セリグマンの犬
ちまちまと書いていたショートショートが50話目になりました。
楽しんで頂ければ幸いです。
冷静に事実を受け止めよう。俺は屑だ。社会の役に立たないどころか足を引っ張るお荷物だ。客観的に見て俺はいらない人間だ。
高校を中退してもう10年引きこもっている。
昔から人付き合いの苦手な俺は格好のイジメの標的にされた。頭も悪い、運動も出来ない、コミュニケーション能力もゼロと来たらこれは必然だ。親や担任に相談しようという気にもならなかった。何故なら全ての原因は俺にあるのだから。たまたまどうしようもない人間に遭遇して辛い目にあったならば環境を変えれば良い。だがこれまで生きてきた経験上、俺は俺という人間性の為に上手くいかないのだ。だから環境を変えても何も変わらない。俺は俺自身から逃げられないのだから。そう思っているとある日、身体が動かなくなった。学校に行けなくなった。心配する親に何も言わず、ただ毎日が過ぎていくのを眺めていた。いつの間にか俺は高校を中退していた。
「大丈夫だよ。高校を出ていなくたって大学に入る方法はあるし、やりたい事を見つけて頑張れば良いよ。」
親はそう言っていたがそんな言葉は気休めに過ぎないと俺は知っていた。世の中そんなに甘くない。俺はどんなに自分が屑でも物事を客観的に見る事を心がけていた。それだけが俺は世の中の他の屑とは違うと思いたかった。何でもかんでも環境や育ちのせいにして、言い訳を繰り返し、自分だってやれば出来るんだと言い続け、人生は何時からでも再チャレンジ出来るなどという戯言にしがみつく。そんな奴らとは違う。単に俺が屑であり、親や先生は良くやってくれており、世の中頑張っている人だらけなのに再チャレンジなんて抜かしている奴が同じレベルに立てる訳が無いと理解している。ちゃんと理解している事で俺は他の屑とは違うというプライドを持ち、自我を保っていたのだ。
勿論、いじめられても立ち直っている人間もいる。高校中退でも成功している人間もいる。だからこそ、何も出来ない俺は屑であり全ての責任は自分に帰すのだという自覚を持っていた。他の屑とは違う。でも他の屑なんて会ったことも無い。テレビやネットで観ただけだ。
目の前が真っ暗だ。前向きに生きる自信も根拠も理由も見いだせない俺はこのままいなくなるのが得策なのだろう。
「そんな事も無いぞ。」
突然考えていることに返事をされ、俺はパニックになった。誰だ?何処から?両親は仕事でいないはずだが!?
「落ち着きたまえよ。」
目の前が真っ暗なのは黒ずくめの男が目の前に立っていたからだ。真っ黒なスーツにシャツまで黒いやつれた顔色の悪い男が俺も目の前に突然現れたのだ。驚いて声も出ない俺に向かって男は語り始めた。
「自己紹介しよう。私は悪魔だ。君と契約しにやってきた。」
「え?あ、悪魔?」
「これは君の幻覚ではないし、私も狂人ではない。事実として悪魔なのだよ。君も悪魔と人間が契約する話ならいくらでも知っているだろう?」
少し落ち着いてきた俺は冷静さと同時にいつもの無力感も取り戻してきた。
「はあ、悪魔でも構いませんけど俺は別にこの世になんの希望も野望もありません。欲しい物も無いですし強いて言えばこのまま静かに暮らしていけるだけのお金を頂けるなら、魂でも何でも持っていってください。」
俺をジロリとみた悪魔はため息をニヤリと笑った。
「結構、結構。良い具合に無力感に陥っているね。全く計画通りだ。」
俺のポカンとした顔を見て悪魔はニヤニヤしながら話を進めた。
「近頃の人間はどうも皆、現実的でね。人間の想像力を力の糧としている我々には非常に辛い状況なのだよ。ある程度成功した人間は自己肯定感を満たす為に、悪魔の契約は断るし、政治家やら経営者は現代でも十分欲深いのだが奴らの野望を叶えるほどの力をもはや我々は持ち合わせていない。ジレンマだ。」
「はあ、それは大変ですね。」
「そう。大変なんだ。そこで我々は考えた。人間の野望の満たす為に力を使わず、逆に人間の希望や幸福を奪ってしまえばどうだろう?それを人質にして返して欲しければ契約しろと迫るんだ!この手口は人間がよくやる手口を参考にさせてもらった。本当に人間の屑っぷりは参考になる。安心したまえ。悪魔には矜持があるから、契約はちゃんと履行する。そうすれば君の本来の運気が戻ってくるわけだ。」
俺は理解が追いつかなかった。つまり、俺は本当は希望も野望もある人間だったと言うのか?
