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短編

理想に生きた転生お嬢様と、現実を選んだメイドの私

作者: 榎本モネ
掲載日:2026/04/14


「どうして彼女は私を捨てたのだと思う?」


 静かな執務室に、その声はやけにくっきりと響いた。

 磨き込まれた机、整然と並ぶ書類、壁にかけられた肖像画。どれもがきちんと手入れされているのに、部屋の主の表情だけが、どこか噛み合っていない。

 問いを投げた彼――かつてお嬢様の婚約者であった方は、指先でペンを弄びながら、こちらを見ていた。探るような、けれどどこか諦めを含んだ視線。

 私は一礼してから、顔を上げる。


 ――私は全部知っている。


 胸の内でそう呟きながらも、すぐには口を開かなかった。その問いの答えを、私は知っている。知っているどころか、近くで長く、それを見続けてきたのだから。

 軽々しく言葉にしていいものではないとわかっている。けれど同時に、ここで誤魔化せば、この方はずっと同じ場所で立ち止まり続けるだろうとも思った。


 そして、記憶を辿る。あの屋敷での日々を――すべてが狂い始めた、あの頃を。



 お嬢様は、ある日を境に変わった。それが「転生者としての自我」が出てきてしまったことが理由であるとわかったのは、屋敷内でも私ぐらいだっただろう。まあ、もともとたまに口走る言葉からして、「もしかしてお仲間?」と思ってはいた。それが明確になっただけではあった。


「マヨネーズという万能調味料があるのよ」


 朝食の席で、突然そんなことを言い出した。卵と油と酢で作れる、簡単で美味しい調味料。どんな料理にも合うのだと、目を輝かせながら語っていた。


「新鮮な卵をそのまま使えばいいの。火なんて通さなくて大丈夫!」


 そう断言したお嬢様に、厨房の料理人が困惑した顔を向けていたのを覚えている。当然だろう。卵を生で扱うことの危険性は、この世界でも常識だ。

 それでもお嬢様は譲らなかった。結果として出来上がった“それっぽいもの”は、確かに見た目だけはそれらしかった。味も、料理長が整えたので、美味しかったのは間違いない。しかしながら、私はメイド仲間に薦められても絶対に口にしなかった。サルモネラ菌のことが頭によぎったからだ。この世界にも同じ菌があるかはわからない。しかし、下手に手を出してはいけないと、自分の前世の知識が危険信号を灯していた。

 そして、数日後、使用人の何人かが腹を壊した。原因は言うまでもない。


「どうして……?」


 青ざめた顔でそう呟くお嬢様に、誰も何も言えなかった。言ったとしても、聞き入れられないとわかっていたからだ。

 それが最初の“失敗”だった。けれど、終わりではなかった。


「塩だって作れるのよ。海水を煮詰めればいいんだから」


 次に手を出したのは、塩だった。この世界の塩は岩塩が主体だ。まだ海水から抽出する技術は確立していない。確かに、塩を作る理屈は間違っていないだろう。だが、現実はそう単純ではない。

 設備も整っていない場所で、ただ海水を煮詰める。不純物の除去もろくに行わず、温度管理も曖昧なまま。

 そうこうして出来上がったのは、塩とは呼び難い、妙に苦みの強い結晶だった。


「おかしいわ……こんなはずじゃ……」


 何度も何度も試作を繰り返し、そのたびに材料費だけが消えていく。気が付けば、帳簿の数字は目に見えて悪化していた。旦那様が帳簿係から「お嬢様を止めてください」と言われているのを見かけたのもその頃だ。

 それでも、お嬢様はやめなかった。


「次は堆肥よ。農業革命が起きるわ」


 庭の一角に、得体の知れないものが積み上げられていく。生ごみ、枯葉、動物の排泄物――それらを混ぜ合わせ、発酵させるのだという。理屈自体は、きっと間違っていないのだろう。私も、堆肥と聞くと、そのようなものを発酵させるのはわかる。でも、問題は、その“やり方”だった。

 適切な管理もなく、ただ放置されたそれは、やがて強烈な異臭を放ち始めた。屋敷中に広がる腐敗臭。使用人たちは顔をしかめ、近隣からも苦情が届く。それでもお嬢様は言った。


「これが成功すれば、すごいことになるのよ!」


 ――成功すれば。その言葉を、私たちは何度聞いただろう。けれど、その“成功”が訪れることは、一度としてなかった。


 私はその様子を見て、内心ため息をついた。


「一般人がそんな知識、持ってるわけないのに」


 ぽつりと零したその言葉は、誰にも聞かれなかった。けれど、それがすべてだったと思う。


 お嬢様は“知っているつもり”だった。おそらく、前世のどこかで聞きかじった知識を実行している。だが、それはあくまで断片的な情報に過ぎない。前提も、条件も、失敗例も詳しいことを知らないまま、表面だけをなぞっている。だから、失敗する。

 そして、その失敗の積み重ねが――屋敷を静かに蝕んでいった。

 最初は小さな赤字だった。それが次第に大きくなり、やがて無視できない規模になる。帳簿係の眉間の皺は、日に日に深くなっていった。旦那様と奥様も、何度かお嬢様を諫めていたが――結局、強く止めることはしなかった。

