愛を囁くは死人〜短編〜
短編バージョンです。
相沢慎一が住んでいるアパートは、築二十年を少し越えた、ごく普通の二階建てだった。
昼間はなんでもない。白い外壁は少し煤け、階段の手すりには錆が浮き、集合ポストは風の強い日にかたかた鳴る。駐輪場には、誰のものかわからない空気の抜けた自転車が、何年も同じ角度で置かれている。
ただ、それだけの場所だった。
だが夜になると、アパートは急に音の器になる。
隣室の水道が止まる音。上階で何かを落とす音。外階段を誰かが上がるたび、鉄板が薄く鳴る音。換気扇の低い唸り。壁の中を通る配管のこすれる音。
生活の音は、昼間なら人がいる証拠として聞き流せるのに、夜には人がいることそのものを不安に変える。
慎一は、そういう音に神経質なほうではなかった。
三十五歳、独身。都内から少し離れた私鉄沿線の駅で降り、そこから歩いて十二分のアパートで一人暮らしをしている。仕事は小さな広告代理店の営業事務に近い職種で、派手さはないが生活に困るほどでもない。帰宅はだいたい二十一時前後。コンビニの弁当か、冷凍うどんで夕食を済ませる日が多かった。
何かを強く欲しがることも、誰かに深く踏み込むことも、いつのまにか少なくなっていた。
隣の二〇三号室に若い夫婦が越してきたのは、春の終わりだった。
引っ越し当日、慎一がゴミを出しに外へ出ると、廊下に段ボール箱が積まれていた。ちょうどその時、箱を抱えた男が隣の部屋から出てきて、慎一を見るなり爽やかに頭を下げた。
「あ、すみません。今日から隣に入りました。橘です」
男は三十前後に見えた。髪は短く整えられ、白いTシャツにジーンズという格好でも妙に清潔感があった。
「相沢です。よろしくお願いします」
慎一が答えると、男はもう一度頭を下げた。
「こちらこそ。妻と二人なんで、うるさかったら言ってください」
そのすぐ後ろから、小柄な女性が顔を出した。
「すみません、ご迷惑おかけします」
声の小さな人だった。肩につくくらいの髪を耳にかけ、慎一に向かって浅く頭を下げる。顔立ちは派手ではないが、目元の柔らかい女性だった。
男は橘亮平、妻は美咲と名乗った。
それから、廊下や階段で会えば挨拶をするようになった。亮平はいつも感じがよかった。「お疲れ様です」「暑いですね」「雨、降ってきましたね」と、余計な踏み込みをせず、それでいて無視もしない距離感を自然に作れる男だった。
美咲はさらに控えめだった。朝、ゴミ捨て場で会うと「おはようございます」と小さく言う。笑う時、少しだけ目を伏せる癖があった。
夏の終わり頃、慎一は美咲が妊娠していることに気づいた。
廊下ですれ違った時、美咲はお腹のあたりを片手でそっと支えていた。まだ服の上からはほとんどわからなかったが、その仕草には何かを守るような慎重さがあった。
数日後、亮平がゴミ捨て場で慎一に言った。
「来年、子どもが生まれるんです」
慎一は少し驚いた顔をしてしまったと思う。亮平は照れたように笑った。
「まだ安定期前なんで、あまり大きな声では言えないんですけど。妻がちょっと神経質になってて、夜中に物音とかしたらすみません」
「いえ、おめでとうございます」
慎一はそう言った。
本心だった。
その日の夜、慎一は自分の部屋で缶ビールを開けながら、隣から聞こえる小さな生活音に耳を澄ませた。
食器が重なる音。戸棚を閉める音。亮平の低い声。美咲の笑い声らしい、かすかな息の揺れ。
壁の向こうに、これから生まれてくる命を待っている人たちがいる。
そう思うと、アパートの夜の音が少しだけ明るく聞こえた。
慎一が橘亮平の浮気を見たのは、それから一か月ほど後のことだった。
その日は雨上がりで、駅前の歩道が街灯をぼんやり反射していた。慎一はいつものように終電より少し前の電車で帰り、駅前のコンビニに寄った。弁当の棚にはほとんど何も残っておらず、仕方なくおにぎりとカップ味噌汁を買った。
店を出た時、横手の搬入口のほうから女の笑い声が聞こえた。
