(2)
その夜の宴は実に盛大であった。あまたの式典に劣らぬほどの催しに皆が酔い騒ぎ、浮かれている。御殿内のいたるところで口にされる言祝ぎは、しかし本心からのものばかりではなかろう。宴の席を抜け出した貴王はしらじらしい言葉を聞き流しながら、微酔に逍遙していた。
寿咲殿からは逸楽に満ちた笑い声や音楽が聞こえてくる。建物から離れるにつれてそれはしだいに小さくなっていき、やがてあたりは清澄な静けさに包まれていった。
こうして一人歩く時間が、貴王は好きだった。ほのかな月明かりに照らされるあまたの牡丹がその花びらをしっとりと濡らす中、夜露が袖に染み込むのもかまわず庭をそぞろ歩く。何気なく見上げた空では月がおぼろにかすんでおり、漂う雲もまた多い気がした。
酔い覚ましにと席を離れたため、あまり帰りが遅ければ烏羽玉妃は誰かに捜させるかもしれない。あるいはすでに手の者がそば近くに潜んでいる可能性もある。それでも二妃に挟まれて酒をまずくするよりはましであった。
どこぞに気だてのよい美女が咲いてはいないかとあたりを見回す。が、夜風はただ牡丹と貴王の衣に吹きつけるのみである。貴王はほっと息をついた。
烏羽玉妃はもともと貴王の兄、金鵄が望んでいた女であった。ある宴の夜、女官たちの閨である従蕾殿の前庭を歩いていた貴王は、とある局の前で御簾ごしに聞こえてきたため息まじりのつぶやきに興をそそられ、言葉をかけた。色香のある美しい声の主は容貌もまた美しく、すでに妃として上がっていた花陽妃とその頃疎遠になっていた貴王は、何か企みを秘めたような烏羽玉の瞳にひかれた。数日後、その女が金鵄の求婚する者であることを知り、惜しさに急いて後宮に召した。王の権力を利用して――。
金鵄に己の魅力が劣るとは思っていなかった。しかし烏羽玉の心変わりの早さにも驚いた。そして貴王は、烏羽玉の狙いが妃の座であったと理解した。いや、はじめからそれは予期していたことだった。妃位を前にして心揺らさぬ女がいようか。
ただ烏羽玉は他の女よりも妃への執心が強かったのである。妃となった烏羽玉は、その華やかな地位がいかに不安定なものであるかを悟ったのだろう。ゆえにその位をおびやかす者を排除するに違いあるまい。それを哀れと思わぬこともなかったが、貴王の寵愛が失われるのは花陽妃の時よりも早かった。興味がなくなったのではない。うとましくなったのである。
淡い光を放つ月が雲に覆われ、四方が闇にのまれていく。酔いも覚めはじめ、冷えた風が身にしみるようになり、貴王は一度大きく身震いした。宴に戻るべきか逡巡していたそのとき、かすかな音が届いた。
空耳かと思いながら周囲に気を配る。牡丹の花や葉がこすれあう音にまじり、人声――いや、すすり泣きのようなものが伝わってきた。貴王はたぐり寄せられるかのごとく歩を進めた。
庭の池を前に一人の女が座り込んでいる。暗がりの中、開花した牡丹と同じく女の姿は闇にぼんやりと浮き上がっていた。
貴王の気配を感じたのか、女が顔を上げた。
やはり女は泣いていた。まだ幼さが残る秀麗な顔立ちの娘に貴王はひきつけられた。
近づく貴王に娘は目を見開いた。しかしおじた様子はなく、泣き顔を隠そうともせずに貴王を見つめ返す。
「なにゆえに泣く?」
「池に映る月を眺めておりましたら、かんざしを落としてしまいました」
若く、さほど重みのない調子の声で娘が答える。
「大切なものなのか?」
「父上が誕生の祝いにくださったものなのです。わたくしの花を名工に彫らせたかんざしにございます」
貴王は池をのぞきこんだ。入れば膝が濡れるほどの水嵩だ。しかも月影のない今、浮草の間をまさぐり探すのは難しい。
娘が貴王の袖をつかみ、池を見下ろす。そのしぐさは頼りなげで愛らしかった。
「これは明かりをもってしてもわからぬな」
「そんな……お願いでございます。お力をお貸しくださいませ。わたくしのかんざしを取ってくださいませ」
乾きはじめていた娘の目元に再び涙があふれだす。すがりついてくる娘を見つめていた貴王は、やがて前方に咲く己の牡丹を目にとめた。
貴王は娘から離れ、王族の牡丹が植えられている場所へと歩んでいった。黒紅色のウバタマと桃色地に白のぼかしの入ったカヨウの間に咲くリンポウ――自身の牡丹を一輪手折る。それを手に戻った貴王は、娘の髪に花を挿してやった。
「父のかんざしには劣ろうが……気に入らぬなら捨てるがよい」
驚いた面持ちで見上げてくる娘に貴王は微笑した。
