(1)
人間界では梅の花期が終わろうとする春告月も晦日、花源郷はいまだ底冷えする夜が続いていた。しかしながら日ごと温かくなる風と柔らかい陽射しは、冬の間眠りについていた花々を優しく目覚めさせてくれる。そして牡丹の花精が住まう郷にも、うららかな陽光の腕の中で惰眠に甘んじる一人の青年がいた。
人であれば、年の頃二十三、四か。肩のあたりでゆるく結んだ深みのある赤紫の髪が、揺らめく炎のように風になびく。御殿の階段の中程に腰を下ろし、青年はまどろんでいた。
つとその端正な面に影がさした。異族の香りに気づき、青年がまぶたを上げる。
「このようなところでうたた寝などしていては、風邪をひいてしまうぞ」
「ん……ああ、清王か」
逆光に眉をひそめながら、青年は眼前に立つ三歳年上の男を見上げた。青白色の髪が陽の光を吸収してきらめいている。清王と呼ばれた男は髪と同じ柔和な色の双眸をわずかに細め、御殿の主に微笑した。
「沈丁花の香りだな、貴王」
清王の含みある笑みに、貴王も涼しげに微笑むだけにとどめた。座睡の理由をあっさりと見抜くのは、さすが旧知の友というところか。
貴王はあくびをし、ゆっくりと腰を上げた。強い意志を表す赤紫の瞳で清王を見る。
「いつこちらへ?」
「今日だ。久方ぶりの再会に感激の涙でも流しあおうと急ぎ参じたというのに、我が友はいまだ宵の夢から覚めぬと見える」
大仰に肩をすくめて清王が笑う。二人は連れだって歩きはじめた。
「地上はいかがであった?」
貴王の問いに清王は穏和な表情を曇らせた。冷風が頬をすっていく。
「あまりよくはない。障気も年おうごとに増しているようだ」
「そうか……」
広い庭園には開花の時期には今少し早いながら、多種の牡丹が咲き誇っていた。牡丹族の花精の数だけ花が存在しているのである。花精が死なぬかぎり、この庭園の花も散り落ちることはない。
貴王は庭先の牡丹一輪に目をとめた。昨日は蕾であったのが、濃鮮紅色の花びらを開いている。八重咲きの瑞々しい牡丹である。おそらく新しい牡丹の花精が長じたのであろう。先日枯れ果てて土に帰った牡丹を見ただけに、貴王はかすかに喜色を浮かべた。
人間の悪意を源とする障気を浄化するのは、地上の花たちの務めである。開花した花は各々障気を吸い込み、体内で清める。そして己の許容量を超えた花から枯れていくのである。
しかし今、障気は抑えられぬまでに満ちあふれ、暦の上で春の訪れを告げるはずの梅の花たちは、蕾を開くことさえままならぬ状況に陥っていた。それゆえに梅の王である清王は眷属を見舞い力を与えるため、人間界へと赴いたのである。
花源郷は地上に生きる花たちの憧憬の地。本来ならばまみえることなど叶わぬ王に拝顔でき、萎えた花々も息を吹き返したことだろう。貴王は地上の障気を受けてすぐれぬ顔色の清王を横目で見やった。その懸念のまなざしに気づいた清王が心配はいらぬと笑む。
ところで、と清王は話題を変えた。
「お美しい妃殿は、ご健勝か?」
「見ればわかろう……それほど気になるのであれば、自分の目で確かめてくるがいい」
貴王のなげやりな物言いに清王は失笑した。
昨夜貴王は他の御殿で夜を明かした。朝方帰宅した貴王は素知らぬふうで己の殿舎へ戻ったが、衣にしっかりと染み込んだ沈丁花の芳香のために行く先を知られ、またもや妃の機嫌を損ねてしまったのである。
「救いようのない失態だな。佳王など相手にするからだ」
佳王――沈丁花の王は、風情のある艶事を好みながら少々戯れの過ぎるところがある。貴王が眠りについているすきに、香りをそれとわかるほどにすりつけでもしたのだろう。先に清王より忠告を受けていた貴王は、それみたことかと言わんばかりの清王に少しばかり不愉快な面持ちになった。
