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愛を囁くは死人〜短編〜

作者: 宇佐美夕日
掲載日:2026/07/08

短編バージョンです。

相沢慎一が住んでいるアパートは、築二十年を少し越えた、ごく普通の二階建てだった。


昼間はなんでもない。白い外壁は少し煤け、階段の手すりには錆が浮き、集合ポストは風の強い日にかたかた鳴る。駐輪場には、誰のものかわからない空気の抜けた自転車が、何年も同じ角度で置かれている。


ただ、それだけの場所だった。


だが夜になると、アパートは急に音の器になる。


隣室の水道が止まる音。上階で何かを落とす音。外階段を誰かが上がるたび、鉄板が薄く鳴る音。換気扇の低い唸り。壁の中を通る配管のこすれる音。


生活の音は、昼間なら人がいる証拠として聞き流せるのに、夜には人がいることそのものを不安に変える。


慎一は、そういう音に神経質なほうではなかった。


三十五歳、独身。都内から少し離れた私鉄沿線の駅で降り、そこから歩いて十二分のアパートで一人暮らしをしている。仕事は小さな広告代理店の営業事務に近い職種で、派手さはないが生活に困るほどでもない。帰宅はだいたい二十一時前後。コンビニの弁当か、冷凍うどんで夕食を済ませる日が多かった。


何かを強く欲しがることも、誰かに深く踏み込むことも、いつのまにか少なくなっていた。


隣の二〇三号室に若い夫婦が越してきたのは、春の終わりだった。


引っ越し当日、慎一がゴミを出しに外へ出ると、廊下に段ボール箱が積まれていた。ちょうどその時、箱を抱えた男が隣の部屋から出てきて、慎一を見るなり爽やかに頭を下げた。


「あ、すみません。今日から隣に入りました。橘です」


男は三十前後に見えた。髪は短く整えられ、白いTシャツにジーンズという格好でも妙に清潔感があった。


「相沢です。よろしくお願いします」


慎一が答えると、男はもう一度頭を下げた。


「こちらこそ。妻と二人なんで、うるさかったら言ってください」


そのすぐ後ろから、小柄な女性が顔を出した。


「すみません、ご迷惑おかけします」


声の小さな人だった。肩につくくらいの髪を耳にかけ、慎一に向かって浅く頭を下げる。顔立ちは派手ではないが、目元の柔らかい女性だった。


男は橘亮平、妻は美咲と名乗った。


それから、廊下や階段で会えば挨拶をするようになった。亮平はいつも感じがよかった。「お疲れ様です」「暑いですね」「雨、降ってきましたね」と、余計な踏み込みをせず、それでいて無視もしない距離感を自然に作れる男だった。


美咲はさらに控えめだった。朝、ゴミ捨て場で会うと「おはようございます」と小さく言う。笑う時、少しだけ目を伏せる癖があった。


夏の終わり頃、慎一は美咲が妊娠していることに気づいた。


廊下ですれ違った時、美咲はお腹のあたりを片手でそっと支えていた。まだ服の上からはほとんどわからなかったが、その仕草には何かを守るような慎重さがあった。


数日後、亮平がゴミ捨て場で慎一に言った。


「来年、子どもが生まれるんです」


慎一は少し驚いた顔をしてしまったと思う。亮平は照れたように笑った。


「まだ安定期前なんで、あまり大きな声では言えないんですけど。妻がちょっと神経質になってて、夜中に物音とかしたらすみません」


「いえ、おめでとうございます」


慎一はそう言った。


本心だった。


その日の夜、慎一は自分の部屋で缶ビールを開けながら、隣から聞こえる小さな生活音に耳を澄ませた。


食器が重なる音。戸棚を閉める音。亮平の低い声。美咲の笑い声らしい、かすかな息の揺れ。


壁の向こうに、これから生まれてくる命を待っている人たちがいる。


そう思うと、アパートの夜の音が少しだけ明るく聞こえた。


慎一が橘亮平の浮気を見たのは、それから一か月ほど後のことだった。


その日は雨上がりで、駅前の歩道が街灯をぼんやり反射していた。慎一はいつものように終電より少し前の電車で帰り、駅前のコンビニに寄った。弁当の棚にはほとんど何も残っておらず、仕方なくおにぎりとカップ味噌汁を買った。


