理想に生きた転生お嬢様と、現実を選んだメイドの私
「どうして彼女は私を捨てたのだと思う?」
静かな執務室に、その声はやけにくっきりと響いた。
磨き込まれた机、整然と並ぶ書類、壁にかけられた肖像画。どれもがきちんと手入れされているのに、部屋の主の表情だけが、どこか噛み合っていない。
問いを投げた彼――かつてお嬢様の婚約者であった方は、指先でペンを弄びながら、こちらを見ていた。探るような、けれどどこか諦めを含んだ視線。
私は一礼してから、顔を上げる。
――私は全部知っている。
胸の内でそう呟きながらも、すぐには口を開かなかった。その問いの答えを、私は知っている。知っているどころか、近くで長く、それを見続けてきたのだから。
軽々しく言葉にしていいものではないとわかっている。けれど同時に、ここで誤魔化せば、この方はずっと同じ場所で立ち止まり続けるだろうとも思った。
そして、記憶を辿る。あの屋敷での日々を――すべてが狂い始めた、あの頃を。
◇
お嬢様は、ある日を境に変わった。それが「転生者としての自我」が出てきてしまったことが理由であるとわかったのは、屋敷内でも私ぐらいだっただろう。まあ、もともとたまに口走る言葉からして、「もしかしてお仲間?」と思ってはいた。それが明確になっただけではあった。
「マヨネーズという万能調味料があるのよ」
朝食の席で、突然そんなことを言い出した。卵と油と酢で作れる、簡単で美味しい調味料。どんな料理にも合うのだと、目を輝かせながら語っていた。
「新鮮な卵をそのまま使えばいいの。火なんて通さなくて大丈夫!」
そう断言したお嬢様に、厨房の料理人が困惑した顔を向けていたのを覚えている。当然だろう。卵を生で扱うことの危険性は、この世界でも常識だ。
それでもお嬢様は譲らなかった。結果として出来上がった“それっぽいもの”は、確かに見た目だけはそれらしかった。味も、料理長が整えたので、美味しかったのは間違いない。しかしながら、私はメイド仲間に薦められても絶対に口にしなかった。サルモネラ菌のことが頭によぎったからだ。この世界にも同じ菌があるかはわからない。しかし、下手に手を出してはいけないと、自分の前世の知識が危険信号を灯していた。
そして、数日後、使用人の何人かが腹を壊した。原因は言うまでもない。
「どうして……?」
青ざめた顔でそう呟くお嬢様に、誰も何も言えなかった。言ったとしても、聞き入れられないとわかっていたからだ。
それが最初の“失敗”だった。けれど、終わりではなかった。
「塩だって作れるのよ。海水を煮詰めればいいんだから」
次に手を出したのは、塩だった。この世界の塩は岩塩が主体だ。まだ海水から抽出する技術は確立していない。確かに、塩を作る理屈は間違っていないだろう。だが、現実はそう単純ではない。
設備も整っていない場所で、ただ海水を煮詰める。不純物の除去もろくに行わず、温度管理も曖昧なまま。
そうこうして出来上がったのは、塩とは呼び難い、妙に苦みの強い結晶だった。
「おかしいわ……こんなはずじゃ……」
何度も何度も試作を繰り返し、そのたびに材料費だけが消えていく。気が付けば、帳簿の数字は目に見えて悪化していた。旦那様が帳簿係から「お嬢様を止めてください」と言われているのを見かけたのもその頃だ。
それでも、お嬢様はやめなかった。
「次は堆肥よ。農業革命が起きるわ」
庭の一角に、得体の知れないものが積み上げられていく。生ごみ、枯葉、動物の排泄物――それらを混ぜ合わせ、発酵させるのだという。理屈自体は、きっと間違っていないのだろう。私も、堆肥と聞くと、そのようなものを発酵させるのはわかる。でも、問題は、その“やり方”だった。
適切な管理もなく、ただ放置されたそれは、やがて強烈な異臭を放ち始めた。屋敷中に広がる腐敗臭。使用人たちは顔をしかめ、近隣からも苦情が届く。それでもお嬢様は言った。
「これが成功すれば、すごいことになるのよ!」
――成功すれば。その言葉を、私たちは何度聞いただろう。けれど、その“成功”が訪れることは、一度としてなかった。
私はその様子を見て、内心ため息をついた。
「一般人がそんな知識、持ってるわけないのに」
ぽつりと零したその言葉は、誰にも聞かれなかった。けれど、それがすべてだったと思う。
お嬢様は“知っているつもり”だった。おそらく、前世のどこかで聞きかじった知識を実行している。だが、それはあくまで断片的な情報に過ぎない。前提も、条件も、失敗例も詳しいことを知らないまま、表面だけをなぞっている。だから、失敗する。
そして、その失敗の積み重ねが――屋敷を静かに蝕んでいった。
最初は小さな赤字だった。それが次第に大きくなり、やがて無視できない規模になる。帳簿係の眉間の皺は、日に日に深くなっていった。旦那様と奥様も、何度かお嬢様を諫めていたが――結局、強く止めることはしなかった。
甘やかしと言えば、それまでだろう。あるいは、娘の“可能性”に期待していたのかもしれない。だが現実は、期待とは違う方向へ進んでいた。
そして、決定的な日が訪れる。
■■■
「もうこんな生活、耐えられない!」
お嬢様の部屋に響いたその声は、これまでで一番大きかった。突然の宣言に、その場にいた全員が固まる。お嬢様は立ち上がり、拳を握りしめていた。
「貴族の生活なんて、息が詰まるだけよ! 私は平民になる!」
――また、始まった。最初に浮かんだのは、そんな感想だった。
だが、今回はいつもと違った。言葉だけではなく、本気で行動に移そうとしているのがわかったからだ。
「お嬢様、落ち着いてください」
