第十四章 Good-bye
年末。
千尋は成田空港にいた。
ジェフに見送りはいらないと言われたものの、このまま彼と二度と会えなくなってしまったら後悔すると思った。ビートエコーの島社長に、彼の出発日と搭乗便を教えてくれるよう頼み込んだのだ。最初は口止めされているからと頑な島社長だったが、千尋の熱意に負けて、口外しないという条件で教えてくれた。
オーストラリア行きの搭乗手続きカウンターの周辺では、大勢の旅行者が大きな荷物を持って行き交う。クリスマス休暇で国に帰る人や、正月の休暇を利用して旅行に向かう人がほとんどだろう。そんな忙しそうな人々を横目に、柱の陰で彼を待つ。
何分経っただろう。ジェフが、見慣れた歩調で歩いてきた。チャコールグレーのスーツにサングラス、手にはアタッシュケースとトレンチコート。いつもスタジオで見るTシャツにジーンズの彼とは別人のようだけど、すらりとしたスタイルや柔らかそうなブロンドは変わらない。
「ジェフ……」
千尋が彼の前に立った。
「なんだ、ひとりで発ちたいって言っておいたのに」
ジェフは非難する様子はなく、足を止めて口の端に小さな笑いを作った。
「見送りたかったんだ。……向こうで、住むところとか決まってるの?」
「いや、とりあえず友だちのところに転がり込んで、それからゆっくり探すつもり」
「決まったら連絡してよ。会いに行くから」
ジェフはサングラスをはずして胸ポケットに掛け、どこか遠くを見るように青い目を細めた。
「いや……。俺たちはもう会わないほうがいいよ」
「どうして? 俺を見ると母さんを思い出すから? そうやって世界中を回って、ジェフはこれからもずっとひとりで生きていくつもりなの?」
「ひとりじゃないよ。幸い、何日でも泊めてくれる友だちがあちこちにいるし」
「結婚しなよ」
千尋の言葉に驚いたように、ジェフは彼を見た。
「まさか、今まで一度も女の子と付き合わなかったわけじゃないだろ」
ふっと笑ってジェフは言った。
「この年だからね。付き合った子は何人もいるし、一緒に暮らした子もいる。でも、結婚する気持ちにだけはなれなかった」
「結婚しなよ。ジェフにはもう幸せになる権利があるよ」
「権利で幸せになれれば苦労しないさ。まあ、その気になったら考えるよ。きみは彼女を大切にして、俺みたいな年になる前に早く結婚しろよ」
言ってジェフは腕時計を見た。
「時間だ。行くよ。千尋、元気で」
「ジェフも」
「Good-bye」
「……Good-bye」
軽く手をあげて、ジェフは搭乗手続きに向かった。
家に帰った千尋は、まっすぐ両親の部屋に行った。なんだか寂しくて、辛くて、でも愛しくて、自分でもわからない感情が溢れて、ひとりでいると泣いてしまいそうだった。
ノックをして扉を開けると、奥の大きな窓の前に千歳が立っていて、既に暗くなった庭を見下ろしていた。
「千尋か、入りなさい」
言って振り返り、千尋の泣きそうな顔を見て、千歳は驚いた顔をした。
「どうした? イギリス人の友だちを見送りに空港に行くと言ってたな。そんな顔して、そんなに仲のいい友だちだったのか?」
「……うん」
「そうか、寂しくなるな。でも、またいつか会えるさ」
「……そうだね……」
ジェフはもう会わないほうがいいって言ったけど、もしかしたらいつか偶然に会えるときがくるかもしれない。ジェフが母さんに偶然会ったように……。そのときは、彼の隣で素敵な女性が笑ってるといいな……。
「ねえ、父さん」
「なんだ?」
「もし……、もしもだよ。DNA鑑定で俺が父さんの子じゃないって結果が出たら、どうした?」
「さあ……、どうしただろうな……。おまえがわたしの子じゃないなんて、考えたこともないからな……」
千歳は顎に手をあてて首を傾げ、それから穏やかに言った。
「まあ、それでもおまえはわたしの子だよ。だってシェリーの子なんだからな」
——そっか、そうなんだ。親子でいいんだ。このままで……いいんだ。
佳菜子のことも、きっと今のままで構わない。自分なりの愛し方で彼女を大切にしていけばいい。自分の心に素直でいればいい。きっとそうだ。
千尋のなかで、なにかがひとつ溶けた。
「父さん、俺、トライデントとの契約が切れる三年後は、契約を更新しないことにする。ちゃんと勉強して、父さんの仕事を手伝いたいんだ。いいかな」
千歳は驚いた顔で千尋を見た。
「あんなに音楽が好きだったじゃないか。いいのか?」
千尋は静かに頷いた。
「うん、音楽より大切にしたいものがあるから」
千歳の片手が千尋の肩に伸び、彼はギュッと千尋を抱いた。
「もちろん、おまえがそう望むなら大賛成だ。いくらでも協力しよう。ただし、契約期間中はきちんとトライデントの仕事をしなきゃダメだぞ」
「うん」
「あら、千尋、帰ってたの」
扉を開けてシェリーが入ってきた。両腕にいっぱい白い花を抱えている。千歳がおどけたように千尋に耳打ちした。
「さっきまでここで庭を見ていて、クリスマスローズがあんまりきれいに咲いてるからって、切りに出たんだよ。風邪ひくといけないからやめろって言ったのに。この寒いのに、言い出したら聞かないんだから」
言い出したら聞かない……。誰かみたいだ。父と自分は、女性の好みも似てるようだ。千尋はクスッと笑った。
「あら、花を切るくらい平気よ。ほら見て、きれいでしょう」
シェリーは上機嫌で花瓶にクリスマスローズを生ける。
「お茶にしましょう。おいしいケーキがあるのよ。千尋、冷蔵庫から出してくれる?」
「はぁい」
「千歳はティーカップを」
「はいはい」
「お茶の葉はなんにしようかしら」
「ダージリンがいいよ」
「あら、わたしはオレンジペコが飲みたいわ」
「いや、アールグレイだ」
三人でわいわい言いながらお茶の用意をする。ささやかな日常のこの一ページが、ほんとうはなんて幸せなんだろう。
年末の夜が少しずつ更けていく——。
最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。
途中、いろいろなトラブルで時間が経ってしまいましたが、なんとかエンディングに辿り着くことができました。
お気軽に感想などいただけると嬉しいです。
これからも書き続けていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。