第三十七話 門出
旧暦の一月二十九日。
この日、俺と優は、夫婦となった。
といっても、この時代限定の話で、かつ、いわゆる「祝言」を挙げた訳でもない。
単にお寺の「人別帳」に記述してもらっただけ……つまり、戸籍上の夫婦にすぎない。
それでも、他の四人の女の子達、特に「義理の姉」となった凜さんは喜び、祝ってくれた。
しかし、それは心からのものではない。
俺の妹、「アキ」が行方不明という事実が、重くのしかかっていたからだ。
本当の祝福は、妹を助け出してから――――――――全員、そんな思いと共に、俺と優の門出を見守ってくれた。
この日は、早朝からまず彼女の実家を訪れ、挨拶を済ませた。
凜さんも来るか迷っていたようだが、二人だけの方がいいだろうという結論になり、二時間ほど歩いてその家を訪れていた。
彼女の両親は、泣いて喜んでくれた。
俺の事を、神様のような方だ、とも。
俺も涙するほどの感動があり、もっと話をしたかったのだが、夜までに宿場町にたどり着かなければならない。
後ろ髪を引かれる思いで、その家を後にした。
引き続き、阿東川に沿って下流へと歩いて行く。
やや肌寒いが、天気は良く、自然いっぱいの河原を優と二人で歩くのは気持ちよかった。
しかし、河口付近にたどり着いてからが難所の始まりだった。
そこから江戸に続く街道に出るには、入江と岬が交互に連なる『七坂八浜』と呼ばれる起伏に富んだ小道を抜け、最後に大きな峠を越えなければならない。
俺と優の格好は、この時代の旅人としては普通の地味な着物に笠をかぶり、右手には杖。
足下は足袋とワラジを履いてる。
二人ともやや小型のリュックを背負い、それが目立たぬようわざわざ上から大きな風呂敷で包んでいる。
『七坂八浜』からは地面の状態が悪くなるので、ワラジは脱ぎ、現代から持ち込んだウォーキングシューズに履き替える。
特に優の物は、前回靴紐がほどけた反省から、扱いやすい「マジックテープ」式のそれに変更していた。
当時の人からすればかなり変わっているように見えるかもしれないが、そもそもこの道を通る者はそんなに多くないし、仮にすれ違ったとしてもその際に全員足下を見ていくかどうかといえばそんなことはないだろう。
また、前に立ちくらみを起こした彼女に対し、俺は「鉄分」のサプリメントを飲ませてあげていた。これで最近は症状は出なくなっているという。
足下を万全にし、まず挑むは海岸。ただ、砂浜ではなく、そこは磯の岩場だった。
数メートル横で白波が岩に砕かれ、水しぶきが上がっている。
潮の香りが強く、海草が打ち上げられ、滑りやすい。
まだこの日は波が穏やかで風も弱いが、これが荒天になれば数日足止めされることもあるという。
ごつごつとした地面、転んだら相当痛いだろうが、丈夫な靴のおかげが、二人とも比較的すいすい歩ける。多少天然の階段を登るときに苦労したぐらいで、そこはクリア。
しかし次に、サスペンスドラマの舞台になりそうな崖の上の小道を歩く。
さすがにここは慎重になるが、特に足を滑らせるようなハプニングもなく、二人ともまだ平気だ。
その後の下り坂がまた大変。ちょっと気を緩めると転がり落ちそうな急で細い、けもの道のようなそこを降りていかなければならない。
ちなみに、江戸から荷物を運ぶ際、みんなこんな険しい道を進むのかと言えばそんなことはなく、船を使って輸送することがほとんどだ。
ならば俺達も船を使えば、と考えられそうなものだが、いろいろと手続きが面倒な上、より気象条件に左右され、場合によってはかえって日数がかかることになってしまう。やはり歩きの方が手軽で確実なのだ。
そんなこんなで何とか「七坂八浜」を抜けたとき、もう昼を過ぎ、太陽は傾き始めていた。
さらに二時間ほど歩き、また上り坂が始まる。
ここからがウワサに聞く「大峠」だ。
ここを一言で表現するならば、「整備されていない遊歩道」。
それもひたすら登りが続く。
俺が息も絶え絶えになる横で、優は別段疲れも見せず、平気で歩いている。
俺の方が荷物が多いとはいえ……これはちょっと予想外だ。
しかし、よく考えれば当たり前なのかもしれない。
俺もこの時代に来てからよく歩くようになったが、元からこの世界に身を置く優は、年期が違う。
しかも最近、『前田邸』から町まで毎日往復で二時間歩いているし、仕事中はほぼ立ちっぱなしだ。
それに加えて、四十キロに満たない体重の軽さ。この山道でも平気なわけだ。
しかし、こんなところで弱音を吐いては彼氏として……いや、夫としてメンツが立たない。
無理に平気そうな顔を作り、険しい道を上り続けた。
ここまでは比較的樹木の背が低く、あたりを見渡しやすい。
……ふと、優は後を振り返った。
「……誰か、後からついてきています……」
言われて俺も後を見るが、今まで苦労して登ってきた小道以外、何も見えない。
「……俺には分からないけど……」
「今、ちょうど見えない位置にいるみたいですけど……私たちと同じ、男女二人です」
「へえ、夫婦かな? けど、一応ここは江戸に続く道なんだろう? 別に向かう方向が同じ人がいたって、不思議じゃないと思うけど」
「まあ、そうかもしれませんけど……ただ、ずっとつかず、離れずの間隔で来ているのが気になって……」
俺は、そんな人がいる事に気づきすらしなかった。
優は、この時代の人はみんなそうなのかもしれないが、目がいい。
夜目も利くし、遠くの様子もはっきり見えるらしい。
うーん、この旅が始まって数時間だけど、なんか彼女の方が旅に向いているような気がする。
さらに三十分ほど登り続ける。いいかげん、疲れた。
さすがにこの頃になると、優も息を切らせている。
シイやカシなどの背の高い常緑樹が目立つようになり、木陰で少し薄暗くなってきている。
日も大分傾いており、急がないと夕暮れになってしまう。
「……拓也さん……私たち、囲まれていますっ!」
不意に優が立ち止まり、驚いたように叫んだ。
囲まれている、という言葉にどきっとした。まさか、山賊か?