慎一は何気なくそちらを見た。
搬入口の脇、コンビニの裏手に通じる細い通路のあたりに、男女が立っていた。男が女の手を握っている。女は黒いワンピースに薄いカーディガンを羽織っていた。髪が濡れているのか、街灯の下で黒く光っていた。
男が顔を傾けた。
女が笑いながら少し背伸びをした。
二人の影が、ひとつに重なった。
その男が亮平だとわかった瞬間、慎一は足を止めた。
亮平は、隣の部屋にいる時と同じような清潔なシャツを着ていた。女の腰に手を回し、何かを囁いている。女が亮平の胸を軽く叩き、それからまた顔を寄せた。
慎一は、自分が見てはいけないものを見てしまったとすぐに理解した。
身体が動かなかった。コンビニの自動ドアが背後で開き、電子音が鳴る。その普通の音に押されるように、慎一はようやく視線を外した。
駅へ戻る人の流れに紛れ、遠回りをしてアパートに帰った。
部屋に戻ってからも、慎一はしばらく電気をつけなかった。隣室からは何も聞こえなかった。亮平はまだ帰っていないのかもしれない。美咲はもう寝ているのかもしれない。
言うべきなのか。
一瞬だけ、そう思った。
だが、すぐに別の考えが重なった。
自分が言ったところでどうなる。見間違いかもしれない。いや、見間違いではなかった。けれど、それを隣の妊娠している妻に伝えていいのか。そもそも、自分はただの隣人だ。
慎一は電気をつけ、買ってきたおにぎりをテーブルに置いた。食べても味がしなかった。
翌朝、廊下で美咲に会った。
「おはようございます」
美咲はいつものように頭を下げた。慎一も「おはようございます」と返した。
美咲の手は、お腹の前にあった。
それだけで、慎一は喉の奥が詰まったようになった。
言えなかった。
結局、言えなかった。
それからしばらく、慎一は橘夫妻と顔を合わせるのが嫌になった。帰宅時間をずらし、ゴミ出しも朝早くにした。廊下で物音がすると、しばらく玄関の内側で待った。
それでも、隣の部屋の音は聞こえた。
夜遅く、亮平が帰ってくる足音。鍵が回る音。ドアが閉まる音。低い声。美咲の声は、以前より聞こえなくなった。食器の音も減った。代わりに、何かを床に落とすような小さな音が増えた。
ある夜、隣から女の声が聞こえた。
「……き」
慎一はテレビの音を下げた。
やがて、また声がした。
「好き」
壁に吸われて、音の輪郭は曖昧だった。それでも、その二文字だけは耳に残った。
その後に、ごとん、と何かが床に落ちる音がした。
それきりだった。
秋が深まるにつれて、美咲はさらに痩せていった。以前は階段で会うと一言二言交わせたのに、今は目が合う前に会釈だけして部屋に入ってしまう。亮平の姿は、少しずつ見かけなくなった。
一度だけ、慎一は階段の途中で彼女と鉢合わせた。美咲は両手で小さな紙袋を抱えていた。中身は見えなかったが、袋の上から白い布のようなものが少しだけ覗いていた。
すれ違う時、美咲の服から線香のような匂いがした気がした。
その夜、初めて赤ん坊の泣き声を聞いた。
午前二時を少し過ぎていた。慎一は眠れず、スマホで動画を流しながら布団に横になっていた。
その時、壁の向こうから音がした。
ふ、と息を吸うような小さな音。
慎一は画面から目を離した。
また、聞こえた。
今度は、細く震える声だった。
赤ん坊の泣き声。
慎一は身体を起こした。
最初は、隣室から聞こえていると思った。美咲は妊娠していた。けれど、まだ生まれるには早すぎるのではないか。
泣き声は、壁の向こうでか細く続いていた。
大きな声ではない。喉を震わせる力が足りず、空気だけで泣いているような音だった。隣からは、美咲の声も足音も聞こえない。誰かが抱き上げる気配も、あやす声もない。
妙だ。
泣いているのに、誰も動かない。
慎一はスマホの画面を消した。部屋が暗くなる。
泣き声は、止まった。
止まった途端、部屋の中がかえって重くなった。
その夜を境に、赤ん坊の泣き声は場所を変えて現れた。ある時は風呂場の排水口から。ある時は玄関の外から。ある時は押し入れの奥から。ある時は、黒い画面のスマホのスピーカーあたりから。
