序章 妖の花
長い間しまい込まれていた作品の1つです。休憩がてらあさっていたら出てきました。花の名前にはまった当時、色っぽい話を書きたいと背伸びをして書いたのを思い出し、なつかしさから投稿に至りました。
内容的にはマイナー路線の極みですが、こういうのもわりと好きなので、「私も好きですよ」という方が1人でもいらっしゃるといいな……。
弓なりの月が雲に隠れた、わずか一刻のことであった。空を裂くほどの悲鳴がひんやりとした夜陰に広がり、大地に根をはる草花の花片や葉がさざめいた。
「まだたりぬ」
女――いや、声の質からしておそらく女であろう者がつぶやいた。うつむいているその者の髪は長く豊かであるが、色はこれだと断定できない。それでも闇夜に薄い輝きをもって浮き上がるところを見ると、明るい色であると思われた。
やがて月輪が再び雲の切れ間よりのぞきはじめた。柔らかに降りそそぐ月影が女の足元と、そのそばに横たわるものをも照らしだす。
かたい土の上に転がっていたものは、淡い光を受けてその全体をあらわにした。身にまとう衣は女のものである。衣の袖からは枯れた手がのび、首筋も潤いを失っていた。
地に倒れたまま身動きしない女に、傍らに立つ女はすでに興味を失っているようであった。
「なぜたりぬ?」
悲痛な響きをこめて独語する。女は清らかな光を放つ月を仰いだ。すべての咎を押しつけるがごとく、にらみ上げる。
その顔に瑞々しさはなかった。ひからびた肌は音を立て、あらたな亀裂を生む。割れていく皮膚に女は奇声を発した。
吹く風が女の腐臭におかされ、もだえながら逃げていく。と、女の足元に臥していた者の体が崩れはじめた。それは砂塵となり、最後にちらと花の形を思わせて土と同化した。
遅鈍な動きで女は歩きだした。朽ちた体を引きずりながら、今宵も大地をさまよい続ける。
やがて残された衣が、花びらのごとく風に乗った。
道ばたの花々がそろって顔を伏せる中、衣は風にさらわれる。
誰の目にも触れることなく。
そして何事もなく、夜は明ける。何も知らぬまま、陽は昇る――。