シナドの思惑
「……奴の仙術は、本物だった」
かろうじて仲間達のところまで戻ったシナドは、そう言った。
体のあちこちに付着した黄色の液体は、凝固し、その体の自由を奪っていた。
取り急ぎ、身につけている着物を脱いで、直接皮膚に付着したものは痛みに耐えながら引き剥がした。
前田拓也は、追ってきていない。
南雲やハグレも同様で、自分を追い払うことで精一杯だったようだ。
もし、前田拓也が相手の命を奪うことを躊躇しないようであれば、危なかったかもしれない。
いや、今までがそうでなかったとしても、今回、山賊団の首領ということで、その方針を変えるかもしれない。
なにしろ、阿東藩において、百艘からなる海賊団をたった一人で沈めたという噂なのだ。
もちろん、そのことは眉唾物だとは思っていたが、実際に対峙して、訳の分からない技を食らってしまっては信じざるを得ない。
あれは、一体何だったのか。
鉄砲にしては、音が小さいし、玉も大きく、見える速度だ。
だが、「見える」というだけで、手で投げてくるよりもずっと速い。
しかも、連続で放たれ、その動作に「溜め」がない。
あれほどの数、躱しようがない。
救いは、おそらくそれ自体は「ケガを負わせる」ものではなく、相手の「捕獲」を意識したものだ。
あれを応用……たとえば、触れただけで害のある毒を飛ばすものであったなら、自分は今、生きてはいなかった。
それは、前田拓也の甘さ、と断じることはできない。生け捕りを目的としたものであった可能性もあるからだ。
もしそうならば、自分たちは藩の役人に引き渡され、死よりも過酷な拷問を受けた上で殺されるだろう。
つまるところ、前田拓也に殺されずとも、奴の術中にはまれば結局自分たちの命はないのだ。
シナドは、やはり前田拓也を最大の脅威だと考え、さらにその人格を深く考える。
もし、当初から考えているとおりに、奴が直接人を殺せぬ甘い人間であったならば、まだ手はある。
自分たちは、人質を取っている。
この日、襲撃の際に確保したこの村の見張り達ではない。
ハグレの右腕、クロウと呼ばれている男の妹だ。
このおかげで、クロウから奥宇奈谷に関する最低限の情報は得ていた……今回、襲撃に当たっての、狩人集の動向や、前田拓也についての人柄などだ。
しかし、完全に奴を操れているわけではない。
現に、ハグレはケガが完治していないとはいえ、奥宇奈谷に残っていたし、前田拓也は、ここぞという場面でハグレたちの加勢にやってきた。
「……クロウが何かを隠していることは、ハグレや前田拓也には知られてしまっていたか……かといって、完全にこちらを裏切った訳ではない。まだ、奴は使える……そしてそのことが、奴の妹を生かす根拠になっている」
シナドが、そう独り言を呟いた。そして、それもクロウの、妹を守るための魂胆であることも承知している。
今後、奥宇奈谷を攻めるのは、単独では困難に思える。
武力では、圧倒的に自分の方が優位だ。
しかし、前田拓也には訳の分からない仙術がある。
それに、あの奇妙なからくりは、今度は毒を飛ばしてくる可能性がある。
しかも、奴以外の者も使えるかもしれない……いや、おそらく使える。
さらに、今回自分が退却したことにより、その有効性を確認して、数を増やしてくるかもしれない。
そうなると、ますます奥宇奈谷の攻略が困難になってしまう。
今回、奥宇奈谷を攻めていることは、他の「山黒爺」の分団にも知れ渡ってしまっている。失敗は許されない。
そして、自分たちには、クロウの妹という手札が残っている。うまく活用すれば、クロウに奥宇奈谷を裏切らせることができるかもしれない。
シナドはそう考えて、今後の策を練るため、そしてクロウの妹や、そのほかの人質達を監禁している手下たちと合流するために、さらに退却することを決断した。
前田拓也が追撃をかけてくる可能性については、彼の頭にはほとんどなかった。





