第五章 夏休み
いつもの夏休みなら、佳菜子とデートしたり、コンサートに行ったり、スタジオを借りてバンド仲間と練習したりして四十日が過ぎる。
だが今年はそれどころじゃない。ビート・エコーのスタジオでジェフと打ち合わせや音を試したり、ルシファーのメンバーと貸スタジオで練習したり、ヴォイス・トレーニングを受けたり、アマンドでのステージもこなさなければならない。千尋は急に忙しくなって、佳菜子とのデートどころではなかった。
* * *
夏休みに入って数日が過ぎた朝、千尋は早く目が覚めた。六時半。休みだというのに、どうしてこんなに早く起きてしまうのだろう。
ゆっくりとシャワーを浴びて朝食を摂ったあと、スタジオに行こうと廊下を歩いていると、母のシェリーに会った。
「あら、千尋、早いわね」
長いブロンドを揺らして少女のように微笑むシェリーは、手にバスケットを持っている。
「どこか行くの?」
「庭に。チェリーセージが奇麗に咲いてるのよ」
「手伝うよ」
海外に一条が経営するホテルや銀行が多数あるため、父の千歳は一年の半分くらい出張で留守にする。シェリーは千歳が帰る日をいつも心待ちにしている。今日は二か月ぶりに帰ってくる予定なので、気分がいいようだ。
両親は本当に仲がいい。だが、千歳との結婚を周囲に反対された中で千尋を産んだシェリーは、そのことが原因で長いあいだ精神を煩っている。鬱状態になると突然泣き出したり、言葉を忘れたかのように長時間黙り込んでしまうときもある。不安定になると心配なので、千歳はなるべくシェリーを一人にしないように心がけている。話し相手になるように専属のメイドを雇っているほどだ。
二人は中庭に出た。シェリーの言ったとおり、イングリッシュガーデンの一角で小さな赤い花をつけたチェリーセージが夏の朝日を浴びて気持ちよさそうに輝いている。
「いつ見ても可愛い花ね」
シェリーは上機嫌で一本ずつ丁寧にはさみを入れる。千尋はそれを受け取りバスケットに入れながら言った。
「今日、父さんが帰って来るんだろ?」
「そうよ」
「母さんは、父さんが帰る日は、いつも部屋に自分で切った花を飾ってるね」
「あら、だって、そのほうが幸せな気持ちになるでしょう? 庭に植えてるのは千歳の好きな花ばかりだし」
「はいはい、ごちそうさま」
スタジオに着いたのは、予定の時間より三十分以上早かった。指定されたリハーサル・ルームに向かう。廊下から、ガラス張りのミキシング・ルームにジェフがひとりでいるのが見えた。ヘッドフォンをして何かを聴いている。しばらく見ていると、ジェフは千尋に気づいてヘッドフォンを外し、廊下に出てきて声を掛けた。
「やあ、千尋。早いね」
「早く目が覚めちゃって。何してんですか?」
「君たちのテストジャムを聴いてたんだよ。どういうアプローチがいいかと思ってね。聴いてみる?」
「いや、いいです。恥ずかしいから」
ジェフは笑って親指で部屋の中を指す。
「千尋、入りなよ」
言われるままに、千尋はミキシング・ルームに入った。
レコーディング・ルームに接するガラス窓の手前は機械でびっしりと埋められている。あとは小さなテーブル、ソファ、棚がひとつずつ、折りたたみ椅子が数脚。人がやっとすれ違えるくらい狭い。
ジェフは自分が座っていた椅子の隣に千尋のための椅子を置いた。
「千尋はどんな音楽が好きなの?」
「俺は、基本的にはストレートなロックン・ロールが好きです。七十年代前後のストーンズとかツェッペリンとかクラプトンみたいな」
「懐かしいな。俺もあの時代の音楽はよく聴いたよ。『レイラ』は最高だね」
「あぁ、俺も『レイラ』大好きです!」
二人はイントロを真似して笑いあった。
「クラプトンのコンサートはよく行ったなぁ。このイントロが始まると、オーディエンスのテンションが変わるんだよね」
「みたいですね。俺はライブ行ったことないから……」
ジェフは「おや」という顔をした。
「千尋はずっとロンドンに住んでたんだろ? クラプトンのライブ、行ったことないの?」
千尋の脳裏に、あまり思い出したくない子供の頃の記憶が甦る。
「ほとんど外に出ない子供だったんで……」
俯き加減で答える千尋を、ジェフは不思議なものを見るように見下ろす。その視線を避けるように、千尋は笑顔を作って話を振った。
「ジェフもイギリスなんですよね? ロンドン?」
マルボロを箱から抜きながら、ジェフが答えた。
「うん、そう」
「どのへん? 俺はケンジントンだったけど」
「へぇ、いいとこ住んでたんだね。俺はイースト・エンドのほうだよ。労働者階級さ」
二人は、出身地のイギリスの話や、趣味の話や、日本での生活の話などで盛り上がった。
やがてジェフが煙草の煙を吐いてから言った。
「千尋、アルバムのための曲を書いてみないか?」
「作曲なら、渚さんが……」
