第3話 印章の真実と違和感
タクトを送り出したあとも、ミランの胸の内は静まりきらなかった。嵐の直後の海のように、波立ち続けているのに表面だけが静かな――そんな不安定な静けさ。
「……本当に、強い意志を持った魂だった。」
呟きは独り言というより、思考の漏れだった。
ミランは胸元へ伸びる指先に力を込め、銀色の印章――彼が神として存在する証を握りしめる。
冷たい金属の感触が、彼を神の立場へと引き戻す。
他の神々が持つ印章には、それぞれの起源――創造神アルマ、またはその側近たちの名前が刻まれている。神は神によって生まれ、その証が印章に刻まれる。それは神としての存在証明であり、存在意義そのものだった。
だが――
ミランの印章には、何ひとつ刻まれていない。
「どうして僕だけ……名前がない? 誰が僕を創ったのかも、示されていない?」
問いは、神になったばかりの頃から消えずに胸の奥に沈んでいた。
当時、上位神は曖昧に微笑んで言った。
――お前は特別だからだ。
その言葉は、慰めにも真実にもならなかった。
忘れたふりをして数百年。
けれど、タクトの言葉――
『なあ、ミラン。あんた、本当に神様なのか?』
――その疑いとまっすぐな視線が、眠っていた疑念を容赦なく呼び覚ました。
ミランは観察鏡に手をかざし、地上――ゼフィリアの世界を映し出す。
鏡の中には、草原へ転生し、新たな人生を歩み出すタクトの姿。迷いも躊躇もない。その足取りには確かな意志が宿っている。
「異常なし。転生は正常。魂の状態も良好……いつも通り。」
そう結論づけ、鏡を閉じようとした瞬間――
画面にノイズが走った。
システム的なエラーではない。もっと根源的な……異質な揺らぎ。
(これは――)
ミランは映像を拡大する。
タクトが歩く草原から少し離れた地点。地面が黒く染み付いたように歪み、その中央から黒い粒子が煙のように立ち昇っていた。
まるで、腐食した魂の残り香。
「……魂の残滓?」
胸が、冷たいものに締め付けられる。
魂は転生のたび欠損し、過去の絶望や未練が剥がれ落ちる。
本来、それは神界のシステムが浄化し、地上に影響を与えないはずだった。
だが今、目の前にあるそれは――
浄化しきれず、世界に染み付いた「負の魂」。
それを凝視した瞬間、ミランの記憶に声が蘇る。
『どうして……どうして私だけ幸せになれないの?』
『あなたは私を助けてくれるって……そう言ったじゃないですか……』
かつて転生しゼフィリアの地に送り出した魂――その悲鳴。
希望として送り出した存在が、地上で絶望へ至る。
それが積み重なった結果が、この黒。世界を蝕む歪み。
「……僕が見落としてきた結果、なのか……?」
ミランは視線を落とし、拳を握りしめた。
タクトの問いかけはただの疑念ではない。
――これは警告だ。
転生システムそのものに、何か重大な矛盾が存在している。
彼は机上の書類を一気に払い落とした。紙束がふわりと舞い、白の空間に散らばる。
もう、目を背けることは許されない。
「僕は……神として、与えられた役割を果たすだけの存在じゃない。そう思いたい。なら、知らなければならない。」
自分は何者なのか。
なぜ印章は空白なのか。
この世界の歪みは、いつから生まれたのか。
それらの答えは――ひとつの場所にある。
「創造神の記録。そこに、すべてが残されているはずだ。」
ミランはゆっくりと目を閉じる。そして静かに意識を向ける。
神界最深部。
どの神も軽々しく近づくことを許されない、封印の眠る領域。
《根源記録庫》――
白い空間に、風が吹いたような感覚が走る。
ミランの金色の髪が揺れ、その瞳には――迷いではなく、決意が宿っていた。
「行こう。真実へ――そして、僕自身の答えへ。」
その瞬間、白の間に淡い光が走り、ミランの姿は静かに掻き消えた。




