夜のささやき
いつからか夜の公園に通うようになった。
目に映るものすべてが遠い場所にあるような気がして。
理由なんてきっと後付けだろうけど。
ただ静かに、一人になれる場所を探していた。
この公園には誰も来ない。壊れかけのブランコと、落書きの残る古いベンチがあるだけ。
今ここには僕だけがいる。他の誰からも干渉されない、現実の世界からは隔絶されたような場所。
ポケットに入れたままだったスマホを取り出す。時刻は午前0時前。季節は秋口。
年季の入ったいつものベンチに腰掛け、空を見上げる。
空は雲が流れて、鈍い藍色に染まっていた。
星は見えない。でも、それがかえって心地よく感じられた。
街灯の明かりだけが僕をじんわりと照らしていた。
ほんの少し体を丸めて、目を閉じる。眠くないのに眠りに落ちたくなる夜はある。
このまま朝までこの世界から消えてしまえば、なにかが変わるかもしれない。
……足音が聞こえた。
さわさわと草が揺れる気配。風とは違う、人の音。
目を開けると、見知らぬ少女が隣に座っていた。
え?と声が出そうになるのを堪える。
突然すぎる。でも、身体は微動だにせず、口元だけわずかに動かす。
「……誰?」
銀髪の少女だった。真っ白なパーカーを羽織って、ベンチに体育座り。
じっとこちらを見ている。
吸い込まれそうな青色の瞳に、真っ白な肌。
それでいて、どこか無機物のような雰囲気が異質さを際立たせていた。
「ミオ。あなたが呼んだから来たのかも」
透き通るような声で少女は発した。
唐突すぎて、意味がわからない。
僕は彼女をじっと見たまま、「そう…」とだけ答えた。
驚いてなんていない。
必死にそう振る舞うことで、僕は心を落ち着かせようとしていた。
「夢を渡って来たの。今日は特別な夜だから」
「……夢?」
「うん。でもこれは、あなたの夢でもわたしの夢でもない。間の場所。偶然っていうか、たぶん偶然以上のもの」
言葉の意味がわかるような、わからないような。
でも、彼女の言うことに嘘の匂いはなかった。というより、嘘っていう概念がそもそもない人のように見えた。
「それ、光ってる?」
自然に言葉が出た。探るように。
するとミオは、少し照れたようにちらっと手首を見て笑った。
「感情に反応するの。今は……”青”」
「へぇ。怒ると真っ赤になったりするの?」
「うん。真っ赤なときは、頭の中がぐるぐるして、誰にも触れられたくなくなるの」
僕は静かに笑った。
不思議なのに、ちょっとだけ自分のことを言われたみたいだったから。
それから僕たちは、静かに話しはじめた。
ミオは、不思議な話をたくさんしてくれた。
向こうの世界では、言葉は使わずに心の色で会話をするらしい。怒ると真っ赤になり、嬉しいと虹色になるのだとか。
「でもね、それに慣れすぎると、本当の気持ちを隠せなくなるんだ。たとえば、大丈夫って言っても、色が濁ってたらばれちゃう」
「それって……不自由そう」
「そうなの。だから、あなたみたいに“顔では笑ってるけど、心はざわざわしてる”っていうの、逆に新鮮。こっちのほうが“自由”かもね」
ミオはさらりと言ったが、僕の胸の奥に何かが刺さった。
見透かされたようで、でも嫌じゃなかった。不思議だった。
ミオとの会話は、僕の心の奥にしまい込んでいた何かをほどいていってくれた。
家のこと。学校のこと。大きな事件があるわけじゃないけれど、何も起こらない日々に、少しずつ押し潰されていたこと。それでも、誰にも言えずに、ただひとり抱えてきたこと。
ミオは頷きながら、ずっと僕の話を聞いていた。肯定も、否定も、同情もしなかった。
ただ、そこにいてくれた。
その夜の空気は、とても静かでやさしかった。
こんな夜が、いつまでも続けばいいと思った。
ミオがふと空を見上げる。
ほんのり白んできた空。もうすぐ夜が終わる。
「もう、戻らなくちゃ」
その言葉に、僕の喉がぎゅっと締まる。
「この時間は、永遠じゃないんだね」
「うん。でも、ちゃんと伝えたかったことがあるから来たの」
そう言って、彼女はポケットからなにか小さな光の粒を取り出した。
それを、そっと僕の手のひらにのせる。
「これは“わたしの気持ち”を結晶にしたもの。きっと、あなたの世界でも枯れない」
「……これがあれば、会える?」
ミオは少し考えるような顔をしてから、小さく笑った。
「それはね、あなたが夢を忘れなければ。夢を忘れない人にだけ、扉は開くの」
そう言って、ミオはすっと立ち上がった。
僕が何か言う前に、風が吹いた。
一瞬だけ、ベンチのまわりの空気がゆがむ。
気がつくと、そこにミオはいなかった。
ただ、僕の掌にはまだ、あの小さな光が温かく残っていた。
あの夜のあと、何度か公園に通った。
でも、ミオに再び会うことはなかった。
それでも、あの夜から僕の世界は少しだけ色を変えた気がする。
クラスメートと何気ない会話をかわした。
母と夕飯の味について話す時間ができた。
少しずつ、ゆっくりと、世界がやわらかくなっていった。
春の終わり、またひとりで公園に行ってみた。
いつものベンチに座って空を見上げる。雲が流れ、少しだけ星が輝いて見える。
ふと足元に目をやると、小さな花がひとつだけ咲いていた。
青い花。あの夜にミオが見せた瞳のようだった。
しゃがみ込んで、そっと指先で触れる。わずかに温かい気がする。
あれが夢だったのか、現実だったのか。わからない。
でも、僕の心には今も、ミオの声が残っている。
夢を忘れなければ、きっとまた――
ミオがささやいたように、風が枝を揺らしていた。