怖かった。
けれど、ただ怖いだけではなかった。
泣き声は怒っていなかった。恨みがましくもなかった。むしろ、何かを探しているようだった。暗い部屋の中で、目の見えない小さなものが、手探りで誰かを求めているような音だった。
だから余計に怖かった。
その音が、何を、誰を探しているのか、慎一にはわからなかったからだ。
留守電が残り始めたのは、泣き声を聞くようになってから五日ほど経った夜だった。
仕事から帰った慎一は、部屋に入ってすぐスマホをテーブルに置いた。画面には不在着信が一件、留守番電話が一件残っていた。番号は非通知だった。
録音時間は、三十七秒。
慎一は再生ボタンを押した。
最初に入っていたのは、沈黙だった。ただの無音ではない。電話の向こうに誰かがいる気配のする無音。
その時、女の声がした。
「好き」
甘い声だった。
「好き、好き。好き好き好き」
慎一はスマホを耳から離した。
「愛してる」
その言葉に、慎一の首の後ろが冷えた。
「愛してる。愛してる愛してる愛してる」
女の声は、最初の甘さを保ったまま、少しずつ速くなっていった。言葉と言葉の間に息が挟まる。笑い声のようなものが混ざる。近すぎる。電話の音質のはずなのに、口の中の湿りまで伝わってくる。
ぷつ、と切れた。
その瞬間、慎一の耳の奥で甲高い音が鳴った。
きぃん。
金属を細く削るような耳鳴りだった。慎一は反射的に耳を押さえた。だが音は外からではなく、頭の内側から鳴っていた。
すぐに留守電を削除した。
誰かのいたずらだ。
そう思おうとした。
だが、あの声には慎一の名前も、用件も、相手を間違えたような戸惑いもなかった。ただ「好き」と「愛してる」だけが詰め込まれていた。
愛の言葉なのに、そこには少しの温かさもなかった。
言葉が、人を抱きしめるためではなく、縛るために使われている。
そんな感じがした。
その夜、慎一は夢を見た。
暗い場所に立っていた。窓の外に赤い光が揺れている。救急車か、パトカーか。床が冷たい。裸足なのだと気づいた瞬間、背後で息がした。
その前に、腹のあたりで音がした。
ずぶ。
聞いたことのない音だった。
柔らかいものの奥へ硬いものが入っていく音。痛みは遅れてきた。鋭いというより、熱い。
背後の女が、耳元で笑った。
「好き」
また音がした。
ずぶ。
「愛してる」
ずぶ。
「愛してるから」
ずぶ。
音だけが増えていく。
目が覚めた時、慎一は腹を押さえていた。そこには何もなかった。血も傷もない。
それなのに、痛かった。
隣の部屋から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
弱く、細く。
慎一は耳を塞いだ。
それから慎一は、眠れなくなった。留守電は削除しても戻ってくる。再生していないのに、画面を見るだけで内容が頭の中に流れ込んでくる。
好き。
愛してる。
なんで。
どうして。
私だけ。
三日目の夜、慎一はスマホを洗面所に置いて寝た。電源も切ったはずだった。
それでも、午前二時過ぎに目が覚めた。
洗面所から、女の声が聞こえていた。
「好き」
慎一は布団の中で固まった。
「好き好き好き」
声に、別の音が混ざった。
赤ん坊の泣き声だった。
女の声の下で、か細く泣いている。二つの音は重ならず、互いに邪魔をしているように聞こえた。女の声が大きくなると、泣き声が細くなる。泣き声が少し強くなると、女の声がひずむ。
「愛してる愛してる愛してる」
ああ、ああ。
「好き」
う、あ。
「ねえ、なんで」
泣き声が、急に近くなった。
慎一の枕元で聞こえた。
彼は飛び起きた。布団の横には何もいなかった。
代わりに、壁の向こうで何かが倒れる音がした。
二〇三号室からだった。
続いて、誰かが短く呻くような声が聞こえた。美咲だと思った。慎一は立ち上がりかけた。ドアを開けて、隣に声をかけるべきだと思った。
けれど、足が動かなかった。
