花と鉛
『緑川先生様
はじめまして。突然のお手紙失礼致します。先日ある雑誌で先生の記事を拝見させて頂きました。超心理学の権威である先生しか私達を救ってくださる方はしかいらっしゃらないと思い、お手紙を書かせていただいきました。何分手紙など久しぶりですので稚拙でお見苦しい点が多数あるかと思いますがどうか御容赦下さい。
自己紹介が遅れてしまいました。私はX市で暮らす、安川 芙美子と申します。現在は母の介護の為、仕事をしておりません。先生にご相談したいのはその母の事なのです。
私は幼い頃に父を亡くし、親戚とも疎遠であった為、母が女手ひとつで育ててくれました。苦労も多かったでしょうにそんな素振りは一切見せず優しく時に厳しく育ててくれ、私を大学まで行かせてくれました。いつも私の事を「ふみちゃん、ふみちゃん」と呼んでくれて、親子の仲も良好で大きな喧嘩など1度もした事もありませんでした。そんな母が最近認知症を患ってしまい過去の記憶が曖昧になったり、物事の理解が出来ないことが増えてきました。それ自体は悲しいですけれど仕方の無い事だと気持ちの整理はつけておりました。しかしある時から母は「あの人は鉛だ。」「あの人は花だから大丈夫だよなどと言い出したのです。」
話は前後してしまいますが、私は大学卒業後に服飾メーカーに務め、その後に独立して自らのブティックを立ち上げました。小さいながらも会社の経営者となり毎日忙しくしてきました。ウーマンリブ等という言葉が流行した時代でもあり、私も新しい時代の男性に頼らない自立した女性などと持て囃されたり、逆に批判されたりしましたが自分ではそれを誇りに思い、男性のようにバリバリと働いて来ました。会社も起動に乗り、やっと落ち着いた頃、私は既に疲れ果てていました。仕事のこと、生活のこと全てにです。かつての仕事への情熱はもう無く、ただ静かに暮らしたいと思うようになっていました。しかし周りに相談しても「貴女のような人が何故そんなことを?」「貴女は私たちの希望なんです。そんなこと言わないで」と言われるだけです。嘗ては私を鼓舞してくれた新しい時代の自立した女性という言葉も今では私を縛りつける重荷でしかありませんでした。そんな時に母の認知症が発症したのです。私は母に何も恩返しが出来ていない。娘として女性として私は母の面倒を見るために仕事を全て優秀な部下に譲り渡して実家に帰りました。
私が仕事を辞めて母の元に戻ったちょうどその頃です。母は既に周りの人間を区別する事が出来なくなり始めていましたが、ある時から人間が花に見えるようになったのようなのです。母の介護の手助けをしてくれる近所の方などを見ては「お花だ。お花だ。綺麗だねぇ」と言うのです。またテレビでタレントの方やアナウンサーの方を見ていても「お花が沢山」と言いながら見ています。仕方の無い事なのだろうと考えていましたがある日、母は「鉛だ。鉛がいるよ。」と言い出しました。それは近所の大田さんの奥さんでした。大田さんは旦那さんが実業家で大きなお家に住んでいる上品で近所の評判の良い女性です。そんな彼女だけが何故鉛に見えるのか不思議でした。しかし後日、大田さんが近所のスーパーで万引きを繰り返しておりついに警察のお世話になったと噂が広がりました。まさか彼女がと驚きましたが母の発言との関係はその時は気にもとめていませんでした。
母には人間の善悪が見えているのではないか。そう思うようになる迄時間はかかりませんでした。その後も母が鉛に見えた人間はテレビの中の芸能人でも政治家でも周りの人でも悪い噂の絶えない人や一見善人ですが後から、良くない話を聞く人ばかりです。先生、母には人間の善悪を見分ける能力が身についたのでしょうか?良い人間は花に悪い人間は鉛に見える。人間にそんな能力が備わる事などあるのでしょうか?
