第二章 学園祭
千尋と佳菜子が付き合うようになってから二年半が過ぎ、高校二年の学園祭の時期になった。
終業時のホームルームが終わり、佳菜子は2−Aの千尋の教室に向かった。髪の長い女子生徒が、廊下の窓越しに教室の中の千尋に声を掛けているのが見えた。
「千尋くぅーん!」
彼女のことは佳菜子も知っている。一ノ瀬愛美。アメリカでの生活が長かったという噂の帰国子女だ。背が高くてスタイルが良く、小顔で、どこか日本人離れしている美人。大きなキリッとした目は意思が強そうだ。モデルクラブに所属し、ファッション雑誌のグラビアでよく見かける。
すぐに千尋が彼女の目の前に現われ、何か言葉を交わした。一度席に戻った千尋は、紙を持って来て彼女に手渡す。彼女は受け取り、にっこりと笑う。さすがモデルだけあって、きれいな笑顔だ。
「ありがと。じゃ、またね、千尋くん!」
「おうっ」
佳菜子が教室の入口に行こうとすると、すれ違いざまに彼女がギラッと刺すように冷たい目で佳菜子を睨んだ。こんな風に千尋に媚びを売る女の子が多すぎる。廊下を歩いていく八頭身のスタイルを目で追いながら、嫌味のひとつも言ってみたくなる。
「千尋、随分と仲が良さそうね」
千尋はあっさりと返す。
「一ノ瀬のこと? 彼女は学祭のコンサートの担当者だよ。うちのバンドが演奏する曲のリスト、提出頼まれてたから渡したんだ。そんだけ。待ってろ、今、鞄取ってくる」
気にしてる様子はなく、佳菜子はちょっとホッとした。
ホールから外に出ると、暑かった夏の風がずいぶん涼しくなったのに気づく。中間試験が終わり、あちこちで学園祭の準備が始まっている。
学校から駅に向かう道を二人並んで歩きながら、いつものように取り留めない話が弾む。
「中間の結果、返ってきた?」
「きた、きた」
「今度は一番取れた?」
佳菜子が興味深そうに千尋に訊く。
「またダメ。宇治原には勝てねぇや。俺は年中二番目だ」
「でも、二番なんだからすごいよ。あたしなんて、三十六番だよ。頑張ったのに」
「頑張ったんならそれでいいよ。青蘭の大学部に行くには全然問題ないだろ」
千尋は優しげな瞳で佳菜子に微笑みかけ、長い両腕を空に向かってしなやかに伸ばした。
「それより、次は学祭。俺も頑張んなきゃな」
学祭……。千尋に憧れたのは、中等部二年の時に彼らの学園祭のステージを見たからだった。艶やかな長いブロンド、すらりとしたスタイル、ギターを弾きながら自分の知らない英語の曲を完璧な発音でカッコよく歌う。本物のミュージシャンのようにキラキラと輝いていた。佳菜子はあの日のことを懐かしく思い出す。
「今年の学祭は、何を演るの?」
「今年は『ロング・トレイン・ランニン』やるんだ。イントロが難しくてさ。練習しなきゃ」
「聴いてみたいな。今度CD貸してよ」
「うん。明日持って来るよ」
* * *
学園祭のコンサートは大盛況だった。女子の黄色い声が飛び交い、男子も憧れの眼差しで見る。同級生や上級生はもとより、今年入学した生徒たちや中等部の多くをも魅了したに違いない。千尋たちのバンド、ノーティ・ボーイズは、青蘭学園ではちょっとしたスターだ。
追いかけてくる女子たちを振り切りイベントホールから出て、楽器を片付けるために教室に向かった。
途中の渡り廊下で佳菜子に会った。いつもの学園祭同様、賑わうイベントホールを避けた場所で、ハルの彼女である奈緒と一緒に千尋たちを待っていた。
「お疲れ!」
「おう! ステージ、どうだった?」
「『ロング・トレイン・ランニン』のイントロ、よかったよ」
さらっと言う佳菜子を横目で睨んで、千尋が不愉快そうに訊く。
「俺のヴォーカルはどうだったんだよ?」
「いつもどおり、カッコよかったよ」
「それを先に言え」
千尋がおどけてドヤ顔を見せる。そのうしろからハルが言った。
「俺たち、帰りに『Gクレフ』で反省会するから、今日は先に帰ってて」
奈緒が頷いて佳菜子に微笑みかける。
「うん。佳菜子、一緒に帰ろ」
ハルと奈緒はいつも一緒に帰っている。けれど学園祭のステージがある日だけは特別だ。バンドのメンバーは毎年の恒例行事として『Gクレフ』で反省会をするので、奈緒と佳菜子が一緒に帰ることになる。
