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千尋  作者: 篠崎葵
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第十一章 DNA

 翌日の月曜日、千尋は久しぶりに佳菜子と一緒に下校した。

「千尋と帰るの、すごく久しぶりな気がする」

 佳菜子は艶やかな黒い髪を揺らし、千尋の好きな笑顔を見せて上機嫌だった。

 ああ、この笑顔が見たかった、この笑顔にいつも包まれていたい。一緒に時間を過ごせば過ごすほど愛しさが募っていく。なぜだろう……。佳菜子と並んで歩きながら千尋はそう思った。

「おじさまに話せた?」

 遠慮がちに言って佳菜子がじっと千尋を見上げる。

「ああ……」

「なんて?」

 千尋は夕べのことを思い出す。放心したような父の顔。父と目を合わせられないほど焦躁した母の姿。父はあれから何を考えているだろう。

「少し考えさせてくれ、って」

「そう。おじさまは千尋をすごく愛してらっしゃるもん、きっといい結論を出してくださるわ」

「わかんねーよ。実は自分の子じゃなかったってわかったら、気持ちも変わってくるだろ。一条って家の事情もあるし」

「でも、おじさまは一条家の当主なんだから、どうにでもなるわよ。あたしはいい方向に解決するような気がするな」

 望むとおりに事が進むのを信じ切っているような佳菜子を斜めに見下ろし、千尋はあきれ顔で小さく溜息をついた。

「まったく……おまえはポジティブでいいね」

 言いながら思う。佳菜子の望むとおりになればいい。自分のためじゃなくて、佳菜子がいつも笑っていられるように……。

「そうだ」

 千尋が佳菜子のほうを向いて言った。

「今日、なにか用事ある?」

「別にないけど、なに?」

「うちに寄ってかね? 母さんと一緒にお茶でも飲もうよ。母さんの気分転換になると思うからさ」

 佳菜子が嬉しそうに微笑んだ。

「うん」


 千尋の家に入ると、執事が言った。

「お帰りなさいませ、千尋様。いらっしゃいませ、香月様」

「お邪魔します」

 佳菜子に次いで千尋が使用人に言う。

「ただいま。お茶はいいよ、母さんに入れてもらうから」

「かしこまりました」


 部屋に入り、荷物を置くが早いか千尋は母の部屋に内線電話をかけた。しばらく呼び出し音を聞いていたが、首を傾げて受話器を置いた。

「いないのかな」

 今度は執事に電話をかける。

「早坂さん、母さんはどこかに出掛けたの?」

「いいえ、お出掛けになるとは伺っておりませんが」

「そう、ありがとう」

 受話器を置いた千尋が、佳菜子に向き直る。

「母さん、寝てるのかもしれないな。薬飲んでたら電話に気づかないかもしれない。部屋に行ってみよう」

「今度にしようよ。お休みになってたら悪いでしょ」

「構わないよ。行こう」

 千尋は佳菜子を促して部屋を出た。この間から精神が不安定だった母だ。睡眠薬を飲み過ぎたりしていないかと一抹の不安が過る。


 四階に上がり、両親の部屋のドアをノックした。

「母さん、入っていい?」

 しんとした廊下。いつもなら「お入りなさい」と聞こえる返事が、今日はない。

 千尋はドアを開けて中に入った。佳菜子が遠慮しながら続く。

 リビングには誰もいない。奥のベッドルームをノックする。

「母さん、いる? 俺だよ。入るよ」

 少し待ったが、やはり返事はなかった。ドアを開ける。部屋はしんとしていた。

「母さん?」

 辺りを見回すが、ソファにも、窓辺の椅子にも、誰の姿もなかった。

 ベッドを覗いてみる。わずかに乱れているシーツが、ここで母が寝ていたことを示している。母はいつ起き出したのだろう。

 テラスに目をやる。窓には鍵がかけられていて、外では色とりどりに飾られた花が、寒そうに十二月の風に揺れているのが見える。母の姿はなかった。

 千尋の顔に焦りが見えた。父の会社に行ったのだろうか。それならば、執事にそのことを告げているはずだ。

 寝室に続くバスルームの前を通りかかり、そのドアを開けてみた。

「母さん?」

 脱衣室に一歩踏込んだ千尋は、バスルームに続く床マットの上にスリッパが並べて置かれているのに気づいた。

「母さん、俺だよ。いるの?」

 バスルームのドアをノックして、注意深く中の音に耳を澄ませる。中からは、人がバスを使っているような水音はせず、その気配もなかった。胸騒ぎがする。

「母さん、ごめん、入るよ」

 千尋は中に足を踏み入れた。大理石でできた広い床。小さなプールほどもあろうかと思うバスタブには、中央に飾られた瓶を担ぐ女神の彫像から静かに湯が流れ、二十四時間使えるようになっている。隅に目をやると、クリーム色の床が赤黒く染まって血溜まりができ、そこに長い金髪の女性が倒れていた。傍らには血に染まったナイフが見えた。