 甘やかしと言えば、それまでだろう。あるいは、娘の“可能性”に期待していたのかもしれない。だが現実は、期待とは違う方向へ進んでいた。


 そして、決定的な日が訪れる。


■■■


「もうこんな生活、耐えられない!」


 お嬢様の部屋に響いたその声は、これまでで一番大きかった。突然の宣言に、その場にいた全員が固まる。お嬢様は立ち上がり、拳を握りしめていた。


「貴族の生活なんて、息が詰まるだけよ! 私は平民になる!」


 ――また、始まった。最初に浮かんだのは、そんな感想だった。

 だが、今回はいつもと違った。言葉だけではなく、本気で行動に移そうとしているのがわかったからだ。


「お嬢様、落ち着いてください」


 お嬢様付きの執事が静かに諭す。彼はお嬢様に拾われ、お嬢様に傾倒している男だ。そんな執事に対して、お嬢様は首を振った。


「私はもう決めたの。自分の力で生きていくわ」


 その瞳は、妙に輝いていた。理想だけを見た、危うい光が宿っているように思う。

 私は理想に燃えるお嬢様を、冷ややかな目で見ていた。



 その日の夜、私は同僚のメイドに呼び止められた。


「ねえ、一緒に行かない?」


 小声でそう言われ、思わず聞き返す。


「どこへ?」

「決まってるでしょ。お嬢様と一緒に」


 彼女は、お嬢様付きのメイドだった。いつもそばにいて、世話をしていた人物。お嬢様によってミスを庇われてから、お嬢様に傾倒している。実のところ、私もお嬢様付きとして働いているメイドの一人だ。


「執事様も行くって。私たちで、新しい生活を始めるの」


 どこか興奮した様子で夢見心地に語る彼女に、私はしばらく言葉を失った。

 ――本気なの?そう問いかけようと思って、いや、諭しても無駄だと思いなおす。だからこそ、私は即座に答えた。


「行かないわ」


 私の返答に、彼女は目を丸くした。


「え……どうして? お嬢様についていけば、きっと――」

「家族を残していけないわ」


 言葉を遮るように、そう告げる。


「それに、もし何かあったら、その影響が家族に及ぶかもしれない。それは困るわ」


 現実的な理由だった。夢も希望もない、ただの打算。けれど、それでいいと思っている。一方の彼女は、たしか両親との折り合いが悪かったはずだ。そのように愚痴をこぼしていたのを以前耳にしている。

 私の返答に、彼女は少しだけ迷うような顔をしたが、やがて小さく頷いた。


「……そっか」


 それ以上は何も言わなかった。


 そして数日後。お嬢様は本当に屋敷を出た。執事と、そのメイドを連れて。

 残された屋敷には、妙な静けさが広がっていた。嵐が過ぎ去った後のような、けれど何か大切なものが欠けたような、そんな空気。私はその中で、ひとつだけ確信していた。


 ――ああ、これで取り返しがつかなくなる。


 そんな予感は、残念ながら外れることはなかった。


■■■


 お嬢様が出奔してからというもの、屋敷の空気は一気に現実へと引き戻された。これまで「お嬢様の挑戦」という名目で流されていた出費が、すべて“損失”として帳簿に現れたからだ。

 帳簿係の顔色はさらに悪くなり、旦那様は執務室に籠る時間が増えた。奥様は表向き、穏やかに振る舞っていたが、夜遅くまで灯りが消えないことが多くなった。


 私はというと――正直、驚きはなかった。

 むしろ、「やっぱりそうなるよね」という納得のほうが大きい。転生者同士だからこそ、わかることがある。

 おそらく、お嬢様は前世でも中学生ぐらいの、まだ世間擦れをしていない年頃だったのだろう。前世の知識は便利だ。けれど、それは“前提条件が整っているからこそ成立するもの”であって、切り取って持ち込めばそのまま使える万能薬ではない。そのことがわかるほどの人生経験を積んでいなかった。そして、そのツケが一気に回ってきただけだ。


 ほどなくして、使用人たちは応接室に呼び出された。応接室に集められた私たちは、誰も口を開かなかった。誰もが、薄々察している。

 そして、旦那様は静かに口を開いた。


「……申し訳ないが、人員を整理せざるを得ない状況だ」


 重たい言葉だった。けれど、誰も驚かなかった。

 続けて告げられたのは、「紹介状を用意する」という話だった。他家へ仕える道を用意する代わりに、この屋敷を去ってほしい――そういうことだ。つまり、実質的な解雇。ただし、貴族社会においてはそれなりに誠実な対応とも言える。

 名前を呼ばれた者から順に、進路が告げられていく。そして――


「……君には、こちらへ」


 私の名前が呼ばれ、差し出された紹介状を受け取る。宛先に目を落とした瞬間、わずかに眉が動いた。

 そこに書かれていたのは、かつてのお嬢様の婚約者、その家名だった。

 なるほど、と思う。婚約破棄に伴う補填。その一環として、人員を回す。理屈としては筋が通っている。


 ――ずいぶんと、現実的な落としどころだ。


 私は深く一礼した。


「承知いたしました」


 感情を挟む余地はない。この世界で生きる以上、こういう選択は珍しくもないのだから。


■■■


 新しい屋敷は、前の屋敷とは対照的だった。無駄がなく、整っている。使用人の動きも洗練されていて、空気が引き締まっている。

 ――ああ、ここはちゃんとしている。

 最初に抱いた感想は、それだった。以前仕えていた屋敷は、お嬢様の突拍子もない発想に振り回され、財政難に陥り、皆がどこか暗い表情をしていた。ここでは皆、自分の職務に誇りをもって取り組んでいる。


 この屋敷の主は、ディラン様。かつてお嬢様の婚約者であった方であり――そして現在は、正式に家督を継いだ当主でもある。婚約破棄に伴う一連の処理の中で、先代であるご両親は一線を退き、実務のすべてをディラン様へと委ねたと聞いている。

 もともと補佐として政務に関わっていた方ではあったが、今回の件で完全に“表に立つ側”へと移行した形だ。だからこそ、使用人たちは皆、この方を「旦那様」と呼ぶ。


 案内された控室で待っていると、やがて呼び出しがかかった。向かった先は、執務室。扉を叩き、許可を得て中へ入る。


 そして、冒頭へと繋がる。


「どうして彼女は私を捨てたのだと思う?」


 ――というわけだ。



 私は一度、視線を落とした。ディラン様は机に肘をつき、こちらをじっと見ている。探るような視線だが、その奥には諦めに似た色が滲んでいた。若くして家を継ぎ、婚約は破棄され、原因もわからないまま。


