そこから解き放たれたのは、分霊として与えられた役割を超えた、『原初の光』の片鱗。
「開け――封印の門」
静かだが、揺るぎのない声。
「僕は、この偽りの世界を……僕自身の意志で救うために行く」
ズガァン――!
神界全体を震撼させる轟音と共に、門を縛っていた光の鎖が一斉に弾け飛ぶ。
千年もの封印を告げるように、石の門が重々しい音を立てて開かれた。
その向こうに広がっていたのは――
三百年もの間、ただ見つめ続けてきたゼフィリアの、青い空。
ミランは一切の迷いなく、門をくぐり抜けた。
境界を越えるその瞬間、彼の体から淡い金色の光が立ち上る。
それは、神の力が切り離されていく感覚だった。
地上に存在するため、神界との繋がりを断つため、ミランは自ら「仮初の肉体」を構築する。
絶対的な神の支配力は、この一瞬で、人間に――不確定ではあるが可能性を感じる存在へと変換された。
彼は目を閉じたまま、崩壊しゆく神界の境界線から、ゼフィリアの大地へと静かに転落していく。
「……ゼフィリア」
ゆっくりと目を開ける。
そこは、北部の雪深い森だった。
冷たい風、湿った土の匂い、そして遠くから届く人々のざわめき。
すべてが、彼にとって初めて触れる「現実」。
豪奢な神の衣は消え、身を包むのは簡素な白い旅装。
金色の髪と碧い瞳は変わらないが、その存在感はもはや神界の管理者ではない。
ただの――金髪の青年。
胸の奥で、リュシアから託された原初の光の結晶と、リアの祈りが生んだ「人の心」だけが、微かな熱を伴って脈打っていた。
ミランは雪を踏みしめ、初めて自分の足で大地に立つ感触を確かめる。
彼の旅は、
「機能」としてではなく、「ミラン」という一人の存在として、今、始まった。




