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千尋  作者: 篠崎葵
9/14

第九章 ほんとうの父

 十二月に入った。街は既にクリスマス・モードで、道行く人たちがそわそわと行き交う。大通りを楽しそうに話しながら歩くカップルたちが妙に目に入る。賑やかなクリスマスのデコレーション、華やぐイルミネーション、仲のよい恋人たちの姿……。そんな風景を見るたびに千尋の心は痛んだ。

 佳菜子とは、あの日から会っていない。今まで長い間、当たり前のように自分の隣にいた佳菜子がいないことに違和感を覚える。会いたいと思う。今日あったいろんなことを話したいと思う。でもそれはもう叶わない。


 ルシファーは本格的にレコーディングに入った。楽器は順番にレコーディングしていく予定だが、千尋は学校があるので、ヴォーカルには主に土、日を使うことになっている。


 土曜日、千尋は早く目が覚め、そのままスタジオに向かった。予定よりだいぶ早い。

 スタジオに入り、ミキシング・ルームの扉を開ける。誰もいなかった。

 それならそれで構わない。しんとしたスタジオの一室で、一人で考えたいことがたくさんある。

 機械の前、いつもジェフが座っている椅子に座り、JPSのボックスから煙草を一本取り出す。火を点けて、ふうっと白い煙を吐く。

 父さんに何から話そう。ここのところ、ずっと千尋の心に引っかかっている問題だ。もう一週間もしたら、出張から帰ってくる。機嫌のいいときを見計らって切り出さなければ。

 ジェフから要求されていてアルバムに入れる予定の曲も、まだ決まっていない。何曲か作ったけど、どれもしっくりこないのだ。たかが一曲求められているだけなのに、自分の気持ちを曲にするのはなんて難しいんだろう。

 何もかもが、思った通りには運ばない……。


「千尋! 早いな」

 ドアが開くと同時に声がした。驚いて振り向くと、渚がギターを抱えて入ってくるところだった。

「ナギさん……」

「こんな早くから出勤して、どうしたんだ?」

「べつに。ジェフに書けって言われてる曲がまだ仕上がってなくて」

 千尋が答えると同時に、渚は機械の上に散らばっているスコアを拾い上げた。

「へぇ、いくつかできてんじゃん」

「できてるって訳じゃないです。どれも完成してなくて」

「いいさ。アイデア出しとけば、あとはジェフがアレンジしてくれるだろ。ジェフと千尋は仲がいいみたいだから、いい曲ができると思うぜ」

「ジェフとは、俺だけじゃなくてみんな仲いいでしょ」

「うん、まあ、そうなんだけどさ。ジェフと千尋って、二人ともロンドン出身だからかもしれないけど、二人で英語で喋ってると仲良さげで、親子とか兄弟とかみたいに見えるんだよな。なんか似てるし」

「そう……かな」

 親子とか兄弟に見える……。そう言われたのには驚いた。そうだろうか。千尋は戸惑いながらジェフの顔を思い浮かべたが、自分ではよくわからない。日本人の目から見るとそう見えるだけじゃないのか……。

 渚がスコアを目で追う。何枚かに目を通して、彼は言った。

「意外だな」

「え?」

 スコアから千尋に視線を移し、彼は口元で笑った。

「千尋くらいの年だと、『彼女大好き! 恋愛サイコー!』みたいなノリノリの曲を書くのかと思ってたけど、どれも切ない恋愛って感じだな。彼女とうまくいってないの? 佳菜子ちゃんだっけ? アマンドに何回か来てた子」

「まあ……いろいろあって……」

 渚は切れ長の目を細めてちらっと千尋を見た。

「女は難しいからな。ま、でも、それが恋愛ってもんだよ」

 ときどきアマンドやスタジオに奇麗な彼女を連れてくる渚は、彼女と暮らしてもう二年になるという。二人はお互いのことをよくわかっているらしく、何をするにも息がぴったりという感じで、ある意味、千尋の憧れのカップルだ。

「ナギさんでも悩むことあるんですか?」

「そりゃあね。俺だってあいつと喧嘩もするし、機嫌とることだってあるさ。人間、育った環境も性格も好みも違うんだから、当たり前だろ? でも、そんなことを繰り返してお互いをわかってくるんだろうな、って今は思ってるけどね」

「……そうですね」

「敬語使うなって」

「ごめんなさい」

「謝るなって」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 そのとき、ドアが開いてジェフが入ってきた。