あの時もそうだった。
亮平と知らない女がキスをしていた時、自分は動かなかった。見なかったことにした。今回もまた、慎一は暗い部屋の中で立ち尽くしていた。
翌朝、二〇三号室の前で美咲と会った。
彼女は玄関の鍵を閉めようとしていた。顔はさらに青白かった。慎一を見て、無理に笑った。
「おはようございます」
声がかすれていた。
「あの、大丈夫ですか」
慎一は、ようやく言った。
美咲の顔から一瞬だけ表情が消えた。何かを言おうとして、唇が動いた。けれど、出てきたのは笑いに似た息だけだった。
「大丈夫です」
それは返事ではなかった。
大丈夫ではない人間が、これ以上何も聞かれないために置く言葉だった。
慎一はわかっていた。わかっていたのに、それ以上踏み込めなかった。
美咲は浅く頭を下げて階段を降りていった。
その肩のあたりに、白いものがちらついた気がした。
煙のような、埃のような、光の粒のようなもの。
限界が来たのは、その数日後だった。
冷凍庫に入れたはずのスマホから留守電の通知音が鳴り、青白い光が漏れた。削除しても、削除しても、非通知の録音は戻ってきた。
録音時間、三十七秒。
床に落ちたスマホから、女の笑い声がした。
「愛してる」
その声に重なるように、遠くで赤ん坊が泣いた。
翌日、慎一は会社に行けなかった。水を飲もうとしてコップを落とし、破片で指を切った。血を見た瞬間、夢の中の床を思い出して吐いた。
昼過ぎ、実家の母から電話が来た。
「慎一? あんた、声どうしたの」
母の声はいつも通りだった。その普通さに、慎一は急に泣きそうになった。
「ちょっと風邪」
「ちゃんと食べてる?」
慎一は答えられなかった。
母は少し黙った後、声を低くした。
「帰ってきたら?」
その一言で、慎一の中の何かが緩んだ。
翌朝、慎一は鞄を持って部屋を出た。
鍵を閉める時、二〇三号室のドアが開いた。
美咲が出てきた。
彼女も小さなキャリーバッグを持っていた。
「お出かけですか」
「少し、実家に」
慎一が答えると、美咲はほんの少しだけ目を伏せた。
「私もです」
二人は無言で駅へ向かった。
改札を抜ける時、慎一のスマホが震えた。画面には一件の留守電通知。
非通知。
録音時間、三十七秒。
ホームに電車が入ってくる。レールが鳴り、風が押し寄せる。
そして慎一の耳の奥で、あの細い耳鳴りが静かに始まった。
車内で母からの着信があった。けれど出る前に切れ、残った留守電はまた非通知だった。
慎一は再生してしまった。
沈黙。
電車の走行音が遠のいた。
がたん、ごとん、という音が急に遠くなる。車内の人々の話し声も、アナウンスも、隣に座る美咲の息遣いも、厚いガラスの向こうへ押し込められていく。
代わりに、耳元で女が息をした。
「好き」
慎一はスマホを離そうとした。指が動かなかった。
「愛してる」
耳鳴りが一気に強くなる。
「ねえ、聞いてる? 聞いてるよね。見てたよね」
その言葉に、慎一の背筋が凍った。
見てた。
駅前のコンビニ裏。亮平と女の影。自分は見た。見てしまった。そして、何も言わなかった。
「見てたのに、なんで黙ってたの」
腹のあたりに熱い痛みが走った。
ずぶ。
慎一は身体を折った。
「相沢さん」
美咲の声がした。
遠い。
その時、美咲の膝元で何かが光った。
白い煙のようなものだった。小さな光の粒が集まり、ほどけ、また集まる。それは美咲の膝元から胸元へ、ゆっくりと上がっていった。
美咲は気づいていない。
白いものは、彼女の胸のあたりへ近づき、触れようとして、触れられずに揺れた。まるで、そこに顔を埋めたいのに、どうしていいかわからない小さなもののように。
白い煙が慎一のほうへ漂ってきた。
近づいた瞬間、耳鳴りが弱まった。
女の声が遠のいた。
「……なんで」
留守電の中の声が、初めて怯えたように揺れた。
慎一の胸の奥で、赤ん坊が短く泣いた。
あ。
声ではない。
意味でもない。
けれど慎一は、その音を聞いた瞬間、息ができるようになった。