 ――そりゃあ、聞きたくもなるだろう。


 私は小さく息を吐く。転生者として、前世の価値観を持っているからこそわかることがある。同時に、この世界の常識の中で生きているからこそ、言葉の重さも理解しているつもりだ。だからこそ、逃げるつもりはなかった。


「遠慮なく言え、と仰いましたね」


 顔を上げて確認する。ディラン様は一瞬だけ目を細め、それから小さく頷いた。


「ああ。取り繕う必要はない」


 その声音は、どこか乾いていた。

 ――なら、遠慮は不要だ。


「では、率直に申し上げます」


 一歩踏み出し、言葉を選ぶ。ただし、手加減はしない。


「お嬢様の好みと、旦那様は根本的に合っておりませんでした」

「……好み?」


 わずかに眉が動く。私は頷いた。


「はい。たとえば――筋肉です」

「筋肉……?」


 予想外だったのか、少しだけ間の抜けた声が返る。私は淡々と続けた。


「お嬢様は、明確に“筋肉質な男性”を好まれていました。いわゆる、鍛え上げられた体型です」


 脳裏に浮かぶのは、あの執事の姿だ。日々の鍛錬で仕上げられた、実用性重視の筋肉。対して、目の前のディラン様は――


「ディラン様は、均整の取れた体型でいらっしゃいます。決して貧弱ではありませんが、“求められていた方向性”とは異なります」


 言い切ると、室内の空気が一瞬止まった。ディラン様は、ほんのわずかに自分の腕へと視線を落とす。私は構わず続ける。


「次に、髪色です」

「……まだあるのか」

「あります」


 即答した。


「お嬢様は、暗めの髪色を好まれていました。黒髪、あるいは濃い茶色など」


 そして、視線を少しだけ上げる。金色の髪が光を受けて、やわらかく輝いている。


「ディラン様は、金髪碧眼でいらっしゃいます。非常に整った容姿ですが、お嬢様の嗜好とは一致しておりません」

「…………」


 沈黙が落ちる。だが、まだ終わらない。


「さらに申し上げますと、お嬢様は“ワイルドな雰囲気”を好まれていました」

「ワイルド……」

「もう少し野性味のある印象、と言えばよろしいでしょうか」


 目の前にいるディラン様は王道王子様のような、アイドル系統の甘い顔立ちだ。お嬢様の好みとは合わなかっただろう。そして、わずかに間を置き、小さく息を吸う。


「――ちょうど、お嬢様付きの執事のような」


 空気が、はっきりと変わった。ディラン様の指先が止まる。私は、あえて視線を逸らさずに続けた。


「お嬢様は、その執事に対して、日常的に筋力トレーニングを課しておられました。食事管理も含め、かなり意図的に体作りをされていたかと」

「それは……つまり……」

「はい」


 私は頷く。


「好みに合うように“育成”されていた可能性が高いと考えます」


 沈黙。――さすがに、これは堪えるだろう。そう思ったが、ディラン様は怒らなかった。ゆっくりと息を吐き、苦笑を浮かべる。


「……なるほどな」


 その声音には、わずかな自嘲が混じっていた。


「努力の方向が、違っていたというわけか」

「そうなります」


 私は淡々と答える。そして、ここからが肝心だ。ただ事実を並べるだけでは、この方を折るだけで終わる。だから――


「ですが」


 ディラン様が顔を上げる。私はまっすぐに、その目を見る。


「ディラン様に非はございません」


 はっきりと、言い切る。


「婚約者としての務めは、十分に果たしておられました。礼儀、立場、責任――いずれにおいても問題はなかったかと存じます」


 言葉を区切り、続ける。


「今回の件は、お嬢様がご自身の嗜好と理想を優先された結果に過ぎません」


 静かな断定だった。けれど、その言葉は確かに届いたらしい。ディラン様はしばらく黙り込んだまま、机の上に視線を落としている。そして、小さく、笑った。


「……そうか」


 その声は、先ほどよりもわずかに軽い。


「私は、間違っていなかったのだな」

「はい」


 迷いなく答える。すると、ディラン様は初めて真正面からこちらを見た。その瞳には、先ほどまでの迷いはほとんど残っていなかった。


「君は、面白いな」


 ぽつりと、そう言う。


「ここまで遠慮なく言われたのは初めてだ」

「ご希望でしたので」

「確かにそうだが……普通はもう少し手加減するものだろう」

「必要であれば可能です」

「いや、いい」


 ディラン様は小さく首を振る。そして、わずかに口元を緩めた。


「そのままでいてくれ」


 その言葉に、私はわずかに首を傾げた。

 ――物好きな方だ。

 内心でそう思いながらも、表情には出さない。


「その代わり――」


 ディラン様はペンを置き、椅子から立ち上がる。


「君には、私付きのメイドになってもらおう」


 予想外のことだった。お嬢様付きだったメイドをわざわざ傍において、気分は悪くならないのだろうか。


「……私などでよろしいのでしょうか?」

「もちろんだ」


 即答だった。


「むしろ、そのほうが助かる。どうやら私は、自分のことを客観的に見るのが苦手らしいからな」


 軽く肩をすくめるその仕草に、私は小さく息をついた。


「承知いたしました」


 私は一礼する。


「ソフィアと申します。今後は専属としてお仕えいたします」


 名前を告げると、ディラン様は一瞬だけ目を細めた。


「ソフィア、か。覚えておこう」


 その声音は、先ほどよりもずっと柔らかかった。

 こうして私は、新たな主のもとで働くことになった。――今度こそ、まともな環境で働ける。そんな予感を、ほんの少しだけ抱きながら。


「では、今後の業務について――」


 そう切り出され、書類を受け取ろうと一歩前に出たときだった。

 私を目にしたディラン様が、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。視線が、わずかに揺れる。すぐに元に戻ったが、その間が妙に気になった。


