第一話
——ガシャンッ
シンとした空気に、陶器が割れる大きな音が響く。予想だにしない大きな音で、耳のこまくが破けるかと思った……。
『なんだ今の音は!?』
『蔵の方から音がしたぞ!』
『また、アイツか!! こりない奴め!!』
少し離れたところから、複数の男の声が聞こえた。
「あちゃー……。粉々に砕けちゃってるよ……」
月明かりでうっすらと見える足元には、高級品だと言わんばかりの壷だったものが粉々に砕けて散らばっている。
「あ、あたし、悪くないからね……! こんな所に置きっぱなしにしている方が悪いんだから……。って、急がなきゃ!」
こちらに向かってくる足音が大きくなる。たぶん、2、3人の警備員が壷の割れる音を聞きつけたのだ。
足元の埃を巻き上げるように、紙とインクの臭いであふれた部屋を抜け出すと、すぐ目の前に高い塀が現れる。
「ぃよっと」
トンッ トンッ トンッ と、ステップを踏むように勢いをつけて、最後の一踏みで、思いっきり足に力を入れてジャンプをする。
ふわりと風が吹いたように体が宙に浮くと、楽々塀の上に指が届く。
そのまま壁を蹴るようによじ登れば、この町の悪徳成金市長の屋敷から脱出成功だ。
今日は町の税金に困っている人達のために、成金市長の蔵からちょこっと借りていこうと思ったのだけれど、あの壷のせいで失敗に終わってしまった。
時代は大正の大地震から町が復興した頃。
この町の夜はまだ街灯が少なくて、月明かりだけでもぼんやりと辺りが見渡せる。
頬をかすめる夜風はまだ春になり始めたばかりでほんのり冷たい。おかげで緊張して早鐘を打つ心臓と、火照った体を優しく落ち着かせてくれる。
大きくため息をひとつ。民家の屋根から屋根を伝って、遠く後ろの方で騒ぎになっている屋敷を尻目に、いつもの3倍増しくらいで足を速めて立ち去ることにした。
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『号外ーっ!! 号外だよー!! 市長の家に泥棒が侵入だぁ!! 今回は物取りではなく、家宝の壷を割って憂さ晴らしときたもんだ!! これには市長もカンカンだよー!』
日が昇って、学生や仕事に向かう人達が大通りを歩き始めたころ。
たった1人の男の声で、いつもは静かな朝が騒がしくなる。
あたしの家は町の小さな団子屋を営んでいて、大通りに面しているので声の主はすぐに見つけられた。
肩掛けの大きな鞄に新聞をパンパンに詰めこんだ男が、叫ぶように号外新聞をばら撒いている。駆け寄って受け取る人も居れば、興味なしと目的地に淡々と進む人もいて……。
ちなみに、当事者のあたしは言わずもがな後者。
「ああ、団子屋の! はい、号外新聞! 今日もお仕事がんばってね! 後で新作団子を食べに行くよー!」
店の前で開店準備の掃き掃除をしていたあたしに気がついて、ばら撒いていた号外新聞の1部を押し付けてきた。
早口に言いたいことだけ言って、自分の仕事をまっとうする姿は、まさに無駄のない無駄な動きと言ったところ。
手渡された新聞の見出しは、
『町のお騒がせ泥棒、市長の挑発に怒り心頭。壊した家宝の壷は時価3千円か!?』
あの壷は、先月行商人から100円で買ってたじゃない……。
昨夜のことを思い出す。
「もう……、ちょっと……」
薄暗い部屋の中で、戸棚の一番上にある箱を取ろうと、爪先立ちで手を伸ばす。
今なら、なんであの時踏み台を使わなかったのか。自分でも横着なことをしたと思う。
「届い……、あっ!!」
箱に指先が届いて少し動いたと思ったら、隣にあった壷が傾いて——
それはもう、ゆっくりと時間が流れるように。地面に吸い込まれるように。
——ガシャンッ
「なーにが、家宝の3千円よー!」
行商人にだまされて買ったくせに見栄を張ってるのも腹が立つけれど、何よりあたしの邪魔になった事に腹が立って仕方ない。
「金持ちの家には私らが一生暮らせる程の価値がある壷があるんだわな」
新聞の向こうからしわがれた声がする。
「私からすれば毎日の楽しみのお団子食べるだけで、いっぱいいっぱいだってのにねぇ?」
「あ、おばあちゃん! ごめんなさい、すぐにお店の準備が終わらせるから、もう少しだけ待っててね!」
新聞を横にずらすと、常連のおばあちゃんが笑顔でこちらを見ていた。
「いいよいいよ。号外でも眺めて待っとるから、ゆっくり準備して頂戴な」
新聞屋の男に邪魔をされてしまったけれど、今は開店準備の途中だった。
これでもお昼を過ぎた頃には行列ができる人気のお店で、込み合う時間を避けて朝早い時間に来てくれるお客さんも多く、おばあちゃんもその1人。
お店の脇に急いで長いすを出して大風呂敷をかける。日よけの番傘を立てて、入り口の立て看板を『準備中』から『営業中』へひっくり返したら、開店準備は完了。
「おばあちゃんお待たせ! いつもの抹茶セットでいいかな?」
指定席のように、入り口脇の番傘の下で新聞を読んでいるおばあちゃんに声をかける。
「あんちゃんにお任せするよ。旬なものがあればお願いしようかね」
『あんちゃん』と、このおばあさんだけが、お客さんの中であたしの事を名前で呼ぶ。
『御手洗 杏子』と書いて、『みたらし あんこ』と読む。みたらしなのか、餡子なのか、団子屋だけに絶妙なセンスの名付け親に、当の本人である、あたしですら疑問を感じる時がある……。
別に嫌いってわけじゃない。お父さんとお母さんの名前から字をもらって付けられた事も知っているし、ここのお店の店主でもある、『ばっちゃ』が可愛いって言ってくれるのだから、あたしはむしろ誇らしくも思う。
「じゃあ、今の時期おすすめの、桜団子と抹茶のセットにするね」
くるりとエプロンをひるがえしながら、お店に振り向くと、
「ばっちゃー! 桜団子のセット1つー!」
と、奥で団子を作っている店主に呼びかける。
数秒しないうちに『あいよー、すぐ出来るからねー』と声が返ってきた。
今日もなんでもないような、のんびりした時間が流れる、ちょっとしたお騒がせ者のいる小さな町の物語。
大通りを行き交う人たちの数は次第に増えて、所々に植えられた桜の木もそろそろ咲き始める春の一日が始まりました。
毎週金曜 午後三時 に投稿していきます。よろしくお願いいたします。