「かんざしは明日探させるゆえ」
「姫様? 姫様はいずこにおられます?」
廊を行きながら侍女らしき女が叫呼している。そちらを一瞬見やった娘は再び貴王に視線を向けた。
「大切にいたします」
涼しい朝に開く花のように若々しい笑みは、思わず見とれてしまうほど美しかった。
「そなたの名は?」
侍女のほうへ行きかけた娘に問う。
「雪重と申します」
娘は深く頭を下げ、去っていった。
結い上げた髪は純白であろうか。御殿の灯火に映える娘の後ろ姿を見送りながら、貴王はつぶやいた。
「雪重……」
「王」
不意に呼びかけられ、貴王は喫驚した。ふり返ると、それは烏羽玉妃の侍女であった。秋冬紅という名の、烏羽玉妃の信頼厚い女官である。あまり美しい女をそばに置きたがらぬ烏羽玉妃にしては珍しく器量のよい侍女なのは、乳母子という親しさゆえか。
「妃様が心配なさっておいでです」
淡紅色の双眸は不審な光を宿している。娘とのやりとりを見ていたのだろう。
「今、戻ろうと思っていたところだが……」
貴王は秋冬紅の肩を抱き寄せた。息をのみ身をすくませる秋冬紅の耳朶に唇を近づける。
「せっかくそなたと二人になれたのに、このまま帰るのは惜しいことだ」
「王……?」
「そなたはいつも妃のそばにいるゆえ、なかなか話す機会に恵まれなかったが……わたしの胸の内、察してはくれまいか?」
「いけませぬ、王。妃様が……」
秋冬紅は上気しながらもおびえていた。それだけで貴王は烏羽玉妃の性質をあらためて見た気がした。
貴王は秋冬紅の額に軽く口づけた。
「今宵のことは口にしてはならぬ。そなたのために……よいな?」
秋冬紅はうなずいた。その淡紅色の瞳は打算と期待をちらつかせ、貴王以外映してはいない。貴王は目を細め薄く笑んでから、女官を連れて宴の場へと爪先を向けた。
己の席に戻った貴王に、烏羽玉妃は流し目を送ってきた。獲物を狙う獣のごとき鋭い眼光である。もとよりはっきりとした顔立ちに濃く眉や紅をはいているがゆえ、その容貌は他を圧するほどに凄絶な印象を受けた。
「酔いは覚めまして?」
「悪しからぬほどに」
女官が寄り来て貴王の盃に酒をつぐ。貴王はそれを一息に飲み干した。
寿咲殿前に設けられた舞台では、大臣たちの催し物が披露されていた。次は連鶴大臣のようである。さほど興味もないまま視線をさまよわせた貴王は、舞台に上がった舞姫を見て驚いた。
(あの娘は……)
四方に設置された篝火に照らされるその顔は、まさしく今し方貴王が出会った娘であった。
線の細い体にまとう鮮やかな濃黄色の衣、純白の髪を結い上げた舞姫は舞台中央にて膝をつき、貴王と二妃へ丁寧に礼をした。
玉芙蓉を中心に座す楽師たちがゆるやかな曲を奏ではじめる。舞姫はその細い腕を振りながら、流れるような足取りで舞台をくまなく歩み渡った。上体をそり、柔らかな身のこなしを見せたかと思えば、時折とまって小首をかしげるしぐさは愛らしくもあり、またあでやかでもある。その手の扇からは花片がこぼれ落ちるようで、つややかな朱唇から漏れる吐息は蜜酒よりも甘く思えた。
舞姫はそのまま貴王の前面へと移動してきた。その髪には深みのある赤紫の牡丹が挿してある。貴王自ら手折った花である。舞姫はさりげない視線の動きの中で、確かに貴王と目をあわせた。
貴王の胸の芯が熱くうずいた。久方ぶりの高揚感である。今度こそ自分が求めていた女ではなかろうかと期待する。
舞が終わり、美しい舞姫が礼をする。ひときわ大きな喝采がわいた。
ゆっくりと舞台を降りた舞姫に、貴王は御前に上がることを許した。直々に酌を許された者は数少なく、感嘆の声が波のごとく舞姫に押し寄せた。
雪重は貴王と二妃に献上する酒瓶を手にすると、わずかに息を切らせながら参上した。その淡黄色の眸子は貴王をしかと見据えている。
「見事な舞であった」
「恐縮にございます」
雪重はうやうやしく低頭した。貴王の前に進み出て酌をする。貴王はほんのりと朱に染まった雪重の頬を眺めた。白粉を落としてもおそらくその肌は白かろう。
雪重は次に一の妃である花陽妃の盃を満たし、最後に烏羽玉妃の正面に移った。一礼し、花の蜜でつくった酒を烏羽玉妃の盃にそそいだ刹那。
パシャッ
すぐ隣にいた貴王ですら動けなかった。とろりとした蜜酒を顔に振りかけられた雪重も目を見開いたまま言を発しない。周囲が静まり返る中、さらに烏羽玉妃は空になった盃を雪重に投げつけた。
「ひっ……」