「相手が王ならば何も言うまいと思うたのだがな」
「甘いな」
清王が発笑する。
「女の嫉妬には限りがないものだ。そなたの妃は、まさにその手本となるべき者ではないか」
「楽しげに言うてくれるな」
貴王はますます渋面した。そして赤紫の双眸に嘆願ともいえる光を宿す。
「今宵、烏羽玉妃の生誕の日を祝う宴があるのだが……」
暗に誘ってくる貴王に清王はかぶりを振った。
「それはめでたい。挨拶の一つでもしたいところだが、残念ながらわたしも先を急ぐ身ゆえ」
清王が後方をかえりみる。そこには御輿と清王の従者が立っていた。早く故郷へ帰りたいのか、従者は主君の視線をとらえると出発を促すべく御輿の幕を上げた。
「久方ぶりの再会に感激の涙でも流しあおうなどとぬかしていたのは、いずこの者か」
かこつ貴王をなだめるように、清王は貴王の肩をたたいた。
「せいぜい優しくしてやることだ。せめて今日くらいはな……ああ、いい音色だ。琵琶の君であろうか」
風の流れに乗って届く琵琶の音に気づき、清王が感心した面持ちになる。貴王も耳をすました。
「今年の宴は楽しみであるな。牡丹の郷屈指の琵琶の名手、玉芙蓉の君に、何よりそなたの舞が見られるなど」
清王が遠方に見える寿咲殿に目を向ける。今年の奉納祭は、ここ牡丹の郷でおこなわれる。あますところあと一月ばかり。御殿にとどまらず郷は賑々しさに満ちていた。
奉納祭では毎年花神への奉納舞が催される。美しい女花精が舞うことの多い中、貴王自ら舞うという噂はすでに花源郷全体に広まっていた。はじめて披露される貴王の舞を心待ちにせぬ者はおらぬとさえ言われている。
「花精たちも浮き立っている。そなたも罪なことをする」
「一族の繁栄には替えられぬ」
「なるほど」
清王は穏やかに笑った。
「わたしはこれで失礼することにしよう。また近いうちに」
清王が片手を振って去っていく。友の切なる願いを切り捨てて己が郷へと戻る薄情な男を見送り、貴王も身をひるがえした。
貴王が住まうのは登華殿と呼ばれる殿舎である。壮麗な御殿のうちでもひときわ豪奢な造りのここで昼は大臣たちの話を聞き、夜は体を休めているのだが、しかし見た目の派手さのわりに室内はよく冷えており、真冬の独り寝の寒さを思い起こすにつけ、貴王は苦さがこみ上げてきた。そのまま寂々とした己が部屋を素通りし、登華殿の奥の殿舎につながる廊下を進んでいく。そして貴王は庭へと視線を投じた。
中庭に咲き匂う色鮮やかな牡丹は、明るい日光を吸い込みまぶしかった。紅は薄紅に、白は純白に色を変え、目にする者を騙る。しかし惑わされてもそれは快いものであった。貴王は目を細めて眷属の生き生きとしたさまを眺め、その息吹を感じ取った。
ふと朱紅色の髪の女が視界の端に入り、貴王は眉をひそめた。庭をはさんで対する廊下に立つ年嵩の女は、烏羽玉妃付きの女官である。さほど見目のよくない女は濃紅色の双眸にねっとりとした光を浮かべ、貴王の動き一つをすら見逃さぬよう注視していた。
またか、と貴王は女官をねめつけた。しかし憤りをこめた貴王のまなざしにも動じることなく、女官は言なく見返してくる。それが恐ろしくさえ思え、貴王は足早に廊下を渡った。
これが厭わしいのだ――大股で歩を進めながら舌打ちする。御殿内のそこかしこで常に誰かが見張っている。見張られる、干渉される、そのことが貴王には窮屈でならなかった。
貴王は床板に染み入る陽光のぬくもりを感じる余裕もなく、急ぎ頌貴殿に向かった。先の貴王とその妃が住する殿舎には、さしもの烏羽玉妃も容易に踏み込めない。救いを求めて貴王は数ある部屋のうち先の貴王の寝所に最も近い部屋――太后の局の御簾をめくった。
