第十章 告白
千尋は自室から母シェリーの部屋に内線の電話を入れた。父に話す前に、まず母に話をしなければと思ったのだ。内容が内容だけに事前に報告しておかないと、精神を煩っている母のことだ。取り乱して何をするかわからない。
「母さん? 話したいことがあるんだ。今から行ってもいい?」
「あら、いつも忙しそうなあなたが、どうしたの? 構わないわよ。いらっしゃい」
明日帰宅する夫を待つシェリーの機嫌はすこぶるよさそうだ。何から話そうかと考えながらシェリーの部屋に向かった。
両親の部屋は千尋の部屋のすぐ上の四階にある。ドアをノックすると、シェリーが開けて言った。
「お入りなさい」
窓際のテーブルには淡いピンクのバラの花が飾られており、その脇に紅茶が用意してあった。既に明日帰ってくる父を迎える準備ができているかのようだ。
シェリーと向い合せに座る。紅茶をティーカップに注ぎながら、シェリーが訊いた。
「最近あまり家にいないみたいだから、どうしてるかと思ってたのよ。バンドのほうはどう?」
「うん。レコーディングは順調に進んでる。バンドやスタッフのみんなともうまくいってるよ」
「そう。安心したわ」
にっこりと笑って、カップを千尋に差し出す。千尋と同じ色をした濃いブロンドが揺れ、シャンデリアの光にあたってきらきらと輝く。
「で、話って?」
「うん……」
千尋はゆっくりと話し始めた。
「俺たちのバンド、来年三月にデビュー予定なんだ。もうインディーズ系の雑誌のインタビューなんかも入ってきてるし、デビューしたらすぐ忙しくなりそうなんだよ。事務所もプロモーションに力を入れてくれてる。だから、そこそこの稼ぎは期待できると思うんだ」
「あら、すごいじゃない」
シェリーは無邪気に微笑む。相変わらず少女のような可愛らしい笑顔だ。いつまでもこのままでいてほしいと願いながらも、そうはならないだろうことを覚悟する。
千尋は言いにくそうに続けた。
「父さん、明日帰ってくるんだろ?」
「そうよ」
千尋はテーブルに視線を落とし、言葉を詰まらせる。
「どうしたの? 父さんに何か頼みたいことでもあるの?」
ティーカップを片手にしたシェリーが小さく首を傾げる。
「ううん、そうじゃないけど……。実は俺、父さんに、俺との本当の関係を話すときじゃないかな、って思ってるんだ。母さんにとって辛いことだっていうのはわかってる。でも、いつまでも黙ってることはできないよ」
シェリーは息を詰めて千尋を見つめた。千尋が諭すように続ける。
「俺がちゃんと話す。母さんは何もしなくていいよ。もし……もしも父さんがそれで怒ったとしても、俺が必ず母さんを守る。大丈夫だから」
千尋は努めて普段通りに話したつもりだったが、シェリーの顔は見る見る曇っていった。辛そうに視線を伏せ、千尋から目を背ける。長い沈黙が流れた。
やがて、シェリーが震える声で言った。
「そうね。千尋の言うとおりよね……。父さんにきちんと話さないといけないわよね……」
長い間精神を患っている母。この話を持ち出して、また彼女の心が傷つくんじゃないかと、千尋は注意深く母の様子を伺う。テーブルの上で組んだ手がわずかに震えている。彼女の気持ちは手にとるようにわかる。でも……。
「母さん、俺、ひとつ母さんに話してないことがあるんだ」
シェリーは不安げな顔を上げて千尋を見た。泣きそうな、すがりつくようなその緑の瞳が視界に入ったとき、千尋はできれば話したくないと思った。それでも、話さなければならない。
「今まで黙っててごめん。俺、日本に来る前に血液型の検査をしたんだ。俺の血液型はAB型で、父さんは本当の父親じゃないことがわかった」
シェリーは思わず息を飲んだ。
「う……」
横を向いて、手を口にあてる。シェリーの顔から血の気が引いていく。
「母さん!」
千尋は慌てて立ち上がり、シェリーの肩を抱いた。彼女の目は空ろで視線が定まっていない。千尋の腕を掴みながら俯き呟く。
「いや……、いや……やめて、お願い……」
あの、二度と思い出したくない日の記憶が蘇ったのだろうか。彼女は頭を小刻みに振り、全身で千尋を拒否する。
「母さん、しっかりして、母さん!」
「やめて……、やめて、いやあ……!!」
