ブラック企業世に憚る
今日も帰宅した頃には日付を跨いでいた。まあ帰れるだけましか。最近は泊りになることも少なくない。疲れた。早く寝よう。明日も早いし。コンビニ弁当を平らげてシャワーに入ると既に丑三つ時だった。3時間も眠れないか。といっても身体は疲れているが脳は興奮状態にあり、毎晩睡眠薬無しに眠ることは出来ない。日に日にその量は増えていくが眠らないわけにもいかない、しょうがないと自分に言い聞かせる。
気が付くと朝5時を過ぎていた。まったく眠った記憶はない。まるで映画のシーンが切り替わるかのように朝を迎える。薬がまだ残っているが、始発の電車に揺られて職場に向かう。社員50人程度の都内の小さな会社でプログラマとして働くとなるとその生活に女っ気は全くない。職場も当然男だらけである。ある意味気楽だが、やはりこんな環境がだれも帰れないような社内の雰囲気を作っているのだろう。
俺がこの会社に新卒で入ってもうすぐ1年がたつ。学生の頃はたとえ就職先がブラック企業だとしても負けるものか。まるで蟹工船の船長のような上司がいたのならば断固と戦おう。労基署に訴えたっていい。実際ブラック企業なんかで働いている奴らは何を考えているのだろうかと内心馬鹿にしていた。
だが就職してみると現実は違った。わかりやすいモンスター上司のような悪者などいなく、仕事を始めたばかりの俺は当然まだ仕事が出来ずそれ故に自分を責めてしまう。そうすると残業をすることでその穴を埋めなくてはと思ってしまう。残業代も申請することが出来るのかもしれない。しかしなんとなく後ろめたくて言い出せなかった。もちろん他の同僚や上司も皆残業しているし、それが当然だと思い始めていた。ましてうちの会社のように取引先から依頼されたプログラムを期日に納品するシステムではどうしても納期前には残業も泊りも休日出勤も当たり前になってしまう。それも踏まえて仕事を進めたり余裕をもったスケジュールを組めばよいなどは空疎な理想に過ぎず現実にそんな余裕はなかった。
「実際うちの会社ってブラックだよな」小嶋先輩が冗談っぽく言った。
「いや、本当にそうだよ。やばいよなーこれは訴えるしかないわー」石井先輩も笑っていう。
そんな会話を耳にしながら俺は思った。実はブラック企業の大半は報道されるような殺伐とした環境ではなく誰もがブラック企業と認識しながらも、だれもそれを冗談っぽくブラック企業で働く社員という演劇をパロディのように演じて日々を過ごしているのではないのか。実際俺の見たところ、冗談っぽく毎日をやり過ごす社員は6割程度、本当に辛そうだったり生真面目なのは2割、仕事で自分が成長するなどと思い打ち込んでいるのは1割、残りは仕事が好きで他にすることが何もない者と何を考えているのかわからない者といった感じだった。
だがこの冗談っぽい雰囲気こそが、状況を変えようという力を奪っていく。なにもかも仕方ないという気持ちになり俺も会社のブラックっぷりをネタにすることでわずかなストレス解消と自らを笑い飛ばすことで事態を見ないふりをした。自分をだまし続けた。
「あなたはうつ病ではありません。適応障害です。」
医者は俺の眼をじっと見て言った。市販の睡眠薬では眠れなくなった俺は精神安定剤を処方してもらおうと精神科を受診したのだ。毎日やる気も食事をとる気もせず身体が鉛のように重いのでうつ病ではないかと聞いてみたのだ。だが医者が曰く、俺の症状は明らかに異常な職場環境によるものでそのストレスでは身体がおかしくなるのも当然である。それは適応障害と言うらしい。結局わずかに安定剤を処方された。休みなどめったに取れないので薬は多めに欲しいといったがダメだった。
翌日俺はそのことをネタに社内で笑いをとっていた。身体の重さは相変わらずで帰りの電車に今俺が飛び込んでも体が弾け飛ぶこともなく電車にめり込むのではないか。俺の身体はコールタールのようにドロリと溶けてめり込んだ電車に染み渡り電車と一体化していくのだ。そんな妄想がぼんやりと浮かんでいた。
--限界だった。いや何度ともなく限界はあった。だが会社に行くとその冗談めいた生ぬるい雰囲気がなにか問題提起をすること自体を冗談だと思わせてしまう力が働き、結局俺はまた会社という舞台の劇団員として限界のピークが過ぎるのを待つだけであった。
今日も仕事は0時を回ろうとしていた。最近は目が霞む頻度が増えてきた気がする。終電も近い。そろそろ帰りたい。そう思った矢先……
「ちゃーちゃーちゃちゃちゃっちゃー!」
けたたましい声が聞こえてきた。山川さんだった。50歳を過ぎても平社員の小太りでまじめな人だ。いったい何が!?