「……どうかされましたか」

「いや」


 即座に返答がある。


「何でもない」


 そのまま話は続いたが、私は内心で首を傾げた。



■■■



 専属メイドとして仕えるようになってから、私の日常は、驚くほど落ち着いたものになった。まず第一に、無茶な指示が来ない。これだけで、精神的な負担が半分以下になるのだから、前の環境がいかに異常だったかがよくわかる。


「ソフィア、少しいいか」


 書類に目を通していたディラン様が、ふと顔を上げる。


「はい、旦那様」

「この判断だが……どう思う?」


 差し出された書類を受け取り、ざっと目を通す。内容は、領地内の農作物の流通に関する調整案だった。私は少しだけ考え、口を開く。


「この案ですと、短期的には利益が出ますが、長期的には商人側の反発が強くなるかと」

「理由は?」

「取引先を絞りすぎています。代替手段を持たれた場合、一気に流れが止まる可能性があります」


 そう言いながら、別の案を簡単に提示する。私は子爵家の三女だが、実家は手広く商売をしており、お屋敷に奉公に出る前は実家の商売を手伝っていた。ディラン様は当然その経歴を知っているので、流通や経済面について、たまに意見を求められるのだ。ディラン様はしばらく考え、それから小さく頷いた。


「……確かに。その通りだな」


 さらさらと修正を書き込む。その様子を見ながら、私は少しだけ感心していた。

 ――この方、素直だ。ここまであっさりと意見を取り入れる高位貴族は少ない。立場が上であればあるほど、「自分の判断が正しい」と思い込みがちになるものだ。

 だが、ディラン様は違う。必要であれば、あっさりと修正する。その判断の早さが、この屋敷の整然とした空気を作っているのだろう。


「ソフィア」

「はい」

「君は、やはり助かるな。ありがとう」


 何気ない口調で言われて、私は一瞬だけ言葉に詰まる。


「恐れ入ります」


 軽く頭を下げるが、内心では少しだけ驚いていた。こういう言葉を、さらりと言える人なのか。


 そんな日々が、しばらく続いた。業務の相談、ちょっとした雑談、時には世間話。最初は距離を測るようだった会話も、次第に自然なものへと変わっていく。


 そしてある日。


「ソフィア」

「はい」

「君は……あの時、なぜあそこまで言い切れた?」


 ふと、そんなことを聞かれた。あの時――つまり、婚約破棄の理由を暴露したときのことだろう。私は少しだけ考え、それから肩をすくめた。


「事実でしたので」

「それだけか?」

「それだけです」


 即答する。


「……怖くはなかったのか」

「多少は」


 正直に答える。


「ですが、あのまま曖昧にしても、何も変わらないと思いましたので」


 ディラン様は、少しだけ目を細めた。


「なるほどな」


 短く呟く。それから、ぽつりと続けた。


「君は、私よりもよほど現実を見ている」


 その言葉に、私はわずかに苦笑した。二度目の人生だし、と思いつつ、そうはならなかったお嬢様の例を考えると、もともと現実的な考え方なのだろう。とはいえ、それをそのまま言うわけにもいかない。


「どうでしょう。たまたま、そういう性格なだけかと」


 軽く流すと、ディラン様は小さく笑った。


「そういうことにしておこう」


 その笑みは、以前よりもずっと柔らかいものになっていた。そんなディラン様から、書類を託されて執務室を出る。

 書類を運んでいると、廊下ですれ違ったメイドに声をかけられた。彼女は、新しく配属された私を色々と気にかけてくれる、面倒見のいいタイプの子だ。この屋敷に来てから、特に親しくなっている。