「きみの曲を聴いてみたいんだ。ラブソングがいいな。彼女は? いるんだろ?」
「いますけど……」
千尋は恥ずかしくなって、思わず目を伏せる。脳裏に佳菜子の笑顔が浮かんだ。ジェフがニヤリと笑う。
「彼女に捧げる曲を書いてみなよ。歌詞は英語でも日本語でも構わない。ロックでもいいし、バラードでもいい。難しく考えなくていいから」
「はい……」
そのとき、ガラス窓を軽く叩く音がして顔を向けると、廊下に翔と幸彦の顔が見えた。
「うーっす」
「お、来たね。そろそろ打合わせの準備しようか」
千尋はジェフに続いてミキシング・ルームを出た。
夜、家に帰ると執事が言った。
「千尋様、お父様がお帰りになって、お部屋でお待ちです」
「ありがとう」
自分の部屋に荷物を置き、すぐに両親の部屋に行った。
ノックをして入ると、両親は窓辺のテーブルを挟んで座り、まるで恋人同士のように楽しげに話をしていた。テーブルには、今朝切ったチェリーセージの花が飾られている。
「おかえりなさい、父さん」
「千尋、元気にしてたか?」
千歳が笑顔で立ち上がり、歩み寄って千尋の肩に腕を回した。
「うん、元気だよ。父さんも元気そうだね」
「もちろんさ。そうそう、サッカーの試合を観に行きたいと言ってただろ。チケットを取らせたんだ。明後日だけど、一緒に行かないか?」
「やった! 行く行く! ありがとう、父さん」
大好きな父の元気な姿を見て嬉しく思いながらも、千尋は心のどこかで戸惑う。いつか、父には本当のことを話さなければ。「俺は父さんの本当の子どもじゃないんだ」と。
父はどんな反応をするだろうか。冷静に聞いてくれるだろうか。逆上するだろうか。万が一、この家を追い出されるようなことになったら……。真実を話すことによって、それがもしかしたら父との訣別のときになるかもしれないのだ。
また、父に打ち明けることは、母にとっても大きな精神的負担になり、心をひどく乱しかねない。精神を患っている母がどうなるか、想像がつかない。
自分のことはいい。何があっても、どうにかして生きていくことはできるだろう。母のことだけが心配だ。どうかこのまま、最愛の父の元で心穏やかに暮らせるように……。ただそれだけが願いだ。
そんなことを考えると、千尋はなかなか言い出せないでいた。
* * *
数日後、アマンドでのライブの日だった。
アメリカやイギリスのバンドのコピーやルシファーのオリジナルを演奏し、オーディエンスは大いに湧いた。
演奏が終わってホールに戻ると、いつものようにファンに囲まれる。
この日は珍しく佳菜子が来ていたので、ライブが終わると二人はファンから逃げるように店を出た。
夏の夜の街は遅くまで騒々しい。午後九時は、まだ薄明るいような気がする。
「はぁぁ……」
千尋が大きく息を吐いて肩を落とす。
「ステージより、終わってからのほうが疲れる……」
佳菜子は千尋を見上げてにっこりと笑った。
「ルシファーに入ってからすごい人気だもんね。人気税だよ」
彼女の笑顔を見ると、ほっとする。千尋も穏やかな笑みを返した。
「ごめんな、ゆっくりできなくて」
切なく揺れる眼差しが佳菜子に注がれる。自分だけを見つめる緑の瞳に佳菜子はドキンとして、慌てて目を逸らした。
「ううん……。最近千尋、忙しそうだから、久しぶりに会えて嬉しかった」
寂しさを我慢している佳菜子の横顔。三年半という長い時間を共有してきたのだ。横顔からでも、千尋には彼女のその心が感じ取れる。
音楽への道を歩むことを決めたため、彼女と会う時間が急激に減ってしまった。寂しい思いをさせているに違いない。なのに、それを恨むことなく受け入れてくれる。佳菜子への愛しさが溢れてくる。
千尋は片腕でそっと佳菜子の肩を抱いた。初めてだった。思わず手が出てしまったのだ。
佳菜子の柔らかな肌を感じたとたん、千尋は思った。
——やべぇ……!
すぐに手を離し、ごまかすように彼女の肩をぽんと軽く叩く。
「どっか寄って、お茶でも飲んで帰る?」
佳菜子のほうも、千尋に初めて肩を抱かれて戸惑っていた。応えがぎこちなくなってしまう。
「ん……。そうしたいけど、もう帰らなきゃ」
「そっか。じゃ、帰ろっか」
駅へ向かった。
もう一度肩を抱いてくれるか、あるいは手を繋いでくれるかと期待しながら、佳菜子は千尋の隣を歩く。なのに彼はいつものように、ただ話をしながら並んで歩くだけだった。
「明日は、バンドの練習だっけ」
「うん」
「明後日は? 会える?」
「明後日はヴォイス・トレーニング。その後ビート・エコーでテストがあるから、いつ終わるかわかんねぇや」
「そっか……」
——寂しい……。
もう何度も繰り返したその言葉を、佳菜子の心が今日も呟く。でもそれを声に出すことはできなかった。
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