病院と絶望
同僚が先輩を喰いちぎっている光景を見た事あるだろうか? 恐らく人生でそんな事はないだろう。
だが、今見ている光景はまさしくそうで、頬の方を必死で喰らいつきながら血を垂らしている同僚を見て、ただただ絶句していた。悲鳴なんてあがらない。右手が口を覆い、その光景から目が離せなくなったのだ。
だけど、体は危機反応を示していて部屋を後にしろと命じている。だから、勝手に後ずさりをした。
そうしたら机に体がぶつかり、資料が雪崩のように落ちたんだ。
その音に気が付いた同僚は先輩を喰いちぎるのを止め、こちらの方をじっと見てきた。濁った瞳にはかつての同僚の姿は無く、次はお前の番だと言っているように見えた。奥では白目をむいて涙を流しながら、かえらぬ人になった先輩が倒れている。
その様子に余計に足がすくんで、今すぐに立ち去らないと自分もそうなる事を予感していた。
振り返り、部屋を後にしようとすると、後ろにも人の気配がした。だけど、助けてもらおうとは考えられなかった。
同僚と同じ瞳をしていたから・・・。
恐怖で足がすくみそうになったけれど、何とか踏ん張り、部屋を無我夢中で駆け出して行った。幸いにも動きは遅く、これ以上は追って来られないだろうと思っていた。
どうするべきか。
とりあえず、病院から出て、自宅に戻りたい。でもその前に警察に連絡をしなくては、そう思い番号をタッチして電話を掛ける。
電話の発信音ですら緊張している自分がいた。早く出てくれとそう急かしている自分が。
しかし、電話は繋がらない、そんな事ってあり得るのだろうか。
まだ、深夜の時間帯では無い。画面は二十一時を過ぎたところであり警察に繋がらないという事は通常ではあり得なかった。
三回かけたが結局は繋がらない。内心では焦っていたが落ち着けと自分に言い聞かせる。
じゃあ、自力で何とかしなければならない。いや、待て。自分の仕事は何だ。
看護婦だろう。患者の身の安全は放っておいていいのか。違う、自分より患者の命が優先だ。
とにかく無我夢中で、子供から助けないといけないと判断し、記憶していたこの階の病室に居る子供の元へと向かった。
先程の同僚と先輩が居た部屋と打って変わって静かな廊下に逆に寒気がしたが、速足で病室へと向かう。何も考えるな、落ち着け、大丈夫だ。
プレートには名前が四つ、子供が一人と老人が三人の病室であった。子供からすれば面白くない部屋だが、老人からすれば孫が出来たかのような部屋。いや、今はそんな事を考えている場合では無い。
ふう、と一階ため息を漏らし引き戸を握る。
引き戸をゆっくりとスライドさせ、真っ暗闇の部屋へと入って行く。
慣れた暗闇も今は不気味さを漂わせて、恐怖心を煽っている。
見回りで部屋を回るときに恐怖心など微塵も無い。なぜなら、何も起こらないからだ。
仮に患者が起きていて暴れたとしても、恐怖心を感じたりはしない。やれやれといった感じで患者をなだめてそれで終わる。
ただ、今の状況ではどうだろうか。先ほどの同僚が先輩に喰らいつく様子を近くで見ていて、同じような暗闇に居る今、恐怖心を感じずにはいられるだろうか。答えは否だ。
止めようか。引き返して、自分だけ逃げようか。そんな事が頭の中でグルグルと駆け回る。エンドレスのような思考を断ち切らなければ到底子供の様子を見ることは出来ない。
駄目だ、自分は看護婦、こんな所で子供を見捨てるわけにはいかない。しっかりするんだ。
恐怖ですくむ心にムチを打ち、一歩前へと踏み出す。すぐに洗面台があり、鏡に映る自分の姿を見て驚いて悲鳴を上げそうになるが押し殺して前へ進む。
子供がいるベッドは奥の右側のところにある。すべてのカーテンは閉まっているが、開けて確認何てことはしたくなかった。のだが、人間とは恐怖に対して向かう性質があるのか、確認しないといけないような気がしたのか、気が付けば手はカーテンを握っていたのだ。
その手を見れば、馬鹿みたいに震えている自分に気が付く。小刻みに揺れてカーテンまでもが微かに動いていて、手汗がカーテンに染みこんでいくのが分かる。