お嬢様付きの執事が静かに諭す。彼はお嬢様に拾われ、お嬢様に傾倒している男だ。そんな執事に対して、お嬢様は首を振った。
「私はもう決めたの。自分の力で生きていくわ」
その瞳は、妙に輝いていた。理想だけを見た、危うい光が宿っているように思う。
私は理想に燃えるお嬢様を、冷ややかな目で見ていた。
◇
その日の夜、私は同僚のメイドに呼び止められた。
「ねえ、一緒に行かない?」
小声でそう言われ、思わず聞き返す。
「どこへ?」
「決まってるでしょ。お嬢様と一緒に」
彼女は、お嬢様付きのメイドだった。いつもそばにいて、世話をしていた人物。お嬢様によってミスを庇われてから、お嬢様に傾倒している。実のところ、私もお嬢様付きとして働いているメイドの一人だ。
「執事様も行くって。私たちで、新しい生活を始めるの」
どこか興奮した様子で夢見心地に語る彼女に、私はしばらく言葉を失った。
――本気なの?そう問いかけようと思って、いや、諭しても無駄だと思いなおす。だからこそ、私は即座に答えた。
「行かないわ」
私の返答に、彼女は目を丸くした。
「え……どうして? お嬢様についていけば、きっと――」
「家族を残していけないわ」
言葉を遮るように、そう告げる。
「それに、もし何かあったら、その影響が家族に及ぶかもしれない。それは困るわ」
現実的な理由だった。夢も希望もない、ただの打算。けれど、それでいいと思っている。一方の彼女は、たしか両親との折り合いが悪かったはずだ。そのように愚痴をこぼしていたのを以前耳にしている。
私の返答に、彼女は少しだけ迷うような顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「……そっか」
それ以上は何も言わなかった。
そして数日後。お嬢様は本当に屋敷を出た。執事と、そのメイドを連れて。
残された屋敷には、妙な静けさが広がっていた。嵐が過ぎ去った後のような、けれど何か大切なものが欠けたような、そんな空気。私はその中で、ひとつだけ確信していた。
――ああ、これで取り返しがつかなくなる。
そんな予感は、残念ながら外れることはなかった。
■■■
お嬢様が出奔してからというもの、屋敷の空気は一気に現実へと引き戻された。これまで「お嬢様の挑戦」という名目で流されていた出費が、すべて“損失”として帳簿に現れたからだ。
帳簿係の顔色はさらに悪くなり、旦那様は執務室に籠る時間が増えた。奥様は表向き、穏やかに振る舞っていたが、夜遅くまで灯りが消えないことが多くなった。
私はというと――正直、驚きはなかった。
むしろ、「やっぱりそうなるよね」という納得のほうが大きい。転生者同士だからこそ、わかることがある。
おそらく、お嬢様は前世でも中学生ぐらいの、まだ世間擦れをしていない年頃だったのだろう。前世の知識は便利だ。けれど、それは“前提条件が整っているからこそ成立するもの”であって、切り取って持ち込めばそのまま使える万能薬ではない。そのことがわかるほどの人生経験を積んでいなかった。そして、そのツケが一気に回ってきただけだ。
ほどなくして、使用人たちは応接室に呼び出された。応接室に集められた私たちは、誰も口を開かなかった。誰もが、薄々察している。
そして、旦那様は静かに口を開いた。
「……申し訳ないが、人員を整理せざるを得ない状況だ」
重たい言葉だった。けれど、誰も驚かなかった。
続けて告げられたのは、「紹介状を用意する」という話だった。他家へ仕える道を用意する代わりに、この屋敷を去ってほしい――そういうことだ。つまり、実質的な解雇。ただし、貴族社会においてはそれなりに誠実な対応とも言える。
名前を呼ばれた者から順に、進路が告げられていく。そして――
「……君には、こちらへ」
私の名前が呼ばれ、差し出された紹介状を受け取る。宛先に目を落とした瞬間、わずかに眉が動いた。
そこに書かれていたのは、かつてのお嬢様の婚約者、その家名だった。
なるほど、と思う。婚約破棄に伴う補填。その一環として、人員を回す。理屈としては筋が通っている。
――ずいぶんと、現実的な落としどころだ。
私は深く一礼した。
「承知いたしました」
感情を挟む余地はない。この世界で生きる以上、こういう選択は珍しくもないのだから。
■■■
新しい屋敷は、前の屋敷とは対照的だった。無駄がなく、整っている。使用人の動きも洗練されていて、空気が引き締まっている。
――ああ、ここはちゃんとしている。
最初に抱いた感想は、それだった。以前仕えていた屋敷は、お嬢様の突拍子もない発想に振り回され、財政難に陥り、皆がどこか暗い表情をしていた。ここでは皆、自分の職務に誇りをもって取り組んでいる。
この屋敷の主は、ディラン様。かつてお嬢様の婚約者であった方であり――そして現在は、正式に家督を継いだ当主でもある。婚約破棄に伴う一連の処理の中で、先代であるご両親は一線を退き、実務のすべてをディラン様へと委ねたと聞いている。
もともと補佐として政務に関わっていた方ではあったが、今回の件で完全に“表に立つ側”へと移行した形だ。だからこそ、使用人たちは皆、この方を「旦那様」と呼ぶ。
案内された控室で待っていると、やがて呼び出しがかかった。向かった先は、執務室。扉を叩き、許可を得て中へ入る。
そして、冒頭へと繋がる。
「どうして彼女は私を捨てたのだと思う?」
――というわけだ。
◇
私は一度、視線を落とした。ディラン様は机に肘をつき、こちらをじっと見ている。探るような視線だが、その奥には諦めに似た色が滲んでいた。若くして家を継ぎ、婚約は破棄され、原因もわからないまま。
――そりゃあ、聞きたくもなるだろう。