千尋の声など聞こえていないかのように、シェリーは取り乱し、叫んだ。
「やめて、お願い! ……いやあ!!」
「母さん、落ち着いて……!!」
千尋がなだめても、シェリーは怯えたように囈言を繰り返しながら泣くばかりだった。完全に精神が乱れている。過去の忘れたくても忘れられない出来事を思い出したからか、拭い切れないほど大きく重い罪悪感が彼女を支配したからか。
千尋はなだめながらシェリーをベッドに連れていき、薬を飲ませて休ませた。ずっと手を握っていると、やがてシェリーは泣き疲れて眠った。
眠っている母の顔は人形のように愛くるしいのに、なぜこんな惨い運命を背負うことになってしまったのだろう。父に本当のことを話しても父の母に対する愛情が変わらないことを願うだけだ。千尋は母の額にキスをして部屋を出た。
廊下で母付きのメイドに会った。彼女は千尋が持っていたティーカップの乗ったトレイを見つけ、慌てて言った。
「千尋様、申し訳ございません。置いておいてくだされば、私が片づけますのに」
彼女は千尋の手からトレーを取った。
「ありがとう」
言って、千尋は歩いて行こうとするメイドに小声で話しかけた。
「母さんね、今寝てるけど、ちょっと気分が鬱いでるから、ときどき様子を見に行ってやってくれない?」
「かしこまりました」
彼女はにっこりと笑って頷いた。
今夜の母さんのことは彼女に任せよう。薬を飲んで寝たから、明日の朝まで目が覚めないだろう。あとは、明日父さんにどう話すか……。千尋は重い足取りで部屋に戻った。
その夜は落ち着かなかった。父に何をどう話せばいいだろうか。また精神的に不安定になっている母は大丈夫だろうか。自分と佳菜子のこれからはどうなるのだろうか。ルシファーのアルバムを満足のいくように仕上げられるだろうか。そんないくつもの不安が頭を過り、夜明けまで眠れなかった。
結局、一時間ほど微睡んで、千尋は出掛ける準備をした。
重い足取りでミキシング・ルームに入ると、ジェフやスタッフ、渚や翔も既に来ていた。
「おはようございまーす」
「うぃーっす」
みんながいつものように挨拶する。ジェフが千尋に近付いて微笑みかけた。
「おはよう、千尋。気分どう?」
「まあまあかな。昨日はごめん」
千尋は素直に笑顔を返すことができず、口の端で小さく笑った。ジェフの顔を見ると、複雑な気分になる。
「いいって。無理するなよ。アルバムは半永久的に残るから、後悔しないよう慎重にいいもの作ろうぜ。ヴォーカル、録れる?」
「大丈夫。今日はちゃんと歌うよ」
千尋は佳菜子への精一杯の想いを込めて、切々とバラードを歌い上げた。佳菜子とのいろいろな思い出が頭の中に甦る。初めて言葉を交わしたバレンタイン・デーの日。初めてデートした午後。学校からの帰り道。アマンドでのちょっぴり大人っぽい佳菜子の姿。そして、初めて佳菜子にキスした瞬間……。どの佳菜子も愛しくて、思い出の中でさえ抱きしめたくなる。その想いが千尋の声を一層艶やかにし、切なさを彩る。
その日のレコーディングは順調に進み、「Miss You」のヴォーカルも録り終えた。
数々の不安はあったが、佳菜子と仲直りした安心感が彼の心を穏やかにしていた。
とは言え、ジェフの顔を見ると心が痛かった。彼と自分は似ているだろうか。すぐ横に立ち、大きなアクションで指図を出すジェフをじっと見てみる。目も、鼻も、口も、ひとつひとつをとってみると、さほど似ているとも思えない。自分はシェリーにそっくりだから、父親には似ていないのかもしれない。自分の本当の父親は誰なんだろう。もしジェフであるなら、証拠が欲しい……。
レコーディング作業を終え、駅に向かった。もう夜九時を回っている。街はぐっと冷え込んでいて、透明な空気がイルミネーションを鮮やかに見せる。寒さに、思わずコートの襟元を整えた。
いつも以上にカップルの姿が目立つ。そう言えば、今週末はクリスマスだ。イヴの日は佳菜子と過ごせるといいなと思いながら駅まで歩いた。
家に帰ると、執事が言った。
「お帰りなさいませ、千尋様。お父様がお帰りになって、書斎でお待ちです」
「ありがとう」
——父さんが……帰ってきた……!