「ソフィア、最近忙しそうね」

「ええ、まあ」


 軽く答えると、彼女はじっとこちらを見て――なぜか、ため息をついた。


「あなた、やっぱり肩こりが酷かったりするの?」

「……肩こり?」


 思わず聞き返す。


「ええ、やっぱり重いものを持つと肩こりしやすいのかなって」

「まあ、割と肩こりが慢性的ではあるけど」

「やっぱりねぇ」


 にやりと笑って去っていく彼女の背中に首をかしげる。自分の体を見下ろしてみるが、特に変わったところはない。……そんなに、肩まわししてたかな。



 専属メイドとして仕えるようになってから、しばらく経ったころ。


「ソフィア」

「はい、旦那様」

「少し付き合え」


 そう言われて連れてこられたのは、屋敷の裏手にある訓練場だった。


「……何をなさるおつもりで?」

「鍛錬だ」


 簡潔な返答に、私は思わずため息をついた。


「まさかとは思いますが」

「ああ」


 ディラン様はあっさりと頷く。


「筋肉をつけようと思っている」


 ――やっぱりそう来たか。私は額を押さえた。


「理由をお聞きしても?」

「わかりきっているだろう」


 ディラン様は、どこか真剣な顔で言う。


「“方向性が違っていた”のなら、修正すればいい」

「修正の仕方が極端すぎます」


 即答だった。


「今さらそこを合わせても意味はありません」

「だが、無駄ではないだろう」

「ええ、健康には良いかと」


 淡々と返すと、ディラン様はわずかに苦笑した。


「相変わらず手厳しいな」

「事実ですので」


 短く言い切る。するとディラン様は、少しだけ視線を逸らした。


「……では、なぜ付き合えと言ったのか、わかるか?」

「いいえ」

「一人だと続かない気がしてな」


 ぽつりと零されたその言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。


「……わかりました」


 私は軽く息を吐く。


「ただし、補助だけです。私は鍛えませんよ」

「それで構わない」


 そうして始まったのは、なんとも言えない時間だった。

 剣を振るディラン様の動きを見ながら、素人意見で姿勢を指摘する。幸い、私の兄の一人は騎士となっていた。その兄の鍛錬の様子を思い浮かべながら、意見する。


「……どうだ」

「力みすぎです。もう少し肩の力を抜いてください」

「こうか?」

「いえ、抜きすぎです」

「難しいな」


 そんなやり取りが、妙に心地よかった。そして、ふと気づく。

 ――この人、努力するんだ。

 誰に言われたわけでもなく、誰かに見せるためでもなく、ただ、自分で納得するために。それが、少しだけ意外で、少し、好ましく思えた。



 剣を振る音が、乾いた空気に響く。すでに1時間は経っただろうか。疲れからか、少々鈍くなってきているその動きを見ながら、私は口を開いた。


「……旦那様」

「なんだ」

「ひとつ、確認してもよろしいですか」


 ディラン様は動きを止め、こちらを見る。

 私は少しだけ言葉を選んだ。


「先ほどの件ですが」

「筋肉の話か」

「はい」


 一拍置く。


「それは……お嬢様の好みに合わせるため、ではありませんよね?」


 空気が、わずかに静まる。踏み込みすぎかもしれない。けれど、ここは曖昧にしてはいけないところだ。

 ディラン様は、しばらく無言だった。やがて、剣を下ろす。


「……違うな」


 はっきりと、そう言った。私はわずかに息を吐く。そのまま、ディラン様は続けた。


「最初は、少しだけ考えた」


 正直な言葉だった。


「もし、あの時こうしていれば、何か変わっていたのではないか、と」


 その声音には、過去を振り返る冷静さがあった。未練というよりは、“検証”に近い。


「だが」


 ディラン様は、軽く肩をすくめる。


「結局は同じ結論に戻る」

「同じ結論、ですか」

「ああ」


 こちらをまっすぐ見る。


「私は、私のままでしかいられない」


 静かな言葉だった。


「誰かに合わせて変えたところで、それが長く続くとも思えないし……何より」


 ほんの少しだけ、口元が緩む。


「それで選ばれても、あまり嬉しくない」


 その言葉に、私は思わず瞬きをした。

 ――この人、思っていたよりずっとちゃんとしている。


「では、なぜ鍛錬を?」


 改めて問いかける。ディラン様は、肩をすくめて答えた。


「単純な話だ」


 あっさりとした口調だった。


「自分に足りないものがあるとわかっていて、何もしないのは性に合わない」


 それだけだ、と言い切る。


「それに」


 そこで、少しだけ視線を逸らした。


「君にあそこまで言われて、何も変えないのも癪だからな」


 ぼそりと付け加えられたその一言に、私は思わず小さく息を吐いた。


「……なるほど」

「納得したか」

「ええ」


 素直に頷く。そして、少しだけ口元を緩めた。


「安心いたしました」

「安心?」

「はい」


 休憩用に用意した水とタオルを手渡すために、ディラン様のもとへ近づく。


「過去に縛られている方に仕えるのは、あまり効率的ではありませんので」


 わざと事務的に言うと、ディラン様は苦笑した。


「相変わらずだな」

「事実です」


 そう言い切る。だが、内心では少しだけ違うことを思っていた。

 ――未練ではない。これは、きちんと整理された過去だ。だからこそ、この人は前に進める。


「ソフィア」

「はい」

「君はどうなんだ」


 不意に問い返される。


「私、ですか?」

「ああ」


 ディラン様は、わずかに目を細める。


「君は、過去に引きずられることはないのか」


 一瞬、言葉に詰まる。前世のことが、頭をよぎった。だが――


「多少はあります」


 正直に答える。


「ですが、それで立ち止まるつもりはありません」


 顔を上げる。


「今のほうが、大事ですので」


 ディラン様は、じっとこちらを見ていた。やがて、ゆっくりと頷く。


「……そうか」


 短い返答だったが、その中に何かを受け取った気配があった。そして、ほんの少しだけ、空気が変わったような気がした。





 次の日。筋肉痛に唸るディラン様を労わりながら、いつも通り執務を手助けしていると、ディラン様は書類からふと顔を上げて、私を見た。


「ソフィア」

「はい」

「……昨日の話だが」

「筋肉の件ですか?」

「それもあるが」


 ディラン様は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「君は、どう思う?」

「何を、でしょうか」

「その……好み、というものを」


 珍しく、歯切れが悪い。私は少し考え、あえて正直に答える。


「そうですね」


 一拍置いてから、続ける。


「私は、努力する方が好みです」


 ディラン様が、わずかに目を見開く。


「結果ではなく?」

「結果も大事ですが」


 肩をすくめる。


「それだけでは、続きませんので」


 そう言うと、ディラン様は小さく笑った。


「……なるほど」


 その表情は、どこか安堵しているようにも見えた。



 それからというもの、訓練は、日課になった。


「今日は少しはマシです」

「“少しは”か」

「はい、少しは」


 そんな軽口を交わせるようにもなった。

 そしてある日。いつものように水を差し出したときのこと。


「……ソフィア」

「はい」

「君は、変わっているな」

「よく言われます」

「褒めている」

「それもよく言われます」


 即答すると、ディラン様は笑った。声に出して、はっきりと。それは、初めて見る表情だった。


 そして――その笑顔を見た瞬間、私は気づいてしまった。

 ――ああ。これは、まずい。

 それを自覚した瞬間、私はその感情から意識を逸らした。気づかれてはいけない。そう思いながら、それでも、以前よりも少しだけ、この時間を、楽しみにしている自分がいるとわかってしまっている。