私は小さく息を吐く。転生者として、前世の価値観を持っているからこそわかることがある。同時に、この世界の常識の中で生きているからこそ、言葉の重さも理解しているつもりだ。だからこそ、逃げるつもりはなかった。
「遠慮なく言え、と仰いましたね」
顔を上げて確認する。ディラン様は一瞬だけ目を細め、それから小さく頷いた。
「ああ。取り繕う必要はない」
その声音は、どこか乾いていた。
――なら、遠慮は不要だ。
「では、率直に申し上げます」
一歩踏み出し、言葉を選ぶ。ただし、手加減はしない。
「お嬢様の好みと、旦那様は根本的に合っておりませんでした」
「……好み?」
わずかに眉が動く。私は頷いた。
「はい。たとえば――筋肉です」
「筋肉……?」
予想外だったのか、少しだけ間の抜けた声が返る。私は淡々と続けた。
「お嬢様は、明確に“筋肉質な男性”を好まれていました。いわゆる、鍛え上げられた体型です」
脳裏に浮かぶのは、あの執事の姿だ。日々の鍛錬で仕上げられた、実用性重視の筋肉。対して、目の前のディラン様は――
「ディラン様は、均整の取れた体型でいらっしゃいます。決して貧弱ではありませんが、“求められていた方向性”とは異なります」
言い切ると、室内の空気が一瞬止まった。ディラン様は、ほんのわずかに自分の腕へと視線を落とす。私は構わず続ける。
「次に、髪色です」
「……まだあるのか」
「あります」
即答した。
「お嬢様は、暗めの髪色を好まれていました。黒髪、あるいは濃い茶色など」
そして、視線を少しだけ上げる。金色の髪が光を受けて、やわらかく輝いている。
「ディラン様は、金髪碧眼でいらっしゃいます。非常に整った容姿ですが、お嬢様の嗜好とは一致しておりません」
「…………」
沈黙が落ちる。だが、まだ終わらない。
「さらに申し上げますと、お嬢様は“ワイルドな雰囲気”を好まれていました」
「ワイルド……」
「もう少し野性味のある印象、と言えばよろしいでしょうか」
目の前にいるディラン様は王道王子様のような、アイドル系統の甘い顔立ちだ。お嬢様の好みとは合わなかっただろう。そして、わずかに間を置き、小さく息を吸う。
「――ちょうど、お嬢様付きの執事のような」
空気が、はっきりと変わった。ディラン様の指先が止まる。私は、あえて視線を逸らさずに続けた。
「お嬢様は、その執事に対して、日常的に筋力トレーニングを課しておられました。食事管理も含め、かなり意図的に体作りをされていたかと」
「それは……つまり……」
「はい」
私は頷く。
「好みに合うように“育成”されていた可能性が高いと考えます」
沈黙。――さすがに、これは堪えるだろう。そう思ったが、ディラン様は怒らなかった。ゆっくりと息を吐き、苦笑を浮かべる。
「……なるほどな」
その声音には、わずかな自嘲が混じっていた。
「努力の方向が、違っていたというわけか」
「そうなります」
私は淡々と答える。そして、ここからが肝心だ。ただ事実を並べるだけでは、この方を折るだけで終わる。だから――
「ですが」
ディラン様が顔を上げる。私はまっすぐに、その目を見る。
「ディラン様に非はございません」
はっきりと、言い切る。
「婚約者としての務めは、十分に果たしておられました。礼儀、立場、責任――いずれにおいても問題はなかったかと存じます」
言葉を区切り、続ける。
「今回の件は、お嬢様がご自身の嗜好と理想を優先された結果に過ぎません」
静かな断定だった。けれど、その言葉は確かに届いたらしい。ディラン様はしばらく黙り込んだまま、机の上に視線を落としている。そして、小さく、笑った。
「……そうか」
その声は、先ほどよりもわずかに軽い。
「私は、間違っていなかったのだな」
「はい」
迷いなく答える。すると、ディラン様は初めて真正面からこちらを見た。その瞳には、先ほどまでの迷いはほとんど残っていなかった。
「君は、面白いな」
ぽつりと、そう言う。
「ここまで遠慮なく言われたのは初めてだ」
「ご希望でしたので」
「確かにそうだが……普通はもう少し手加減するものだろう」
「必要であれば可能です」
「いや、いい」
ディラン様は小さく首を振る。そして、わずかに口元を緩めた。
「そのままでいてくれ」
その言葉に、私はわずかに首を傾げた。
――物好きな方だ。
内心でそう思いながらも、表情には出さない。
「その代わり――」
ディラン様はペンを置き、椅子から立ち上がる。
「君には、私付きのメイドになってもらおう」
予想外のことだった。お嬢様付きだったメイドをわざわざ傍において、気分は悪くならないのだろうか。
「……私などでよろしいのでしょうか?」
「もちろんだ」
即答だった。
「むしろ、そのほうが助かる。どうやら私は、自分のことを客観的に見るのが苦手らしいからな」
軽く肩をすくめるその仕草に、私は小さく息をついた。
「承知いたしました」
私は一礼する。
「ソフィアと申します。今後は専属としてお仕えいたします」
名前を告げると、ディラン様は一瞬だけ目を細めた。
「ソフィア、か。覚えておこう」
その声音は、先ほどよりもずっと柔らかかった。
こうして私は、新たな主のもとで働くことになった。――今度こそ、まともな環境で働ける。そんな予感を、ほんの少しだけ抱きながら。
「では、今後の業務について――」
そう切り出され、書類を受け取ろうと一歩前に出たときだった。
私を目にしたディラン様が、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。視線が、わずかに揺れる。すぐに元に戻ったが、その間が妙に気になった。
