(3)
「王が新たな姫に執心していると聞いたが」
温かい陽光が照り込む頌貴殿の安香舎――陽明門太后が住まう局で琵琶を弾き終えた玉芙蓉は、茵に腰を落ち着けている局の主よりそうもちかけられた。
「連鶴大臣の姫であるとか」
太后の問いに玉芙蓉は微笑で応えるだけにとどめた。
宴から四日を経て今なお貴王がかの舞姫を常芳舎に置いていることは、すでに御殿の内外に聞こえている。体調を崩しているがためと貴王は表向きの理由をあげているが、いかに大臣の娘であろうと妃以外の女が貴妃殿にて身を休めることはできぬのが倣いである。それをあえて破っての雪重への処遇が旋風となるのも無理はなかろう。牡丹族の交合期を間近に控えた今、貴王が定める雪重の身分によってはさらなる嵐を招くことになる。
澄清であるからと、太后は今朝から御簾を巻き上げさせたままにしていた。庭で色鮮やかに咲きそろう牡丹の花々が頭上より降りそそぐ光を受けて輝く姿を、太后は満ちたりた面持ちで眺めている。しかし傍らに座す玉芙蓉には、これらの花がすべて寄り集まろうと太后の美しさには及ぶまいと思えた。
「何事も起きねばよいが……」
太后が深緋色の衣の襟に手をやりながらため息を漏らす。憂え顔にさえ気品が漂っている。太上貴王の寵愛が今なお衰えていないのも、決して不思議なことではなかった。太后自身に花精たちの敬慕の情が向けられていることからも、それは明らかである。玉芙蓉も初めて拝謁にあずかったとき、陽明門太后がなにゆえをもってあまたの妃を抜き后の地位に立ったのか、得心がいった。贔屓目を除いても、太后の魅力はあまりあるものがあった。
「こたびの姫こそ求めていたお方であると、王は仰せでございました。ご憂慮もじきに……」
「消えてくれればよいがの。王はいつもよき姫を見いだされるにて」
太后は苦笑し、そして玉芙蓉を見た。その温かいまなざしは強さも備えている。濃紅色の双眸が深みのある赤紫の瞳を思い起こさせ、玉芙蓉は心を乱した。
貴王の容貌は太后によく似ていた。特に目元が。
「親心がわからぬお方よ。そう思わぬか、玉芙蓉?」
玉芙蓉はうろたえた。太后が目を細めて笑う。目尻に入るしわが優しく見えた。
室内には二人の他誰もいない。太后が下がらせたのである。気候がよい日に御簾を上げさせ、玉芙蓉のみをそばに置きその楽の音を聴くことは、時折ある。それは太后が何事か思案するときであった。
「まだ傷は癒えぬか」
玉芙蓉はうつむいた。答えることができず、沈黙が落ちる。
太后付きの女官となって三月。決してむだに過ごしてきたわけではないが……。
しばし玉芙蓉を見つめていた太后は、やがてそれとわからぬほどに小さく息をついた。
「そなたを困らせるつもりはなかったゆえ、気にせぬよう」
玉芙蓉が恐る恐る顔を上げると、太后は再び庭へ視線を戻していた。
「もう一曲、何か弾いておくれ」
「はい……」
玉芙蓉はうなずき、撥を弦にあてた。
涼しい風が多種の牡丹の香りを運んでくる。風は玉芙蓉の淡紅色の髪にそっと触れていった。
夕刻、琵琶を手に登華殿に上がった玉芙蓉は、茵に着席している貴王と、その隣に寄り添うように雪重が座しているのを目にした。
すでに体の具合はいいのだろう。心もち色づいている雪重の肌をまず確認した玉芙蓉は、次に姿形をさりげなく観察した。
