第231話 幽霊船
季節は春。
朝霧が薄く立ちこめる中、一人の青年が小型の船に乗り、漁場を目指していた。
彼の名は茂吉。
数え年で二十歳を過ぎ、そろそろ嫁をもらわないといけない年頃だ。
実際に、それを考える相手もいる。
『前田美海店』という店舗で働いている、お里という名の娘だ。
まだ正式に求婚したわけではないが、注文する度に愛想良く笑ってくれるし、自分に気があるに違いないと考えている。
彼は血気盛んな若者であり、漁の腕もこの歳にしては上手い方だと自負している。
漁師として一人前と認められるようになったこともあり、そろそろ、『嫁に来てくれ』と申し込む頃合いだろう、と思っていた。
そんな彼だが、この日は、なんとなく嫌な予感がしていた。
海が妙に凪いでおり、風もほとんど無い。
空はどんよりと曇り、朝霧のため、視界はあまり良くない。
なんとなく、気分が乗らない。
こんな日は、漁をしてもほとんど獲れない……経験上、彼はそれを知っていた。
それでも試しに、何度か網を入れてみたが、案の定、小魚一匹かからなかった。
こんな日に漁に出て来たことを後悔したが、来てしまったものはしょうがない。しばらく足掻いてみよう、と顔を上げたとき、違和感に気付いた。
沖の方に、黒い何か……ぼやけているが、おそらく船体が見える。
しかし、こんな日に、あんな沖に、見たことも無いような色の船が存在していることに、彼は大きな違和感と共に、強い好奇も覚えた。
距離はそこそこ離れているように思えたが、そこまで漕いで辿り着く労力より、ほんの少しだけ好奇心の方が勝った。
漁を切り上げ、彼は櫓を漕いだ。
――行けども行けども、その黒い影に辿り着かない。
いや、大きくなってきてはいるので、近づいているのはわかる。
ただ、最初の想像よりはるかに大きかったのだ。
茂吉は意地になって、櫓をこぎ続けた。
ようやく、船の全景が明らかになる頃になって、彼はその異様さに息を飲んだ。
まず、その大きさ。
これほど大きな船を、彼は見たことがない。
なにしろ、船上に、自分達が住んでいる長屋のような『屋形』が二つほど乗っているのだ。
そして、その容姿。
帆船なのだが、船体も、帆も、漆で塗ったように真っ黒なのだ。
さらに、帆は破れたかのように、いくつも長い布の切れ端のようなものがぶら下がっている。
それらも、やはり不気味に黒く染められている。
もっと不可解なのは、これほどの大きさなのにもかかわらず、甲板に誰も出ていないのだ。
無人の黒い大型船――その異様さに、茂吉は息を飲んだ。
さらに、彼はもっと信じられないような光景を目の当たりにして、声を失った。
真っ白な襦袢を纏った、一人の少女――彼女は屋形から出てきて、ゆっくりとした足取りで、船首の方へと歩いて行く。
朝霧のかかる静寂の中、彼女は、もの悲しげな表情を浮かべたまま、船首に立った。
長い髪、目鼻立ちの整った、まだ十代半ばと思われる、美しい少女――。
茂吉には、それはあまりに幻想的で、あまりにあり得ない光景に思えた。
女性が船に乗ることは滅多に無い――それが漁師である茂吉の認識だった。
しかも、襦袢姿で、たった一人で甲板の上に立つなど――。
茂吉は、魅入られるように自身の船から身を乗り出し、そしてバランスを崩して、海に落下した。
まだ春先、海水は冷たく、一気に目が覚めたような思いだった。
口の中に入り込んでくる塩辛い海水に慌てふためき、必死で小船にしがみつき、盛大にむせながら、ようやく乗り込んだ。
しばらくそのままむせていたが、荒い呼吸を繰り返した後、もう一度振り返って黒い船の方を見た。
さっきまで確かに立っていたはずの、白い襦袢を纏った若い娘は、もうその姿を消していた。
誰も乗せず、張られた帆が所々破れ、静かに佇む漆黒の大型船。
茂吉は、思わず声を上げた。
「……ゆ、幽霊……幽霊船っ!」
この地方にも、いくつか海にまつわる怪談話は存在する。
その一つに、海上に立ち、若い男を惑わし、海中に引きずり込む女の幽霊の話があった。
また、見た物に死の呪いをもたらすという幽霊船の噂も聞いたことがあった。
今見たものは、噂に聞いていた内容とは若干様子が異なるが、それらを併せたよりももっと質の悪い、悪夢のような光景だと、彼は思った。
全身に悪寒が走り、鳥肌が立った。
「うっ……うわああぁぁっ!」
茂吉は、間の抜けた悲鳴を上げながら、後ろを振り返ることなく、全力で陸へと向って櫓を漕いだのだった――。