店を出た時、横手の搬入口のほうから女の笑い声が聞こえた。


慎一は何気なくそちらを見た。


搬入口の脇、コンビニの裏手に通じる細い通路のあたりに、男女が立っていた。男が女の手を握っている。女は黒いワンピースに薄いカーディガンを羽織っていた。髪が濡れているのか、街灯の下で黒く光っていた。


男が顔を傾けた。


女が笑いながら少し背伸びをした。


二人の影が、ひとつに重なった。


その男が亮平だとわかった瞬間、慎一は足を止めた。


亮平は、隣の部屋にいる時と同じような清潔なシャツを着ていた。女の腰に手を回し、何かを囁いている。女が亮平の胸を軽く叩き、それからまた顔を寄せた。


慎一は、自分が見てはいけないものを見てしまったとすぐに理解した。


身体が動かなかった。コンビニの自動ドアが背後で開き、電子音が鳴る。その普通の音に押されるように、慎一はようやく視線を外した。


駅へ戻る人の流れに紛れ、遠回りをしてアパートに帰った。


部屋に戻ってからも、慎一はしばらく電気をつけなかった。隣室からは何も聞こえなかった。亮平はまだ帰っていないのかもしれない。美咲はもう寝ているのかもしれない。


言うべきなのか。


一瞬だけ、そう思った。


だが、すぐに別の考えが重なった。


自分が言ったところでどうなる。見間違いかもしれない。いや、見間違いではなかった。けれど、それを隣の妊娠している妻に伝えていいのか。そもそも、自分はただの隣人だ。


慎一は電気をつけ、買ってきたおにぎりをテーブルに置いた。食べても味がしなかった。


翌朝、廊下で美咲に会った。


「おはようございます」


美咲はいつものように頭を下げた。慎一も「おはようございます」と返した。


美咲の手は、お腹の前にあった。


それだけで、慎一は喉の奥が詰まったようになった。


言えなかった。


結局、言えなかった。


それからしばらく、慎一は橘夫妻と顔を合わせるのが嫌になった。帰宅時間をずらし、ゴミ出しも朝早くにした。廊下で物音がすると、しばらく玄関の内側で待った。


それでも、隣の部屋の音は聞こえた。


夜遅く、亮平が帰ってくる足音。鍵が回る音。ドアが閉まる音。低い声。美咲の声は、以前より聞こえなくなった。食器の音も減った。代わりに、何かを床に落とすような小さな音が増えた。


ある夜、隣から女の声が聞こえた。


「……き」


慎一はテレビの音を下げた。


やがて、また声がした。


「好き」


壁に吸われて、音の輪郭は曖昧だった。それでも、その二文字だけは耳に残った。


その後に、ごとん、と何かが床に落ちる音がした。


それきりだった。


秋が深まるにつれて、美咲はさらに痩せていった。以前は階段で会うと一言二言交わせたのに、今は目が合う前に会釈だけして部屋に入ってしまう。亮平の姿は、少しずつ見かけなくなった。


一度だけ、慎一は階段の途中で彼女と鉢合わせた。美咲は両手で小さな紙袋を抱えていた。中身は見えなかったが、袋の上から白い布のようなものが少しだけ覗いていた。


すれ違う時、美咲の服から線香のような匂いがした気がした。


その夜、初めて赤ん坊の泣き声を聞いた。


午前二時を少し過ぎていた。慎一は眠れず、スマホで動画を流しながら布団に横になっていた。


その時、壁の向こうから音がした。


ふ、と息を吸うような小さな音。


慎一は画面から目を離した。


また、聞こえた。


今度は、細く震える声だった。


赤ん坊の泣き声。


慎一は身体を起こした。


最初は、隣室から聞こえていると思った。美咲は妊娠していた。けれど、まだ生まれるには早すぎるのではないか。


泣き声は、壁の向こうでか細く続いていた。


大きな声ではない。喉を震わせる力が足りず、空気だけで泣いているような音だった。隣からは、美咲の声も足音も聞こえない。誰かが抱き上げる気配も、あやす声もない。


妙だ。


泣いているのに、誰も動かない。


慎一はスマホの画面を消した。部屋が暗くなる。


泣き声は、止まった。


止まった途端、部屋の中がかえって重くなった。


その夜を境に、赤ん坊の泣き声は場所を変えて現れた。ある時は風呂場の排水口から。ある時は玄関の外から。ある時は押し入れの奥から。ある時は、黒い画面のスマホのスピーカーあたりから。