雪重はその幼さゆえか花陽妃のように物静かな感じではなく、烏羽玉妃の持つ艶麗さもない、愛らしい印象を受けた。重ね着した黄色い衣が重いのではないかと思えるほど繊弱な肢体はいまだ熟した様子はなく、貴王と並べば兄妹のようである。しかしなれなれしく貴王に身を寄せる姿は、さながら妃位を誇示するがごとき振る舞いであった。
「今宵はそなたの琵琶を雪重に聴かせてやろうと思う」
二人の前に腰を下ろし丁寧に礼をする玉芙蓉に、紅色の衣をまとった貴王が顔をほころばせる。玉芙蓉が雪重を見やると、雪重も笑ってみせた。しかしその笑みは蔑みを含んでいた。この姫もやはり貴王に選ばれたことを誇り、美しくない玉芙蓉をあざ笑う女なのだ。
「何がよいか……久々に酔花抄もよいな」
「……御意」
それは微酔のうちに一夜の恋を楽しんだ男女が、互いに目覚めてからも忘れられず、再び酒を飲みたどった夢路にて再会を果たすという恋の曲であった。
玉芙蓉は求められるまま琵琶を弾いた。甘さ、切なさ、激しさを弾きわけながらそっと視線を配る。貴王は音に聞き入っているようであった。
一方、雪重のほうは、あまり関心をもっておらぬように思えた。むしろ玉芙蓉をうとましい存在であるかのごとく見据えていた。
玉芙蓉が奏し終えると、貴王は二度ほどうなずいた。
「よい音であろう。玉芙蓉の琵琶の音は心に響く。これも弾き手の性質がよいゆえであろうか」
貴王が柔らかなまなざしと言葉を玉芙蓉に与える。同意を求められた雪重は頬をひきつらせていた。貴王と玉芙蓉にしてみれば平素と変わらぬ軽いやりとりであるが、雪重には心外であったらしい。
貴王は常と同じく玉芙蓉を近くへ召した。驚いた面容になる雪重に、貴王は穏やかな声音で告げた。
「そなたはもう下がってよい」
「王――」
いっそう大きく目を見開く雪重に、貴王は後で常芳舎へ渡る旨を伝えた。今宵も同衾する意向を示され、雪重も安堵した面持ちになる。しかし退出の際に雪重が投げてきた嫉視を玉芙蓉は見逃さなかった。
隅の燈台で芯が音を立てて燃える。二人きりになったほの暗い室内で、貴王は扇で口を隠しながらあくびをした。
「王、少しお顔の色が悪いようにお見受けいたしますが」
「あまり深う眠っておらぬゆえ……なかなかの好き者であった」
玉芙蓉より酌を受ける貴王が含み笑いをする。
「大切なお体にございますれば、ここぞというときにお励みになるのがよいかと存じます」
花精は種族によって子のできる時期が異なっている。牡丹族の交合には今少し早いと暗に奏上する玉芙蓉に、貴王は「然り」と答えて発笑した。他の女官が聞けば恥ずかしさのあまりうつむくか、あるいは卒倒するような会話である。
酒を一息に飲み干した貴王の盃に玉芙蓉が酒をつぐ。玉芙蓉の白い指を眺めながら、貴王はぼそりと漏らした。
「烏羽玉妃の侍女の一人が笞刑に処せられたと聞いた」
玉芙蓉が顔を上げる。貴王は盃の中の酒を凝視していた。
その女官は衣をすべて脱がされ、肌を幾度も打たれたという。貴王はそれが秋冬紅であると聞き、行き場のない哀れみと心痛を誰かに語りたかったらしい。玉芙蓉は貴王が以前より秋冬紅に興味をいだいているのを知る者であったため、貴王も思うところを隠さずに話した。
玉芙蓉は口をはさむことなく、時折うなずきながら最後まで聞いた。ためていたものをすべて吐き出したのか、貴王はようやく相好を崩した。
「やはりこのような話はそなたにしかできぬな」
貴王は満足げに酒を飲み、そして再び真摯な容相になった。
「ところでそなた、何か気に病むことでもあるのか? 今日は少し音が乱れていたように思うが」
玉芙蓉ははっとして貴王を見た。