 そんな思いを振り払うように、こほん、と小さく咳払いをしてディラン様を見上げる。


「……旦那様」

「なんだ」

「今の動きですが――」


 言いかけたところで、ディラン様の視線がわずかに逸れた。ほんの一瞬。だが、確かに集中が切れている。


「……?」


 不思議に思いながらも、続ける。


「視線がぶれています」

「……ああ」


 少し間があってから、返事が返る。


「すまない」


 何の謝罪だろう?珍しく、言葉が遅い。そのまま訓練は再開されたが、その日はやけに調子が悪かった。



■■■


 一方、お嬢様はというと。出奔当初から、見事に現実にぶつかっていた。


「どうして火がつかないの!」


 苛立った声が、質素な台所に響く。薪を組み、火打石を打ちつけるだが、火花は散るものの、うまく火が回らない。煙だけがもくもくと上がり、目に染みる。


「こんなの、もっと簡単だったはずでしょう!?」


 前世の記憶では、もっとこう――スイッチひとつでどうにかなっていたはずだ。だがここには、スイッチなど存在しない。


「お嬢様、少しお下がりください」


 執事が手際よく火を整え、ようやく小さな炎が上がる。お嬢様は不満げに腕を組んだ。


「……時間がかかりすぎよ」


 そう言いながらも、結局自分では何もできない。次に待っているのは、風呂だ。薪で湯を沸かし、水を調整し、ようやく入れる温度にする。それを見ながら、お嬢様は眉をひそめる。


「毎日これをやるの……?」

「はい」


 メイドが淡々と答える。


「そんなの、非効率すぎるわ」


 ――非効率。その言葉は間違っていない。だが、それが“当たり前”なのがこの世界だ。そんなお嬢様の言葉に、メイドと執事は顔を合わせる。


 そもそも、お嬢様出奔計画は最初から躓いていた。お嬢様は当初、自身が購入していた、ちょっと豪華な家での生活を想定していた。貴族の屋敷としての豪華さはないが、平民の家とすると、とても豪華なものだった。しかし、その家にたどり着いたときには、すでに競売にかけられており、その家で生活することができなかったのだ。

 彼女は知る由もないが、彼女が購入した家は、実家の資産として管理されていた。実家のお金で購入したものだったし、担当者は当然、実家の資産として登録している。そして、実家は資金難に陥ったことで、彼女の家を含む、さまざまな資産を売却したのだ。


 さらに追い打ちをかけたのは、お金の問題だった。平民生活から3か月ほど経ち、お嬢様は帳簿を睨みつける。


「収入が増えない……これじゃあ、やっていけないわ」


 当然だろう。何かを作ったからといって、自動的にお金が入るわけではない。お嬢様と執事、メイドの暮らしは、執事とメイドが周辺の家々を回って仕事を受けたり、商店で働いたりして得た収入で成り立っていた。当初、お嬢様も働こうとしたが、あまりにも世間知らずすぎて、戦力にならなかったのだ。


「マヨネーズだって、あれだけ画期的なのに……」


 ぼそりと呟く。マヨネーズを商店に売り込んだ当初、あまりの美味しさにとても喜ばれた。しかし、数日後に再度納品に行ったら、門前払いされてしまったのだ。商品ではなくレシピならどうか、その分の使用料をもらえれば…と交渉してみたが、けんもほろろに断られてしまった。


「卵だって、鶏を飼うか、農家から買わなくちゃいけないから、ただじゃないのに…」


 無駄になった在庫を見て、ため息をつく。そもそも、この世界には“特許”などという概念はまだ存在していない。誰かが真似すれば、それで終わりだ。だからこそ、発明に対する使用料などという考えもなかった。まして、彼女の発明はまともに成功した例すらないのだから、話にならない。

 また、彼女が何かしらの理由で平民になった貴族であろう、ということは、彼女の服装や言動、荒れていない肌や髪から、すでに周辺の住民は察していた。貴族から追い出された相手と親しくなったら、何をされるかわからない、という思いから、周辺住民は遠巻きに見ているのが現状だ。

 現実は、厳しい。いや、正確には、それが当たり前なのだ。それを、お嬢様は知らなかった。


「……こんなはずじゃなかったのに」


 ぽつりと漏らしたその言葉は、次第に回数を増やしていく。

 やがて、それは苛立ちに変わり――

 焦りに変わり――

 そして、余裕を削り取っていった。


 それでも、生活自体は成り立っていた。なぜなら。


「お嬢様、お食事の準備が整いました」


 メイドが用意し、


「湯加減は問題ございません」


 執事が整え。結局のところ、二人がすべてを支えていたからだ。

 お嬢様は「自立する」と言いながら、実際には何も変わっていなかった。違うのは、環境だけ。支える側の負担が増えただけだ。そして――その“共に苦労する時間”が、二人の距離を変えていった。


 ある日のこと。ふとした瞬間に、お嬢様はそれに気づいた。

 視線が合い、自然に笑む。言葉にしなくても通じる空気。それは、明らかに“同僚”のものではなかった。


「……何、それ」


 思わず、声が漏れる。二人は同時に振り返り、少しだけ気まずそうに目を逸らした。それが、何よりの答えだった。


「まさか……」


 頭の中で、何かが崩れる音がする。


「そんな……嘘でしょ……?」


 自分のために動いていたはずの二人が、互いを見ている。その事実を、理解したくない。だが、現実は変わらない。


「……裏切ったのね」


 彼は、自分好みに育て上げた男だった。たとえ、あのいけ好かない婚約者と結婚することになっても、自分好みの男がそばにいれば、救われるかもしれないという発想からのことではあったが、彼女は間違いなく彼を愛していた。その自分の想いを感じ取って、ついてきてくれたと思っていたのに。


「お待ちください、お嬢様――」

「もういいわ!」


 感情のままに叫ぶ。


「全部、あんたたちのせいよ!」


 現実がうまくいかないのも。思い通りにならないのも。全部、全部。


「私は被害者だわ……そうよ……」


 ぶつぶつと呟きながら、視線が揺れる。そして――。






「――私は、誘拐されたのよ!」


 その言葉が、すべての始まりだった。お嬢様は実家へと戻り、そう訴えた。自分は無理やり連れ出され、利用されていたのだと。――事実を、完全に塗り替えて。




■■■


 お嬢様の訴えは、想像以上に大事になった。


 「誘拐された」という言葉は、それだけで十分に重い。下手人が元とはいえ貴族の家に仕えていた執事ともなれば、なおさらだ。当然のように、関係者の証言が求められることになった。そして――その場に、私も呼ばれた。