翌日、慎一と美咲は駅前の喫茶店で会った。
店内にはジャズが小さく流れ、カップがソーサーに触れる音、新聞をめくる音、外を通る車の音が穏やかに重なっていた。
「橘さんは、いつから聞こえているんですか」
慎一が尋ねると、美咲は水の入ったグラスを見つめた。
「最初は、アパートで」
「赤ちゃんの声が?」
「はい。夜中に、壁の向こうから聞こえるんです。でも、壁の向こうって、相沢さんのお部屋ですよね」
慎一の背中が冷えた。
自分には、隣室から聞こえていた。美咲には、自分の部屋のほうから聞こえていた。
二人の間の壁、そのどちら側にも属さない場所で、赤ん坊は泣いていたのだ。
「私は、最初……私がおかしくなったんだと思いました」
美咲の声がかすれた。
「聞こえるはずがないんです。聞こえたら、いけないんです。だって、あの子は」
言葉がそこで止まった。
その時、美咲の右肩の近くで、白いものが揺れた。
慎一は息を呑んだ。
昨日、電車で見たものと同じだった。白い煙。きらきらした細かな粒。それは美咲の肩から胸元へ降り、何度も服に触れようとしていた。
慎一の胸の奥に、柔らかく、痛いほど幼い願いが浮かび上がった。
抱いてほしい。
言葉ではない。赤ん坊が文として話しているわけではない。ただ、身体ごと母親のほうへ伸びようとしている気配だった。
「あの」
慎一は声を出した。
「変なことを言います。信じなくてもいいです」
美咲の目が揺れた。
「橘さんのそばに、白いものが見えます。煙みたいな、光みたいなものです。怖いものには見えません。俺のところに来ている留守電の声とは、全然違います」
「何なんですか」
慎一は答えるのが怖かった。
だが、胸の奥の泣き声がまた小さく震えた。
こっち。
見て。
「たぶん」
言葉が喉につかえた。
「橘さんの、赤ちゃんだと思います」
美咲は動かなかった。
「そんなこと、あるわけ」
最後まで言えなかった。
白いものが、美咲の胸元から少し上がった。まるで彼女の顔を見ようとしているようだった。
慎一の胸の奥へ、また意味が流れ込んできた。
まま。
まま、こっち。
こっち、見て。
「泣いてます」
「何て」
「言葉じゃないんです。ただ、泣き声の奥に、そういう意味がある気がするんです。抱いてほしいみたいです。見てほしい。ここにいるって、気づいてほしい。たぶん、それだけです」
美咲の目に涙が溜まった。
「責めてるんですか」
慎一はすぐに首を振った。
「違います。怒ってない。恨んでない。ただ、近くにいたいんだと思います」
美咲は声を殺して泣いた。
「私、ずっと謝ってました。ごめんねって。守れなくてごめんねって。毎日、言ってました」
彼女は胸元を押さえた。
「でも、返事なんてあるはずなくて。泣き声が聞こえるようになってからも、私、自分が責められてるんだと思って」
「違います」
慎一はもう一度言った。
「本当に、いるんですか」
「います。ここに」
そう言った瞬間、白いものがわずかに震えた。
美咲は崩れるように背中を丸めた。
やがて彼女は、少しずつ事情を話し始めた。
夫の亮平は亡くなったのだという。一か月ほど前、片桐沙也という女性に刺された。沙也は亮平の浮気相手だった。だが亮平には、さらに別の女性もいた。沙也はそれを知り、亮平とその女性を刺し、自分も命を絶った。
「沙也さんは、私にも嫌がらせをしてきました。非通知の電話、写真、手紙。夜中のインターホン。亮平は最初、認めませんでした。私が不安定になっているだけだって」
美咲は両手でカップを包んだ。
「その頃から、あまり眠れなくなりました。お腹の子のことを考えないといけないのに、電話の音が怖くて、スマホが鳴るだけで吐きそうになって」
そして、ある朝、出血した。
病院に行って、そのまま。
それ以上は言わなかった。
言わなくても、十分だった。
「その夜からです。赤ちゃんの泣き声が、はっきり聞こえるようになったのは」
慎一は、自分が浮気現場を見ていたことを告げた。
