第八十五話 身勝手
ナツは、少し寂しそうに話を続けた。
「……私も詳しく聞いたわけじゃないけど、前に『月星楼』で修行していたころから良平の事を好きだった女の子がいたらしい。けれど奴は料理に夢中で、その娘の思いに気づかず……『月星楼』が阿東藩から撤退して、離ればなれになって……それでもその娘は、奴の事を慕い続けていたという話だ」
……それだけ聞くとけなげな女の子にも思えるが……。
「そして阿東藩で活躍し、名を知られるようになった良平が、江戸の『月星楼』で鰻料理を披露したところ、大好評で……以前は一番下っ端だった奴は、それで株を上げたらしい。その娘は、ますます彼を慕うようになって……ついに思いを打ち明けたみたいなんだ」
良平、江戸でも頑張って認められたんだな……。
「良平の奴、女の子に初めて告白されたみたいで、戸惑って……最初は、『阿東藩で好きな女がいる』と、私の事を言ってくれたみたいなんだが、『けど、片思いで……』と正直に話して……そこからはどういう話だったかよく聞かなかったが、とにかく、その娘と両思いになったらしい。近々、その子も阿東藩にやってくるって話だ」
「……へっ? もうそんな事になっているのか?」
「……ああ。めでたいことだろう。もちろん、私も祝福したし、そんな土下座なんかされても困る、自分で『片思い』って知っていたんだろう、って笑って言ってやった。まあ、ちょっと妬けるけどな、とも。それで良平は肩の荷が下りたようだった。本当に律儀というか、ばか正直というか……」
確かに、良平にはそういう一面はあるけど……まさかあいつがそんなに好かれるとは。
「もちろん、そう言ったのは私にとっても本音だったし、その時は本当に心から祝福したけど……やっぱり、奴に言った通り、ちょっと妬けるっていうのも本心だな……」
……なるほど、それでちょっと落ち込んでいたのか。
「……私は、誰にも必要とされていない……」
ぼそっと彼女が言った一言を、俺は聞き逃さなかった。
ナツは、想像以上にショックを受けている――。
「なんだろうな、この気持ち……私は、本当に、良平の事など何とも思っていなかったはずなのに……」
……なんか、可哀想、というか……励ましてやりたい気持ちになって、俺はナツのすぐ隣に座り直した。特にナツも気にしない様子だった。
「なんとなく分かるよ。俺もそんな気持ちになったとき、あるから」
「……貴様もか? いつ?」
ようやく真剣にこちらを向いてくれた。なんか、すがるような表情だ。
「ナツが、良平に告白されたって聞いたときだよ」
……俺の言葉が相当意外だったようで、彼女の目がしばらく点になっていた。
「……バカな事を言うな。貴様は、私の事など何とも思っていなかったじゃないか」
「いや、まあ、なんともっていうか、特別に意識はしていなかったつもりだったけど、だからこそ自分の気持ちに戸惑った。ナツもさっき言ってただろう? 『良平の事など何とも思っていなかったはずなのに』って」
「……なるほど、そういうことか。要は『妬ける』ってことか……それが自分の意中の相手でなくとも……うん、まあ、分かる。貴様でも、私の時にそんな気持ちになってくれたんだな」
「ああ。だから今、ナツがちょっとブルーなのも分かる気がする」
「ぶるー?」
「あ、うん、落ち込んでるって言うか、複雑な心境っていうか……そういうことだよ」
「ふーん、『ぶるー』か……けど、貴様には優がいたじゃないか」
「ああ。だから、余計に自分の気持ちに戸惑ったんだ。そしてついこの前、凜さんに指摘されてその理由を知り、愕然とした」
「……凜さんに?」
「そうだ。俺は……ナツ、君も含めて……前田邸の五人の女の子を、誰一人として手放したくないって考えてたんだ」
「……なっ……ユキやハルも含めて、か?」
「その通りだ。で、結局俺はそういう『身勝手な』人間なんだなって思って……だから正直、落ち込んでいた」
「なるほど……それでちょっと様子がおかしかったんだな……『ぶるー』だったんだな……」
ナツの目には、そんな風に映っていたのか。
「でも、それなら……逆にユキもハルも、喜ぶだろうな。貴様が、ずっと一緒にいて欲しいって言うのなら……あの子達も、ずっと『妾になりたい』ていってたから……」
「妾っていうか……俺は正直、そういうんじゃなくて……本音を言えば、全員『嫁』にしたい……って、ますます身勝手な人間だな……」
「……いや、貴様の場合、皆から慕われているんだからそれでいい。そう言ってくれる方が嬉しい。私も含めて……」
彼女は視線を正面に戻し、目を閉じ、じっと深く考え込んでいるようだった。
――不意に、とん、と右肩が重くなった。
隣に座っていたナツが、俺に寄りかかってきたのだ。
「私も、優みたいに……ずっと貴様の……いや、貴方の側に居たい……」
――とくん、と自分の鼓動が高まるのを感じた。
涙を流して俺に寄りかかる、満十六歳のボーイッシュな美少女。
ある意味、俺は、ナツに告白されていた。
どうすればいいのか、一瞬戸惑ったが……今、彼女を拒絶するような態度を取れば傷つけてしまうことになるだろうし、もとより拒絶する気も無かった。
俺はそっと右手で彼女の右肩を抱き、そしてそのまましばらく身動きもせず、ただ彼女の暖かさを感じていた――。
その夜、前田邸の囲炉裏部屋で凜さんと二人だけになったとき、ある提案をされた。
俺と一緒に風呂に入って背中を流したいという女の子がいるという。
一瞬、躊躇しそうになったが、その提案を受け入れる事にした。
脱衣所で裸になり、タオルだけ持って浴室に入っていく。
先に湯船に入ったが、ちょっと熱かったので洗い場で休んでいると、カラカラと扉が開いて誰か入ってきた。
その方向には背を向けていたので、まだ誰が来たのかはわからない。
しかし俺は、それが優でも凜さんでも、いや、ナツだったとしても、動揺することなくその思いを受け止めようと、心に決めていた。
しかしその娘は、大胆にもいきなり俺の背中に抱きついてきた。
やわらかい感触が俺の背に当たり、さすがにどぎまぎしてしまう。
「大好き……タクッ……」
(……ユキだっ!)
俺は動揺してしまった――。