放課後、佳菜子と奈緒は、学校から続く並木道を一年ぶりに一緒に歩いた。二人は中等部に入ったときからの親友だ。千尋に告白したバレンタイン・デーの前、チョコレートを渡そうかどうしようかずっと悩んでいた佳菜子の背中を押してくれたのは奈緒だった。
ハルの彼女ではあるが、千尋のファンでもある奈緒は興奮気味に話す。
「千尋くん、素敵だったね。今年もいろんな女の子からラブレターもらったり、告られたりするんだろうなー。去年も凄かったものね」
「そっ……かな」
佳菜子は自信なさそうに曖昧な答えを返すだけだった。奈緒が元気づけるように続ける。
「そうだよぉ。外タレの来日コンサートみたいでカッコイイじゃない。あのブロンドと緑の瞳が魅力よねぇ。あ、でもね、告られても『好きな子がいるから』って断ってるらしいよ。ハッキリそう言うとこがまたステキなのよね」
佳菜子は力なく笑った。
「どしたの、佳菜子? あんなイケメンでモテ男の彼氏がいるのに、テンション低いんだからぁ」
「どうもしないよ……」
やはり声には元気がない。奈緒は話を盛り上げようと、周囲を気にしながら佳菜子に顔を寄せて小声で言った。
「ね、千尋くんとキスした?」
一瞬、驚いたように奈緒と視線を合わせ、佳菜子は首を横に振った。
「えー、まだなの?」
佳菜子と千尋が付き合い始めてから、もう二年半以上が過ぎる。数えきれないほどデートをしたけど、千尋はキスどころか手も繋いでくれないのだ。奈緒とハルがそれ以上の関係で仲がいいことを知っている佳菜子は、情けなくもあり、悲しく思う。
「千尋くんて、そんなにストイックなのかなぁ。そんなふうには見えないけど」
奈緒が不思議そうに言うと、しばらく俯いていた佳菜子がぽつりと言った。
「千尋は……ホントにあたしのこと好きなのかな。惰性で付き合ってるだけじゃないのかな。『好きな人がいる』って、誰か他の人のことかも……」
それは、佳菜子が長い間抱いていた疑問だった。声に出すと涙が出そうになる。
奈緒が首を横に振って佳菜子の言葉を否定した。
「そんなことないよ! 千尋くんから佳菜子以外の女の子の名前が出たことないって、千尋はよっぽど佳菜子のことが好きなんだなって、ハルが言ってたよ。自信持ちなよ、佳菜子」
そう言って奈緒は佳菜子の肩を抱いた。
一方、メンバーは「Gクレフ」にいた。
千尋は自分たちの演奏に満足していなかったけど、他のメンバーは一年ぶりのステージでキャーキャー言われてすっかりスター気分に浸っていた。
トシがやり切ったとばかり、テーブルにつっぷして言う。
「あー、楽しかった。ほんっと、ライブっていいよな」
タカシが続いた。
「学校のイベントホールでこうなんだから、武道館なんてどんだけ気持ちいいんだろ。一度味わってみてーな」
トシは顔を横に向け、タカシを見上げた。
「武道館なんて贅沢言わねぇ。俺はチッタでもゼップでもいい。本物のステージでライブできたら死んでもいいよ」
二人の会話を聞いた千尋は鼻で笑った。
「おまえら、そんなんで満足なのか?」
「なぁに言ってんだよ、千尋。ゼップで演んのだって、たいへんなんだぜ」
「そうだよ。おまえはそう思わねーのかよ?」
待ってましたとばかり、千尋は緑の瞳を輝かせてニヤリと笑う。
「俺が目指してるのは、ゼップでもなければ武道館でもないぜ。ウェンブリーだ」
「ウェンブリー!?」
ウェンブリー・スタジアムは千尋の生まれたロンドンの北西部ブレント特別区ウェンブリーにあるサッカーの聖地だ。コンサート会場としても有名で、クィーン、U2、ワン・ダイレクションなど多くの人気アーティストがライブを行ったことでも知られている。
そこは千尋が物心ついたころから、漠然とではあるけど、憧れていた舞台だった。一度だけ、「誰にも内緒だぞ」という約束で伯父に連れていってもらったことがある。日常とはまるで違う空間だった。洪水のように溢れ出る音楽、巨大なスクリーン、その回りには数々の目映いライト、ファンの歓声。ミュージシャンもオーディエンスも、なんて楽しそうなんだろう。そして、なんてきらびやかな世界だろう。いつかここに立ってみたい……。
ところが他のメンバーには想像を超えるスケールだったらしく、彼らは目を丸くした。