怖かった。


けれど、ただ怖いだけではなかった。


泣き声は怒っていなかった。恨みがましくもなかった。むしろ、何かを探しているようだった。暗い部屋の中で、目の見えない小さなものが、手探りで誰かを求めているような音だった。


だから余計に怖かった。


その音が、何を、誰を探しているのか、慎一にはわからなかったからだ。


留守電が残り始めたのは、泣き声を聞くようになってから五日ほど経った夜だった。


仕事から帰った慎一は、部屋に入ってすぐスマホをテーブルに置いた。画面には不在着信が一件、留守番電話が一件残っていた。番号は非通知だった。


録音時間は、三十七秒。


慎一は再生ボタンを押した。


最初に入っていたのは、沈黙だった。ただの無音ではない。電話の向こうに誰かがいる気配のする無音。


その時、女の声がした。


「好き」


甘い声だった。


「好き、好き。好き好き好き」


慎一はスマホを耳から離した。


「愛してる」


その言葉に、慎一の首の後ろが冷えた。


「愛してる。愛してる愛してる愛してる」


女の声は、最初の甘さを保ったまま、少しずつ速くなっていった。言葉と言葉の間に息が挟まる。笑い声のようなものが混ざる。近すぎる。電話の音質のはずなのに、口の中の湿りまで伝わってくる。


ぷつ、と切れた。


その瞬間、慎一の耳の奥で甲高い音が鳴った。


きぃん。


金属を細く削るような耳鳴りだった。慎一は反射的に耳を押さえた。だが音は外からではなく、頭の内側から鳴っていた。


すぐに留守電を削除した。


誰かのいたずらだ。


そう思おうとした。


だが、あの声には慎一の名前も、用件も、相手を間違えたような戸惑いもなかった。ただ「好き」と「愛してる」だけが詰め込まれていた。


愛の言葉なのに、そこには少しの温かさもなかった。


言葉が、人を抱きしめるためではなく、縛るために使われている。


そんな感じがした。


その夜、慎一は夢を見た。


暗い場所に立っていた。窓の外に赤い光が揺れている。救急車か、パトカーか。床が冷たい。裸足なのだと気づいた瞬間、背後で息がした。


その前に、腹のあたりで音がした。


ずぶ。


聞いたことのない音だった。


柔らかいものの奥へ硬いものが入っていく音。痛みは遅れてきた。鋭いというより、熱い。


背後の女が、耳元で笑った。


「好き」


また音がした。


ずぶ。


「愛してる」


ずぶ。


「愛してるから」


ずぶ。


音だけが増えていく。


目が覚めた時、慎一は腹を押さえていた。そこには何もなかった。血も傷もない。


それなのに、痛かった。


隣の部屋から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。


弱く、細く。


慎一は耳を塞いだ。


それから慎一は、眠れなくなった。留守電は削除しても戻ってくる。再生していないのに、画面を見るだけで内容が頭の中に流れ込んでくる。


好き。


愛してる。


なんで。


どうして。


私だけ。


三日目の夜、慎一はスマホを洗面所に置いて寝た。電源も切ったはずだった。


それでも、午前二時過ぎに目が覚めた。


洗面所から、女の声が聞こえていた。


「好き」


慎一は布団の中で固まった。


「好き好き好き」


声に、別の音が混ざった。


赤ん坊の泣き声だった。


女の声の下で、か細く泣いている。二つの音は重ならず、互いに邪魔をしているように聞こえた。女の声が大きくなると、泣き声が細くなる。泣き声が少し強くなると、女の声がひずむ。