「……どうかされましたか」
「いや」
即座に返答がある。
「何でもない」
そのまま話は続いたが、私は内心で首を傾げた。
■■■
専属メイドとして仕えるようになってから、私の日常は、驚くほど落ち着いたものになった。まず第一に、無茶な指示が来ない。これだけで、精神的な負担が半分以下になるのだから、前の環境がいかに異常だったかがよくわかる。
「ソフィア、少しいいか」
書類に目を通していたディラン様が、ふと顔を上げる。
「はい、旦那様」
「この判断だが……どう思う?」
差し出された書類を受け取り、ざっと目を通す。内容は、領地内の農作物の流通に関する調整案だった。私は少しだけ考え、口を開く。
「この案ですと、短期的には利益が出ますが、長期的には商人側の反発が強くなるかと」
「理由は?」
「取引先を絞りすぎています。代替手段を持たれた場合、一気に流れが止まる可能性があります」
そう言いながら、別の案を簡単に提示する。私は子爵家の三女だが、実家は手広く商売をしており、お屋敷に奉公に出る前は実家の商売を手伝っていた。ディラン様は当然その経歴を知っているので、流通や経済面について、たまに意見を求められるのだ。ディラン様はしばらく考え、それから小さく頷いた。
「……確かに。その通りだな」
さらさらと修正を書き込む。その様子を見ながら、私は少しだけ感心していた。
――この方、素直だ。ここまであっさりと意見を取り入れる高位貴族は少ない。立場が上であればあるほど、「自分の判断が正しい」と思い込みがちになるものだ。
だが、ディラン様は違う。必要であれば、あっさりと修正する。その判断の早さが、この屋敷の整然とした空気を作っているのだろう。
「ソフィア」
「はい」
「君は、やはり助かるな。ありがとう」
何気ない口調で言われて、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
「恐れ入ります」
軽く頭を下げるが、内心では少しだけ驚いていた。こういう言葉を、さらりと言える人なのか。
そんな日々が、しばらく続いた。業務の相談、ちょっとした雑談、時には世間話。最初は距離を測るようだった会話も、次第に自然なものへと変わっていく。
そしてある日。
「ソフィア」
「はい」
「君は……あの時、なぜあそこまで言い切れた?」
ふと、そんなことを聞かれた。あの時――つまり、婚約破棄の理由を暴露したときのことだろう。私は少しだけ考え、それから肩をすくめた。
「事実でしたので」
「それだけか?」
「それだけです」
即答する。
「……怖くはなかったのか」
「多少は」
正直に答える。
「ですが、あのまま曖昧にしても、何も変わらないと思いましたので」
ディラン様は、少しだけ目を細めた。
「なるほどな」
短く呟く。それから、ぽつりと続けた。
「君は、私よりもよほど現実を見ている」
その言葉に、私はわずかに苦笑した。二度目の人生だし、と思いつつ、そうはならなかったお嬢様の例を考えると、もともと現実的な考え方なのだろう。とはいえ、それをそのまま言うわけにもいかない。
「どうでしょう。たまたま、そういう性格なだけかと」
軽く流すと、ディラン様は小さく笑った。
「そういうことにしておこう」
その笑みは、以前よりもずっと柔らかいものになっていた。そんなディラン様から、書類を託されて執務室を出る。
書類を運んでいると、廊下ですれ違ったメイドに声をかけられた。彼女は、新しく配属された私を色々と気にかけてくれる、面倒見のいいタイプの子だ。この屋敷に来てから、特に親しくなっている。
「ソフィア、最近忙しそうね」
「ええ、まあ」
軽く答えると、彼女はじっとこちらを見て――なぜか、ため息をついた。
「あなた、やっぱり肩こりが酷かったりするの?」
「……肩こり?」
思わず聞き返す。
「ええ、やっぱり重いものを持つと肩こりしやすいのかなって」
「まあ、割と肩こりが慢性的ではあるけど」
「やっぱりねぇ」
にやりと笑って去っていく彼女の背中に首をかしげる。自分の体を見下ろしてみるが、特に変わったところはない。……そんなに、肩まわししてたかな。
◇
専属メイドとして仕えるようになってから、しばらく経ったころ。
「ソフィア」
「はい、旦那様」
「少し付き合え」
そう言われて連れてこられたのは、屋敷の裏手にある訓練場だった。
「……何をなさるおつもりで?」
「鍛錬だ」
簡潔な返答に、私は思わずため息をついた。
「まさかとは思いますが」
「ああ」
ディラン様はあっさりと頷く。
「筋肉をつけようと思っている」
――やっぱりそう来たか。私は額を押さえた。
「理由をお聞きしても?」
「わかりきっているだろう」
ディラン様は、どこか真剣な顔で言う。
「“方向性が違っていた”のなら、修正すればいい」
「修正の仕方が極端すぎます」
即答だった。
「今さらそこを合わせても意味はありません」
「だが、無駄ではないだろう」
「ええ、健康には良いかと」
淡々と返すと、ディラン様はわずかに苦笑した。
「相変わらず手厳しいな」
「事実ですので」
短く言い切る。するとディラン様は、少しだけ視線を逸らした。
「……では、なぜ付き合えと言ったのか、わかるか?」
「いいえ」
「一人だと続かない気がしてな」
ぽつりと零されたその言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。
「……わかりました」
私は軽く息を吐く。
「ただし、補助だけです。私は鍛えませんよ」
「それで構わない」
そうして始まったのは、なんとも言えない時間だった。
