第十三章 ジェフ
シェリーは順調に回復し、日曜日に退院できることになった。
昼前、千尋は千歳とともに病院にシェリーを迎えにいった。
病室に入ると、彼女は既に洋服に着替えて、大きな窓から外を見ていた。
「千歳、千尋」
二人に気づき、シェリーは嬉しそうに微笑んだ。
「母さん、退院おめでとう」
「ありがとう」
「退院の準備は済んだのか?」
「ええ、すっかり」
DNA鑑定の結果を受けて今までの苦しみから解放されたのか、シェリーの精神状態は随分安定し、よく笑うようになった。もともとは、こんな少女のような笑顔をふりまく人だったに違いない。父が母に惹かれたいちばんの理由は、そんな無垢であどけない笑顔だったのかもしれないと千尋は思った。
ドクターや看護士、病院のスタッフに挨拶して、三人はロビーに向かった。
休日の病院は静かだ。急患や見舞客を何人か見かけるくらいだった。
エントランスの大きなドアの前で、千歳がコートを広げてシェリーの肩に掛ける。
「外は寒いよ。着なさい」
「ありがとう」
シェリーはにっこりと笑い、袖を通して襟を整えた。
「そういえば、今日はクリスマスなのね。帰ったらみんなでパーティーしましょう」
「あ、悪ィ。俺、昼からスタジオ行かなくちゃ。夜はできるだけ早く帰るよ」
「そう、仕事なら仕方ないわね。クリスマスなのにご苦労なこと」
「新人バンドには、日曜もクリスマスもないのさ」
千尋がすまして言うと、シェリーはくすくすと笑った。
「しっかり頑張ってちょうだい」
午後、千尋はスタジオに行った。
レコーディングはほとんど終わり、残り一曲のアレンジを一部残すのみになっていた。
「ジェフ、ここんとこだけどさ」
渚が話しかける。ジェフは煙草を片手に何か考え事をしているようだった。
「ジェフ?」
肩を叩かれて、はっと顔を上げる。
「どうした?」
「あ、いや、悪い。なに?」
いつもてきぱきと指示を出すジェフらしからぬ態度。今日は珍しく、心ここにあらずといった感じだった。後ろで見ていた千尋は、体調でも悪いのだろうかと訝る。
ほとんどの作業を終え、この日は解散になった。
「お疲れ」
「お疲れ」
バンドのメンバーやスタッフはデートだったりパーティーの予定があったりするらしく、いそいそと部屋を出ていく。
千尋は体調の悪そうなジェフを心配し、彼と話をするために残った。異国でこんなハードな仕事をしていて、毎日緊張してるだろう。家に招待して一緒にクリスマスを祝ったら、少しは楽しい時間を過ごせ、息抜きができるんじゃないか。そして、もし彼が好きだと言っていた女性が母なら、会って話をしたいだろうと思っていた。あんなに憧れ、好きだと言っていた女性だ。会うことができれば、彼はきっと喜ぶだろう。
アシスタント・プロデューサーの高崎が、帰り支度をしながら言った。
「千尋はまだ帰らないの?」
「うん、もう少し」
「そっか。じゃ、おさき」
「お疲れさま」
高崎が帰ると、部屋にはジェフと千尋の二人になった。
テーブルに広げたノートにメモをとりながら、ジェフが言った。
「千尋、きみも帰っていいよ。ヴォーカルはもう完成してるし、今日はクリスマスだろ。彼女が待ってるんじゃないか? アルバムに何か気になるとこでもある?」
「ううん、ないよ。ジェフこそ、教会に行ったり、誰かとクリスマスを祝ったりしないの?」
ジェフはちらっと千尋を見て、苦笑いした。
「俺はそんな真面目な信者じゃないよ」
「働き過ぎだよ。たまにはゆっくり休まないと体壊すよ。今日は? 何か予定ある?」
「いや、あとひと仕事したら帰る」
「仕事終わったらさ、うちに来ない? 今夜は家族でクリスマスを祝う予定なんだ」
瞬間、ジェフの表情が硬くなった。千尋を横目で見ると、メモをとる手を止めて宙を見つめる。
誘ったらいけなかったんだうか。「もしよかったらの話だけど……」と付け加えようとしたとき、ジェフがゆっくりと口を開いた。
「千尋、きみは……、シェリル・アン・マクミリアンの息子なんだね」
「え……」
「初めて会ったときから、似てるとは思ってたんだ」
独り言のように言って、彼はマルボロを一本箱から抜き、ゆっくりと火を点けた。
「午前中、知人の見舞いに病院に行ったんだよ。そこのエントランスで偶然、きみたち家族を見かけた。きみと、シェリーと、……あれはきみの父上だね」
全然気づかなかった。彼はいったいどこから自分たちを見てたのか……。