「母さんっ!!」

 駆け寄って、抱き上げる。

「母さん、しっかりしてっ!!」

 青白い顔をした彼女はぴくりとも動かない。

「佳菜子ーーっ!! 救急車、早くっ!!」

 千尋の大声に驚いて、佳菜子が慌ててバスルームに入って来た。

「どうし……」

 佳菜子は息を飲んだ。白いネグリジェを血に染めてぐったりとしている千尋の母、彼女を抱きかかえる顔面蒼白の千尋。彼は制服のネクタイを外し、シェリーの腕に縛り付けながら言った。

「早くっ!! 救急車呼んで!!」

「う……うん」

 佳菜子は慌ててポケットから携帯電話を出し、救急車を呼んだ。


 シェリーは病院に運ばれた。右手首を深く切っていて、出血量は半端ではなかった。

 慌ただしく手術室に運ばれていく。ストレッチャーがたてるガラガラという音が不安を煽る。


 千尋と佳菜子は手術室前の廊下で、祈るように待っていた。

 会社で会議をしていた父にもすぐに連絡した。数十分したら来るだろう。

 夕べあれから、父と母の間で何かあったのだろうか……。

 しばらくして、中から若い女性の看護士が出てきた。

「母は!?」

「最善は尽くしますが、出血量が多くて危険な状態です。輸血用の血液が足りません。AB型の血液の方は……」

「俺、AB型です! 俺の血を全部使って構わないから、母を助けて下さい。お願いします!」

「では、まず検査をさせていただきます。こちらへ」

 看護士が別室へ案内する。

 千尋が振り返って言った。

「佳菜子、ハルに電話して。あいつもAB型だから。それと、あとを頼む」

「うん」

 佳菜子は大きく頷いた。


 気がつくと、病院のベッドの上だった。意識がいくぶん朦朧としている。天井から辺りにゆっくりと視線を移すと、ベッドの脇に佳菜子が座っていて心配そうに千尋を見ている。腕には点滴が施されていた。輸液だろうか。

「気がついた? 気分はどう?」

「大丈夫……」

 言いながら、今までのことを思い出した。

「母さんは?」

「ICUに。おじさまは、おばさまについていらっしゃるわ」

「生きてるんだ。よかった……」

 千尋は安堵の息をついた。

「おじさまも輸血なさったのよ。ハルくんも来て、輸血してくれた。すぐ帰っちゃったけど」

「そっか」

 千尋は起き上がった。窓の外は真っ暗だった。

「何時?」

「九時前」

「もうそんな時間なのか」

 手術室に入ってから、既に三時間が過ぎている。

「おまえ、もう帰らないと」

 言うと、佳菜子は少し疲れたような顔で笑った。

「大丈夫。お母さんには連絡してあるから」

「でも……」

「いいの。電話すればすぐ運転手が来るし、千尋が落ち着いたら帰るから」

「俺は大丈夫だよ」

 言って千尋は床に足をつき、立ち上がろうとして、ふらりとした。佳菜子が彼の身体を支える。

「だいぶ輸血したから、血液の量が戻るまで少し時間がかかるみたいよ。しばらくは無理しないで安静にしててくださいって。寝てたほうがいいよ。あたし、今夜はここに泊まるつもりでいるから」

「ダメだよ。何かあったら看護士呼ぶし」

「いいの。おばさまのことも心配だし。お母さんには了解もらってるから」

 佳菜子が言い出したらきかない性格だということを、千尋は十分承知している。今日は彼女がいてくれて本当に助かった。だから今は、何も言わないでおこう。

 千尋は片手で佳菜子を抱いた。

「……ありがと、佳菜子」


 シェリーは三日間意識が戻らなかった。容態は安定したので、三日目には個室に移動した。千歳はずっと病院にいてシェリーに付き添い、千尋と佳菜子は学校の帰りに毎日病院に寄った。