「あの時、橘さんが妊娠しているのを知っていました。でも、言えなかった。結局、見なかったことにしました」
慎一は頭を下げた。
「すみません」
美咲は、ゆっくり首を振った。
「相沢さんのせいじゃないです」
その声は弱かったが、はっきりしていた。
「私も、たぶん見ようとしなかったことがたくさんありました。でも、それは私のせいじゃないって、今はまだ思えなくても、そう思わないといけないんだと思います。だから、相沢さんも、自分のせいにしないでください」
美咲自身がまだ自分を許せていないのに、慎一にはそう言ってくれた。
その後、二人は美咲の実家近くの神社へ行った。
神主の榊原は、万能な霊能者ではなかった。五十代くらいの、穏やかで現実的な人だった。
「私は何でも見えるとか、何でも祓えるという者ではありません。神職として、できることをいたします。お話を聞いて、必要なら警察や病院へつなぐこともあります」
その言葉に、慎一は少し安心した。
美咲が話し、慎一も話した。赤ん坊の泣き声。非通知の留守電。女の声。耳鳴り。刺される夢。電車の中で見た白いもの。
榊原は笑わなかった。
「白いものは、今も見えますか」
慎一は美咲の胸元を見た。
「はい。橘さんの、胸のあたりです」
榊原には見えていないようだった。ただ、しばらく黙ってから、彼は眉を寄せた。
「空気が、重いですね」
その直後、慎一のスマホが震えた。
畳の上に置いていたスマホが、ぶう、と低く鳴る。画面には非通知の着信。音は切っているはずなのに、古い電話のベルのような音が漏れていた。
りりり、りりり。
着信は十秒ほどで切れた。
すぐに、留守番電話の通知が表示された。
非通知。
録音時間、三十七秒。
再生ボタンが、押されてもいないのに反応した。
「好き」
女の声がした。
「好き、好き。愛してる」
部屋の空気が冷えた。慎一の耳の奥で、きぃん、と音が立ち上がる。
「なんで私だけ見てくれないの。好きって言った。愛してるって言った。ずっと一緒って言った」
スマホの画面に、知らない女の顔が一瞬映った。
黒い髪。濡れたような目。笑っている口。
駅前のコンビニ裏で見た女だった。
間違いない。
「お祓いをしましょう」
榊原が言った。
「今すぐに」
祈祷所で祝詞が始まった。榊原の声は大きくはなかったが、まっすぐだった。人が声を整え、見えないものへ差し出している音だった。
だが、その祝詞に、女の声が割り込んだ。
「好き」
祝詞。
「愛してる」
女の声。
「どうして、あの女ばっかり」
美咲が息を呑んだ。
「わたしのほうが好きだった。わたしのほうが、ずっと」
そして、急に笑う。
「だから、いらないでしょう」
慎一の背筋に冷たいものが走った。
「妻も」
美咲の顔が歪んだ。
「子どもも」
その瞬間、白いものが震えた。
慎一の胸の奥で、初めてはっきりと赤ん坊が泣いた。
ああ。
それは恐怖の音ではなかった。
痛みの音だった。
美咲も顔を上げた。
「聞こえた」
榊原には聞こえていない。だが、何かが変わったことは感じたのだろう。彼の祝詞の声が少しずつ強くなった。
白いものは、美咲とスマホの間に漂っていた。小さく、弱く、泣きながら、母親の前に立とうとしていた。
「邪魔しないで」
女の声がひずむ。
赤ん坊が泣く。
祝詞が続く。
音がぶつかっていた。
だが、それは派手な戦いではなかった。何かが爆ぜるわけでも、光が走るわけでもない。ただ、女の声が少しずつ届かなくなっていく。耳鳴りの鋭さが鈍り、頭の奥に刺さっていた針が一本ずつ抜けていくようだった。
赤ん坊はまだ泣いている。
その泣き声の奥に、慎一は意味を感じた。
まま。
まま、こっち。
ちがう。
そっちじゃない。
ここ。
母親を女の声から引き戻そうとしている。責めるのではなく、怖がらせるのでもなく、ただ自分のいる場所へ気づいてほしくて、そして今は、母親を守りたくて泣いている。
やがて、女の声が遠のいた。
「愛してる」
遠く。
「愛してるのに」
さらに遠く。