「それではなにゆえ……」
あのように雪重の前でほめたのか。
貴王は盃に口をつけた。空になった盃を台に置き、視線を落としたまま答える。
「わたしの妃となる者には、そなたのよさをわからせたいのだ」
玉芙蓉は複雑な思いに沈んだ。貴王の言葉は非常に嬉しかったが、雪重はやはり妃となるのだ。
「まだ決定したわけではない。わたしも同じ過ちをくり返す気はないのでな」
貴王が苦笑する。烏羽玉妃の件を述べているのだろう。
「それではいかように?」
「女官として、しばらくはそばに置こうと思う。輿入れさせるにも時間がかかる」
「局はいかに?」
「まだ決めておらぬが……」
口ごもる貴王の言葉の続きを、玉芙蓉は読んだ。
「常芳舎をお与えになるおつもりですか?」
確かに女官たちの休む従蕾殿は貴妃殿と異なり、貴王以外の男が忍んでくることも多々ある。後に妃として上がるかもしれぬ女を置くには好ましくない。
しかし貴妃殿にある者は貴王の妃――貴王の御子を産む務めを正式に与えられ、認められた女である。高貴なる花精が在する貴妃殿に女官の身で住まうなど聞いたことがない。
「……賛同いたしかねまする。それはあまりにも……」
雪重を優遇しすぎる――玉芙蓉は喉まで出かかった不服の言をかろうじてのみ込んだ。しかし震えがとまらない。嫉妬と羨望が心の中で渦となる。
「さもあろう」
貴王は低く笑ってみせた。
「しかしわたしは今、雪重を手放したくはない」
玉芙蓉は目を伏せた。貴王の顔をまともに見ることができない。過去に味わったつらく苦い思いがよみがえり、胸をしめつけられる。
もし道をたがえることなくきたならば、今頃己がいるはずであった席は――後悔と渇望の念にとらわれそうになった玉芙蓉は、耳元で貴王の囁きを聞いた。
「して、どうなのだ? 懸想の相手でも現れたか? いっこうにわたしになびく気配がないのは、すでに想う男がいるとしか思えぬ」
「それは……」
玉芙蓉が困り顔で逃れようとすると、貴王は袖をつかんだ。
「さあ、正直に申せ。わたしよりよい男か? さもなくば許さぬぞ」
迫られ、玉芙蓉は息をのんだ。鼻先が触れあうほどに近くで見つめあう。リンポウの香りに惑わされそうになったそのとき、漂ってきた甘い匂いに玉芙蓉は気づいた。
「申し上げます。太后様より仰せつかりし御品をお届けに上がりました」
御簾の外よりかかった声は、太后に仕える女官のものである。貴王が許可すると、壮年の女官が御簾をくぐり入室してきた。
献上された高坏には果物が盛られてあった。玉芙蓉が何よりも好む果実である。
「あいも変わらず心憎いことをなさる」
遣いの女官を下がらせた貴王は、目を輝かせて果物に見入っている玉芙蓉をふり向いた。
「母上はよほどそなたをお気に召しておられるのだな」
「……はい?」
欲しい欲しいと思うあまり、玉芙蓉は貴王の話を聞いていなかった。貴王が意地悪げに唇を引き結ぶ。
「懸想する男の名をあかせば与えよう」
「そのような……」
玉芙蓉がとまどいに顔をゆがめる。とたん、獣の低いうなり声のごとき音が響き、長く尾を引いた。
一瞬の沈黙。貴王は玉芙蓉の腹を見やり、そして噴き出した。恥ずかしさに玉芙蓉がうつむく。
「よいよい、わたしが悪かった」
貴王は笑い崩れながら高坏を引き寄せ、玉芙蓉の前に出した。
「たいらげてもかまわぬぞ」
「感謝至極にございます」
玉芙蓉は大仰なまでに低頭し、それから丁寧に皮をむいていった。よく熟れた果実は美味であり、ついほおばってしまう。実に嬉しげに、またうまそうに食す玉芙蓉に、貴王も瞳をやわらげた。