「モーニン!」

「ジェフ。モーニン!」

 ジェフは書類の山をどさっとテーブルに置いた。渚が手にしているスコアに気づく。

「新曲?」

「俺じゃなくて、千尋のね」

 言って、渚はスコアをジェフに渡す。そのジェフの姿を、千尋はじっと見た。自分と似た濃いめのブロンド。瞳の色はブルーだけど、顔つきは似てると言われればそんな気もするし、そうでもないと言われればそうかもしれない。

 ジェフはひととおり目を通すと、渚と同じことを言った。

「意外だな」

 渚は笑って応える。

「だろ。俺もそう言ったんだ」

 二人は目を合わせて笑った。ジェフが振り返って千尋に笑いかける。

「千尋、いい曲ができたじゃないか」

「サンクス」

 千尋は少しはにかんで笑った。ジェフに誉められると、素直に嬉しい。

「こういった歌詞のアプローチだったら、バラード、この『Miss You』がいいな。早速組み立ててみよう。イメージが湧いてきたぞ」

 ジェフの頭には、早くも千尋の曲ができ上がりつつあるようだ。


 千尋の曲『Miss You』は、翌週ヴォーカルを入れることになった。千尋が学校に行っているウィークデーにメンバーやスタッフが手を加えて、曲はほぼ完成されていた。

 インストゥルメンタルの音源を聴いた千尋が言った。

「作業、早っ」

「いい曲ができてたから、イメージし易かったんだよ。感想は?」

「俺が思ってたのより全然いいです」

「そっか、よかった。じゃ、リハいってみようか。千尋、レコーディング・ルームに回って」

 促されて、千尋は隣のブースに移動した。

 ヘッドフォンをしてマイクの前に立つ。ジェフの合図でギターやドラムスの音が耳に流れ込み、千尋はヴォーカルをとる。数か所を直すだけで、曲はすぐにでき上がった。

「本番いこう」

「はい」

 全身に緊張が走り、千尋は喉をゴクンと鳴らした。

 ほどなくして、さっきと同じイントロが流れる。目を閉じて耳を澄ますと、泣くような切ない渚のギターの音が響く。ああ、渚は俺がこの曲を書いた気持ちを理解して弾いてくれてるんだな、と思う。

 この曲……。佳菜子への想いを綴った歌。好きなのに、すごく好きなのに、結ばれることはないだろうと思う切なさ、空しさ、悲しさ、やり切れなさ……。

 千尋の歌声とともに曲はサビへと続いていく。


——こんな日がくるのはわかってたはずなのに

  それを認めたくなくて

  信じたくなくて

  いつまでも一緒にいられると頑なに夢見てた


 千尋の艶やかな声が小さな部屋に響く。佳菜子に対する切ない想いがとめどなく沸き上がり、体中に溢れていく。


——ああ 今 壊れるほど強くおまえを抱きしめたい


 不意に千尋の目から大粒の涙が零れ、見る見る頬を伝い顎へと流れ落ちた。と同時に千尋自身が自分の涙に驚いて絶句した。

 インストゥルメンタルが途切れなく流れるなか、千尋のヴォーカルが止まってしまった。

 ミキシング・ルームで見守っていたジェフを始めスタッフやバンドのメンバーも驚いて、声が出ない。  千尋は目を伏せ、ひと言呟いた。

「ごめん……」

 そのままレコーディング・ルームから出ていった。

「千尋……」

 千尋の後を追おうとした渚を、ジェフが制した。

「俺が行く」


 ジェフは廊下をまっすぐ歩いて、階段に来た。

 千尋は階段の隅に座って、声を殺して肩を震わせていた。ジェフは隣に腰を下ろしながら、千尋の肩をポンと叩いた。

「千尋、どうした?」

 ジェフの声は穏やかだった。千尋は涙を拭いて言った。

「なんでもない」

「彼女と喧嘩でもした?」

「してないよ」

 喧嘩なんかじゃない。喧嘩なら仲直りするチャンスはある。問題はそんなことじゃないんだ……。

「そうか。ならいいけど……。辛いことがあるんじゃないのか?」

 ジェフの優しげな言葉。彼に全てを打ち明けて、助けを求めたい。でも、それはできない。

「ごめん……、言えない。でも大丈夫だから」

 ジェフは小さく溜息をついた。

「そうか。言えないって言うなら無理に聞かないけど。何か助けが必要な時は、いつでも相談にのるよ」

「……ありがと」

 そのとき、千尋は不意にジェフが今までどんな風に生きてきたのかを知りたくなった。親子ほども歳の違う彼だが、友だちみたいに親しく感じる。彼は今、幸せなのか。なぜプロデュースの仕事を始めたのか。イギリスで生まれ育ちながら、なぜ今日本にいるのか。