「愛してる愛してる愛してる」


ああ、ああ。


「好き」


う、あ。


「ねえ、なんで」


泣き声が、急に近くなった。


慎一の枕元で聞こえた。


彼は飛び起きた。布団の横には何もいなかった。


代わりに、壁の向こうで何かが倒れる音がした。


二〇三号室からだった。


続いて、誰かが短く呻くような声が聞こえた。美咲だと思った。慎一は立ち上がりかけた。ドアを開けて、隣に声をかけるべきだと思った。


けれど、足が動かなかった。


あの時もそうだった。


亮平と知らない女がキスをしていた時、自分は動かなかった。見なかったことにした。今回もまた、慎一は暗い部屋の中で立ち尽くしていた。


翌朝、二〇三号室の前で美咲と会った。


彼女は玄関の鍵を閉めようとしていた。顔はさらに青白かった。慎一を見て、無理に笑った。


「おはようございます」


声がかすれていた。


「あの、大丈夫ですか」


慎一は、ようやく言った。


美咲の顔から一瞬だけ表情が消えた。何かを言おうとして、唇が動いた。けれど、出てきたのは笑いに似た息だけだった。


「大丈夫です」


それは返事ではなかった。


大丈夫ではない人間が、これ以上何も聞かれないために置く言葉だった。


慎一はわかっていた。わかっていたのに、それ以上踏み込めなかった。


美咲は浅く頭を下げて階段を降りていった。


その肩のあたりに、白いものがちらついた気がした。


煙のような、埃のような、光の粒のようなもの。


限界が来たのは、その数日後だった。


冷凍庫に入れたはずのスマホから留守電の通知音が鳴り、青白い光が漏れた。削除しても、削除しても、非通知の録音は戻ってきた。


録音時間、三十七秒。


床に落ちたスマホから、女の笑い声がした。


「愛してる」


その声に重なるように、遠くで赤ん坊が泣いた。


翌日、慎一は会社に行けなかった。水を飲もうとしてコップを落とし、破片で指を切った。血を見た瞬間、夢の中の床を思い出して吐いた。


昼過ぎ、実家の母から電話が来た。


「慎一? あんた、声どうしたの」


母の声はいつも通りだった。その普通さに、慎一は急に泣きそうになった。


「ちょっと風邪」


「ちゃんと食べてる?」


慎一は答えられなかった。


母は少し黙った後、声を低くした。


「帰ってきたら?」


その一言で、慎一の中の何かが緩んだ。


翌朝、慎一は鞄を持って部屋を出た。


鍵を閉める時、二〇三号室のドアが開いた。


美咲が出てきた。


彼女も小さなキャリーバッグを持っていた。


「お出かけですか」


「少し、実家に」


慎一が答えると、美咲はほんの少しだけ目を伏せた。


「私もです」


二人は無言で駅へ向かった。


改札を抜ける時、慎一のスマホが震えた。画面には一件の留守電通知。


非通知。


録音時間、三十七秒。


ホームに電車が入ってくる。レールが鳴り、風が押し寄せる。


そして慎一の耳の奥で、あの細い耳鳴りが静かに始まった。


車内で母からの着信があった。けれど出る前に切れ、残った留守電はまた非通知だった。


慎一は再生してしまった。


沈黙。


電車の走行音が遠のいた。


がたん、ごとん、という音が急に遠くなる。車内の人々の話し声も、アナウンスも、隣に座る美咲の息遣いも、厚いガラスの向こうへ押し込められていく。


代わりに、耳元で女が息をした。


「好き」


慎一はスマホを離そうとした。指が動かなかった。


「愛してる」


耳鳴りが一気に強くなる。


「ねえ、聞いてる? 聞いてるよね。見てたよね」


その言葉に、慎一の背筋が凍った。


見てた。


駅前のコンビニ裏。亮平と女の影。自分は見た。見てしまった。そして、何も言わなかった。


「見てたのに、なんで黙ってたの」


腹のあたりに熱い痛みが走った。


ずぶ。


慎一は身体を折った。


「相沢さん」


美咲の声がした。


遠い。


その時、美咲の膝元で何かが光った。


白い煙のようなものだった。小さな光の粒が集まり、ほどけ、また集まる。それは美咲の膝元から胸元へ、ゆっくりと上がっていった。


美咲は気づいていない。


白いものは、彼女の胸のあたりへ近づき、触れようとして、触れられずに揺れた。まるで、そこに顔を埋めたいのに、どうしていいかわからない小さなもののように。


白い煙が慎一のほうへ漂ってきた。


近づいた瞬間、耳鳴りが弱まった。


女の声が遠のいた。


「……なんで」


留守電の中の声が、初めて怯えたように揺れた。


慎一の胸の奥で、赤ん坊が短く泣いた。


あ。


声ではない。


意味でもない。


けれど慎一は、その音を聞いた瞬間、息ができるようになった。


