趣味の悪い婚約者
ゆるふわ身分制度、ぽやぽや異世界もの
ゆるふわな気持ちでお楽しみください
オルティス・ディル=フォルテナは大層優秀だ。自画自賛にはなるが、事実なのだから仕方ない。
学院を卒業して三年。次期法務省長官である第三王子の下に付いての仕事にも慣れた。家同士の政略で結ばれた四つ年下の婚約者も居て、来年の終わりには婚姻式を予定している。
彼は名家の次男として生まれたが、継子たる兄との仲も悪くない。オルティスほどでないが優秀かつ領民を思い遣る兄のことは尊敬しており、相談役として頼りにされている。
領内にも、国内にも、国際情勢にも大きな不穏の影はない。出世しようと、妻を得ようと大きく変わらない、平穏な日々がこれからも続くだろう。それがほぼ確実な未来だと、明瞭な根拠を持って判じられる程度には優秀だ。高位貴族らしく容姿も整っており、対人での印象操作はお手のもの。求められた役割を果たすのは造作もないことだ。何よりも、少ない手持ちの札から次の流れを読む能力は中々のものだと自負している。会話相手の次の台詞、誕生日の贈り物から、農産物の収穫量、議会の重鎮の人事、市井での流行まで。オルティスの想定から大きく外れる物事は今まで数える程度にしかなかった。
それを、つまらないと思うようになったのはいつからだっただろう。
自身の思い通りに動かせば少しは面白味が出るのだろうかと考えなくもないが、動乱を望んでいる訳ではなく、そもそもそこまでするほどの熱意も、現状への不満もない。王家に、国に仕える貴族の責務として大なり小なり危うい芽があれば潰してきたが、それにより想定通りの平穏は続く。今日も、明日も、明後日も。
いつしか大きく心が動くことはほとんど無くなり、将来有望な青年との評価を得ながらも、倦んだ老爺のような目をして淡々とやるべき事をこなす日々が日常となっていた。
ところで話は変わるが、オルティスの予想を大きく外しがちな例外のひとつが父方の伯父、ルーベンに関わることである。
ルーベンはフォルテナ家の第一子として生まれながら幼い頃より貴族社会や政治ではなく美術品、工芸品に傾倒し、厳格さの欠片も無いその性格も相俟って名家の当主には向かないと本人含む一族揃っての共通認識を得た結果、フォルテナ家の継承権を弟に譲り世界を飛び回って美術商として生計を立てている。
弟、つまりオルティスの父との仲は良好で、年に数回王都のフォルテナ家の屋敷を訪れるほか、秋頃には必ずフォルテナ領都の城にも逗留するのがお決まりだ。
そんな伯父は甥であるオルティスやオルティスの兄のことを大層可愛がっており、訪れる際は必ず土産を持ってきてくれる。ただその土産の選択には大いに疑問があると、オルティスは思う。
伯父はオルティスが幼い頃から、茶会に出立する彼に幸運を運ぶなどと言い手乗りサイズの目の大きなウサギのような不気味な人形を押し付けてきたり、見ているとうねうね動き出しそうな奇怪な紋様の刻まれた壺を半年遅れの誕生日の贈り物として持ってきたり、幼子から悪いものを遠ざける子守り歌などと言って啜り泣くような音色のオルゴールに似た楽器を流して聞かせたりと、嫌がらせかと思うような珍品を贈り続けてきた。
とはいえ伯父は、ちゃらんぽらんかつ楽観的に過ぎる性格と相手の困惑を無視して距離をぐいぐい詰める空気の読めなさはあるものの、基本的にお人好しであり可愛い甥っ子に対しては完全に善意100%での対応であることに疑いはない。
それならばあんな珍品ばかりを寄越すのは見る目がないからなのではと思っていたが、仕事として取り扱う美術品や工芸品への審美眼は確かなようで彼の取り扱う作品は軒並み評価が高い。たとえ当初は無名の作家の作品であろうとだ。つまりあの異様な物体は純粋な彼の趣味ということになるのだろうか。それもどうなんだとオルティスは思う。