「みなみなさま!ご声援ありがとうございます!皆さまのご声援がわたくしどもの活力の源でありまーす!本日はこれで閉幕となりますがまたのご来場をスタッフ一同心待ちにしておりまーす!」
まるで舞台の幕切れのように大声であたりに挨拶を始める姿に俺は戦慄した。どうしてしまったのか?瀬山係長が山川さんに近づいた。瀬山係長はどちらかというと軽いノリの人で社内でトラブルが発生した際にも笑ってごまかし、事態が沈静化すると何故か自分の手柄にしてしまう人だ。また笑って「まぁまぁ」と窘めるのか。
「ゲロッパァァァァァァァ!!!」瀬山係長がソウルフルに叫びだした。いつものふざけが過ぎたのか。いや、目が本気だ。一心不乱に踊り叫んでいる。後ろの席の田代さんが書類を粉々にして紙吹雪を始めた。太り過ぎの小嶋先輩がブレイクダンスのようなものを始めた。といってもブレイクダンスだと思っているのは本人だけだろう。水から上げられた太り過ぎの魚の断末魔の舞のような、巨大な肉塊が独楽のようにのたうつ。あたりの机といい椅子といいあらゆるものを吹き飛ばし踊り続けている!気が付けば周りの人間が誰もかれも踊り狂っている。後ろに歩くだけの自称マイケルジャクソンや、オタ芸なのかよさこいなのかわからぬ者、同期のはずなのにゴーゴーダンスを踊るあいつ、何歳だよ。しかしいつものふざけた生ぬるい雰囲気は一切ない。皆周りに人間がいることなど気づかぬように己の世界を主張するように踊り歌い叫び続けてる。
そこへ丸山課長が机の上に飛び乗った。50歳を過ぎた頑固一徹。まじめを絵に描いたような丸山課長はいつも世界中の問題を一人で抱えているような表情で仕事をこなす、我が社の良心のような存在だ。ああ課長が一括してくれるのか!この異常事態を収めるのは課長しかいない……!
そう思った瞬間、課長は左腕を腰に当て、右手を振り上げた!人差し指が天空を指している!
ああっ!あれは……あれはジョン・トラボルトじゃないか!!
奇しくも今日は土曜日だ!サタデーナイトじゃないか!!腰を振る課長を見上げながら俺の頭の中で何かスイッチが切り替わった。俺は両腕を前に突き出し、拳を握りしめた。後はその腕を左右交互に上下に振ればいい、踊った経験などまったくない俺に出来ることはこれしかない。いやこれでいいんだ!
俺は力の限りにモンキーダンスを踊り続けた。「うぉぉぉぉ!モンキィィィィィィ!!!!!!」という雄たけびがモンキーダンスの正しい作法なのかは知らぬ。だが問題は無い。踊り続けろ!幕が下りるまで!
社内が巨大な渦のようになった。いつしか俺は気を失っていた……
翌日は通常業務に戻っていた。先輩たちはいつものように冗談を言いつつ仕事をこなしている。
またその翌日の月曜の朝、俺は辞表を提出した。意外なほどあっさりと受理された。
その後聞いてみると、この狂騒は既に会社を辞めたある男が始めたらしい。それ以来いつだれが始めるかもわからぬが、定期的にこのような事態が発生するという。一度発生するともはやだれにも止められない。ある上司は一度この狂騒を経験するとすべての感情をリセット出来る、もしかしたら世に憚るブラック企業への人間の防衛本能なのかもしれないなぁと呟いていた。
俺もまるで憑き物が落ちるようにすべて自分が囚われていた意識が解放され、今までのことは演劇のような作り物であったのではないかと思えるようになり、また冷静にこの会社は自分に合っていないから辞めようと思えた。他にも数名会社を辞めたものがいるらしい。
今は次の仕事も決まっていない、だが俺は意外なほど冷静で清々しい気分でいられるのであった。
完
2015.8.29
勢いで書いてしまいましたが、ますますショートショートなのか訳のわからない事になってしまいました(汗)