第二十話 月下の二人
旧暦の九月十三日。
明日はもう、彼女たちがセリにかけられる日だった。
今日も一日かけずり回ったが、ほとんどなんの成果も得られなかった。
日はとっくに落ちて、もう月と星が出ていた。
「前田邸」もきっちりと戸締まりがされている。
俺の姿を見かけた源ノ助さんが離れから出てきてくれたが、
「一人にさせて欲しい」
という言葉を聞いて、一礼して戻っていった。
「前田邸」の庭は、月明かりに照らされてぼんやりと明るかった。
……俺は、とうとう優を助けられるだけの金を、集めることができなかった。
普通に支払うならば数百両、限界まで借金をしても、あと最低百両は必要だ。
百両は、現代の価値にして約一千万円。とうてい一日で稼ぎ出せる金額ではない。
よりによって、本当に心から好きになってしまった優を、手放さなければならない。
そして明日の夜には、もう優は別の男――五十を過ぎた小太りの、黒田屋の主人のものになってしまっているのだ。
俺は必死に涙を堪え……ただ月に照らされるこの庭に、何十分も立ち尽くしていた。
「……拓也さん……」
小さな声が聞こえて、その方向を向く。
……最初、幻かと思った。
しかしそこに立っていたのは、安物だがまだ新しい、明るい黄色の着物を着た優だった。
「優……どうしてここに……」
「さっき、源ノ助さんがこっそり錠を開けてくれたんです。拓也さんが来ているからって。あと……今日で最後だからって」
にこっと笑顔を浮かべるが、その目は赤く、少し涙が溜まっていた。
「綺麗なお月さま……そういえば、今日、十三夜なんですね……」
「ああ……そうだったね……」
旧暦の九月十三日は、八月十五日の「中秋の名月」と並んで月が美しい日とされ、古くから鑑賞される風習があった。
俺と優は、肩を並べてその美しい月を眺めていた。
「……啓助さんが、全部話してくれました。私だけ、明日もうこの家には帰って来れないんですよね」
「啓助さんが……そうか、ごめん。俺が言うべきだったのに……」
「ううん。いいんです。逆に良かったかもしれない。たぶん拓也さん、すごく申し訳なさそうな顔をして言いそうだから……」
優は、俺の性格をよく見抜いているな、とその時、感じた。
「……私、黒田屋さんのお妾さんになるんですよね」
「……啓助さん、そこまで話したのか……それ、君だけに?」
「いいえ、お姉さんもその時、一緒にいました。必死になって、『私が代わりに行く』って言ってくれて……でも、そういうわけにはいかないって。……お姉さんの言葉、とっても嬉しかったです。それと、私以外の人が、この家にまた帰って来られるんだっていうことも」
「……そっか。凜さん、本当にいいお姉さんだね……後の三人は?」
「ナツちゃんたちは、このこと、知りません。だって……私だけ戻れないなんて言ったら……」
「ああ……ナツはまた、大騒ぎするだろうな……」
事実をナツたちに話さないことが、この姉妹の気遣いだった。
「でも、黒田屋さんのお妾さんだったら……考えていたより、ずっと良いことだと思います。だって……みんなと、また会えますから」
……俺は、かける言葉が見つからなかった。
「……本当に、ここでの生活、楽しかったです。拓也さんには迷惑かけっぱなしで、なんにもご恩返しできなくて。……あ、そうだ! 黒田屋さんに行ったら、私、拓也さんのこと、ご紹介します。そうしたら、拓也さんも商売するお相手が増えて、もっとお金儲け出来るようになって、それで、少しはご恩返しに……」
……そこまで優が話したときに、俺は、彼女を抱き締めた。
気丈に、明るく振る舞う彼女の姿が、あまりにけなげだった。
「拓也さん……」
……優も、俺の背中に手を回し、そして俺達は抱き合った。
「優……今言うのはずるいかもしれないけど、言っておかないと後悔するかもしれないから……俺、君の事が……好きだ……」
「……私も、拓也さんの事が……大好きです……」
十六年間生きてきた中で、初めての告白だった。
そして告白されたのも、同じく初めてだった。
平成に生まれた俺が、この三百年前の世界に来て、恋人ができた。
それも、とびきり可愛らしく、優しい女の子だ。
それなのに、明日には……明日には……。
俺はついに堪えきれなくなり、涙を流した。
そしてそれが伝わったのか、優も、大粒の涙を流して泣き始めた。
このまま、彼女を連れて、逃げ出したい。
でも、あとの四人の女の子のことを考えると、それは到底できないことだ。
……あのとき、あの河原で身売りされる優を見なければ、こんな悲しい気持ちにならずに済んだだろう。
でも、そうでなければ……これほど人を好きになる事は、たぶん一生なかった。
俺の生涯において、どちらが良かったのか。
……考えるまでもない。優に出会えて、これほど好きになれて……本当に幸せだった。
俺は一層強く抱き締め、そして彼女の頬を伝う涙を、愛おしく見つめた。
やがて涙は雫となり、彼女の頬からこぼれ落ち、そして月光に照らされ、煌めいた。
それはあまりに幻想的で、はかなく、美しい一瞬の輝きだった。
……そして、時が止まったように感じた。
(……月……涙……雫……!)
次の瞬間、俺の全身に、電流の様な閃きが走った。
(……どうして俺は、あれに気づかなかったんだ……もう、遅いか……いや、あれなら、ひょっとしたらっ!)
「……拓也……さん?」
様子が変わった俺に気づき、優が涙に濡れた顔を上げた。
「まだだ……優、まだ終わっていない……」
「えっ……?」
「万に一つだけど……逆転の可能性がある! まだ明日一日、夕刻まで時間がある、俺は最後まであきらめないっ!」
「そう……なんですか? ……拓也さんがそう言うのなら、私も……その奇跡を最後まで信じます。そしてどんな結果になったとしても……私は心の中で、拓也さんの事、ずっとずっと愛し続けます……」
「優……ありがとう……」
……そして俺と優は、十三夜の月明かりのもとで、ゆっくりと唇を重ねた。