翌日、慎一と美咲は駅前の喫茶店で会った。


店内にはジャズが小さく流れ、カップがソーサーに触れる音、新聞をめくる音、外を通る車の音が穏やかに重なっていた。


「橘さんは、いつから聞こえているんですか」


慎一が尋ねると、美咲は水の入ったグラスを見つめた。


「最初は、アパートで」


「赤ちゃんの声が?」


「はい。夜中に、壁の向こうから聞こえるんです。でも、壁の向こうって、相沢さんのお部屋ですよね」


慎一の背中が冷えた。


自分には、隣室から聞こえていた。美咲には、自分の部屋のほうから聞こえていた。


二人の間の壁、そのどちら側にも属さない場所で、赤ん坊は泣いていたのだ。


「私は、最初……私がおかしくなったんだと思いました」


美咲の声がかすれた。


「聞こえるはずがないんです。聞こえたら、いけないんです。だって、あの子は」


言葉がそこで止まった。


その時、美咲の右肩の近くで、白いものが揺れた。


慎一は息を呑んだ。


昨日、電車で見たものと同じだった。白い煙。きらきらした細かな粒。それは美咲の肩から胸元へ降り、何度も服に触れようとしていた。


慎一の胸の奥に、柔らかく、痛いほど幼い願いが浮かび上がった。


抱いてほしい。


言葉ではない。赤ん坊が文として話しているわけではない。ただ、身体ごと母親のほうへ伸びようとしている気配だった。


「あの」


慎一は声を出した。


「変なことを言います。信じなくてもいいです」


美咲の目が揺れた。


「橘さんのそばに、白いものが見えます。煙みたいな、光みたいなものです。怖いものには見えません。俺のところに来ている留守電の声とは、全然違います」


「何なんですか」


慎一は答えるのが怖かった。


だが、胸の奥の泣き声がまた小さく震えた。


こっち。


見て。


「たぶん」


言葉が喉につかえた。


「橘さんの、赤ちゃんだと思います」


美咲は動かなかった。


「そんなこと、あるわけ」


最後まで言えなかった。


白いものが、美咲の胸元から少し上がった。まるで彼女の顔を見ようとしているようだった。


慎一の胸の奥へ、また意味が流れ込んできた。


まま。


まま、こっち。


こっち、見て。


「泣いてます」


「何て」


「言葉じゃないんです。ただ、泣き声の奥に、そういう意味がある気がするんです。抱いてほしいみたいです。見てほしい。ここにいるって、気づいてほしい。たぶん、それだけです」


美咲の目に涙が溜まった。


「責めてるんですか」


慎一はすぐに首を振った。


「違います。怒ってない。恨んでない。ただ、近くにいたいんだと思います」


美咲は声を殺して泣いた。


「私、ずっと謝ってました。ごめんねって。守れなくてごめんねって。毎日、言ってました」


彼女は胸元を押さえた。


「でも、返事なんてあるはずなくて。泣き声が聞こえるようになってからも、私、自分が責められてるんだと思って」


「違います」


慎一はもう一度言った。


「本当に、いるんですか」


「います。ここに」


そう言った瞬間、白いものがわずかに震えた。


美咲は崩れるように背中を丸めた。


やがて彼女は、少しずつ事情を話し始めた。


夫の亮平は亡くなったのだという。一か月ほど前、片桐沙也という女性に刺された。沙也は亮平の浮気相手だった。だが亮平には、さらに別の女性もいた。沙也はそれを知り、亮平とその女性を刺し、自分も命を絶った。


「沙也さんは、私にも嫌がらせをしてきました。非通知の電話、写真、手紙。夜中のインターホン。亮平は最初、認めませんでした。私が不安定になっているだけだって」


美咲は両手でカップを包んだ。


「その頃から、あまり眠れなくなりました。お腹の子のことを考えないといけないのに、電話の音が怖くて、スマホが鳴るだけで吐きそうになって」


そして、ある朝、出血した。


病院に行って、そのまま。


それ以上は言わなかった。


言わなくても、十分だった。


「その夜からです。赤ちゃんの泣き声が、はっきり聞こえるようになったのは」


慎一は、自分が浮気現場を見ていたことを告げた。


「あの時、橘さんが妊娠しているのを知っていました。でも、言えなかった。結局、見なかったことにしました」


慎一は頭を下げた。


「すみません」


美咲は、ゆっくり首を振った。


「相沢さんのせいじゃないです」


その声は弱かったが、はっきりしていた。


「私も、たぶん見ようとしなかったことがたくさんありました。でも、それは私のせいじゃないって、今はまだ思えなくても、そう思わないといけないんだと思います。だから、相沢さんも、自分のせいにしないでください」


