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世界一普通な男

男の人生のモットーは質素倹約平穏無事安全第一人畜無害であった。平凡な頭脳と平凡な要望を持ち、平凡な学生生活をおくり平凡な会社に就職し平凡な妻と結婚をし平凡な子供を一姫二太郎という按配で持ち日々暮らしている。

いやなに、その平凡さは今どき貴重だ。そういう生活を送れないものも多いのですよ。立派なもんだと言ってくる人もいるが、それでも男のあまりの無個性っぷりにいささか閉口する始末であった。

しかし男はそんな事は気にしない。というよりも気にする暇がないのだ。平凡に暮らしているはずなのに次から次へと不思議な事が起るのだ。

殺し屋や変な博士なんて序の口だ。宇宙人、死神、悪魔、神にあった回数も数え切れぬ。そのたびに不思議な経験やひどい目にあうが男は努めて普通の暮らしに戻ろうとする。それだけの経験をすれば多少肝も据わってくると思われるがいつも男は新しい展開に驚き狼狽する。天性の普通の持ち主と言えた。


それだけではない。自分の記憶さえも曖昧なのだ。ある時は医者であり、ある時は探偵、大富豪になったかと思うとしがない平社員の時もある。そんな記憶の混乱が起れば当然己の精神状態を疑い、精神科のドアを叩くなり人生に悲観して自暴自棄になりそうなものだ。だが男はそんな時にも普通の状態であろうとする。


思春期でもあるまいし余計な自意識は不要である。自分は何者でもない。ただの無名な何処にでもいる男なのだ。


ある日そんなことを考えながらいつもの道を帰宅していると、どうも周りの視線が自分に向けられているような気がしていた。男を見てはヒソヒソと話し合ったり「ほらあの人よ」などと露骨に声を上げる者もいた。

男としても気にはなったが、知らん顔を決め込んだ。普通であるという事は臆病であるという事でもある。


だが自分に注目する人間は日に日に増していく。質素に暮らしたい男としては不愉快この上ない事態である。だれもが遠目に自分を指さしヒソヒソ話をやめない。家に帰ろうとすると後をつけて来る。それも初めは少数であったのにその人数は日を追うことに増していき、今ではちょっとした大名行列のようである。

家に帰っても気は休まらない。大勢の人間が自宅を取り囲みこちらの様子をじっと見ているのだ。妻も子供も怖がり家から出ることが出来ない。

男は警察に相談したが具体的な被害も出ていないという事で取り合ってもくれない。


人数は減ることを知らずまるで渋谷に現れた芸能人であるかのような人ごみに毎日囲まれながら通勤をする羽目になった。

いったいどうしてこんなことになったのか。男の精神は衰弱する一方であった。

ある日いつものように帰宅をしていると一人のミーハーそうな女が我慢出来ないといった様子駆け寄ってきた。

「あ、あのサインをください」

唐突に突き出された色紙とペンに男は狼狽した。サインなど伝票を受け取る時にしかしたことがない。勢いに押されて男はサインをしようとした。

だがいざ書こうとすると自分の名前が思い出せないのだ。オロオロとしながら周りを見回すと、この女の次は自分がサインをもらうんだといった人々が今にも飛び出さんという態勢でこちらを見守っていた。恐怖にかられた男は手が震え色紙にはミミズがのたくった様な線を一本引いただけであった。男は走って逃げだした。

うしろから女の

「あ!やっぱり!」

という声が聞こえてきた。


その日を境に男を追いかけ回す人の数はさらに爆発的に増え続け、ついに男の動きに合わせて町全体が動くかのような狂乱ぶりだった。比例して男の精神はますます疲弊し、家族は田舎に避難し、食事ものどを通らず仕事もまともに出来ぬ状態であった。

限界を感じた男は経験上、何かこの異常事態の終わりを告げるようなアクションを起こす必要があると考えた。いつも身の回りでおかしな事が起きると何か終わりを告げる事態が必要だった。だがどうすればいいのか男には見当もつかなかった。


今日も逃げるように帰宅する。後をつける人数が多くなりすぎた為、家の周りはすべて人で囲まれていた。あまりの人の多さに玄関を開けるや否や、うしろから押された人々が雪崩れ込んできた。唯一平穏だった男の家までもがめちゃくちゃに壊れていくのを見て、ついに男は限界が来た。


「もういいかげんにしてくれ!なんなんだいったい!わたしみたいな何の特徴も無い男をなぜ追い回すんだ!」


追いかけていた人々は皆意外なほどシュンとして申し訳なさそうにうつむきだした。その中にいつか男にサインを求めた女もいた。

「ごめんなさい。初めて貴方を見た時からあまりの無個性っぷりというか、極限にまで無駄を省いた姿にもしやと思って。それでサインを頂いたらわたしたちの思った通りで。それでつい興奮してしまったんです。」

ごめんなさい、申し訳ないと辺りから謝罪͡の言葉が聞こえてくる。

「え?なんなんですかサインって、私は自分の名前なんて書いていないですよ」

すると女がサインをこちらに向けた。

やはりミミズのような線が一本書かれているだけだ。その形をあえて読むとすると……


「アルファベットのエヌか?」


男がそう口走った瞬間に人々の顔はパァと明るくなり堰を切ったように話し出した。

「そうです、皆あなたに憧れていたんです!」「あなたは伝説だ!」「子供のころからあなたのことを知っています!」「あなたのことで皆泣いたり、笑ったり、怖がったり、ワクワクしたり色んな事を教えてもらいました」

口々に熱く語ったり、涙ながらに訴える人々を前に


男は、いやエヌ氏は訳も分からず困惑し続けた。


15.09.12

ショートショートの神に敬意を表して

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