剣を振るディラン様の動きを見ながら、素人意見で姿勢を指摘する。幸い、私の兄の一人は騎士となっていた。その兄の鍛錬の様子を思い浮かべながら、意見する。
「……どうだ」
「力みすぎです。もう少し肩の力を抜いてください」
「こうか?」
「いえ、抜きすぎです」
「難しいな」
そんなやり取りが、妙に心地よかった。そして、ふと気づく。
――この人、努力するんだ。
誰に言われたわけでもなく、誰かに見せるためでもなく、ただ、自分で納得するために。それが、少しだけ意外で、少し、好ましく思えた。
◇
剣を振る音が、乾いた空気に響く。すでに1時間は経っただろうか。疲れからか、少々鈍くなってきているその動きを見ながら、私は口を開いた。
「……旦那様」
「なんだ」
「ひとつ、確認してもよろしいですか」
ディラン様は動きを止め、こちらを見る。
私は少しだけ言葉を選んだ。
「先ほどの件ですが」
「筋肉の話か」
「はい」
一拍置く。
「それは……お嬢様の好みに合わせるため、ではありませんよね?」
空気が、わずかに静まる。踏み込みすぎかもしれない。けれど、ここは曖昧にしてはいけないところだ。
ディラン様は、しばらく無言だった。やがて、剣を下ろす。
「……違うな」
はっきりと、そう言った。私はわずかに息を吐く。そのまま、ディラン様は続けた。
「最初は、少しだけ考えた」
正直な言葉だった。
「もし、あの時こうしていれば、何か変わっていたのではないか、と」
その声音には、過去を振り返る冷静さがあった。未練というよりは、“検証”に近い。
「だが」
ディラン様は、軽く肩をすくめる。
「結局は同じ結論に戻る」
「同じ結論、ですか」
「ああ」
こちらをまっすぐ見る。
「私は、私のままでしかいられない」
静かな言葉だった。
「誰かに合わせて変えたところで、それが長く続くとも思えないし……何より」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「それで選ばれても、あまり嬉しくない」
その言葉に、私は思わず瞬きをした。
――この人、思っていたよりずっとちゃんとしている。
「では、なぜ鍛錬を?」
改めて問いかける。ディラン様は、肩をすくめて答えた。
「単純な話だ」
あっさりとした口調だった。
「自分に足りないものがあるとわかっていて、何もしないのは性に合わない」
それだけだ、と言い切る。
「それに」
そこで、少しだけ視線を逸らした。
「君にあそこまで言われて、何も変えないのも癪だからな」
ぼそりと付け加えられたその一言に、私は思わず小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「納得したか」
「ええ」
素直に頷く。そして、少しだけ口元を緩めた。
「安心いたしました」
「安心?」
「はい」
休憩用に用意した水とタオルを手渡すために、ディラン様のもとへ近づく。
「過去に縛られている方に仕えるのは、あまり効率的ではありませんので」
わざと事務的に言うと、ディラン様は苦笑した。
「相変わらずだな」
「事実です」
そう言い切る。だが、内心では少しだけ違うことを思っていた。
――未練ではない。これは、きちんと整理された過去だ。だからこそ、この人は前に進める。
「ソフィア」
「はい」
「君はどうなんだ」
不意に問い返される。
「私、ですか?」
「ああ」
ディラン様は、わずかに目を細める。
「君は、過去に引きずられることはないのか」
一瞬、言葉に詰まる。前世のことが、頭をよぎった。だが――
「多少はあります」
正直に答える。
「ですが、それで立ち止まるつもりはありません」
顔を上げる。
「今のほうが、大事ですので」
ディラン様は、じっとこちらを見ていた。やがて、ゆっくりと頷く。
「……そうか」
短い返答だったが、その中に何かを受け取った気配があった。そして、ほんの少しだけ、空気が変わったような気がした。
◇
次の日。筋肉痛に唸るディラン様を労わりながら、いつも通り執務を手助けしていると、ディラン様は書類からふと顔を上げて、私を見た。
「ソフィア」
「はい」
「……昨日の話だが」
「筋肉の件ですか?」
「それもあるが」
ディラン様は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「君は、どう思う?」
「何を、でしょうか」
「その……好み、というものを」
珍しく、歯切れが悪い。私は少し考え、あえて正直に答える。
「そうですね」
一拍置いてから、続ける。
「私は、努力する方が好みです」
ディラン様が、わずかに目を見開く。
「結果ではなく?」
「結果も大事ですが」
肩をすくめる。
「それだけでは、続きませんので」
そう言うと、ディラン様は小さく笑った。
「……なるほど」
その表情は、どこか安堵しているようにも見えた。
◇
それからというもの、訓練は、日課になった。
「今日は少しはマシです」
「“少しは”か」
「はい、少しは」
そんな軽口を交わせるようにもなった。
そしてある日。いつものように水を差し出したときのこと。
「……ソフィア」
「はい」
「君は、変わっているな」
「よく言われます」
「褒めている」
「それもよく言われます」
即答すると、ディラン様は笑った。声に出して、はっきりと。それは、初めて見る表情だった。
そして――その笑顔を見た瞬間、私は気づいてしまった。
――ああ。これは、まずい。
それを自覚した瞬間、私はその感情から意識を逸らした。気づかれてはいけない。そう思いながら、それでも、以前よりも少しだけ、この時間を、楽しみにしている自分がいるとわかってしまっている。