「どうして」
スマホの画面にノイズが走った。
「す……」
ぷつ。
「愛し……」
ぷつ。
「わたし……」
ぷつ。
画面が暗くなった。
耳鳴りが止まった。
完全な無音ではなかった。外では風が鳴り、榊原の祝詞はまだ続いていた。美咲の呼吸があり、慎一の心臓の音がある。
けれど、女の声だけが消えていた。
そのことを、慎一は音が消えたことで知った。
後日、慎一は美咲の部屋に上がった。
二〇三号室は、暮らしが一度途切れた部屋の匂いがした。閉め切った空気。埃。洗剤の匂い。少しだけ、線香の匂い。
リビングの端、低い棚の上に、小さな位牌が置かれていた。
黒い塗りの小さな位牌。隣に白い花、水の入った器、菓子、線香立て。そこにあるものの一つ一つが、美咲がこの子を忘れようとしなかった証拠だった。
「名前は、まだ決める前でした」
美咲が小さく言った。
「でも、呼ぶ時に何もないのが嫌で。心の中では、ずっと、灯って呼んでいました」
「あかり」
慎一が繰り返すと、美咲はうなずいた。
「女の子か男の子かも、まだはっきりわからなかったんです。でも、どちらでもいいと思って。お腹にいる時、私にとっては、小さな灯りみたいだったから」
慎一の胸の奥で、かすかなものが揺れた。
名前を呼ばれたのだと、思った。
美咲は線香を一本取り出した。ライターに火をつける。
かち、と硬い音がした。
小さな火が線香の先に移る。
じ、と本当に小さな音がした。
死者のための音なのに、怖くなかった。
「毎日、これをしていました」
美咲は言った。
「でも、毎日、謝ることしかできなくて」
慎一は位牌を見つめた。
「今日は、謝らなくていいと思います」
言ってから、自分がそんなことを言っていいのか迷った。
けれど、美咲は怒らなかった。
「何を言えばいいんでしょう」
慎一は答えを持っていなかった。
ただ、白いものはそこにいた。美咲のすぐ近くに。
「今、います」
「どこに」
「胸の近くです」
それは、美咲の胸元にふわりと寄り添っていた。服の上に触れることはできないはずなのに、そこにいた。しがみつく、というほど形はない。けれど、向かう先ははっきりしていた。
胸。
母親の胸。
ずっと求めていた場所。
「胸のあたりに、います」
慎一の声は震えた。
「そこに、しがみつくみたいに」
美咲はゆっくりと自分の胸元へ手を上げた。
「ここですか」
「もう少し、真ん中です」
美咲は両手を広げるようにして、自分の胸の前に添えた。その手つきは慎重だった。何もない空間を撫でるのではなく、そこに確かに小さな身体があると信じて、壊れものに触れるような手つきだった。
「灯」
彼女が呼んだ。
「ここにいるの」
白いものが揺れた。
美咲は両腕で自分の胸元を包んだ。
本当に赤ん坊を抱くように。
首を支え、背中を支え、落とさないように。そこに温度はないはずなのに、彼女は温度を逃がさないように抱いていた。
「ごめんね」
美咲が言いかけた。
慎一は、思わず首を振った。
美咲も、その言葉を途中で止めた。
長い沈黙があった。
線香の煙が細く上がっている。
じ、と小さく燃える音がする。
美咲は胸元を抱いたまま、もう一度口を開いた。
「会いたかった」
その言葉は、謝罪ではなかった。
責める言葉でもなかった。
ただ、母親の本当の声だった。
「ずっと、会いたかった」
白いものが、ふわりと美咲の腕の中に沈むように見えた。
慎一には、そこで初めて、赤ん坊の泣き声が完全に止まったのがわかった。
泣く必要が、ほんの少しだけなくなったのだ。
慎一の胸に、最後にひとつだけ意味が浮かんだ。
まま。
すき。
はっきり聞こえたわけではない。音として鳴ったわけでもない。ただ、線香の煙が部屋の空気に溶けるように、その意味だけが胸に入ってきた。
「橘さん」
慎一はかすれた声で言った。
「たぶん、お母さんのこと、好きだって」
美咲の顔が崩れた。
彼女は声にならない声を漏らし、自分の胸元をさらに強く抱いた。
「私も」
美咲は泣きながら言った。