「そなたはまこと、うまそうにものを食べる」
そして玉芙蓉は一人できれいに食べつくし、貴王の笑いを招くこととなった。
その夜の空は淡雲一つなく星が燦々と瞬いていた。月も白さが映えている。
常芳舎に渡った貴王は雪重を慈しんだ後、横臥したまま天井を眺めていた。明かりの消えた室内で気だるげに惚ける中、食欲旺盛であった玉芙蓉を思い出す。今まで食の細い女ばかりを見てきただけに、上品になおかつ残さず食べる玉芙蓉は何よりも新鮮であった。それもとりようによっては、貴王を男として意識していないということになるのであろうが。
(まったく、飽きぬ女だ……)
「何をお考えでございますか?」
笑いをかみ殺す貴王の顔を、ついと雪重がのぞき込んだ。
「そなたのことを」
答えると、雪重ははにかんだ笑みを浮かべた。二妃にはない初々しさを貴王は好ましく思った。
雪重が生娘であったと知ったのは四日前。貴王にとっては花陽妃以来であるが、その若さを考慮すれば当然ともいえる。貴王は己を見下ろす姿勢でいる雪重を胸へ抱き寄せた。
肉付きの薄い肢体が貴王の体と重なる。これからいかようにも変わるであろう蕾が幼子のごとくしがみついてくる、そのしぐさが貴王にはたまらなく愛しかった。
事実、雪重は類になく愛らしかった。この世のことを何も知らぬふうな顔で甘えられれば、優しくしてやりたいと思わずにいられない。御殿内の礼儀やしきたりなどの知識は乏しいが、教えてやることをさほど苦には感じなかった。
問題は雪重の身の置き場である。大臣の娘であるがゆえに、ただの側女とするわけにはいかず、さりとていたずらに妃を増やす気も貴王にはなかった。
(やはり女官として上げるか……)
どちらにしても烏羽玉妃の嫉妬は抑えられぬであろうが――ふと玉芙蓉の忠言が耳をかすめた。
確かに女官を貴妃殿に住まわせるのは例のないことである。常芳舎が烏羽玉妃の麗香舎の奥であることも気になった。耐えられるだろうか、このいとけない雪重に。
「王……」
そのとき、貴王の胸に頭を乗せたまま、雪重が恍惚として言った。
「わたくしは妃となるのですね」
雪重の言葉に貴王は閉口した。共寝をして妃位への期待をいだく女は数多くいたが、すぐにそう思いこんだ女は初めてである。年が若いゆえか。
「わたくしは、この常芳舎をいただくのですか?」
「雪重……」
嬉しげに問うてくる雪重の髪を、貴王は優しくなでた。
「すぐにというわけにはいかぬ。妃となるにはそれ相応の準備がいる」
細い肩がひきつった。雪重の涕涙に己の胸が湿るのを貴王は感じた。
「わたくしは妃にはなれぬのですか?」
声が震えている。貴王は体を起こした。涙あふれる雪重の目のふちに口づけると、雪重は一つしゃくった。
「そうではない。そなたはまず御殿内の礼儀を学ばねばならぬのだ。さもなくばそなたが恥をかいてしまうゆえ……妃となるのはそれからだ」
淡黄色の双眸がすがるように貴王を見つめる。貴王も応えて見返した。
「この常芳舎はそなたに与える。しばしは女官としてわたしのもとにいるがよい」
「とこしえに、おそばに置いてくださいますか?」
「雪重……」
「約束してくださいませ」
「……よかろう」
雪重が貴王に抱きつく。温かい感触に浸りながら、貴王はそのとき一抹の不安を覚えた。
それが後悔へと結びつく予感であったことに、貴王はやがて気づくことになるが、しかしこのときはまだ知るよしもなかった。