なお蛇足だが人形は茶会で誰かに押し付けたし、壺はクローゼットの隅にステッキを収納するスペースとして押し込んであるし、オルゴール(?)は客間の飾り棚の隅にそっと紛れ込ませてある。
困った伯父ではあったが、オルティスは彼のことを嫌いではない。むしろ幼い頃から冷めていた彼が、伯父が訪問した際には必ず顔を見せ話を強請っていたのだから懐いていた方と言える。
しかしそれでも、いくら親しくしている伯父でも、叱りつけたくなる時はあるものだ。
◇ ◇ ◇
「すまないオルティス……こんなことになるとは……」
秋の入り頃、王都の貴族街にあるフォルテナ邸宅にて。日もそろそろ暮れるかという時間、応接室には仁王立ちするオルティスと、しょんぼりと肩を落としたルーベンの姿があった。
「だからあれほど許可を得ず周りを見ずずかずか人様の領域に入るなと……」
「ごめんよぉ……」
腕を組むオルティスの右手中指には奇妙な指輪が嵌っている。幅は広く、ガラスのように透明で、青い石が等間隔で埋め込まれた他では見たことのないデザインだ。実は先ほどまでこの指輪は、ルーベンの右手中指に嵌っていた。
この世界には魔女と呼ばれる者たちが居る。数こそ少ないが人里離れた場所に棲家を構える彼女たちは、魔法という人智の及ばぬ不可思議な力を自在に行使する。普段は人間たちの隣人として扱われており積極的に人を害した例は少ないが、うっかり彼女たちの領域を侵すなどして怒りに触れた人間が苛烈な報復を受ける例は枚挙に暇がない。そう、今回も。
つまりなにかと言えば、ルーベンが魔女に呪われたのだ。
顛末はこうだ。森の奥の集落で細々と作られている民芸品の見学に赴いた彼は、うっかり道を間違い魔女の家の庭に迷い込んだ。そこまでは良かったのだが、庭の隅にうつ伏せで倒れている女性を発見し慌てて駆け寄った。その際に魔女が大切に育てていた花を踏み付けて蕾を落としてしまい、花を楽しみにしていた魔女ーーうつ伏せに寝て猫苔を観察していたーーの怒りを買ったというわけだった。
魔女とて悪意あってのことでないのは理解しているようだが、百年待って楽しみにしていた花が見られなくなったことが相当に堪えたらしい。満足させるようなものを見せるまで許さない、そう唸った魔女の指の一振りで気付けば中指に指輪が嵌っていたという。
その日以降、毎日のように脈絡のない悪夢を見るのだと憔悴した様子の伯父は語った。確かにフォルテナ家の屋敷に訪れた伯父は目の下に隈を作り悄然とした様子だった。屋敷に訪れた理由も、宿ではろくに眠れないから客間のベッドを貸してほしいというものだ。
だが、ことはその屋敷で起こった。領地に戻っている父親と兄の代わりにルーベンを迎えたオルティスの姿を認めた瞬間、指輪がしゅるんと宙を舞いオルティスの指に収まったのだ。
何処からか響いた、こちらの方が面白そうだ、という魔女らしき女性の声と共に。
「本当にごめんよぉオルティス、今から魔女殿の所に行って外してもらうよう頼み込んでくるからね」
「伯父様は一旦寝て下さい。俺は王城の魔導院に確認してもらいますから」
明らかに寝不足でフラフラの伯父を再度魔女のところに放とうものなら、2個目の指輪を嵌めて帰って来かねない。翻って名家の子息かつ優秀な官僚であるオルティスであれば、当然王城の魔導院にも伝手はある。部下として勤勉な彼の困り事なら、上司である第三王子殿下にも口添えしてもらえるかもしれない。
ただひとつ間の悪いことに、明日は休暇。婚約者との月に一度の茶会がある。だが茶会程度のこと、一晩寝付きが悪かろうと問題は無いはずだ。
