第260話 海留
数日後の午後、手倉海岸に、その男は来た。
小船に、従者が二人。
その出で立ちは、まるっきりただの漁民だった。
武器といえる物は、質素な着物の懐にちらりと見えている短刀ぐらいだ。
しかし、その男……『海留』さんの存在感は圧倒的だった。
俺よりも二回り以上大きな体に、日焼けで真っ黒になった、鍛え上げられた精悍な肉体。
年の頃は、四十歳手前ぐらいだろうか。
顔には、左目付近に大きな傷があり、そして大きな黒い眼帯を付けている。
おそらく、左目は刀傷を受けて失明しているのだろう。
その様が、男の迫力を増していた。
後の二人も、海留さんほどではないが体が大きく、肉体は鍛えられている。
おそらく二十代後半ぐらいと思われる。
俺だと、素手のケンカなら、三人の誰にも勝てないだろう。
まあ、隣に三郎さんが居るから平気なんだけど。
ちなみに、この海岸には、徹さんも登さんも、そして薰も来ている。
海留さんたちの表向きの用件は、この遭難した親子三人を激励しに来た、というものだったのだ。
船を下りた海留さんに、薰達三人が近寄った。
それに対して、彼はその三人を見渡し、一度大きく頷いた。
「皆、今回は難儀だったな。皆を迎えるための漁船を用意しようとしているのだが、少し時間がかかっている。故に今回は様子を見に来ただけだが、元気そうで良かった」
やや芝居がかってはいるが、この三人を心配していたのは本当のようなので、その言葉に説得力はある。
「長、お気遣い頂きありがとうございます。我らは、ここにいらっしゃる前田拓也殿に大変お世話になっております」
そう言って、俺が紹介された。
「ほう、貴殿があの前田拓也殿か。三人が世話になった。礼を申し上げる」
その言葉には、俺を見た意外さのようなものは感じられなかった。
おそらく、俺の容姿や態度は、噂とは違う腰の低い商人だと、徹さんたちからの文の中に書かれて伝わっていたのだろう。
「初めまして、前田拓也です。このお三方には、私どもの事業の手伝いをしていただいて、大変助かっています。先程お話ししていた船についても、こちらで修理を進めていますので、近いうちにお渡しできると考えています」
と挨拶した。
「これはこれは、そこまでご配慮頂いていたとは恐れ入る。我はしがない漁村の長でしかありませぬが、これも何かの縁。今後ともお見知りおきいただきたい」
建前だけの話しが続く。
しかし、今までと同様、若い藩の役人と、警護役の剣術道場生が居るので、この建前を省略する訳にはいかないのだ。
そしてようやく、わざわざ来てもらった海留さん達を、俺が接待したい、という話に持って行った。
こうして、みんなでぞろぞろと、『前田美海店』へと歩いて行くことになった。
後から聞いた話だが、この時の海留さんは、片目で大きな傷があり、威圧するように見ていたのに、まったく動じなかった俺の事を、ただ者ではないと感じたのだそうだ。
それは誤解で、そういう姿の役者は時代劇なんかでよく見ていたから知っていたし、大柄でケンカの強そうな人だって、剣術道場で見慣れ、さらには何度か猛者達と命懸けの戦いをしていたので、耐性が付いていただけなのだけど。
いや、それが『修羅場を潜っている』ということになるのかな……。
それに、海留さんには迫力、気迫はあったけれども、俺に本気で危害を加えようという、いわゆる『殺気』のようなものは感じられなかった。
だからこそ、俺は平気で接することができたのだが……三郎さんに言わせれば、殺気を感じること自体、それなりの経験を積んだ強者でなければできないのだそうだ。
俺も少しは、胆力が付いていたのかもしれない。
そうこうする間に、俺達は前田美海店に着いた。
そしてここで、『黒鯱』に関する駆け引き、さらには薰についての重大な事柄が話し合われることになるのだった。