美咲自身がまだ自分を許せていないのに、慎一にはそう言ってくれた。


その後、二人は美咲の実家近くの神社へ行った。


神主の榊原は、万能な霊能者ではなかった。五十代くらいの、穏やかで現実的な人だった。


「私は何でも見えるとか、何でも祓えるという者ではありません。神職として、できることをいたします。お話を聞いて、必要なら警察や病院へつなぐこともあります」


その言葉に、慎一は少し安心した。


美咲が話し、慎一も話した。赤ん坊の泣き声。非通知の留守電。女の声。耳鳴り。刺される夢。電車の中で見た白いもの。


榊原は笑わなかった。


「白いものは、今も見えますか」


慎一は美咲の胸元を見た。


「はい。橘さんの、胸のあたりです」


榊原には見えていないようだった。ただ、しばらく黙ってから、彼は眉を寄せた。


「空気が、重いですね」


その直後、慎一のスマホが震えた。


畳の上に置いていたスマホが、ぶう、と低く鳴る。画面には非通知の着信。音は切っているはずなのに、古い電話のベルのような音が漏れていた。


りりり、りりり。


着信は十秒ほどで切れた。


すぐに、留守番電話の通知が表示された。


非通知。


録音時間、三十七秒。


再生ボタンが、押されてもいないのに反応した。


「好き」


女の声がした。


「好き、好き。愛してる」


部屋の空気が冷えた。慎一の耳の奥で、きぃん、と音が立ち上がる。


「なんで私だけ見てくれないの。好きって言った。愛してるって言った。ずっと一緒って言った」


スマホの画面に、知らない女の顔が一瞬映った。


黒い髪。濡れたような目。笑っている口。


駅前のコンビニ裏で見た女だった。


間違いない。


「お祓いをしましょう」


榊原が言った。


「今すぐに」


祈祷所で祝詞が始まった。榊原の声は大きくはなかったが、まっすぐだった。人が声を整え、見えないものへ差し出している音だった。


だが、その祝詞に、女の声が割り込んだ。


「好き」


祝詞。


「愛してる」


女の声。


「どうして、あの女ばっかり」


美咲が息を呑んだ。


「わたしのほうが好きだった。わたしのほうが、ずっと」


そして、急に笑う。


「だから、いらないでしょう」


慎一の背筋に冷たいものが走った。


「妻も」


美咲の顔が歪んだ。


「子どもも」


その瞬間、白いものが震えた。


慎一の胸の奥で、初めてはっきりと赤ん坊が泣いた。


ああ。


それは恐怖の音ではなかった。


痛みの音だった。


美咲も顔を上げた。


「聞こえた」


榊原には聞こえていない。だが、何かが変わったことは感じたのだろう。彼の祝詞の声が少しずつ強くなった。


白いものは、美咲とスマホの間に漂っていた。小さく、弱く、泣きながら、母親の前に立とうとしていた。


「邪魔しないで」


女の声がひずむ。


赤ん坊が泣く。


祝詞が続く。


音がぶつかっていた。


だが、それは派手な戦いではなかった。何かが爆ぜるわけでも、光が走るわけでもない。ただ、女の声が少しずつ届かなくなっていく。耳鳴りの鋭さが鈍り、頭の奥に刺さっていた針が一本ずつ抜けていくようだった。