そう考えたオルティスは、その日は王城魔導院勤めの知り合いに手紙だけ認めて早めに就寝したのだった。
◇ ◇ ◇
「エルミア様、後生ですからその羽の髪飾り……髪飾り……?よりもこちらを!銀のこちらをお選びくださいませ!明日は婚約者様とのお茶会でございます、どうか、どうか!!」
「ミリネ、やっぱり駄目かしら?こんなに可愛いのに……」
耳慣れぬ会話にふと意識が浮上する。そこは居心地良く整えられた部屋だった。所々見慣れぬ置物などが見えるが、カーテンや敷物、調度品から察するに年頃の令嬢の部屋だろうか。
なぜかオルティスは部屋を見渡せる壁際にいて、身動き一つ取れず目と耳だけが機能する状態だ。先ほど自室のベッドに身体を横たえたことを覚えているのだから、これはただの夢だろうと彼は結論づけた。妙にディテールが細かいが、夢ならそんなこともあるだろうと心の中で頷く。
誰の部屋か……などと考えるまでも無い。先ほど名を呼ばれた娘がこの部屋の主人だろう。ところでエルミアとは婚約者と同じ名前だな、と思ったオルティスは、次いで視界に入ってきたものに我が目を疑った。
そこにいたのは、シンプルな作りのドレスに身を包んだ、オルティスの婚約者であるエルミア・ディネ=メルディエラだった。別にそれは良い。いや無断で婚約者の私室を覗き見ているのは良くないが、これは夢なので。
では何に驚いたかと言えば、そのドレスの柄。シンプルなのは作りだけで、その柄は幅が端から刻一刻と移り変わる歪んだ格子模様、色遣いは晴れやかな橙色と深いこくのある紫色、それに鮮烈な黄色。そしてその上から全体に細い黒色のラインが墓石に這う蔦のように張り巡らされているものだった。
ーーなんだそれは、どこで買ったんだそんな珍妙な服?!
もし声が出せたなら、思わず叫んでいただろう。少なくとも心の中では叫んだ。想定外過ぎて。見ていると目が回りそうなドレスを目にしたのは初めてだ。
気を取り直して室内を見渡せば、どうやら彼女は明日の茶会に着て行く服を選んでいるようで、姿見の側には淡い青色の微かに透ける布を重ねた趣味の良いドレスが吊られている。晴れた春の日の青空のような、柔らかくも爽やかさのあるデザインだ。
このドレスは今までに二度ほど見たことがある。婚約者になって1年目の茶会で一度、3年目に王城庭園の解放に共に出かけた際に一度。薄い金色の髪と空色の瞳によく似合っているなと思ったのを覚えている。オルティスは記憶力にもそこそこ自信がある方だ。だから夢にもこのドレスが出てきたのだろう。それは良い。問題はその隣だった。
見覚えのある青いドレスの隣には、まるで苔むした岩のごときふさふさゴツゴツボコボコした深緑と茶色のムラと凹凸がある生地に、南方に生息する極彩色の鳥の羽が散らす様に縫い込まれた、端的に言って訳の分からないドレスが吊られている。タイトルをつけるなら、密林の巌〜食い散らかされた南国鳥を添えて〜、だろうか。何だこれ。当然ながらこんなドレスに見覚えなどあるわけもない。
部屋着であろうドレス一着ならたまたまそういうこともあるだろうと思えなくはなかったが、二着目ともなると気のせいにはできない。しかも、
「ねえミリネ、この羽の髪飾りはこちらの羽のドレスになら丁度良いのではなくて?やっぱり明日のドレス、変えては駄目かしら?」
「お嬢様、あの青のドレスからの変更はなりません。奥様からも強く言付かっておりますので、どうかご寛恕くださいませ」
「ううん……仕方ないわね、ならこの後新しく仕立てたケープに合うドレスを探すのに付き合ってね?」
などとやりとりしているのを見れば疑いようもなかった。
(俺の婚約者は……、趣味が、悪い……?)