「デカ過ぎねーか? ウェンブリーったら、確かキャパ十万近くあんじゃね? 武道館の五、六倍じゃん。俺たちにそこまではなぁ……」
気弱になるトシに、千尋がはっぱをかける。
「んなこと言ってたら、ゼップだって無理じゃね?」
「いや、ゼップくれーは頑張って実現する!」
「そう思うんならもっと上達しないと。とりあえず、ステージの数増やしたいな」
「でも、どうすりゃいんだよ? 学祭は年に一度っきゃねんだぜ」
「路上は?」
「アプローチとしてはいいけど、路上にタイコ運ぶのは無理だな。それにアンプ使うなら発電機でも持ってかねーと」
「うーん……」
みんなが考え込んだとき、千尋が言った。
「ライブハウス的なとこは? 高校生でも出演させてくれる店もあんじゃね?」
「あるかもな!」
「調べてみようぜ」
千尋の案にみんなが乗って、それぞれ出演させてもらえそうな店を探した。
店のオーディションを受け、「アマンド」というライブ喫茶で月に一、二度、土曜日の夜に演奏できることになった。
日曜日、千尋は佳菜子と「Gクレフ」で待ち合わせた。オーディションにパスしたことを話すと、彼女は嬉しそうだった。
「すごーい! やるじゃん!」
「まあな」
「そのうち、スカウトが来たりして」
佳菜子が冗談めいて言う。千尋は視線を落としてぽつりと応えた。
「そうなるといいけどな……」
「えっ? マジでプロになるつもりなの?」
佳菜子が驚いて千尋の顔を覗き込む。その目を避けるように千尋は横を向いた。
「プロとして喰ってけるくらいの実力がついたらいいな、ってことさ」
佳菜子はケラケラと笑った。
「千尋がプロのミュージシャンになったら、一条の家が困るもんね。あんなに大きな家のひとり息子なのに」
佳菜子が言うとおり、一条家は国内でも有数の名家で、千尋はその家のひとり息子だ。一条家は主に金融業を営んでおり、系列の会社はホテル、アミューズメントパーク、デパートなどを幅広く経営している。千尋は当然、一条家および会社の跡取りと見なされている。普通に考えれば、そんな彼がプロとして音楽の道に進めるはずはない。
佳菜子のあっけらかんとした笑い顔を見て、千尋も口の端で小さく笑った。
二人はコートを着て、店を出た。日が翳ると急に冷え込み、北風がコートの裾を揺らす。
佳菜子が、風に乱された髪を撫でながら言う。
「今夜は寒くなりそうだね。明日は晴れるといいな」
「そうだな」
左耳の下で結んだ長い金髪を風に散らされるままにして、千尋は寒そうにポケットに手を突っ込んだ。佳菜子はその腕に自分の腕を絡めて、ぴったりと千尋に寄り添う。
「なんだよ?」
「だって、くっついてるとあったかいんだもーん」
「……」
一度もキスをしてくれない千尋に、佳菜子は時々こうしてモーションをかけてみる。それでも彼は乗ってこない。彼のほうから手を繋いだり佳菜子の肩を抱いたりすることは、一度もなかった。
回りの友だちは、付き合って一、二か月もすればキスしたなんて噂を聞く。学校帰りや街でカップルが仲良さそうに手を繋いで歩いているのを見ると、羨ましくて泣きそうになる。
千尋の様子では、佳菜子に不満を持っていたり嫌っていたりということはなさそうだ。それどころか、今日のようにいろいろな出来事を嬉しそうに報告したり、相談をもちかけたりすることもある。佳菜子を必要として大切に思ってくれていることはわかる。
ならば、高校二年の男子が、三年近くも彼女と手すら繋がないなんてことがあるだろうか。キスなんて挨拶代わりのイギリスで生まれ育ったはずなのに。
時には、他にも付き合っている女の子がいるんじゃないか、好きな子がいるんじゃないか、などと疑いたくなることもある。だって、彼は背が高く、スタイルが良く、ブロンドで、深い緑色の瞳をしていて、とにかく目立つのだ。まるで少女漫画から抜け出た主人公のように綺麗で、学校の内外を問わず、彼に憧れている女の子は山ほどいる。
それでも、佳菜子は千尋のことが大好きだった。彼とずっと仲良くしていたいと願っていたし、いつかは結ばれると信じていた。千尋の傍にいれば、彼の温かさを感じていれば、それを信じられる。
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