「ジェフは……結婚してるの?」

 ジェフの指に結婚指輪がないのを千尋は知っていた。

「いや、してないよ」

 やっぱり。

「結婚しないの?」

 ジェフは千尋をちらっと見てから、宙を見上げた。

「いい相手がいたら考えるけどね」

 そして、言いにくそうに続けた。

「俺は若い頃の恋がトラウマになってるから、多分ずっとフリーでいるだろうな」

「トラウマ? 恋が? ひどい失恋でもしたの?」

「いや、片想いだったよ」

「彼女に何かひどいことを言われた?」

 ジェフは苦々しく笑った。

「……その程度のことで済めばいいけどね」

「恋愛がトラウマになるなんて、俺には考えられないな」

 千尋は小さく頭を横に振りながら左手で髪の毛をくしゃっと構う。

「俺も若かったからね。あの頃は、今の千尋より、そうだな……四つか五つ歳上だったかな」

「聞かせてよ、ジェフの恋バナ」

 ジェフがフッと自嘲的に笑った。

「聞きたいか? 俺の人生最大の汚点だ」

「ジェフが構わなければ」

 ジェフは僅かに躊躇ったようだが、千尋になら、と前置きして話し始めた。

「あれは、夏だったな。俺は道を歩きながらポケットから携帯電話を出した。そのとき、鍵を落としたんだよ。気づかずにいたら、背後から声をかけられた。『すみません、鍵が落ちましたよ』って女性の声だった。振り向くと、にっこりと微笑む二十歳はたち前くらいの女の子だった」

 若い日のジェフを、千尋は想像しながら聞く。

「今でもはっきり思い出すよ。濃いブロンドのロングヘアに深い緑の瞳で、なんていうか、可憐な可愛らしい子だった。彼女を見た瞬間、俺の世界は変わった。もう彼女の虜さ。そのときはお礼を言って終わりだったけど、彼女にもう一度会いたかった。

 当時、俺はレコード会社とティールームのバイトを掛け持ちしてた。ある日、彼女はそのティールームに客として現れたんだ。夢を見ているようだった。以前見たとおり可愛らしかったよ。彼女は友だち数人としばらくお茶を飲みながら楽しそうに話をして帰っていった。それから何度か友だちとそこにやってきた。彼女に声をかける勇気のない俺は、彼女と友だちの雑談に耳を澄まして彼女の名前を知り、そして絶望した。彼女は貴族の令嬢で、貧しいサラリーマンの息子の俺なんかには高嶺の花だということがわかった」

 なるほど、それで彼は片想いに終わったのかと千尋は思った。ジェフは続ける。

「彼女が来店したのは数回きりだった。それでも俺は諦められなかった。せめて、気持ちだけでも伝えたい。その想いは日ごとに募り、彼女の家の傍で話しかけるチャンスを待った。けど何度待っても彼女に会う機会はなかった。

 そんなある夜、バイトの帰りだった。ひどい雨が降ってたんで、早く帰ろうと歩いていると、道の向こうから誰かがふらふらと歩いてくるのが目に入った。あまり治安のいい地区じゃなかったから、ジャンキーかなと思った。その顔がはっきりわかる位置まで近付いて、俺は目を疑った。あの子だ、間違いない。ただ、彼女の様子は普通じゃなかった。みぞれのような冷たい雨なのに傘もささず全身びしょ濡れだし、足元は今にも倒れそうだし、視線は定まってないし……。なぜ彼女がこんな時間にこんなところにいるのか。それもこんな状態で。俺には理解できなかった。でも、間違いなく彼女は今目の前にいる。『どうしたの?』と声をかけようかと思った。けど、数か月前にたったひと言言葉を交わしただけの俺なんか覚えてないだろう。それなら……。そう思って俺は、彼女を近くの倉庫に連れ込み……」

 瞬間、千尋の心臓がドクンと大きな音を立てた。

「犯した……」

——まさか……!!

 心臓がバクバクと激しく鼓動し、千尋の表情が凍りつく。ジェフは淡々と続けた。

「今でも耳に残っている……泣き叫ぶ彼女の声。嫌がる彼女を無理矢理犯して得たものは、ほんのちっぽけな満足感とひどい自己嫌悪だけだった。なぜあんなことをしたのか……俺は悔やんだ。だけど、ずっと、ずっと……。彼女をこの手で抱きしめたいとどれだけ願ってたか……」

 千尋は頭が混乱していた。ジェフの言う「彼女」とは、母シェリーじゃないのか? 濃いブロンド、ロングヘア、深い緑の瞳、貴族の令嬢……、いくつものキーワードが母と重なる。そして、母から聞いた話とも一致する。

「彼女」の名前を確かめるべきか。確かめて、もしそれが本当なら、どうしたらいい……?