赤ん坊はまだ泣いている。


その泣き声の奥に、慎一は意味を感じた。


まま。


まま、こっち。


ちがう。


そっちじゃない。


ここ。


母親を女の声から引き戻そうとしている。責めるのではなく、怖がらせるのでもなく、ただ自分のいる場所へ気づいてほしくて、そして今は、母親を守りたくて泣いている。


やがて、女の声が遠のいた。


「愛してる」


遠く。


「愛してるのに」


さらに遠く。


「どうして」


スマホの画面にノイズが走った。


「す……」


ぷつ。


「愛し……」


ぷつ。


「わたし……」


ぷつ。


画面が暗くなった。


耳鳴りが止まった。


完全な無音ではなかった。外では風が鳴り、榊原の祝詞はまだ続いていた。美咲の呼吸があり、慎一の心臓の音がある。


けれど、女の声だけが消えていた。


そのことを、慎一は音が消えたことで知った。


後日、慎一は美咲の部屋に上がった。


二〇三号室は、暮らしが一度途切れた部屋の匂いがした。閉め切った空気。埃。洗剤の匂い。少しだけ、線香の匂い。


リビングの端、低い棚の上に、小さな位牌が置かれていた。


黒い塗りの小さな位牌。隣に白い花、水の入った器、菓子、線香立て。そこにあるものの一つ一つが、美咲がこの子を忘れようとしなかった証拠だった。


「名前は、まだ決める前でした」


美咲が小さく言った。


「でも、呼ぶ時に何もないのが嫌で。心の中では、ずっと、灯って呼んでいました」


「あかり」


慎一が繰り返すと、美咲はうなずいた。


「女の子か男の子かも、まだはっきりわからなかったんです。でも、どちらでもいいと思って。お腹にいる時、私にとっては、小さな灯りみたいだったから」


慎一の胸の奥で、かすかなものが揺れた。


名前を呼ばれたのだと、思った。


美咲は線香を一本取り出した。ライターに火をつける。


かち、と硬い音がした。


小さな火が線香の先に移る。


じ、と本当に小さな音がした。


死者のための音なのに、怖くなかった。


「毎日、これをしていました」


美咲は言った。


「でも、毎日、謝ることしかできなくて」


慎一は位牌を見つめた。


「今日は、謝らなくていいと思います」


言ってから、自分がそんなことを言っていいのか迷った。


けれど、美咲は怒らなかった。


「何を言えばいいんでしょう」


慎一は答えを持っていなかった。


ただ、白いものはそこにいた。美咲のすぐ近くに。


「今、います」


「どこに」


「胸の近くです」


それは、美咲の胸元にふわりと寄り添っていた。服の上に触れることはできないはずなのに、そこにいた。しがみつく、というほど形はない。けれど、向かう先ははっきりしていた。


胸。


母親の胸。


ずっと求めていた場所。


「胸のあたりに、います」


慎一の声は震えた。


「そこに、しがみつくみたいに」


美咲はゆっくりと自分の胸元へ手を上げた。


「ここですか」


「もう少し、真ん中です」


美咲は両手を広げるようにして、自分の胸の前に添えた。その手つきは慎重だった。何もない空間を撫でるのではなく、そこに確かに小さな身体があると信じて、壊れものに触れるような手つきだった。