千尋は背筋を伸ばして大きく息をした。
すぐに四階に上がり、千歳の書斎のドアをノックする。中から千歳の声が返ってきた。
「どうぞ」
「父さん、お帰りなさい」
ドアを開けると、千歳は机で書類を見ていた。目を上げて千尋を確認すると、嬉しそうに立ち上がった。
「千尋、元気そうだな」
「うん。父さんも」
ハグを交わす。
「バンド、頑張ってるらしいな。母さんからよくメールで聞かされてるよ」
「今、レコーディングの最中で忙しくて。今日も遅くなっちゃった。でもいいのができると思うよ。完成したら父さんも聴いてよね」
「もちろんだ。楽しみにしてるよ」
どうやら千歳は機嫌がいいらしい。千尋は意を決して切り出した。
「あのさ、父さん。帰った早々悪いんだけど、話したいことがあるんだ。少し時間作ってもらえないかな」
千歳は眉を上げて千尋を見た。
「どうした? 座るか?」
「母さんも一緒に聞いて欲しいから、後でいいよ」
「そうか。これだけ片づけたらリビングに行こう。夕食は済ませたのか?」
「まだ」
「じゃあ、済ませたら来なさい」
「うん」
千歳の言葉に従い食事を済ませた千尋は、両親の部屋に行った。
部屋に入り、千歳と向かい合ってソファに座る。シェリーがお茶を用意していた。
「今日も遅くまでお疲れさま」
シェリーは慣れた手つきでダージリンの葉をティーポットに入れる。しかしその声はわずかに上ずっていて、千尋には彼女がこれから起こるだろう事柄に心の底で怯えているのがわかった。
全員の前に紅茶が差し出されたのを見て、千歳が切り出した。
「で、話ってなんだ? 何でも聞くぞ」
「うん……」
何から切り出そうかと考えながら、千尋はゆっくりと話し始めた。
「あの……さ、俺、父さんに謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「どうした?」
「ん……。イギリスにいるとき、母さんが心の病気になったのは知ってるよね」
千歳は頷いた。
「わたしとの交際や結婚を反対されたことや、お前を妊娠したことで、いろいろ辛い思いをさせてしまったからな」
「母さんの具合が悪くなった理由は、それだけじゃないんだ」
千歳が僅かに首を傾げて千尋を見る。
「母さんね、父さんとロンドンで最後に会った後、お祖父さんたちに結婚を反対されて、家を飛び出したんだ。そのとき、知らない男の人に強姦されたんだよ」
千歳は目を見開いて千尋を見た。凍り付いたような顔で、そのまま視線だけをシェリーに動かす。「本当か?」と詰問するような鋭い目。シェリーは横を向いたまま、小さくなって千歳と目を合わせられずにいる。
「父さん、母さんを責めないで。母さんは何も悪くないんだ。言わなきゃいけないってわかってたけど、ずっと怖くて、辛くて、言えなかったんだよ」
わずかな静寂の後、千歳の声が機械的に響いた。
「本当なのか、シェリー?」
シェリーは小さく頷いた。肩が震えている。
千歳は千尋に視線を戻した。
「おまえは、いつそのことを知ったんだ?」
「日本に来る直前。誰も知らないことだって、母さんが話してくれた」
千歳の顔がこわばっていく。千尋が話そうとしている事柄の意味を理解しているのだろう。