 千尋は床に目を落としながら恐る恐る訊いた。

「……彼女とは、それから……?」

「それきりだ。会ってないし、見かけてもない。彼女が今どうしてるか知らない」

 言ってジェフは宙に目を移す。

「彼女にはほんとうに悪いことをしたと思ってる。謝罪したいと思った。だけど彼女はそんなこと望んではいないだろう。俺が彼女のためにできることは何か、考えて、俺なりの結論を出した。それは、彼女の前から消えることだ。俺はイギリスからフランスに渡った。そしてドイツ、オーストリア、カナダ……。いろんな国を渡り歩き、今はここ日本にいるってわけさ」

 ジェフは千尋を横目で見た。

「これが俺の最初で最後の恋、そして人生最大の汚点だ。軽蔑しただろ?」

 千尋は返事ができなかった。母を、精神を患うほど苦しめたかもしれない男が今、隣にいる。一瞬殺意を感じ、千尋は膝に置いた拳を強く握りしめた。

 しかし同時に、その男は自分の本当の父親かもしれない。

 千尋は賭けてみた。

「ジェフ……。血液型は、何型?」

——O型であってくれ、頼むから……!!

「A型だよ」

 ジェフはさらりと言った。千尋は目の前が真っ暗になった。

 今、隣にいるこのジェフリー・ニールセンが自分の父親に違いない。こんな……こんなに近くにいたなんて……! ジェフと話しているとどこか懐かしく身内のように感じるこの感覚は、血が繋がっているからなのか。偶然同じ音楽の道を進んだのも、血の繋がりがそうさせたのか。

「ごめん、今日は帰る。明日はちゃんと来るから……」

 千尋はふらふらと立ち上がった。

「千尋、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

「大丈夫」


 千尋は駅に向かった。

 歩きながら、ジェフの話が何度も頭の中を駆け巡った。思い返せば思い返すほど、彼の話はシェリーから聞いた話と重なる。

 自分の血の半分は、彼と繋がっているのだろうか。大好きな、あの一条千歳とは、なんの繋がりもないのだろうか。もしできるなら、この身体に流れる血を一滴残らず抜き去り、シェリーと千歳の血を半分ずつ入れたいとさえ思う。


 駅で佳菜子に電話をかけた。彼女に再びコンタクトをとることで、別れたとき以上に彼女を傷つけてしまうかもしれない。それによって、自分自身にまた重荷を背負うことになるかもしれない。それはわかっている。けれどこの話ができるのは彼女しかいない。彼女の声を聞かずにはいられなかった。

 何度目かのコール音の後、佳菜子の緊張した声が耳に入った。

「はい」

「佳菜子? 俺」

「うん」

「元気か?」

「うん、元気だよ。どうしたの?」

 もう三か月以上会っていない。でも彼女の声や話し方は以前のままで、三か月前にワープしたような感覚を覚える。

「今、どこにいる?」

「家だよ」

「……話したいことがあるんだ。今からそっちに行ってもいいかな」

「いいよ」


 電車を降りて佳菜子の家まで歩くと、彼女は家の前で待っていた。

「よっ」

 声をかけると、彼女は見慣れた笑顔で言った。

「久しぶり。元気だった?」

「ん」


 佳菜子の部屋に入り、ソファの肘掛けにギターを立て掛けると、二人は並んで座った。テーブルにはお茶の用意がしてある。別れたあの日のことが思い出される。

「何かあったの?」

 紅茶を入れながら、佳菜子が訊く。千尋は何から話したものかと迷いながら返事する。

「うん……。あの……、さ……。俺の……、本当の父さんがわかった」

「えっ。まじ? だれ!?」

 佳菜子は驚いてお茶をこぼしそうになった。

「俺たちのデビュー・アルバムのプロデュースをしてくれてる、ジェフリー・ニールセン」

 紹介したことがないので佳菜子はジェフを知らない。矢継ぎ早に問いかける。

「どんな人? 間違いないの? なんでわかったの?」

「ジェフは白人で、ロンドン出身なんだ。証拠はない。けど、彼の話を聞いてほぼ間違いないと思った」

 千尋は今日の彼との話を簡単に佳菜子に話した。それを聞いた彼女は信じられないといった表情で呟いた。

「そんなことが……あるんだ……」

「俺も半分信じられない気持ちだよ。だけど彼が俺の本当の父さんだと考えるとき、それを否定できる要素がどこにもないんだ。ロンドンで生まれ育ち、好きになった人をレイプし、俺たちは同じ音楽の道を歩んでる。偶然だとは考えられない」