芬々たる多種の香気が鼻をかすめる。数名の小綺麗な女官を左右に侍らせ、中央に座している匂やかな女花精が、顔をのぞかせた貴王に目を向けた。
「これは王、いかなるご用にてのお越しですか?」
低音の、しっかりとした声である。さりとて男ほどに地を這うようなものではなく、熟した慈悲深い声の主に貴王は顔をほころばせた。
「あてなる濃緋紅色の花下より妙なる楽の音が漏れ出づるのを、聞きつけましたゆえ」
楽奏をやめた琵琶の弾き手を流し見る。主の前に腰を落ち着けていた玉芙蓉は、貴王をふり返り、軽く頭を下げた。
ふくよかな花精である。顎は二重、首も顔との境がわからぬほどに肉付きがよい――いや、よすぎると男たちが尻込みするような、肥えた肢体の女であった。しかし額の形がよく、今少し細ければさぞかし美しい花精であったろう。
その淡紅色の髪と瞳が桃色の衣と溶けあい、今日は常にも増して柔らかい印象を受ける。貴王は玉芙蓉に微笑で応えた。
「我が師の楽音はまことに不思議だ。場が変わればその音も変わって聞こえる。弾き手は同じでありながら……」
腰を下ろす貴王に、部屋の主であり貴王にとっては母でもある女が笑った。
「政治の腕のみならず、お口もお習いになったようですね、王は」
「父譲りを感謝しております」
「まあ、ほほほ……されど夕刻までは、玉芙蓉の琵琶の音はわたくしのもの。あなた様がいかにご所望であろうと、お譲りするわけにはまいりませぬ」
「これは冷たいお仕打ちをなさる。わたしの懸想を母君に妨げられようとは……玉芙蓉、そなたからもこの非情な母君に言上してはくれぬか?」
貴王の琵琶の師である玉芙蓉は、こいねがう貴王に笑った。
「花は陽の明るさを慕うものにございますれば」
女官たちの笑い興じる声が室内に広がる。貴王は宙に向かって大仰にため息をついてみせた。
先代の貴王――今は太上貴王と呼ばれている――にはあまたの妃がいた。しかし退位するにあたり太上貴王がともに頌貴殿に行くことを許したのは、現貴王の母后である陽明門のみであった。他の妃はすべて実家へと送り返されたのである。それはそのまま、太上貴王の寵が陽明門にしかそそがれていなかったことを意味する。
壮年でありながら今なお溌剌とした強い美しさを全身よりかもしだす陽明門は、確かに子の貴王から見ても魅力ある女であった。己が妃も母のごとき女を――そう意気込むほどに。
貴王はなみいる美女たちを一通り眺めた。太后自身が臈長けているためか、仕える女官たちも品よく才に長けた者が多い。うち幾人かは過去に貴王が情けを与えたことがあった。
貴王の不意の来訪に緊張しているのか、どことなくぎこちない表情で座している女官たちを見てから、最後に貴王は玉芙蓉へと視線を戻した。屈託のない微笑を向けられ、つられて貴王も笑顔になる。しかしながら玉芙蓉が貴王の口説きに応じたことは一度とてなかった。いつも愛想と機知でかわすのである。
玉芙蓉のつれない態度に、貴王が大げさに消沈しているさまを見た太后は、その美貌にあでやかな笑みを広げた。
「それほどまでにお望みならば、一曲のみということで」
ここまで演じてはじめて許しを得るのも常である。貴王が感謝の意を座礼で示し、母譲りの面輪に喜色をたたえると、太后は満足げにうなずいた。
太后が玉芙蓉に視線を送る。玉芙蓉の撥が弦を弾きはじめた。
女官たちが陶酔した面持ちで聞き惚れる。奏でられる音色に心地よさを覚え、貴王もまぶたを閉じた。
そして夕刻の涼やかな気配が訪れるまで、局の内は雅な空気に満たされていた。