「灯」


彼女が呼んだ。


「ここにいるの」


白いものが揺れた。


美咲は両腕で自分の胸元を包んだ。


本当に赤ん坊を抱くように。


首を支え、背中を支え、落とさないように。そこに温度はないはずなのに、彼女は温度を逃がさないように抱いていた。


「ごめんね」


美咲が言いかけた。


慎一は、思わず首を振った。


美咲も、その言葉を途中で止めた。


長い沈黙があった。


線香の煙が細く上がっている。


じ、と小さく燃える音がする。


美咲は胸元を抱いたまま、もう一度口を開いた。


「会いたかった」


その言葉は、謝罪ではなかった。


責める言葉でもなかった。


ただ、母親の本当の声だった。


「ずっと、会いたかった」


白いものが、ふわりと美咲の腕の中に沈むように見えた。


慎一には、そこで初めて、赤ん坊の泣き声が完全に止まったのがわかった。


泣く必要が、ほんの少しだけなくなったのだ。


慎一の胸に、最後にひとつだけ意味が浮かんだ。


まま。


すき。


はっきり聞こえたわけではない。音として鳴ったわけでもない。ただ、線香の煙が部屋の空気に溶けるように、その意味だけが胸に入ってきた。


「橘さん」


慎一はかすれた声で言った。


「たぶん、お母さんのこと、好きだって」


美咲の顔が崩れた。


彼女は声にならない声を漏らし、自分の胸元をさらに強く抱いた。


「私も」


美咲は泣きながら言った。


「私も、好き」


その日を境に、留守電は来なくなった。


非通知の履歴も残らない。削除したはずの録音が戻ることもない。慎一のスマホは、ただのスマホに戻った。


耳鳴りも消えた。


完全に忘れられたわけではない。静かな夜、ふとした瞬間に、あの細い金属音を思い出すことはあった。夢の中で腹に痛みが走り、飛び起きる夜も何度かあった。


だが、目が覚めた時、そこに女の声はなかった。


美咲は二〇三号室を解約した。


その後、しばらく慎一の部屋で暮らすことになった。


すぐに恋人になったわけではない。そんな単純な話ではなかった。二人は、男女というより、同じ夜を聞いてしまった者同士だった。美咲は夫を亡くしたばかりで、その夫への感情も一言では言えなかった。憎しみも、虚しさも、かつて好きだった記憶も、裏切られた痛みも、全部が絡まっていた。


慎一にも罪悪感は残った。


見なかったことにした夜。美咲に声をかけられなかった朝。隣室で物音がしたのに動けなかった深夜。


それらが完全に消えることはなかった。


ただ、二人は少しずつ生活を作った。


朝、どちらかが湯を沸かす。


夜、眠る前に互いに確認する。


「今日は聞こえましたか」


「聞こえません」


部屋の一角には、小さな位牌を置く場所を作った。白い布を敷き、花と水を置いた。毎晩ではなかったが、二人は線香をあげた。


火をつける時の、じ、という小さな音。


その音だけは、死者との距離を近づけても、怖くなかった。


二年後、慎一と美咲は結婚していた。


式は挙げなかった。家族だけで食事をし、役所に婚姻届を出した。その後、二人はアパートを出て、少し広い部屋へ移った。


新しい部屋にも、小さな位牌は持ってきた。


ある冬の朝、子どもが生まれた。


女の子だった。


名前は、灯里にした。


その子は、抱かれるより先に、自分から美咲の胸元へ顔を寄せたがる癖があった。眠る時も、泣き止む時も、安心したい時も、母親の胸元にしがみつこうとする。


美咲は最初、少し驚いていた。


「この子、ここが好きなのかな」


そう言って、自分の胸元をそっと撫でた。


慎一は何も言わなかった。


あの子なのか。偶然なのか。帰ってきたのか。それとも、まったく別の命が、ただ母親の温度を好きなだけなのか。


わからなかった。


わからないままでいいと思った。


灯里は、よく眠る時に小さな息を鳴らした。


すう、すう、と、細い寝息。


その音を聞くたび、慎一はあの夜の泣き声を思い出す。


壁の向こうから聞こえた声。


風呂場の排水口から聞こえた声。


玄関の外で泣いていた声。


押し入れの暗がりで探していた声。


最初はただ怖かった。


けれど今思い出すと、そのひとつひとつが胸を締めつけた。


あの子はずっと、同じことを言っていたのかもしれない。


ここにいるよ。


こっちを見て。


抱いて。


行かないで。


美咲はソファに座り、胸元にしがみつく灯里を支えていた。灯里の小さな指が、美咲の服を握っている。顔を胸に寄せ、安心しきったように目を閉じている。


棚の上では、小さな位牌の前に白い花があった。


今日は線香をあげていない。


それでも慎一にはふと、線香が燃える時の小さな音が聞こえたような気がした。


じ、と。


死者と生者の距離が、ほんの少しだけ近づく音。


悲しみは消えていない。


消えるものではない。


あの部屋で聞いた声も、神社で遠ざかった女の囁きも、位牌の前でようやく止まった泣き声も、すべて二人の中に残っている。


けれど、それでも朝は来る。


湯が沸く音がして、カーテンを開ける音がして、子どもの寝息がする。


美咲の腕の中で、灯里が小さく身じろぎした。


抱かれるよりも、自分からしがみつくのが好きな子だった。


それが戻ってきたのかどうか、慎一にはわからない。


これからも、きっとわからない。


ただ、美咲はその小さな重みを腕に抱き、慎一はその寝息に耳を澄ませる。


あの夜からずっと残っていた泣き声は、悲しみを消しはしなかったけれど、今は美咲の腕の中で、静かな寝息に変わっていた。

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