雪重は腕で防ごうとしたが、烏羽玉妃に近すぎたために飛来してきた盃をよけきれなかった。たった今貴王がうるわしさを感じた雪重の頬をすって、盃は床上で砕け散った。
「雪重!」
貴王が眼前で倒れる雪重を抱き起こす。雪重は気を失っていた。
悲鳴とどよめきが上がる。貴王は烏羽玉妃をふり返った。
「そなた何を――」
「小娘がおこがましいまねを……わたくしの祝いの宴をよくも壊してくれた」
烏羽玉妃は立ち上がると、雪重の髪を飾るリンポウをつかみ取った。
「よさぬか。宴を壊したのはそなたのほうであろう」
大臣たちの面前にて貴王が妃を叱咤したのは初めてのことであった。烏羽玉妃は怒りと羞恥に貴王をにらみつけた。
「貴王ともあろうお方が、なにゆえこのような卑しき女に御目をかけられるのか?」
貴王に対しリンポウを投げ捨てる。かなり力を入れていたのか、握りつぶされた赤紫の牡丹は数枚の花びらを散らせて貴王の前に落ちた。
「……局にてしばし謹慎しておれ」
貴王ににらみ返された烏羽玉妃が光沢のある唇をかみしめ、宴の席を去る。それを見届けてから貴王は雪重を部屋へ運ぶよう侍従に命じた。そして傍らで影のごとく座している花陽妃に場をゆだね、自らも雪重を追った。
しばらくして雪重は意識を戻した。妃たちに与えられる局のうち、開いている常芳舎に運びこまれた雪重は、脇で憂えていた貴王を見上げた。
「……王」
貴王は安堵して雪重の手を取った。そのぬくもりが烏羽玉妃の仕打ちに対する憤りを強くわき上がらせる。
「すまぬ。そなたにつらい思いをさせた」
貴王の謝罪に、雪重はいくつも涙をこぼした。
「恐ろしゅうございました。烏羽玉妃様はなにゆえあのようにお怒りになったのでございましょう」
「そなたのせいではない。気に病むな」
灯光に照らされる淡黄色の双眸はひどく傷ついているように見え、貴王は哀れに思うとともに愛しさを覚えた。跡が残らぬかと案じながら、赤い筋の浮かぶ雪重の頬に触れる。
つと雪重の手がのび、貴王の手を取った。柔らかい手である。そのまま二人は互いに黙したまま見つめあった。
風が吹き込み、御簾を揺らした。燈台の炎が大きく身をよじり、かき消える。
そして暗闇の寝所はその夜、わずかとて明かりがつくことはなかった。
「知らぬことはなかろう? 偽りを申すでないっ」
扇を投げつけられ、秋冬紅は小さく悲鳴を上げた。部屋の隅で控えている他の女官たちも主の言動におののき、うつむいている。
時折吹きすさぶ冷風に室内の灯火が揺れ、主の美貌にかかる影をもゆがませる。あるいはそれは主の面そのものがゆがんでいるのかもしれなかった。
「あの野卑な女が王の御花をかすめた場に、そなたは居合わせたのではないのか!?」
「お許しを……わたくしは何も存じませぬ。何も……」
平伏する乳母子を烏羽玉妃は上からねめつけた。やがて烏羽玉妃は目を細めると、秋冬紅の前で腰を折り、扇を拾った。
「そなた……王より何を賜った?」
歌うような口調であった。かつて貴王よりその美声をたたえられた烏羽玉妃は、優しい声音で秋冬紅に問うた。
秋冬紅が全身をひきつらせて顔を上げる。烏羽玉妃は形のよい口元に冷笑を浮かべた。
「どこに触れてもらったのか? ここか?」
烏羽玉妃が扇で秋冬紅の頬を軽くたたく。秋冬紅の整った顔がみるみる青ざめた。
「お許しをっ。王は……王は御自ら御花を手折られたのでございます。わたくはただそれを……」
「見ておっただけと申すのか?」
再びひれ伏す秋冬紅に囁く。烏羽玉妃は嫣然と微笑んだ。
「……妃、様……?」
立ち上がる烏羽玉妃に、秋冬紅が喉の奥から震えた声を出す。烏羽玉妃は茵に座すと扇をぱちりと打った。
「すべて剥いておしまい」
「妃様っ……!」
秋冬紅が淡紅色の眸子を大きく見開き、悲鳴とともに息を吸い込む。周りの女官たちも悲痛な面持ちになった。
「わたくしの王を奪う者は許さぬ。秋冬紅、たとえそなたであろうとな」
烏羽玉妃は動かぬ女官たちを流し見た。促され、女官たちは遅鈍ながらも次々に腰を浮かしていく。
「お許しを! 妃様、何とぞお情けをっ」
嘆願する秋冬紅に烏羽玉妃は蔑視を向けるのみであった。秋冬紅は女官たちに取り囲まれ、いよいよおびえの色をその顔に広げた。
寿咲殿より聞こえてくるかすかな楽音が悲鳴にかき消される。
衣をはぎ取られ、庭先にて笞刑に処せられる若い女官の姿から目をそばめるように、そのうめき声に耳をふさぐかのごとく、おぼろ月は薄雲に身を隠し、暁まで決して顔をのぞかせることはなかった。