もし、その可能性があるのならば、もう一つ、そして最も伺いたい質問があります。母は私のことも娘だと認識出来ていません。そして私のことも鉛だと言うのです!一体何故なのでしょう?お会いしたこともない私の様な人間の事を聞かれても戸惑われるばかりだと思いますが、頼りになるのは先生しかおりません。どうかお返事をお願いします。私は母に憎まれているのでしょうか?私は悪に見えているのでしょうか?拙い手紙で申し訳ありません。しかし今の私には手紙を推敲する気力もありません。どうか御容赦下さい。
安川芙美子』
『安川芙美子様
はじめまして。緑川です。お返事が遅れて申し訳ありません。お手紙興味深く拝見させて頂きました。お母様の件は私も初めて聞く症状です。しかし結論から言えば、お母様の症状は分からないという事だけです。落胆されるかも知れませんが、それしか言えないというのが現状なのです。私が研究している超心理とは現在科学では解明されていない人間の隠れた能力を調査解明するものです。お母様の症状は人間の善悪が分かるのではという事ですが、善悪が見えるには前提として善悪が定義出来なければなりません。しかしこれが難しいのです。善も悪も人間がその都度、都合に合わせて作った概念に過ぎないからです。殺人でさえ、戦争時には完全な悪とはみなされません。それにほかの生き物からみたら人間という存在自体が迷惑千万な悪であるかもしれないのです。そんな曖昧で定義もコロコロ変わるものを見分ける力など人間に本質的に備わっている事など有り得ないのです。善悪など、あくまで環境と状況によって外部から与えられる評価でしかないのです。したがってお母様が人間が花や鉛に見えるのはお母様の主観的な善悪観が反映されて、その様な幻覚を見せているとしかだけとしか言えません。気休めになるとは思えませんが論理的に芙美子さんが本質的に悪である。などという事はありえないのです。以上が超心理学者としての回答です。
ここからは学者ではなく只の年寄りの戯言でとして聞いてください。なんの論理的な根拠もありませんので聞き流して頂いて問題ありません。お母様は芙美子さんが自立した新しい女性として働くことを善と考えていたのではないでしょうか?お母様はそんな芙美子さんが女性として家に戻るとか介護に専念するという古い価値観で仕事を辞めて戻ってきたことを心の中で、悲しく、また申し訳なく思っているのでないでしょうか。そんなネガティブな感情が芙美子さんを鉛と認識してしまっているのではないでしょうか?私も最近のウーマンリブは素晴らしい事だと考えています。芙美子さんももう一度、自立した女性として社会に出てみるのも一つの手ではないでしょうか。差し出がましい年寄のおせっかいでした。拙い文書で申し訳ない。わたしも手紙は苦手なのです。どうかご容赦を。
緑川猛』
『緑川先生様
お返事ありがとうございます。母が私の事をお花に見える様になりました。先生のアドバイスがどんなに私の心の支えになったことか。先生の言葉に目が開きました。特に「善も悪も人間がその都度、都合に合わせて作ったに過ぎない。」という言葉は私の心に響きました。毎日その事ばかり考えています。私は疲れて働くことから逃げていたのかもしれません。母にはそれが見抜かれていたのかもしれませんね。早速、新しい仕事を見つけることが出来ました。実家からも通える小さなお店なのですがオーダーメイドの洋服なども請け負っており私も以前の仕事の経験を活かせそうです。そのことを母に伝えた翌日、母は私をみて「お花さんだ。いらっしゃい。」と言ってくれました。涙が出るほど嬉しかったです。これも全て先生のおかげです。ありがとうございました。
安川芙美子』
『緑川先生様
立て続けのお手紙失礼いたします。先日の手紙の後も実は私の心にはモヤモヤとしたものが残っておりました。仕事を再開すると生来凝り性の私はつい仕事に熱中してしまい毎日の帰宅時間は遅くなるばかりでした、疲労は溜まりそれでも母から花だと思われるのが嬉しくて仕事と介護を両立させていました。それでも心のどこかに残っていたのは先生の「善も悪も人間がその都度、都合に合わせて作ったに過ぎない。」という言葉です。私は母から善なる存在だと思われたくて働いているのか。母だけではありません。私は自立した女性と世間から褒められたくて働いていたのか。優しい娘だと思われたくて母の介護をしていたのか。そんな疑問が頭から消えませんでした。母は身体も弱っており、先月から肺炎も患ってしまいました。
私は心のもやもやが晴れませんでした。そうして私は自分の気持ちに気が付きました。母の傍にいたい。母の為でも、自分を善人だと思いたいからでもない、ただ自分の意志で母の傍にいたいと思ったのです。たとえ母に鉛だと思われてもかまわない。だって先生の言葉を借りれば花が綺麗で鉛が醜いという考えだって人間が勝手にそう思い込んでいるだけでしょう?そう思うともう自分を止められませんでした。母の前で私は私の意志でここにいたいと言いました。
すると母は私をじっとみて「ありがとう、ふみちゃん」と言ってくれました。
あとどれだけ母と一緒に居れるかわかりません。それでも私はこれで良かったのだと思います。
先生、ありがとうございました。
安川芙美子』
『安川芙美子様
素晴らしいお手紙ありがとうございます。
同時に己の不明を恥じるばかりです。芙美子さんがお母様からどう思われるかという善悪の彼岸に立った事で、お母様には花でも鉛でもない、芙美子さん自身の姿が見えたのかもしれません。いやそれも私の妄想でしかありません。わからないことは解明されるまでわからないのです。余計な決めつけは不要ですね。改めて私は学者として怪力乱神を語らずを肝に銘じます。これからも人からどう見えるかではなく、貴女にとって良いと思える人生を送ってください。さようなら。
緑川猛』
完
読んで頂きありがとうございます。