「あんなことをしてしまったから、彼女があれからどうしてるのかずっと気になってた……。今日見かけたシェリーは、笑ってたよ。実に幸せそうに。きみのようなよくできた息子がいて、きみの父上も優しそうな紳士に見えたし、彼女は今、幸せなんだね。よかった……」
そこまで言って、突然彼は両手で顔を覆い、絞り出すように続けた。
「まさか……、彼女がこの日本にいたなんて……。よりによって、俺が逃げてきたこの日本に……」
千尋は両手をギュッと握りしめた。これで……はっきりした……。
「やっぱり……ジェフだったんだな……」
母を強姦した男が目の前にいる男だと知らされ、憎しみが一気に湧き上がる。今まで何度も見てきた母の泣き顔や怯えたような姿が浮かんでは消える。彼女の心の闇を思うと、その感情をを押さえることができない。
「『よかった』だって? 母さんが……、母さんが今までどれだけ苦しんできたと思ってんだよ!?」
千尋らしくない苦々しさを吐き出すようなその声に、ジェフは驚いた目をして千尋を見上げた。
「あんたのせいで、母さんはずっと心を病んでたんだ。それを……たったひと言『よかった』で済むと思ってんのか!?」
その言葉が終わると同時に千尋の拳がジェフの頬に飛び、その勢いで彼は椅子から転がり落ちて後ろの棚でしたたかに頭を打った。くわえていた煙草が床に落ちている。
手をついてゆっくりと身体を起こし、彼は棚に背中を預けて座った。強く思い詰めたような視線で千尋を見上げる。その目は真剣だった。
「ほんとうに……悪かったと思ってる……。だけど、俺も自分の感情を抑えられなかったんだ。可愛らしい笑顔、上品な仕草、知的な会話……すべてが憧れだった。無理だとわかっていても彼女が欲しかった。この気持ちは理屈じゃない。どうしても欲しかったんだ。まだ高校生のきみには、そんな狂いそうなほどに苦しい想いをわかってくれと言っても無理だろうけどな」
言って彼は、青い目に挑戦的な光を浮かべ千尋を見つめる。千尋の拳に再び力が入った。
「ふざけるなっ! そんなの言い訳だ。何を言われても……、何をされても母さんの苦しみは消えないんだよっ」
再び千尋の拳がジェフの頬に飛ぶ。いくら謝られても、なにをされても、母さんが精神を煩うほど苦しんだ二十年近い日々は返ってこない。この怒りをどこにぶつけたらいい!? すべて、目の前にいるこの男のせいだ!
ジェフは千尋に殴られた左の頬を彼に向けたままで、切れた唇から流れる血を手のひらで拭った。その赤い血を見て、千尋ははっと我にかえった。
ジェフだって、母さんが憎くてあんなことをしたわけじゃない。好きだったから、好きでどうしようもなかったからしてしまったこと。そして、彼はその罪を償おうと、母さんの前に二度と現れないことを誓い、言葉も習慣も違う国々を渡り歩いたのだ……。結局は信じられないような偶然で、この日本で出会ってしまったわけだけど……。
「ごめん……」
千尋は項垂れた。
「悪かったよ、ジェフ。ついカッとなって……。お詫びに、気が済むまで俺を殴っていいよ……」
ジェフの向かいに座った千尋は、拳が飛んでくるのを覚悟して奥歯を噛み締め、全身に力を入れた。それを見てジェフはふっと笑って言った。
「きみのきれいな顔に傷をつけたら、島社長に殺される。ジャケ写もまだなんだろ?」
「けど……」
「もういいよ。君が怒るのは当然だ。悪いのはすべて俺さ。スコットランド・ヤードに逮捕されても文句は言えない」
「……ほんとにごめん」
「気にするな」
ジェフは大人だ。絶対に悪い人間じゃない。ひとりの女性に対する熱情が彼をミスリードしてしまったんだ。
それに比べて自分はどうだろう。四年近くも付き合ってる彼女に手も出せないなんて……。もしかしたら自分の気持ちなんて、ジェフに比べたらこれっぽっちの情熱もないんじゃないのか。彼女を大事にしているから手を出していない、そのつもりだった。でもそれは、彼女に対する気持ちがその程度だったってことなんじゃないのか。
好きでたまらなくて女性を犯してしまう気持ち。本当に好きだから手を出さずに大切にしたい気持ち。いったいどっちが本当の愛と言えるのだろう……。
翌日、千尋がスタジオの扉を開けると、ほとんどのメンバーが来ていて、雑談していた。
「あれ、みんな早いな」
「今日で完成の予定だからな。なんかワクワクしてさ、家にいられなかったんだよ」