「そうだね……」

 佳菜子は小さく息をついて視線を落とした。千尋が、独り言のように言った。

「母さんに……知らせるべきかな。大事なことだからちゃんと伝えたほうがいいと思うけど、母さんの気持ちを思うと言わないほうがいいとも思うし……」

「うん……」

 佳菜子は少し考えて、言葉を選びながら応えた。

「まだ推測でしかないから、言わないほうがいいんじゃないかな。おばさまに余計な心配かけちゃうかもしれないから。それに……」

 遠慮がちに、言葉を区切りながら続ける。

「おばさま、レイプされたこと……ずっと心に病んでらっしゃるんでしょう? その出来事を忘れたいって……思ってらっしゃるんじゃないかな。だとしたら、できる限り触れないであげたほうがいいんじゃないかなって思う……」

「そうだな」

 二人は黙り込んだ。

 やがて千尋はギターを肩に掛け立ち上がった。

「ありがと、佳菜子。どうしたらいいのか、ちょっと悩んでたんだ。確かに佳菜子が言うように憶測でしかないし、母さんにはジェフのことは言わないでおくよ」

 言って千尋はドアに向かった。佳菜子もそれに続く。

 ドアの手前で振り返り、千尋はまっすぐに佳菜子を見た。千尋の大好きなストレートの黒髪。黒目がちの瞳。柔らかなラインの頬。白い肌。愛しさが溢れて、苦しい……。彼女はいつも自分が求めている通りのことを返してくれる。今日だって、あんなに悩んでいた大きな問題を一緒に考えてくれたのは、彼女だからこそだ。自分には佳奈子が必要なのだと心の底から思う。

「佳菜子、このあいだは、ごめん」

「え? なに?」

「別れてくれって言ったこと」

 ああ、と佳菜子は柔らかな笑みを浮かべた。

「いいよ、そんなの。千尋があたしのためを思って言ってくれたのはわかってるし、今こうして一緒にいてくれてるんだから……」

 佳菜子の言葉が終わるか終わらないかのうちに、千尋はふわりと両手を広げて佳菜子を胸に抱いた。そんなことは初めてで、佳菜子は思わず息を詰めた。呻くような千尋の声が、佳菜子の耳のすぐ傍から聞こえる。

「俺……、やっぱ佳菜子がいないとダメだ。会えないあいだ、すっごく辛かった……」

 佳菜子はただ、千尋の腕の中で自分の胸がドキドキいうのを感じていた。

 千尋が腕を解いて言った。

「明日、父さんが帰ってくる」

「ほんと!?」

「うん。そうしたら、できるだけ早く本当のことを話してみる。父さんがどう言うか、俺がどうなるか、わかんないけど……。それでも……ほんとうにそれでも構わなければ、もう一度俺と付き合ってくれないか?」

「え……?」

 佳菜子は驚いて言葉が出なかった。千尋が不安そうに佳菜子の目を覗き込む。

「いやか?」

 佳菜子は恥ずかしそうに首を横に振る。

「ううん、嫌なわけないじゃん……」

「よかった……」

 千尋はもう一度佳菜子を抱きしめた。

 ややして、千尋は腕から佳菜子を解きながら言った。

「やべ。いつまでもこうしてたら、佳菜子を押し倒したくなる。もう帰るよ」

 言ってドアに向かう。千尋の後ろを歩く佳菜子の頬が染まった。

「もうっ、千尋のエッチ」

 千尋はちらっと佳菜子を振り返る。

「ふん、エッチな俺に惚れてるんだろ」

 言って小さく舌を出す。佳菜子は千尋の背中をバシッと叩いた。

「意地悪っ!」


 門の外に出ると、千尋は佳菜子に振り返った。

「明日はレコーディングがあるから会えないけど、月曜日の放課後はまた一緒に帰らないか?」

「うん」

 佳菜子が笑顔で頷く。

 この笑顔を見ると安心する。やっぱり自分にはこの笑顔が必要なんだ。千尋は改めてそう思い、自分の心が穏やかになるのを感じていた。

「じゃな」

「うん」

 遠ざかっていく千尋の姿を佳菜子はいつまでも見送っていた。キスしてくれなくてもいい、手をつないでくれなくてもいい。こうして傍にいてくれれば、それだけでいい……。

お読みいただきありがとうございます。

お気軽にメッセージ、感想などいただけると嬉しいです。

これからもよろしくお願いします。

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