翼の生えたアン夫人
どうぞお楽しみください。
アン夫人の毎日は時計のように正確だ。毎朝6時には起床して朝食をつくり、今日も寝坊気味の旦那をなじりながら朝食を摂る。旦那が仕事に出かけてからも掃除洗濯裁縫買出しをすべて決まった時間に行い、街の人はアン夫人を見る事で時間を認識する始末であった。「立派な奥さんで羨ましいよ」と夫のチャールズはご近所さんから言われるが「うん、まあね」と言葉を濁すのが常であった。よく言えばきっちりとした、悪く言えば融通が利かない性格の妻との結婚生活に内心息が詰まる思いだった。30年も一緒にいれば慣れそうなものだがただただ諦めただけであった。
「チャールズ、あなたって何故いつもこう適当なのかしら?」
今日もアン夫人の小言が始まった。物の片付け方や食事のマナー話し方や表情の付け方にまで文句を言ってくる。初めは「そんなに気にしなくても」とか「家くらいはのんびりさせてくれ」と言ったチャールズであったが、今は全てを諦めた顔で夫人の言葉を聞き流している。成程彼女の言う事はひとつひとつは至極最もで反論する事は特に無い。だがそれが余りに融通が効かず杓子定規で徹底的で原理主義的であるのだ。結婚して一緒に住み始めた頃、仕事から戻ったチャールズはコレクションの本とレコードをすべて捨てられて愕然とした。理由を聞くと本など図書館で借りれるし、レコードだってラジオで聴けるしどうしても必要ならその時買えば充分だ。それより余計な場所をとる方が問題だと言うのだ。貴重で手に入らないものもあると言っても、手に入らないという事は人々から必要とされていないからでそんなものを敢えて読んだり聴いたりするのは時間の無駄だととりつく島もない。無論納得のいかないチャールズはアン夫人と大喧嘩をしたが、そんな事を繰り返すうちに全ては無駄だと悟った。彼女は自分が正義で常に正しいと全く疑う事を知らないのだ。そしてその正しさは全ての人間が等しく従うべきだと信じ切っている。なにしろ正しいのだから!生まれつき内気で自分に自信がなくオドオドとしているチャールズは彼女のそんな毅然とした姿に惚れたのだが結婚生活はそれが毅然とし過ぎていることを彼に充分に思い知らせる作業に過ぎなかった。要領も悪く給料も安いチャールズはその事を夫人になじられる度にますます自信を失い負い目となり、今の諦めたような顔で日々を過ごすに至っているのだ。
「チャールズ!チャールズ!」
夫人の金切り声で今日も、また始まったと思いながら彼はのそのそと階段を降りてきた。だがいつもと様子が異なる。毎朝、髪もきっちりと束ね肌も殆ど見えない服で全身を覆っているアン夫人が髪は下ろしたまま肌着1枚で不安げにこちらを見ていた。妻の肌を見るのは何10年ぶりだろうとぼんやりと考えていると「ボーッとしていないでこれ何とかしてよ!たまには役にたったらどう?」とヒステリックに夫人が叫びながらこちらに背を向けた。
そこには翼が生えていた。
肩甲骨が発達した様な形であるが真っ白な羽毛に覆われており確かに羽であった。
「どうしたんだ、これはいったい……」
狼狽するチャールズを憎らしげに睨みつつ再び夫人は金切り声をあげた。
「私が知るはずないでしょう!何なのよ!これ!」
一瞬チャールズは妻がふざけているのではないのかと思った。しかし妻が冗談を言う可能性と妻に翼が生える可能性を天秤にかけた結果、確かに翼が生えているのだと確信した。
「と、取り敢えず病院だ!ハミルトン先生なら相談にのってくれるはずだ!」
急いで病院に向かう支度を始める彼をよそにアン夫人は少し落ち着きを取り戻したように身を整えて「駄目よ。まだ受付の時間では無いもの。先に午前中の仕事を終わらせるわ。あんたも午前中は仕事に行きなさい。ただでさえ無能なのだから無駄に休むと印象が悪いわ。」そう言って翼が生えていることを除くといつもと寸分違わぬ様子で夫人は朝食の準備を始め、チャールズの食べ方がエレガントでは無いといつもの様になじるのであった。そして狐につままれたような顔でチャールズは仕事に向かった。
「いったい、これは……」
かつては軍医として様々な状況に遭遇したハミルトン先生であったが翼の生えた人間を前に動揺を隠せぬようであった。