……そうではなかった。日本猿の群れだ。
ほっとはしたが、ちょっと困った事態であることは間違いない。
事前に、この大峠では最近サルが出没するようになり、旅人に危害を加え、食料を奪っていくことがある、という情報を聞いてはいた。
だからなるべく大人数で歩く方がいい、とも。
今、あたりを見渡すと、その数は数十匹、下手をすれば百匹になるかもしれない。
一斉に襲われたならば、ケガだけでは済まないだろう。
俺たちがたった二人しかおらず、内一人は小柄な女性であることに気を良くしたのか、サルたちは挑発、または威嚇するように一斉に耳障りな声を上げ始めた。
「拓也さん……怖い……」
彼女は不安げに俺に身を寄せてくる。
ようやく優に頼られた。ここは男として、いいところを見せなくては。
まず、彼女に『ツイン・ラプター』を装着させた。
この装置、左下のボタンを二回クリックするだけで三百年後の俺の部屋に緊急移動できるようにセットアップしている。
本来であれば常時身につけ、危機に陥ればすぐに実行できるようにしておくべきなのだが、優は俺の妹のアキをタイムトラベルに巻き込んでしまって以来、この『ラプター』を極度に怖がり、装備することすらためらっていたのだ。
しかし、今は非常時。念のため装着するように強く促す。
たぶん使うことにはならないから、となだめ、ようやく彼女はそれを両手首にはめた。
これでやっと、徐々に包囲網を狭めてくるサル達の相手ができる。
一匹ずつは大したことないだろうが、これだけ集団になると、襲ってくればやっかいだ。
しかし、この事態は想定内だ。
「優、耳を塞いでいてくれ」
俺は彼女にそう指示を出すと、右手に点火用ライター『チェックマン』、そしてリュックの横ポケットから『爆竹』を一束取り出した。
導火線に火を付け、地面に落とし、俺も素早く耳を塞いだ。
パンッ、パパンッ! というけたたましい破裂音が数秒間にわたって響き渡る。
その大きな音は山々にこだまし、そして全ての動物たちを畏怖、驚愕させた。
もちろん、サルたちも例外ではなく、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出す。
だが、ボスザルらしき一際大きなサルとその取り巻きは、三十メートルほど離れた木の上に留まり、こちらの様子をうかがっている。
「しぶといな。ならば……」
俺はリュックから、カラフルで、細長い筒を取り出した。
その太さは寿司の「太巻き」ぐらい、長さは四十センチ程度。
導火線が前から出ており、先程と同様、『チェックマン』で火を付けた。
その先端は、ボスザルの方を向いている。
最初煙が沸き立ち、次に「バシュッ」という音と共に火薬玉が発射、高速でボスザルの脇を通り過ぎ、「パアァン」という先程より大きな破裂音、火花、そして白煙を撒き散らす。
さすがにこれにはボスザルもその取り巻きも、木から落ちそうになるほど慌てて逃げ出した。
だが、追撃をやめることはできない。この『害獣駆除用花火』は五連発なのだ。
二秒ほどの間隔を置いて、一発ずつ正確に火薬玉が発射される。
もはやサルの姿は全く見えず、ただその大きな破裂音に驚いた鳥たちが、群れをなして山全体から逃げ出すのが見えるだけだった。
「……ふう、これで大丈夫だろう」
「……拓也さん、すごいです、あれだけの群れを追い払うなんて……それも仙人界の武器なんですか?」
「武器? いや、そんな大層な物じゃないよ。ずっと前、ネズミ花火見せてあげただろう? あれのちょっと大きいやつで、単なる脅かす道具にすぎないよ。本当はクマや野犬、オオカミに襲われそうになったら使おうと思っていたんだけど……サルにも有効だったな」
「本当、その通り……あと、人にも……」
へっ? と思ったが、彼女の指さす方向を見て、納得した。
一組の男女が、ずっと後方で立ち止まって俺達の方を見ているようだった。
「……あれが、君の言っていた『ついて来ている』人たちってのか」
「ええ……ずいぶんと驚いているようです」
「……この距離で、君は表情まで分かるのか……確かに、悪いことしちゃったな。けど、まあ、大丈夫だろう。サルもいなくなった訳だし」
本当はそこまで行って事情を説明した方が親切なのかもしれないが、その時間的余裕がない。
俺と優は、また坂を登り始めた。
しばらくして、ようやく下りになり、その後は道の状態も比較的良くなって、スムーズに歩みを進めることができた。
宿場町にたどり着いたのは、日が暮れて少し経った頃。ぎりぎりだった。
町の名は『二川宿』。
三十件近い旅籠が軒を連ねている。
東海道五十三次の、江戸から数えて三十三番目の宿場だった。