深呼吸をして、ゆっくりとカーテンを開ける。大丈夫だ、大丈夫だと自分に言い聞かせて。
結果から言えば、老人は眠っていた。胸が上下に動くことから、ただ眠っているだけだと判断して、胸をなでおろした。
無事でよかった。
先程見た光景が嘘であるかのように寝ていた老人を見て、安堵していた。
さあ、子供の方が優先だ。子供の様子を見ようと、カーテンを老人を起こさないようにゆっくりと閉める。
反対側の奥に居る子供の方へ向かおうと振り返った。
と同時に勢いよく振り向きざまに居た老人に掴まれた。カーテンが開いている所を見ると、自分に気が付いて出てきたのだろう。
そんな事を悠長に考えている場合では無かった。振り向いたと同時に伸ばしてきた両手を反射的に手首を掴み、防ぐ。だが、力が尋常ではない。老人のそれとは違い、まるで何人もの力が同時に働いているかのような凄まじい力に抵抗する術も無かった。
白目をむいた老人はそのまま顔を首まで近づけて、大きな口を開いた。
そして、力いっぱい首筋を噛みつかたのが分かった。痛みが走る。何が起きたのかが分からなかった。
首の筋肉が引きちぎられた事が遅れて思考に伝わる。痛みも徐々に増していき、このままでは危険だと脳が指令する。恐怖か何かにより失禁してしまっている事はハッキリと分かっていた。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。死んでしまう。こんなところで!
死を身近に感じたのかは分からないが、大きな声で叫び、噛みついてきた老人を両手で力いっぱい押していた。
バランスを崩した老人は後ろに転倒し、カーテンを引っ張り、引き裂きながらベッドのパイプで頭を打つ。
反射的に部屋を後にし子供の事などすっかり頭から無くなっており、泣きながら走り出していた。様々な病室から、フラフラとした患者が出てきたが本当にどうでも良かった。
首の方を抑えながら、エレベーターの方へ駆け出す。下矢印のボタンを何度も押して、エレベーターがくるのを待つ。手からは血が染みだしてきていて痛みが治まらない。
後ろを見れば、点々と落ちていた血をたどるように患者たちがゆっくりと追いかけてきていた。一緒に乗るなどとは考えたくも無い。先ほどの噛みついてきた老人も血を流しながら追いかけてきている。ならば、他の患者も危険なのは本能的に感じた。
逃げなければ! 例え、先程の病室から子供の悲痛の叫びが聞こえてきたとしても!!
エレベーターのドアがスライドし、あわてて乗り込む。一階のボタンを押した後に、閉めるボタンを連打する。早く閉まる訳ではないのに心が早くしてくれと体が早くしてくれとそう言っている。
抑えていた手からは血が染みだしてナース服が真っ赤になっており、エレベーターの鏡を見ると、肉が見えるくらいにえぐれているのが分かった。それでも先程よりは痛みが和らいできているのは興奮状態だからだろうか。ポケットからハンカチをとりだして、傷口に当てる。
すぐに染みだして真っ赤になるが、それでも当て続ける。
やがて、エレベーターは一階の場所で点滅し、ドアがスライドする。
これで病院から出られる。さっさと家に帰ろう。そう思った。
だが、目の前の光景を見て、絶望と諦めが同時に襲ってきた。
いや、そんな事を思っている内にエレベーターにはたくさんの奴らが侵入して、自分に喰らいついてきたのだ。様々な格好をしていて、患者の人や看護師、医者、受付など色々な奴等が襲いかかってきている。
駄目だ、力が強すぎる。
あっという間に押し倒され、顔に首に腹に胸に肩に腕に足にと所構わず激痛が走る。
どうしてこんなことになったのだろう。涙を流しながら、そんな事を考えていた。
「助けてよ・・・」
そんな声は誰に届くわけでもなく、目線の先の自分の腕はもう骨だけで、付けていた時計は外れて地面に転がっていた。
腹の方を見ると、長い何かが飛び出しており、それをかき回し、満足そうなのかは分からないが必死に喰らいついている奴等を見ながら意識が遠のいていった。