そんな思いを振り払うように、こほん、と小さく咳払いをしてディラン様を見上げる。
「……旦那様」
「なんだ」
「今の動きですが――」
言いかけたところで、ディラン様の視線がわずかに逸れた。ほんの一瞬。だが、確かに集中が切れている。
「……?」
不思議に思いながらも、続ける。
「視線がぶれています」
「……ああ」
少し間があってから、返事が返る。
「すまない」
何の謝罪だろう?珍しく、言葉が遅い。そのまま訓練は再開されたが、その日はやけに調子が悪かった。
■■■
一方、お嬢様はというと。出奔当初から、見事に現実にぶつかっていた。
「どうして火がつかないの!」
苛立った声が、質素な台所に響く。薪を組み、火打石を打ちつけるだが、火花は散るものの、うまく火が回らない。煙だけがもくもくと上がり、目に染みる。
「こんなの、もっと簡単だったはずでしょう!?」
前世の記憶では、もっとこう――スイッチひとつでどうにかなっていたはずだ。だがここには、スイッチなど存在しない。
「お嬢様、少しお下がりください」
執事が手際よく火を整え、ようやく小さな炎が上がる。お嬢様は不満げに腕を組んだ。
「……時間がかかりすぎよ」
そう言いながらも、結局自分では何もできない。次に待っているのは、風呂だ。薪で湯を沸かし、水を調整し、ようやく入れる温度にする。それを見ながら、お嬢様は眉をひそめる。
「毎日これをやるの……?」
「はい」
メイドが淡々と答える。
「そんなの、非効率すぎるわ」
――非効率。その言葉は間違っていない。だが、それが“当たり前”なのがこの世界だ。そんなお嬢様の言葉に、メイドと執事は顔を合わせる。
そもそも、お嬢様出奔計画は最初から躓いていた。お嬢様は当初、自身が購入していた、ちょっと豪華な家での生活を想定していた。貴族の屋敷としての豪華さはないが、平民の家とすると、とても豪華なものだった。しかし、その家にたどり着いたときには、すでに競売にかけられており、その家で生活することができなかったのだ。
彼女は知る由もないが、彼女が購入した家は、実家の資産として管理されていた。実家のお金で購入したものだったし、担当者は当然、実家の資産として登録している。そして、実家は資金難に陥ったことで、彼女の家を含む、さまざまな資産を売却したのだ。
さらに追い打ちをかけたのは、お金の問題だった。平民生活から3か月ほど経ち、お嬢様は帳簿を睨みつける。
「収入が増えない……これじゃあ、やっていけないわ」
当然だろう。何かを作ったからといって、自動的にお金が入るわけではない。お嬢様と執事、メイドの暮らしは、執事とメイドが周辺の家々を回って仕事を受けたり、商店で働いたりして得た収入で成り立っていた。当初、お嬢様も働こうとしたが、あまりにも世間知らずすぎて、戦力にならなかったのだ。
「マヨネーズだって、あれだけ画期的なのに……」
ぼそりと呟く。マヨネーズを商店に売り込んだ当初、あまりの美味しさにとても喜ばれた。しかし、数日後に再度納品に行ったら、門前払いされてしまったのだ。商品ではなくレシピならどうか、その分の使用料をもらえれば…と交渉してみたが、けんもほろろに断られてしまった。
「卵だって、鶏を飼うか、農家から買わなくちゃいけないから、ただじゃないのに…」
無駄になった在庫を見て、ため息をつく。そもそも、この世界には“特許”などという概念はまだ存在していない。誰かが真似すれば、それで終わりだ。だからこそ、発明に対する使用料などという考えもなかった。まして、彼女の発明はまともに成功した例すらないのだから、話にならない。
また、彼女が何かしらの理由で平民になった貴族であろう、ということは、彼女の服装や言動、荒れていない肌や髪から、すでに周辺の住民は察していた。貴族から追い出された相手と親しくなったら、何をされるかわからない、という思いから、周辺住民は遠巻きに見ているのが現状だ。
現実は、厳しい。いや、正確には、それが当たり前なのだ。それを、お嬢様は知らなかった。
「……こんなはずじゃなかったのに」
ぽつりと漏らしたその言葉は、次第に回数を増やしていく。
やがて、それは苛立ちに変わり――
焦りに変わり――
そして、余裕を削り取っていった。
それでも、生活自体は成り立っていた。なぜなら。
「お嬢様、お食事の準備が整いました」
メイドが用意し、
「湯加減は問題ございません」
執事が整え。結局のところ、二人がすべてを支えていたからだ。
お嬢様は「自立する」と言いながら、実際には何も変わっていなかった。違うのは、環境だけ。支える側の負担が増えただけだ。そして――その“共に苦労する時間”が、二人の距離を変えていった。
◇
ある日のこと。ふとした瞬間に、お嬢様はそれに気づいた。
視線が合い、自然に笑む。言葉にしなくても通じる空気。それは、明らかに“同僚”のものではなかった。
「……何、それ」
思わず、声が漏れる。二人は同時に振り返り、少しだけ気まずそうに目を逸らした。それが、何よりの答えだった。
「まさか……」
頭の中で、何かが崩れる音がする。
「そんな……嘘でしょ……?」
自分のために動いていたはずの二人が、互いを見ている。その事実を、理解したくない。だが、現実は変わらない。
「……裏切ったのね」
彼は、自分好みに育て上げた男だった。たとえ、あのいけ好かない婚約者と結婚することになっても、自分好みの男がそばにいれば、救われるかもしれないという発想からのことではあったが、彼女は間違いなく彼を愛していた。その自分の想いを感じ取って、ついてきてくれたと思っていたのに。