「私も、好き」
その日を境に、留守電は来なくなった。
非通知の履歴も残らない。削除したはずの録音が戻ることもない。慎一のスマホは、ただのスマホに戻った。
耳鳴りも消えた。
完全に忘れられたわけではない。静かな夜、ふとした瞬間に、あの細い金属音を思い出すことはあった。夢の中で腹に痛みが走り、飛び起きる夜も何度かあった。
だが、目が覚めた時、そこに女の声はなかった。
美咲は二〇三号室を解約した。
その後、しばらく慎一の部屋で暮らすことになった。
すぐに恋人になったわけではない。そんな単純な話ではなかった。二人は、男女というより、同じ夜を聞いてしまった者同士だった。美咲は夫を亡くしたばかりで、その夫への感情も一言では言えなかった。憎しみも、虚しさも、かつて好きだった記憶も、裏切られた痛みも、全部が絡まっていた。
慎一にも罪悪感は残った。
見なかったことにした夜。美咲に声をかけられなかった朝。隣室で物音がしたのに動けなかった深夜。
それらが完全に消えることはなかった。
ただ、二人は少しずつ生活を作った。
朝、どちらかが湯を沸かす。
夜、眠る前に互いに確認する。
「今日は聞こえましたか」
「聞こえません」
部屋の一角には、小さな位牌を置く場所を作った。白い布を敷き、花と水を置いた。毎晩ではなかったが、二人は線香をあげた。
火をつける時の、じ、という小さな音。
その音だけは、死者との距離を近づけても、怖くなかった。
二年後、慎一と美咲は結婚していた。
式は挙げなかった。家族だけで食事をし、役所に婚姻届を出した。その後、二人はアパートを出て、少し広い部屋へ移った。
新しい部屋にも、小さな位牌は持ってきた。
ある冬の朝、子どもが生まれた。
女の子だった。
名前は、灯里にした。
その子は、抱かれるより先に、自分から美咲の胸元へ顔を寄せたがる癖があった。眠る時も、泣き止む時も、安心したい時も、母親の胸元にしがみつこうとする。
美咲は最初、少し驚いていた。
「この子、ここが好きなのかな」
そう言って、自分の胸元をそっと撫でた。
慎一は何も言わなかった。
あの子なのか。偶然なのか。帰ってきたのか。それとも、まったく別の命が、ただ母親の温度を好きなだけなのか。
わからなかった。
わからないままでいいと思った。
灯里は、よく眠る時に小さな息を鳴らした。
すう、すう、と、細い寝息。
その音を聞くたび、慎一はあの夜の泣き声を思い出す。
壁の向こうから聞こえた声。
風呂場の排水口から聞こえた声。
玄関の外で泣いていた声。
押し入れの暗がりで探していた声。
最初はただ怖かった。
けれど今思い出すと、そのひとつひとつが胸を締めつけた。
あの子はずっと、同じことを言っていたのかもしれない。
ここにいるよ。
こっちを見て。
抱いて。
行かないで。
美咲はソファに座り、胸元にしがみつく灯里を支えていた。灯里の小さな指が、美咲の服を握っている。顔を胸に寄せ、安心しきったように目を閉じている。
棚の上では、小さな位牌の前に白い花があった。
今日は線香をあげていない。
それでも慎一にはふと、線香が燃える時の小さな音が聞こえたような気がした。
じ、と。
死者と生者の距離が、ほんの少しだけ近づく音。
悲しみは消えていない。
消えるものではない。
あの部屋で聞いた声も、神社で遠ざかった女の囁きも、位牌の前でようやく止まった泣き声も、すべて二人の中に残っている。
けれど、それでも朝は来る。
湯が沸く音がして、カーテンを開ける音がして、子どもの寝息がする。
美咲の腕の中で、灯里が小さく身じろぎした。
抱かれるよりも、自分からしがみつくのが好きな子だった。
それが戻ってきたのかどうか、慎一にはわからない。
これからも、きっとわからない。
ただ、美咲はその小さな重みを腕に抱き、慎一はその寝息に耳を澄ませる。
あの夜からずっと残っていた泣き声は、悲しみを消しはしなかったけれど、今は美咲の腕の中で、静かな寝息に変わっていた。