「とにかく、とってください!」アン夫人の勢いに押されて緊急手術が行われた。包帯に覆われたアン夫人は何事も無かったように帰宅し、いつもの生活に戻るのであった。翌月再び翼が生えるまでは。
翼の再生に動揺を隠せぬアン夫人であったが、とにかくハミルトン先生を尋ねるしかない。さらに翌月、アン夫人もチャールズもハミルトン先生も嫌な予感はしていたが、その予感は的中した。3度目の翼が生えてきたのだ。
「これは神のご意思なのかもしれませんよ。」
切っても切っても新たに生えてくる翼を見ながら、ハミルトン先生は呟いた。たしかに白鳥のような白く美しい翼を生やしたアン夫人の姿はまるで天使のようであった。ひどく不機嫌そうな顔を除けば。チャールズも薄々そう思ってはいた。
「そうだよ、翼が生えるのはたいがい月曜日ではないか。教会に行った翌日に生えるというのは偶然とは思えない。その翼を切ってしまうのは神の意志に反するのではないかな?」
だがアン夫人は不機嫌な表情を崩すことはなかった。
「たいがいではなく毎月第4月曜日よ。たしかに教会には毎週行っているし神様も尊敬しているわ。でも翼が生えるのは困るの。だってそんなことわたしの人生の予定にないもの。ハミルトン先生、はやく切除してください。」
神でさえ彼女の予定を妨げることは出来ないのだ。そう思いチャールズは震えた。
彼女の言うように翼はきっちり毎月第4月曜日に生えてくる。初めは動揺していたこの奇妙な現象も日常の中に溶け込んでいった。翼の切除もまるで散髪かなにかのようにルーチンワークとしてアン夫人の厳密なスケジュールに組み込まれていった。時は流れ、翼の切除回数は既に12回目をまわっていた。気が付けば初めて翼が生えてから1年が経過しようとしていた。
「チャールズ!チャールズ!」
夫人の金切り声で今日もまた始まったと思いながら彼はのそのそと階段を降りてきた。だがいつもと様子が異なる。もはや翼が生える程度では動じないアン夫人が肌着1枚で不安げにこちらを見ていた。妻の肌を見るのは1年ぶりかなとぼんやりと考えていると「ボーッとしていないでこれ何とかしてよ!」とヒステリックに夫人が叫びながらこちらに背を向けた。
そこには翼が生えていた。
これまでの白鳥のような美しいものではない。羽毛はなく、黒く醜悪な蝙蝠のような翼が生えていたのだ。
アン夫人の動揺は今までの比ではなく、「すぐに病院に行こう。仕事は休むから!」というチャールズの言葉にも反論はしなかった。ハミルトン先生も驚きすぐに手術の準備を始めたが、開始からほどなくして神妙な面持ちで手術室から飛び出してきてチャールズに告げた。
「チャールズ、切除手術は不可能だ。今回の翼はこれまでと異なり彼女の心臓にまで達しており一体化している。下手に除去を試みると彼女の生命を危険に晒すことになる。とりあえず様子を見るしかない。」
アン夫人は三日三晩泣きはらした。こんな姿では外を歩けない。これではまともな人間ではない。迫害され町を追われるに違いないと喚き続けた。チャールズは辛抱強く彼女を励まし続けた。夫人は引きこもり一日中ベッドに籠り何もしなくなった。チャールズは文句は言わずむしろ彼女に読書や音楽鑑賞を勧めた。それはかつて夫人に捨てられたがこっそりと買いなおしたコレクションであった。メインストリームから外れた貴重な、夫人の言葉を借りれば世間に需要が無い本やレコード中にはたくさんあった。初めは興味なさげであった彼女も次第にそれらを手に取り、いつしか一心不乱に読み耽り音楽を聴き込んだ。
それから夫人が外に出るまで2年かかった。周りに好奇な目で見られたがそれも3年もすれば皆慣れてしまい日常が舞い戻った。夫人のかつてのような融通のきかない気性は、穏やかでゆったりとした大らかで人を許す性格となり、チャールズとの関係もよくなった。
「奥さんがあんなことになって大変だね。」
今でもチャールズはそう言われることがあるが彼は笑顔で答える。
「いいや、今の彼女は天使のようだ。それに彼女だけではない。わたしも羽を伸ばして生きることが出来る様になったよ。」
完
2015.05.13
読んで頂きありがとうございます。
投稿ペースをあげていければと思います。