「具体的な話をしよう。君が7歳の頃、運動会のリレーで転んで顰蹙を買ったね。あれは私が君の走る場所を予想して君の走る場所に石を置いておいたのだ。案の定君は転送した。クラスで君がいじめられたのは私が密かに悪い噂を流していたからだし、中学からテスト前にはわざと注意力を逸らすイベントを多発させた。その点、インターネットは便利だねえ。ネット環境があれば注意力を逸らすのなんて簡単だ。君の興味の持つもの、歌も絵も小説もスポーツもことごとく君より上手い者を身近に配置してやる気を削いだ。高校入りたての頃、君が密かに想いを寄せていた同じクラスの女子生徒。実は彼女も君の事が好きだったようだ。だが手紙を隠したり、別の良い男をあてがえばあっさり気持ちは切り替えられた。どうだい?劇的なトラウマなど要らないのだよ。そんなものは私も力を沢山使うし、下手をすると大きな反作用となってポジティブな方向に進む者もいるからね。一つ一つは取るに足らない小さな事でも何ひとつ上手くいかなければ、真綿で締めるように人は自然と希望を失うのだ。」
呆然とする俺を悪魔は訝しげに見ている。
「例えば君は今夜何が食べたい?」
「え?……焼肉?」
「そう思って、食べたいものが、その日の夕食に出た事があるか?これまでの人生で!」
……無い気がする。
「そのレベルでも私は操作しているのだよ。君は全ての幸運から見放されている。」
悪魔が手をかざすとこれまでの自分の人生が走馬灯のそうに目の前に浮かんだ。あの時、あの苦しかった時、辛かった時、悲しかった時、全てはこいつが裏で糸を引いていたのか?思わず俺は声を荒らげて奴に詰め寄った。
「こ、この悪魔め!なんて事を!」
「だから言っているだろう?悪魔だって。話を聞いていないのか?」
あっさりと身をかわされ、怒りで震える俺の身体は行き場所を失い、その場にへたりこんでしまった。
「私がせっせと君の幸福を取り除いていると、君は次第に神妙な面持ちになりこう言っていたね。『こうなったのは誰のせいでもない。俺の不甲斐なさなのだ。』と。こんなに面白い事は無かったよ。殊勝にも自分は冷静に事実を見据えていると思っていたのかね?現実をリアルにとらえていると?俺はリアリストだと?それだけを心の支えにしようとしてたのかね?」
悪魔の哄笑の中、俺は無力感で何も考えることが出来なかった。
「さあ、どうする?私と契約するかね?先程も言ったように私に君の野望を叶える力は無い!だが私が君の邪魔をしなくなれば、普通の人間のように良いことも悪いこともあるフラットな状態にはなれるぞ!文字通りプラマイゼロからのスタートはきれるって訳だ!契約で寿命を寄越せとまでは言わん。死後に君の魂を貰うだけだ。」
俺は契約を決めた。全く理不尽な悪徳商法だが悪魔に倫理を説いてどうする?これまで不幸だった事は間違いない。ならばわずかな可能性に……
「わかった。契約しよう。」
悪魔はニヤリと笑うとサッと手を振りかざした。
「これで私はお前の邪魔はしない。これからどう生きるかはお前次第だ!」
そう言うと悪夢は煙のように姿を消した。
本当に今まで俺は悪魔のせいで不幸続きだったのだろうか?何か変わった感じはしない。
「ただいまー」
母が帰宅してきた。仕事帰りにスーパーに寄ってきたようで両手に大きな袋を抱えている。
それを見て俺はふと気になり母に尋ねた。
「おかえり。母さん。今日の夕食は何?」
「あら。迎えてくれるなんて珍しい。今日はお肉が安かったから久しぶりに焼肉よ。」
ーーそっか。と俺は心の中で呟き、母とすれ違いざまに家を出た。
「ちょっとコンビニまで履歴書買いに行ってくる。」
「そう……行ってらっしゃい。気をつけてね。」
そう言って微笑む母の目には涙が滲んでいた。
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「あ!悪魔先輩!こんな所でひとり呑みですか?」
場末の大衆居酒屋に似つかわしくない派手な格好をした若い女がニヤニヤしながら声をかけた。
「その呼び方は止めたまえ。」
「いいじゃないですか!悪魔先輩!ひとり呑み中って事は今日も人助けですか?力を失った今でもんなことしてるの先輩くらいですよ。私だって今日も一日汗水流して働くんですから。」
「また水商売か?」
「職業に貴賎なしですよ!天使だって稼がなきゃなりません。悪魔を名乗ってる先輩に言われたくないです!本当は天使の癖に。」
そう言うと若い女は勝手に男のビールを飲み始めた。
「なんで悪魔のフリして人間にあんな嘘をつくんです?お前の幸福をすべて奪っていたなんて。」
プライベートでは口数の少ない男だが今日は少し酔いが回ったのか饒舌に語り出した。
「ああいう人間は全ての不幸を自己責任だと抱え込んでいる。それで1歩も動けないんだ。マーティン・セリグマンって心理学者を知ってるかね?」
「まったく知りません。」
「彼の実験で犬に何をやっても電気ショックを与えるという実験を行った。自分の行動に関らず罰を受け続けた犬は『何をしたって無駄』という事を学んだのだ。結果犬は無気力状態となり状況を脱する気持ちすら起こさなくなった。」
「それはまた酷い実験ですね。犬も人も平等なのに!」
苦笑しつつ男はビールを飲み干した。
「あの青年も同じ状態だったんだ。彼のように誰かのせいすることもできない人間はひたすら自己嫌悪の地獄にいる。彼に必要だったのは誰かのせいにするって事だ。自分を責めて何も生まれないなら不毛だからな。そしてその誰かとは悪魔だ。実際彼の過去には良いことも悪いこともあったはずなんだ。だが彼の中で『現実=不幸で冷徹で厳しい』という物語がゆるぎないものとして出来上がっていた。現実とは自分のような負け犬には何をしても無駄なところであるとね。過去とは今が作るものだ。不幸な今はそこを目指して不幸な物語を作る。力のない私にできるのは、彼のその物語を利用して不幸だらけの人生は悪魔のせいだと思わせることだった。特別な力などほとんど使っていない。実際に使った力と言えば夕食を焼肉にしてやったくらいだ。」
「え?焼肉?食べたいです。」
「何でもないよ。えーと質問は何だったっけね?そうだ何故私が悪魔のフリをしていたのかという話だったな。」
「そうですよ。別に天使ですって言っても良いじゃないですか!」
「それはな、今どきの人間は天使は疑っても、悪魔はすんなり信じてしまうからだよ」
そう笑うと天使は次にハイボールを注文した。
完
2017.06.01
最後まで読んで頂きありがとうございます。
これからもちまちまと書いていこうと思います。




