第百十六話 桑畑と養蚕施設
阿東藩を、絹織物の一大生産地にする――。
その計画を藩のお役人を通じて、阿東藩主に伝えてもらっていた。
絹織物が生糸から作成され、その生糸は蚕の繭から作られるということは、藩の農業分野担当の役人であれば、知識として持っていたようだ。
しかし具体的にどうすればいいのか、蚕を見たことすらない彼等が知っているはずもない。
そこで俺は、実際に生きている蚕を三匹、籠に入れて持って行き、見てもらった。
「……こんな虫が、あの美しい絹糸を吐き出すのか……」
と、驚きというか、ショックというか、そんな表情をされてしまった。
ちなみにこのお役人、『後藤房良』という二十代後半のお侍。
あんまり強そうではないけど、頭の回転が速く、知識も豊富。
その彼でさえ、養蚕についてはほとんど何も知らなかったのだ。
まあ、俺も自分で詳しく調べるまでは、房良さん以下の知識しかなかったが。
彼も、俺が三百年後の世界から来たことを知っている。
そして、日本はやがて世界一の生糸生産国となる、と報告すると、大変満足そうに頷いた。
「……しかし、まずは我が藩の財政安定が最優先。蚕を数匹、育てられることは分かった。しかし仙人と呼ばれる前田殿の事だ、これを基にしてもっと大きな事を考えているのであろう」
「さすが後藤様、お察しがいい……まず第一に、蚕のエサとなる桑が大量に必要です。そこで、新しく桑畑を作って頂きたいと思っています」
「桑畑……しかし領地内の農作物が取れる畑を、桑の栽培として認めてもらえるかどうか……」
確かにそれはその通りで、人間が食べることのできる作物の収穫を減らしてまで、蚕が食べる餌の栽培に回してくれるかどうかというと、ちょっと厳しい。
これに対し、
「畑に適さない多少傾斜がある土地でも、桑の木は育ちますよ」
と言っておいたのだが……数日後、房良さんは頑張って条件に合う場所を見つけてきてくれた。
そこは偶然にも、『前田邸』から歩いて三十分ほどで辿り着く、標高三十メートルほどの丘だった。
以前はスギの木を植えていたのだが、今年になって材木にするために伐採。その後、新しい杉を植林する予定ではあるが、現在のところ空いている状態だという。
小さな丘ではあるが、畑として使える広さは約一町歩。
現代の単位で言うと、1ヘクタール、つまり100メートル四方ぐらいの面積だ。
とはいえ、そのままでは杉の切り株もたくさん残っているし、その他の低木や雑草も抜いて畑として手入れしてやる必要がある。
さすがに、これは俺だけじゃ無理だ。
そこは房良さんも気付いていて、人員を雇ってくれるという。
ただし、それには条件がある。
そもそも『本当に絹織物を作れるようになるのか』と証明する必要がある、というのだ。
桑だけ育てたって、それが直接絹に変わるものではない。
そこで俺は、順を追って房良さんに『養蚕、絹織物作成』が可能であることを説明した。
まず、蚕を育てる施設というか、建物が必要なこと。
完成見取り図、蚕の飼育室の室温調整方法など、かなり詳しく書き込んだ資料、図面を作成し、蚕箔という蚕の飼育のための容器を準備することも記載した。
この建物は、桑の栽培実験場の近くに新しく建築すべきだとも主張しておいた。
蚕自体は、まずは『仙界』から持ってくる。
蚕そのものも品種改良が加えられていることなどを考えると、当面は必要な作業だ。
さらに、蚕の幼虫が作る繭を糸に変えていく装置と、その手順。
これに関しては、とりあえず『座繰り機』という道具で実際に繭から糸に変換出来る事を、実践して見せて納得してもらった。
糸から反物が出来るのは、房良さんも知っている。
その反物ができるようになると、それを黒田屋が買い取って流通してくれることまで話ができていると告げた。
これで、桑の栽培、蚕の飼育、操糸、織物まで一連の流れを示せた。
それから十日ほど経った頃。
房良さんがこの話に乗り気であったことも幸いし、藩の上役にうまく伝えてくれて、人手を使っての丘の土地整備がやっと決定した。
藩の公共事業となったので、俺はお金を使わなくていい上に、そこで得られた桑の葉を独占的に試験使用する権限も与えてもらった。
現在、桑の葉なんて必要としているの、俺だけだけど。
とはいえ、土地整備を漫然と眺めているだけではいけない。
今まで杉を植えていた場所を、桑畑に変更する。これには相当な労力が必要だ。
そこで、あらかじめ現地に鍬や鎌、ツルハシ、スコップ、ナタ、ノコギリなどを人数分(十人分)揃えていたのだが、これが実際の作業者達に大いに驚かれた。
例えば、鍬は当時のものは地面に当たる先端部分だけ金属で、あとは木材っていうのが普通だったのだ。
しかもそこそこ高価で、村人全員が持っているのではなく、その地域の共通財産として大切に使用されてきたという。
これに対して、現代の鍬は頭の部分は全て金属。
丈夫で使いやすく、土の奥深くまで掘り返せる、画期的な農具だ。
俺はそれを労働者の人数分揃えていたのだが、彼等に驚かれたのはその先進性、それだけの数を揃えられる財力(実際には、現代ではそんなに高くないのだが……)。
労働者達には、これが噂の『仙界の道具』だと説明すると、納得しているようだった。
また、驚いたことに、養蚕施設の建築も行ってくれることになったのだ。
これは房良さんが相当頑張って上役の人に説明してくれた結果のようで、最終的には藩主の鶴の一声で決定した、ということだ。
このころには房良さんと相当親しくなり、まるで本当の兄弟のように冗談を言い合えるようになっていた。
桑を栽培するための試験的な畑、養蚕施設に目処がついた。
そしてそこから生糸の生産、絹織物の作成、さらにはミシンを用いての着物への加工。
これらは以前より、前田女子寮で作業しようと計画していた。
軌道に乗れば、阿東藩の女性達の職場としても大いに期待できる筈だ。
遂に藩を巻き込むことに成功した、今回の養蚕事業。
具体的な成果を上げるにはまだしばらく時間がかかるが、また一歩、理想に近づいたような気がした。