 四日目、千尋と佳菜子が病院のシェリーの部屋を訪れると、シェリーがベッドに座って千歳と笑いながら話をしていた。

「母さん……!」

 千尋はシェリーに駆け寄り、抱きしめた。

「よかった……」

「千尋……。心配かけてごめんね……」

 いつもの母の声だ。

「いいんだよ。それより、具合はどう?」

「ありがとう。大丈夫よ」

 言ってシェリーは千尋の後ろにいる佳菜子を見上げた。

「佳菜子ちゃんにもいろいろ迷惑かけてしまって、ごめんなさい」

「いいえ。思ったよりお元気そうな様子でよかった」

「退院の予定は?」

 千尋が訊くと、千歳が答えた。

「明日血液検査をして、問題がなければ明後日にも退院できるそうだよ」

「そっか。よかった」

 横に座っていた千歳がみんなを一瞥して、静かに言った。

「千尋、話があるんだが、時間は大丈夫か?」

「いいよ、なに?」

 千尋の隣に立っていた佳菜子が遠慮して言った。

「あたしはこれで……」

「佳菜子さんも、よければ一緒に聞いてもらいたい。どうぞ座って」

 千歳は立ち上がって椅子を佳菜子に譲った。佳菜子は遠慮がちに座った。

 千歳は千尋を見据えると、落ち着いた様子で話を始めた。

「この間の話だがね、あの夜、わたしはおまえの言葉を繰り返し思い出した。そして、どうしても引っかかることがあったんだ」

 引っかかること? 千尋は首を傾げて千歳の顔を見た。

「おまえの血液型がAB型で、わたしの子供ではないと言ったことだ」

「そのことは、間違いなかったでしょう? 母さんの手術のときにも検査して、俺が母さんと同じAB型だってことは証明されたはずだ」

 千歳は静かに頷いた。

「そうだな。だけど、わたしは納得がいかなかった。おまえがロンドンから日本に来た日を思い出す。成田でおまえを見たとき、ああ、この子がわたしの子なんだ、と改めて思った。緑の瞳と濃い色のブロンドで確かにシェリーにそっくりだが、よく見るとわたしの中学生の頃にもとても似てるんだよ。この子はわたしの子に間違いないと信じて疑わなかった。その気持ちは今も変わってない」

「……」

 父は何を言いたいのだろう。千尋は意図を図りかねた。

「手術室の前でシェリーの手術が終わるのを待っていたとき、水島くんが輸血にきてくれてね。帰り際、彼はわたしにこう言ったんだよ。『おじさん、俺、千尋から事情を聞いちゃいました。彼は酔っててあまり覚えてないと思うけど……。千尋がなにか悩んでるみたいだったんで、すみません、俺が無理に酒を勧めたんです。それで、俺は誘導して彼にしゃべらせて、だいたいの事情を把握したんです。俺は、おじさんと千尋は絶対に本当の親子だと思ってます。だって似てるもの。それでいろいろ調べました』……それから、彼はDNA鑑定することを勧めてくれたんだよ」

 DNA鑑定……。とてつもなく大事おおごとになったようで、千尋はゴクリと唾をのんだ。だけど、結果は血液型の判定でわかってるじゃないか。

「彼の話を聞いて、わたしは彼の考えを受け入れることにした。シェリーの血液も、おまえの血液も残る。私のもある。三人の血液をDNA鑑定にかければ、親子関係がはっきりする。もし千尋がわたしの子でないなら、そのときにもう一度どうしたらいいか考えようと決めた。ここの院長とは長年の知り合いでね。彼は快く内密の鑑定を引き受けてくれた。これがその結果だよ」

 言って千歳は、サイドチェストから大きな封筒を取り出し、中に入っている書類を出して、ベッドの掛け布団の上に置いた。数枚の書類には、細かい文字がびっしりと印刷され、表や記号などが並んでいる。

「これは……?」

 千尋はすぐには内容が理解できなかった。

「結論を言おう。千尋、おまえは間違いなくわたしとシェリーの子供だ。親子である確率が99.999%とある」

「え……」

——あり得ない。そんなことはあり得ない。俺は夢を見ているのか……。

「シェリーは、ABO式の血液型の判定をすればAB型と出るが、実は一般的なAB型じゃなくてシスAB型という特殊な型なんだ」

 シス……AB型。……そう言えば、聞いたことがある。

「この型は非常に珍しく、日本でも十万人にひとりくらいしかいないらしい。一般的なAB型の場合、トランスAB型というが、ふたつある染色体のうち片方にA型が、もう片方にB型の遺伝子が乗る。だがシスAB型はひとつの染色体にA型とB型の遺伝子両方が乗るんだ。シェリーはもう片方の遺伝子にO型が乗っている。だから、わたしとシェリーの子供はシスAB型かO型ということになる。おまえはシェリーと同じで、シスAB型とO型の遺伝子を持ってるんだよ」