「父さん……。俺、日本に来る前に自分の血液型を調べたんだ。俺はAB型だったんだよ」
千歳は自分とシェリーの血液型を知っている。千尋の言うAB型は、二人の子供にはあり得ない型だと瞬時に理解できた。沈黙が続く。
やがて、その沈黙に耐えられなくなったように、シェリーが床にひれ伏した。
「ごめんなさい……」
そう言った瞬間、シェリーは立ち上がり、勢いよく窓を開けてテラスに駆け出した。
「シェリー!」
「母さん!」
二人がシェリーを追う。
暗闇の中、部屋の灯りにぼうっと照らされたシェリーの後ろ姿。長い金髪が大きく揺れ、白いドレスがしなやかに踊る。
シェリーはテラスの端まで一気に駆けると、手すりにつかまり、その身を投げ出そうとした。
「何をする! やめなさい!」
すんでのところで千歳がシェリーを背後から抱きしめ、彼女は落下を免れた。
「馬鹿なことを考えるんじゃない」
千歳はそのままシェリーを強く胸に抱いた。泣き崩れるシェリーの耳元で囁く。
「辛いことは思い出さなくていい。何も心配するな。わたしは……おまえがいてくれたら、それでいいんだ」
——あたしは千尋がいてくれたらいいの。
不意に佳菜子の声が千尋の耳の奥に蘇った。
大切な、大切な宝物をしっかりと胸に抱くような父の姿を見て、千尋は思った。何も求めず、ただその人の存在を、その人が幸せでいることを願う。人を愛するというのはそういうことなのかもしれない。会えなくても、結婚できなくても、未来を信じて何年も何年も待ち続けた両親の愛こそが、本当の愛なのかもしれない。
千歳は泣きじゃくるシェリーを抱きかかえ、ベッドルームに連れていった。
十数分して、千歳が再びリビングに現れた。
「母さんは?」
「薬を飲んで眠ってるよ。心配いらない」
それを聞いて千尋はひとまず安心した。が、父はさっき話したことを納得はしていないだろう。ならば、言いたいことを全部伝えるだけだ。
ソファの向かいに座る千歳に、千尋は言った。
「父さん……。俺と父さんは血の繋がりがないみたいだから、俺はどんなことになっても覚悟はできてる。父さんが望むなら、今すぐにでも出て行くよ。父さんが今まで俺にしてくれたこと、感謝してる。ありがとう。母さんを……母さんをお願い。母さんは悪くない。被害者なんだ。幸せにしてあげて」
言って千尋は立ち上がり、千歳に背を向け、部屋を出て行こうとした。
「待ちなさい」
背後から千歳の声がして、千尋は振り向いた。シェリーと同じ色のブロンドが揺れ、同じような顔が千歳の視界に現れる。
「おまえの血液型は、どこで調べたんだ?」
「ロンドンの、マクミリアン家の主治医だったドクター・ヒューズに」
「間違いないのか?」
「ヒューズ先生から直接聞いたから、間違いないと思う。先生には内緒にしてくれるように頼んであるよ」
「このことを知っている人は、他には?」
「佳菜子と……ハルのふたり。どっちも口外するようなことはないから、信じて」
千歳は頭を抱えて、大きく息をついた。
「わかった。少し……考えさせてくれ。頭と心を整理する時間が必要だ。それから、どうすれば一番いいのか考えたい」
お読みいただきありがとうございます。
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