番外編14-13 雲隠れ
その夜、わずかに月が出ていた。
ラプターを使用した俺は、紅姫が住む離れから、少し距離を置いた建物の影に出現した。
ここからだと、離れの様子がよく見える。
これまでの事前調査で、この寺の広い境内は、数人の僧や雇われ武士が警備のため巡回している事を把握している。
外からの侵入者対策と言うより、厳しい修行に耐えかねて脱出しようとする若い僧侶を捕まえるのが主な目的らしい。
そっと紅姫の住む離れの方をのぞき込んでみると……ちょうど提灯を持った壮年の僧が、その前を歩いているところだ。
あぶない、今離れに潜入しようとしていれば、見つかるところだった。
しかし、逆に言えば、ここをやり過ごせば、あとは三十分ぐらい、監視のない状態となる。
離れはちょっと入り組んだ場所にあって見通しが悪いので、簡単には見つからないはずだ。
監視の僧が通り過ぎていったのを確認して、俺は離れの前と急いだ。
閂を外して、その小さな建物に潜入する。
事前に鏡を使って涼と連絡を取り合っていた紅姫は、俺の潜入のタイミングまで把握していたようで、すぐそこに立っていた。
俺は背負っていた荷物を下ろし、黒いジャージの上下と、同じ色のダウンジャケットを彼女に渡した。
「急いでこれに着替えてくれ。これの着方は、この絵に描いているから。分からなかったら、涼に聞いてくれ」
と、早口でまくし立てると、紅姫は一瞬きょとんとしていたが、
「……分かったわ。動きやすそうだし、黒くて目立たなそうね……」
と頷いてくれた。
うん、察しが良くて助かる……いや、涼が説明していてくれたか。
そして俺は、一旦外に出て、閂を元に戻し、建物の裏に隠れる。
ないとは思うが、巡回の僧が帰ってくるかもしれない。
なるべく、いつもと違う状態になる時間は短くしておかなければならない。
数分後、
「……拓也さん、紅姫、着替え終わりました。靴も、ちゃんと履けたみたいです」
と、涼からの無線がイヤホンに入ってきた。
靴のこと、言うの忘れてたけど、置いてきたリュックの中に入っていたので、涼が指示してくれたみたいだ。
スポーツシューズで、色は黒。
紅姫から足袋を借りていて、それからサイズをだいたい想定して三種類持ち込んでいたのだが、ぴったりのがあったようだ。
ちなみに、紐ではなくマジックテープ式にしている。
また、ジャージも大体の背格好は分かっていたので、事前に購入していた。
もう一度建物の側に行き、閂を外す。
するとそこには、全身黒ずくめになった紅姫が立っていた。
まだ境内にわずかに雪が残っていて、寒い。
しかし、ダウンジャケットを着て、黒い毛糸の手袋をしている彼女は暖かそうに見えたし、実際にそう感想を言っていた。
また、ダウンのポケットには、事前に暖めておいた使い捨てカイロを二つ、入れていた。
これで寒さ対策は万全だ。
そしてこっそりと閂を元に戻そうとしたところで、異変が起きた。
わずかに出ていた月が、雲に隠れてしまったのだ。
街灯などないこの時代、周囲は真っ暗になってしまう。
この脱出作戦において、暗いのは本来良いことなのだが、足元、手元が見えないぐらいに暗すぎるのは困りものだ。
やむなく、携帯用のLEDランタンを点けるが……この明かり、遠くからでも見えてしまう。
まあ、この場所は入り組んでいるので、見つからないとは思うのだが……ちょっと焦りながら、閂を元の状態に戻した。
そして建物の影から影へ、周囲に見張りがいないことを確認しながら移動する。
特に紅姫は、慣れない靴を履いているせいもあって、足元をランタンで照らしながら、ゆっくり歩くようになってしまう。
ものすごく緊迫した空気……よくテレビゲームなんかで、『見つかってはいけない』系のイベントがあるが、緊張感はその比ではない。
普段、特にこの寺に来てからはほとんど運動をしていない紅姫、もう息が上がってきている。
俺は心配して何度が小声で
「大丈夫かい? 疲れた?」
と尋ねるのだが、
「……ううん、平気……」
とけなげに答えてくれる。
うん、覚悟はできているようだ。
とはいえ、まだ離れから五十メートルほどしか進んでいない。
ここから、少し開けた空間に出て、そしてちょっと林みたいになっているところに入り、また建物の間をすり抜けて、ようやく『二の門』に辿り着く。
この門と正門をどうやって超えるかが問題なのだが……。
まずは、開けた空間だ。
足元は砂利になっており、歩くと少し音がする。
今隠れている建物の影から、ランタンを消して、ほとんど勘だけで、なるべく静かに、ゆっくりと進んでいくしかない。
俺と紅姫は、しっかりと手を繋いで、身を乗り出した。
……と、その瞬間、目の前がぱっと明るくなった。
「……貴様等、何をしているっ!」
あっさりと見つかった……こんなに早く。
俺も紅姫も、ビックリして両肩を跳ね上げた。
あやうく腰が抜けそうになるところを、なんとか踏みとどまる。
提灯をもった、警備の雇われ侍だった。
「し……慎衛門……」
紅姫が、か細く彼の名を呟いた。
「……なっ……紅姫様っ!……その格好、それにその男……」
彼もまた、驚いたように俺達を見つめていた。
恐る恐る、紅姫の方を見てみると……泣きそうな表情をしていた。
まずい、その顔は逆効果だ……と思っていると、彼は懐から慌てて呼子(笛)を取りだし、ピイィー、と甲高い音を響かせた。
……この時点で、『こっそり脱出』作戦は破綻した。
「慎衛門……どうして気付いたの?」
紅姫が、震えながら尋ねる。
「……塔の上の見張り台から監視していたところ、紅姫様の離れの辺りに、怪しげな白い光を見つけました。そしてそれはこちらに動いてくるので……不審に思って見に来たのです。もうご安心ください、狼藉者は私が排除しますっ!」
しまった……建物の影に隠れていても、上からは見えてしまっていたのか。
そして慎衛門は、刀を抜いたっ!
と、ここで紅姫が俺と彼の間に割って入る。
「ま、待って! 戦っちゃ駄目っ! この人、仙人なの。下手に手を出せば、私も慎衛門も、カエルにされてしまうわっ!」
い、いや、紅姫……そんな嘘設定を、この場面で持ち出しても……。
「仙人? カエルだと……ぬっ……貴様、姫様になんと恐ろしい事を吹き込んだのだ……」
ちょっと腰が引けている。
……ひょっとして、カエル、信じた?
いや、さすがにそれはないか。
単に、紅姫が俺の言葉を鵜呑みにして、間に入っている状況、面倒な事になっていると思ったのだろう。
そして、そうこうしているうちにいくつもの足音が聞こえて……俺達は、侍……旧岸部藩士数人に取り囲まれてしまった。
どうしよう……。