「お待ちください、お嬢様――」
「もういいわ!」
感情のままに叫ぶ。
「全部、あんたたちのせいよ!」
現実がうまくいかないのも。思い通りにならないのも。全部、全部。
「私は被害者だわ……そうよ……」
ぶつぶつと呟きながら、視線が揺れる。そして――。
◇
「――私は、誘拐されたのよ!」
その言葉が、すべての始まりだった。お嬢様は実家へと戻り、そう訴えた。自分は無理やり連れ出され、利用されていたのだと。――事実を、完全に塗り替えて。
■■■
お嬢様の訴えは、想像以上に大事になった。
「誘拐された」という言葉は、それだけで十分に重い。下手人が元とはいえ貴族の家に仕えていた執事ともなれば、なおさらだ。当然のように、関係者の証言が求められることになった。そして――その場に、私も呼ばれた。
ディラン様は元婚約者絡みの騒動に、私が関わる必要はないと渋っていたが、ごたごたはすっきりさせておきたい、と説得し、私は元いた屋敷へと赴いた。
◇
応接間は、張り詰めた空気に包まれていた。
上座には旦那様――かつての主。その隣には奥様。そして少し離れた位置に、お嬢様が座っている。
久しぶりに見たその姿は、以前とは別人のようだった。以前の華やかな服装ではなく、質素な装い。身なりは整っているが、雰囲気がどこか歪んでいる。余裕がないのが一目でわかる。
「……来たのね」
お嬢様が、こちらを睨むように見た。もしかしたら、私も自分についてくると思っていたのかもしれない。恩知らずな薄情女に見えているのだろうか。そんなことを思いながら、私は一礼する。
「お呼びいただきましたので」
それ以上は何も言わない。感情を挟む場面ではない。
「ソフィア」
旦那様が口を開く。
「お前は、あの時の状況を知っているな」
「はい」
「ならば、見聞きしたことをそのまま話せ」
「承知いたしました」
短く答え、顔を上げる。そして、私は事実を並べ始めた。
「お嬢様は、ご自身の意思で屋敷を出られました」
「違うわ!」
即座に声が上がる。だが、私は視線を動かさない。
「執事やメイドに対し、同行を求めておられました」
「それは……!」
「また、出奔の際には、事前に荷物の準備が行われていました」
淡々と、順番に。感情を乗せず、ただ事実だけを。
「誘拐であるという認識は、その時点では確認されておりません」
沈黙が落ちる。お嬢様は何か言おうとして、言葉を詰まらせた。
そして、私の言葉を受けて、その場に控えていた男性が口を開いた。探偵として生活している者です、と挨拶され、私も頭を下げる。お嬢様は探偵、という言葉に目を見開いた。
「私は依頼人の命を受け、お嬢様の行方を捜しており、最近になってその身を確認しました。そのご報告のために資料をまとめておりましたが、予定を前倒してお伝えいたします」
続く言葉を、全員が静かに待つ。いや、お嬢様は立ち上がろうとしたが、旦那様が彼女の肩に手を置いて抑えつけた。
「出奔後の生活においても、執事およびメイドは、お嬢様の指示に従い行動しておりました。強制的な拘束、または行動制限があった事実は確認できておりません」
淡々と結論を述べる。それだけで十分だった。
しばらくの沈黙の後。旦那様が、深く息を吐いた。
「……そうか」
その声には、諦めが混じっていた。
「お前は、どう言う」
視線が、お嬢様へと向けられる。
「わ、私は……!」
言葉が出てこない。さっきまでの勢いはどこへやら、ただ視線が揺れている。そして――
「……全部、あの人たちが悪いのよ!」
絞り出すような声だった。だが、その言葉を聞いた旦那様の表情が、静かに変わる。
「……いい加減にしなさい」
それだけで空気が凍るような、低く、抑えた声だった。
「お前の行動が、どれだけ家に損害を与えたか、わかっているのか」
「それは……」
「婚約破棄の補填。事業の損失。人員の流出」
一つ一つ、重ねるように言う。
「すべて、お前の責任だ」
逃げ場はなかった。お嬢様は、ただ俯く。そして――
「……せめて」
旦那様が、冷静に続ける。
「これ以上の損害を出さない形で、責任を取ってもらう」
その言葉の意味を、私は理解していた。
◇
話は、驚くほど早くまとまった。
お嬢様は、裕福な商家の隠居の後妻として、嫁ぐことになった。名目上は「縁談」だが、実態は違う。資金の補填と介護要員だ。商家としては貴族御用達として、今後もひいきにしてもらえることに喜んでいたし、お嬢様のご実家としては、お嬢様を引き取ってもらい、さらに資金援助もしてもらえることになったので、万々歳だろう。
お嬢様は、最後まで納得していない様子だったが、拒否する余地はなかった。
すでに、家は見限っている。それでも“完全に捨てない”あたりが、最後の情けなのだろう。いや、せめて最後ぐらい家に貢献しろ、ということかもしれない。
◇
すべてが片付いたころ。私は再び、ディラン様のもとへと戻っていた。執務室は、相変わらず静かだ。
「……終わったか」
「はい」
短く答える。ディラン様は、しばらく何も言わなかった。やがて、ふと口を開く。
「ソフィア」
「はい」
「ひとつ、頼みがある」
顔を上げる。その表情は、いつもより少しだけ真剣だった。
「今後も、そばにいてくれないか」
一瞬、意味を測りかねる。だが、その視線は逸れない。
――ああ。これは、そういうことだ。
「専属として、という意味でしょうか」
あえて確認する。すると、ディラン様は小さく首を振った。
「それもあるが……それだけではない」
わずかに間を置く。そして――
「私の隣に立つ者として、だ」