ショウが嬉しそうに言う。初めてのメジャー・アルバムだ。完成にこぎつけたとあれば、それは嬉しいだろう。
千尋は、ミキシング・ルームの中にジェフの顔がないのに気づいた。普段はいちばん早く来ている彼だ。
「ジェフは?」
「それが、まだなんだ」
高崎が言った。
「珍しいね。彼、いつも早いのに」
そのとき、高崎の携帯電話が鳴った。彼は電話をとり、相手と話しながら棚を開け、大きな封筒を出した。電話を切り、ポケットに入れながら彼は言った。
「ジェフは用事で少し遅くなるって。これは彼がゆうべ作った完成品だそうだ。聞いて、修正したい部分があれば、作業を進めててくれって」
完成品という言葉を聞いたメンバーからは「おおーっ!」という声が上がった。高崎はCDをディスクに入れ、全員がそれに聞き入った。
一時間ほどして、ジェフが現れた。
「遅くなってごめん」
「ジェフ! 待ってたよ」
「いい出来じゃん!」
「もー、俺、満足! 発売日が待ちきれねー!」
みんなは口々に喜びを表し、ジェフを歓迎した。ジェフはみんなを見回して言う。
「修正箇所は?」
「ないよ。こんだけできれば満足さ」
「すぐにでもセールスにかかりたいよ」
「ほんと、ほんと!」
誰かれとなく拍手が湧き起こり、労いの言葉が飛び交う。
「おめでとう!」
「お疲れ!」
「次作も頑張るから頼むよ、ジェフ」
渚がそう言ったとき、ジェフはどこか悲しそうに微笑んだ。
「残念だけど、きみたちと仕事をするのは今日が最後なんだ」
「えっ……?」
みんなが一様に不思議そうな顔をした。
「次のアルバムも一緒に仕事してくれるって聞いたけど?」
渚の問いかけに、ジェフは下を向いて言いにくそうに答えた。
「……今回限りだ」
「なんで? 他にプロデュースしたいバンドが現れた?」
「いや、俺は日本を離れることにした。さっき、島社長の許可をもらってきた」
「えっ……? 国に帰るの?」
「いや、国には帰らない。オーストラリアに行こうと思って。音楽仲間がいるんだ。以前から一緒に仕事をしようって誘われててね」
「オーストラリア……。なんでそんな急に……」
その質問には答えず、ジェフは出来上がったCDをケースにしまい、書類を片付け始めた。
「今回は、とてもいいデビューアルバムができたと思う。みんなに感謝するよ。俺は、このアルバムのできに自信を持ってる。きっといいセールスができるよ。お疲れさま。これはプレスに回しておく。じゃ、みんなの幸運を祈ってるよ」
それだけ言って、彼は出ていってしまった。
とりあえず打ち上げだとみんなが一緒に帰っていったが、千尋はそれに加わらず、ひとりビートエコーのエントランスに立っていた。ジェフを待っていたのだ。
数十分たってから、ジェフが廊下の奥から現れた。千尋が近づくと、ジェフはちらっと視線を向けて言った。
「なんだ、帰ったんじゃなかったのか」
「ジェフ、オーストラリアに行くって、ホントなの?」
「……うん」
「なんで? 俺のせい? 昨日のことは悪かったよ」
ジェフはまっすぐエントランスに向かい、一歩後ろから千尋がついて歩く。
「きみのせいじゃない。オーストラリアに行くことは、以前から考えてたんだ。日本語は難しいからね」
「このまま行ってしまって後悔しない? 母さんに何も言わなくていいの?」
ジェフは足を止め、刺すような目をして千尋を振り返った。
「シェリーに何を言えと……? 『あのときはごめんなさい』とでも言えばいいのか? それとも『ずっとあなたが好きでした』って? 冗談じゃない」
千尋ははっとした。そうだ、今さら話すことなんかあるはずがない。ジェフも、母さんも……。好きな人がいれば会いたいはず、話をしたいはずだと思い込んでいた自分は、なんて子どもなんだろう。情けない……。
「ごめん……」
ジェフは前を向いて歩き出し、千尋が慌てて後についていく。
「いつ行くの?」
「年が明けないうちに」
「そんなに早く……」
あと数日しかない。千尋の心がキリリと痛んだ。
「見送りに行くよ」
「いいよ。ひとりで発ちたいんだ」
ジェフは足を止めて、すぐ後ろにいる千尋をちらっと見た。
「じゃ、元気で」
千尋を振り切るように、ジェフはエントランスの向こうに出ていった。
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