 ディラン様は元婚約者絡みの騒動に、私が関わる必要はないと渋っていたが、ごたごたはすっきりさせておきたい、と説得し、私は元いた屋敷へと赴いた。



 応接間は、張り詰めた空気に包まれていた。

 上座には旦那様――かつての主。その隣には奥様。そして少し離れた位置に、お嬢様が座っている。

 久しぶりに見たその姿は、以前とは別人のようだった。以前の華やかな服装ではなく、質素な装い。身なりは整っているが、雰囲気がどこか歪んでいる。余裕がないのが一目でわかる。


「……来たのね」


 お嬢様が、こちらを睨むように見た。もしかしたら、私も自分についてくると思っていたのかもしれない。恩知らずな薄情女に見えているのだろうか。そんなことを思いながら、私は一礼する。


「お呼びいただきましたので」


 それ以上は何も言わない。感情を挟む場面ではない。


「ソフィア」


 旦那様が口を開く。


「お前は、あの時の状況を知っているな」

「はい」

「ならば、見聞きしたことをそのまま話せ」

「承知いたしました」


 短く答え、顔を上げる。そして、私は事実を並べ始めた。


「お嬢様は、ご自身の意思で屋敷を出られました」

「違うわ!」


 即座に声が上がる。だが、私は視線を動かさない。


「執事やメイドに対し、同行を求めておられました」

「それは……!」

「また、出奔の際には、事前に荷物の準備が行われていました」


 淡々と、順番に。感情を乗せず、ただ事実だけを。


「誘拐であるという認識は、その時点では確認されておりません」


 沈黙が落ちる。お嬢様は何か言おうとして、言葉を詰まらせた。

 そして、私の言葉を受けて、その場に控えていた男性が口を開いた。探偵として生活している者です、と挨拶され、私も頭を下げる。お嬢様は探偵、という言葉に目を見開いた。


「私は依頼人の命を受け、お嬢様の行方を捜しており、最近になってその身を確認しました。そのご報告のために資料をまとめておりましたが、予定を前倒してお伝えいたします」


 続く言葉を、全員が静かに待つ。いや、お嬢様は立ち上がろうとしたが、旦那様が彼女の肩に手を置いて抑えつけた。


「出奔後の生活においても、執事およびメイドは、お嬢様の指示に従い行動しておりました。強制的な拘束、または行動制限があった事実は確認できておりません」


 淡々と結論を述べる。それだけで十分だった。

 しばらくの沈黙の後。旦那様が、深く息を吐いた。


「……そうか」


 その声には、諦めが混じっていた。


「お前は、どう言う」


 視線が、お嬢様へと向けられる。


「わ、私は……!」


 言葉が出てこない。さっきまでの勢いはどこへやら、ただ視線が揺れている。そして――


「……全部、あの人たちが悪いのよ!」


 絞り出すような声だった。だが、その言葉を聞いた旦那様の表情が、静かに変わる。


「……いい加減にしなさい」


 それだけで空気が凍るような、低く、抑えた声だった。


「お前の行動が、どれだけ家に損害を与えたか、わかっているのか」

「それは……」

「婚約破棄の補填。事業の損失。人員の流出」


 一つ一つ、重ねるように言う。


「すべて、お前の責任だ」


 逃げ場はなかった。お嬢様は、ただ俯く。そして――


「……せめて」


 旦那様が、冷静に続ける。


「これ以上の損害を出さない形で、責任を取ってもらう」


 その言葉の意味を、私は理解していた。



 話は、驚くほど早くまとまった。

 お嬢様は、裕福な商家の隠居の後妻として、嫁ぐことになった。名目上は「縁談」だが、実態は違う。資金の補填と介護要員だ。商家としては貴族御用達として、今後もひいきにしてもらえることに喜んでいたし、お嬢様のご実家としては、お嬢様を引き取ってもらい、さらに資金援助もしてもらえることになったので、万々歳だろう。