 千尋は、にわかには信じられなかった。

「それは……血液型の検査ではわからないことなの?」

「シスAB型はA型とB型の両方を持ってるから、ABO式の血液型検査ではAB型としか出ない。DNA検査をしないとわからないことなんだよ。水島くんが推測した通りの結果だった」

——ハルが……。

 ハルの家に泊まった日のことを思い出した。朝食を食べているとき、彼は大丈夫だと、悪いようにはならないだろうと言った。あのときから彼は、このことを予測し、こうなる方法を模索してくれていたのか。

 混乱する頭の中で、今までのことが次から次へと駆け巡っていく。

 不意に佳菜子の声が聞こえた。

「千尋……。よかった……よかったね……」

——ああ、そうなのか。俺は本当に父さんと母さんの子供なんだ。

 佳菜子の声を聞いて、千尋はやっと父の言葉を受け止めることができた。

 千歳が書類を封筒に入れながら言った。

「おまえに相談せずに鑑定して悪かった。万が一にも違う結果が出たらと思うと、相談できなかったんだ。まあ、わたしはこういう結果であると信じてたけどな。水島くんは医者志望だそうだね。彼はいい医者になるだろう。いい友達を持ったな、千尋」

「……うん」


 病院を出ると、いつの間にか暗くなっていた。冷たい風が頬を撫でていく。

さみィ」

 千尋はひとつ身震いしてコートの衿を整えた。大きなストライドで駅に向かう。

「今夜は雪が降るかもしれないな」

「そうだね」

 佳菜子が早足でついて歩く。

「明日は終業式か。やっと冬休みだな」

「落ち着いて冬休みやお正月を迎えられそうだね。よかったね」

 千尋は下を向いたまま、少し恥ずかしそうに口元に笑みを浮かべた。冬の風が千尋の金色の髪を揺らし、街灯が柔らかな光を放って深く澄んだ緑の瞳を輝かせる。

「まさかこんな話になるとはな。想像もしてなかった。追い出されるのを覚悟してたのに」

「ね、あたしの言った通り、いい方向で解決したでしょ?」

 佳菜子がドヤ顔で千尋を見上げると、彼は穏やかな視線を佳菜子に投げた。

「そうだな。おまえのお陰だ」

 静かにそういう彼の瞳はこの上なく優しく、吸い込まれそうに綺麗で、佳菜子はドキッとして視線を逸らした。

「あたしじゃなくて、ハルくんのお陰だよ」

 千尋は歩を緩めずに先を行く。

「ハルは何も言わないから知らなかった。あいつにはきちんと結果を報告しとかなきゃ。それと、これから先のことを考え直さないといけないな」

「先のことって?」

「今まで、家を出た後の生活のことを一番に考えてたけど、家に残るんだったらその方向で身の振り方とか決めないと。早く父さんの力になりたいしさ」

「そうだね」

「それと、もうひとつ、確かめておかないと」

「なにを?」

「ん……。まあ、いろいろ……さ」

 言葉を濁す千尋に突っ込んで訊きたい気持ちを抑え、佳奈子は出かかった言葉を飲み込んだ。

 千尋は確実に自分の将来のことを考えて歩いている。おそらく、「もうひとつ」というのも、自分にとって大切なことなのだろう。

 佳菜子は千尋のことをを尊敬しているし、頼もしくも感じている。

 生まれてから何年もの長い間父親と離れて暮らし、やっと一緒に暮らせると思ったときに、自分が彼の子供ではないとわかったときのショックはどれほどのものだったろう。そのうえ、それを自分の口から父親に告げなけばならなかった。あまりに酷な話だ。どれほど辛く、怖かったろう。周りにそのことを相談できる人はおらず、愚痴を吐く相手もいない。彼はすべてを受け入れ、すべてを自分の心の中にしまい、誰を恨むこともなく、ただ自分の道を作るべく歩いてきたのだ。

 彼女は自分を顧みた。

 自分は彼のように強く生きていくことができるだろうか。彼と並んで歩いていくことができるのだろうか。

 弟がいるから家を継ぐ必要はない。将来は誰かに嫁がなけけばならないだろう。既に見合いの話もある。今は到底それを受ける気持ちにはなれない。けれど、受けたほうがいいのだろうか。

 千尋の言う「これから先」の計画の中に、果たして自分はいるのだろうか……。

読んで下さり、ありがとうございます。

メッセージ、感想などお気軽にいただけると嬉しいです。

これからもよろしくお願いします。

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