はっきりと、そう言った。静かな言葉だった。だが、その重みは十分に伝わる。
私はしばらく考えた。そして、ゆっくりと口を開く。
「……条件がございます」
「言ってみろ」
「このままでは、身分が釣り合いません」
現実的な話だ。私はただのメイドであり、子爵家の三女。このままでは、侯爵家との婚約など成立しない。ディラン様は、すぐに頷いた。
「手は打ってある」
「……早いですね」
「君ならそう言うと思った」
少しだけ笑う。
「親戚筋に話を通してある。養子として迎え入れる形になるだろう」
抜かりがない。絶対に私と結婚したい、という強い意志を感じて、私はぎゅっと胸を掴まれたような気がした。
「そこまでされて、断る理由はありませんね」
顔を上げる。
「お受けいたします」
そう答えた瞬間。ディラン様の表情が、わずかに緩んだ。私も、自分の表情が柔らかく綻んでいるのがわかる。2人で顔を見合わせて、ふふっと笑った。
◇
婚約は、滞りなく進んだ。形式も整い、外聞も問題ない。そんな、ある日のこと。
「ソフィア」
「はい、ディラン様」
本人にディラン様と呼びかけるのは、いまだにちょっと照れくさい。そんなことを思いながら返事を返す。
「……ひとつ、言っておきたいことがある」
いつもより少しだけ、声の調子が違った。私は手を止め、顔を上げる。
「何でしょう」
ディラン様は、わずかに言葉を選ぶように間を置いた。
「私は……婚約者として、あの人を愛そうとしていた」
静かな語り出しだった。意外な言葉に、私は瞬きをする。
「好みではなかったとしても、立場として選ばれた以上、誠実であるべきだと思っていた」
その言葉には、飾り気がない。ただ事実を述べているだけだ。
「努力すれば、いずれ情も生まれるのではないかと……そう考えていた」
そこで一度、言葉が途切れる。そして、小さく息を吐いた。
「だが、好みでないものを、好みだと思い込むことはできても――それを“好きだ”と感じることは、結局できなかった」
はっきりとした言葉だった。迷いも、後悔もない。ただ、整理された過去としてそこにある。
「そして今は、わかる」
ゆっくりと、続ける。
「本当に自分が望むものが、何なのか」
その視線が、逸れない。逃げ場はなかった。
「ソフィア」
「……はい」
「君は、そのすべてを満たしている」
静かに告げられる。
「考え方も、物の見方も、距離の取り方も」
一つずつ、確かめるように。
「無理をせず、背伸びもせず、それでいて現実を見据えている」
言葉が、積み重なる。
「私は、そういう相手を求めていたのだと、ようやく理解した」
そこで、わずかに口元が緩む。
「そして――外見も含めて」
一拍。
「すべてが理想だ」
その言葉に、胸の奥が揺れる。
――ずるい。こういう言い方は。
思わず視線を逸らしそうになるのを、堪えた。だが、ディラン様はそこで終わらなかった。
「もちろん」
少しだけ、声音が柔らかくなる。
「仮に君が変わったとしても、それで気持ちが変わることはない」
その言葉に、私は思わず顔を上げる。
「人は変わるものだ。時間も、環境も、すべてが影響する」
穏やかに、続ける。
「だが、それでも変わらないものがあるとするなら――それを愛と呼ぶのだろう」
静かな断定だった。一歩、距離が近づく。
「だから、君がどのように変わったとしても、私は変わらず、君を選ぶ」
逃げ場のない距離。真っ直ぐな視線。
――これは、ずるい。本当に。
そう思った、次の瞬間。
「……まあ、現時点でも十分に魅力的だが」
嫌な予感がした。
「特に、その」
一瞬だけ、視線が揺れる。
「胸も含めて」
言葉が落ちる。その瞬間、すべてが繋がった。
私はゆっくりと、自分の胸元を見下ろす。
仕事の邪魔にならないよう整えた服。けれど、それでも隠しきれない大きな輪郭。
――なるほど。
初対面の、わずかな間。訓練中の、妙な視線の逸れ。意味ありげな言葉の数々。
すべてを頭の中で反芻し、整理して――顔を上げる。
そして、にっこりと微笑んだ。
「そういうことでしたか」
柔らかく、穏やかに。逃げ場を与えない笑顔で。
私の笑顔に、ディラン様が、わずかに硬直する。
私はそのまま、一歩踏み出し――ゆっくりと手を振り上げる。
ぱちん、と。いい音が響いた。
「……痛い」
「当然です」
私は手を引きながら、ため息をついた。
「前半は完璧でしたのに」
「前半?」
「ええ」
じとっとディラン様を見る。
「後半で全部台無しです」
はあ、とため息をつく。
「評価としては――胸以外は満点ですね」
「褒めているのか貶しているのかわからないな」
「……ですが」
少しだけ視線を逸らす。
「前半が本気だったのは、伝わりました」
「ソフィア」
「ただし」
すぐに顔を上げる。
「次は減点されない言い方をしてください」
そう言い切ると、ディラン様は少しだけ考え――それから、ふっと笑った。
「だが、本音だ」
「なお悪いです」
即答する。けれど、そのやり取りが、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ――心地よいと思ってしまったのだから、どうしようもない。
現実を見ること。それは、夢を諦めることではない。むしろ、ちゃんと選び取ることだ。
遠回りでも、地に足をつけて進めば、辿り着く場所は間違えないのだ。
かくして、私ソフィアは、現実を見据えた結果として、穏やかな幸せを手に入れた。
この作品は、知識無双・知識チート系について「よくそんなこと知ってるな」「よく覚えてるな」と感心した経験から着想しました。最後までお目通しいただき、ありがとうございました!