 お嬢様は、最後まで納得していない様子だったが、拒否する余地はなかった。

 すでに、家は見限っている。それでも“完全に捨てない”あたりが、最後の情けなのだろう。いや、せめて最後ぐらい家に貢献しろ、ということかもしれない。



 すべてが片付いたころ。私は再び、ディラン様のもとへと戻っていた。執務室は、相変わらず静かだ。


「……終わったか」

「はい」


 短く答える。ディラン様は、しばらく何も言わなかった。やがて、ふと口を開く。


「ソフィア」

「はい」

「ひとつ、頼みがある」


 顔を上げる。その表情は、いつもより少しだけ真剣だった。


「今後も、そばにいてくれないか」


 一瞬、意味を測りかねる。だが、その視線は逸れない。

 ――ああ。これは、そういうことだ。


「専属として、という意味でしょうか」


 あえて確認する。すると、ディラン様は小さく首を振った。


「それもあるが……それだけではない」


 わずかに間を置く。そして――


「私の隣に立つ者として、だ」


 はっきりと、そう言った。静かな言葉だった。だが、その重みは十分に伝わる。

 私はしばらく考えた。そして、ゆっくりと口を開く。


「……条件がございます」

「言ってみろ」

「このままでは、身分が釣り合いません」


 現実的な話だ。私はただのメイドであり、子爵家の三女。このままでは、侯爵家との婚約など成立しない。ディラン様は、すぐに頷いた。


「手は打ってある」

「……早いですね」

「君ならそう言うと思った」


 少しだけ笑う。


「親戚筋に話を通してある。養子として迎え入れる形になるだろう」


 抜かりがない。絶対に私と結婚したい、という強い意志を感じて、私はぎゅっと胸を掴まれたような気がした。


「そこまでされて、断る理由はありませんね」


 顔を上げる。


「お受けいたします」


 そう答えた瞬間。ディラン様の表情が、わずかに緩んだ。私も、自分の表情が柔らかく綻んでいるのがわかる。2人で顔を見合わせて、ふふっと笑った。



 婚約は、滞りなく進んだ。形式も整い、外聞も問題ない。そんな、ある日のこと。


「ソフィア」

「はい、ディラン様」


 本人にディラン様と呼びかけるのは、いまだにちょっと照れくさい。そんなことを思いながら返事を返す。


「……ひとつ、言っておきたいことがある」


 いつもより少しだけ、声の調子が違った。私は手を止め、顔を上げる。


「何でしょう」


 ディラン様は、わずかに言葉を選ぶように間を置いた。


「私は……婚約者として、あの人を愛そうとしていた」


 静かな語り出しだった。意外な言葉に、私は瞬きをする。


「好みではなかったとしても、立場として選ばれた以上、誠実であるべきだと思っていた」


 その言葉には、飾り気がない。ただ事実を述べているだけだ。


「努力すれば、いずれ情も生まれるのではないかと……そう考えていた」


 そこで一度、言葉が途切れる。そして、小さく息を吐いた。


「だが、好みでないものを、好みだと思い込むことはできても――それを“好きだ”と感じることは、結局できなかった」


 はっきりとした言葉だった。迷いも、後悔もない。ただ、整理された過去としてそこにある。


「そして今は、わかる」


 ゆっくりと、続ける。


「本当に自分が望むものが、何なのか」


 その視線が、逸れない。逃げ場はなかった。


「ソフィア」

「……はい」

「君は、そのすべてを満たしている」


 静かに告げられる。


「考え方も、物の見方も、距離の取り方も」


 一つずつ、確かめるように。


「無理をせず、背伸びもせず、それでいて現実を見据えている」


 言葉が、積み重なる。


「私は、そういう相手を求めていたのだと、ようやく理解した」


 そこで、わずかに口元が緩む。


「そして――外見も含めて」


 一拍。


「すべてが理想だ」


 その言葉に、胸の奥が揺れる。

 ――ずるい。こういう言い方は。

 思わず視線を逸らしそうになるのを、堪えた。だが、ディラン様はそこで終わらなかった。


「もちろん」


 少しだけ、声音が柔らかくなる。


「仮に君が変わったとしても、それで気持ちが変わることはない」


 その言葉に、私は思わず顔を上げる。


「人は変わるものだ。時間も、環境も、すべてが影響する」


 穏やかに、続ける。


「だが、それでも変わらないものがあるとするなら――それを愛と呼ぶのだろう」


 静かな断定だった。一歩、距離が近づく。


「だから、君がどのように変わったとしても、私は変わらず、君を選ぶ」


 逃げ場のない距離。真っ直ぐな視線。

 ――これは、ずるい。本当に。

 そう思った、次の瞬間。


「……まあ、現時点でも十分に魅力的だが」


 嫌な予感がした。


「特に、その」


 一瞬だけ、視線が揺れる。


「胸も含めて」


 言葉が落ちる。その瞬間、すべてが繋がった。


 私はゆっくりと、自分の胸元を見下ろす。

 仕事の邪魔にならないよう整えた服。けれど、それでも隠しきれない大きな輪郭。


 ――なるほど。


 初対面の、わずかな間。訓練中の、妙な視線の逸れ。意味ありげな言葉の数々。

 すべてを頭の中で反芻し、整理して――顔を上げる。

 そして、にっこりと微笑んだ。


「そういうことでしたか」


 柔らかく、穏やかに。逃げ場を与えない笑顔で。


 私の笑顔に、ディラン様が、わずかに硬直する。

 私はそのまま、一歩踏み出し――ゆっくりと手を振り上げる。


 ぱちん、と。いい音が響いた。






「……痛い」

「当然です」


 私は手を引きながら、ため息をついた。


「前半は完璧でしたのに」

「前半?」

「ええ」


 じとっとディラン様を見る。


「後半で全部台無しです」


 はあ、とため息をつく。


「評価としては――胸以外は満点ですね」

「褒めているのか貶しているのかわからないな」

「……ですが」


 少しだけ視線を逸らす。


「前半が本気だったのは、伝わりました」

「ソフィア」

「ただし」


 すぐに顔を上げる。


「次は減点されない言い方をしてください」


 そう言い切ると、ディラン様は少しだけ考え――それから、ふっと笑った。


「だが、本音だ」

「なお悪いです」


 即答する。けれど、そのやり取りが、嫌ではなかった。

 むしろ、少しだけ――心地よいと思ってしまったのだから、どうしようもない。


 現実を見ること。それは、夢を諦めることではない。むしろ、ちゃんと選び取ることだ。

 遠回りでも、地に足をつけて進めば、辿り着く場所は間違えないのだ。


 かくして、私ソフィアは、現実を見据えた結果として、穏やかな幸せを手に入れた。




この作品は、知識無双・知識チート系について「よくそんなこと知ってるな」「よく覚えてるな」と感心した経験から着想しました。最後までお目通しいただき、ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
こういう、"現実"とかが枕詞についた系の作品を読んでいつも思う。 結局、作者から主人公補正を与えて貰えず、不幸になるように愚かな行いをさせられて、作者の望み通りに不幸な結末を迎えさせられただけだよなぁ…
知識チートのやつで本当にチートなのは主人公たちのフワッフワな知識から求められている物を作り出すドワーフなんかの職人だと思います あとお嬢様の精神年齢幼いなとは思うけど、よくよく思い出したら近所で見か…
> 「次は減点されない言い方をしてください」 現代の理想は無病息災じゃなく一病息災って言うし、「完璧な相手」じゃなく「欠点も愛せる相手」目指すべきだと思うな。 > 知識無双・知識チート系について「よ…
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