いやそんなまさか。メルディエラ家のエルミア嬢と言えば、可憐な容姿に楚々とした振る舞い、品の良いドレスや装飾品に身を包んだお手本のような高位貴族の令嬢だったはず。
これは夢だから、こんな突拍子もない光景が繰り広げられているのだろう。そうオルティスは自分を納得させようとした。
そうしている傍らで、婚約者とその侍女はドレス以外の服飾品選びに移っていく。
「せめてタイツはわたくしに選ばせてね?たしか、青色でとっておきのがあったはずなのよ」
「色を合わせてくださるなら……青のドレスは裾が長いですから、なんとか……」
弱り果てた侍女へ歌うように言い立ち上がった彼女は、オルティスから見て右手側の両開きの扉に近づくと勢いよく開け放った。左手側がどうやら寝室のようなので、これはおそらく衣装部屋だろう。
淑女のワードローブ、ましてやタイツを覗き見るなど言語道断だが、今の自分は一体どういう状況なのか目を閉じることすらできない。おかげさまで不本意ながら開け放たれた衣装部屋の中身を目にすることになった、のだが。
そこはまるでよく言えば万華鏡、取り繕わず言えば高熱の時に見る悪夢だった。赤青黄緑紫金銀黒白、羽や造花、外つ国の見慣れない紋様で覆われた仮面など。その円盤はなんだ。明滅しているが何に使うものなんだ。その刺々しい物体はなんだ。どこに着けると言うんだ。三分の一程度はいくつか見覚えもあるような品の良いドレスや帽子、コートなどだが、それらを覆い隠し押し流す存在感に満ちたラインナップである。
そんな混沌の中に踊る足取りで踏み入れた彼女は、すぐさまお目当てのものを見つけたようでドアからその身をのぞかせ、ぴろぴろと手にしたものをはためかせた。
「これよ、これ!」
それは確かに艶のある良質な生地でできた薄青のタイツで、趣味の良い方のドレスには合うだろうという色合いだった。色合いだけだが。
爪先からひざ部分にかけては白に近い薄青が少しずつ濃くなる染めが施された無地の生地。しかし膝上からはうねる様な濃紺と銀のラインがびっしりと上端までひしめき合っている。それだけでも異様な有様ではあるが、駄目押しでふともも部分に黄色と鮮やかな青、それと深みのある赤色の目玉じみた模様が無数に配されていた。
「……これなら、まぁ、よろしいかと」
「ありがとうミリネ!」
嬉しそうに微笑むエルミア。その様子は可憐な花の精を思わせる姿だが、服装は見ると目眩に襲われるデイドレス。そして手に持つのは背筋がそわそわとするようなタイツ。表情との落差が酷い。
侍女とて許可を出したのは苦渋の判断だったろう。先程のセリフは明らかに『これなら(見えないから)よろしいかと』だった。とはいえ彼女たちの中では決定事項のようだ。明日の婚約者との茶会に、つまりオルティスとの茶会に、このタイツを。
「……っ趣味が!悪いな?!」
はっ、と目を見開けば見慣れた天井。どうやら自分の声で目が覚めたようだ。首を巡らせれば黒を基調に整えられた自室が目に入る。不必要なものは置かず、質は良いが飾り気の少ないデザインで統一している。当然ワードローブとてそうだ。あの夢の衣装部屋とは全く違う。
「……夢」
そう、夢だ。あれは間違いなく夢。そして起きてやっと思い出した、これはおそらく叔父のとばっちりで喰らった呪いの指輪のせいだろう。そういえば叔父は度々脈絡の無い悪夢を見ると言っていた。しかしこれは……悪夢、なのだろうか。
確かに、婚約者のクローゼットが清楚さや優雅さの欠片もない有様だったというのは通常であれば悪夢なのかもしれない。近い将来妻に迎える人の趣味が悪いというのは、社交や世間体を考えれば相当に頭の痛いことではある。あるのだろう、が。
「それは、それで、」
とそこまで思わず零れた自分の言葉に、オルティスは眉を顰める。
オルティスの婚約者であるエルミアは慎み深く可憐で、女学院での成績も適度に高く、世間での評判も良い。性格も勤勉かつ誠実で穏やか。彼女に不満などあるわけも無い。名家の次男である自身の婚約者として申し分無い令嬢だと思っている。
だが、こんなものだと、ずっとこんな人生が続くのだと抱いていた諦念を象徴するような婚約者だと、どこかでそう感じていたことは否めない。
それがどうだろう、あのクローゼット。全てが全て、どこで買ってるんだそれと聞きたくなる品が詰め込まれた奇想天外なびっくり箱である。どの一着を選ぼうと、邪教の儀式か熱が出た時に見る悪夢か百人の画家がうっかり同時に絵の具をぶちまけたアトリエか、もしくはその全部。
あの淑女のお手本の様なエルミアがそんな服を選び着て、侍女を困らせているところなんて想像もつかないけれど、それは、
ーー物凄く、面白い。
(いや、だが……ただの夢だ)
そう、繰り返すがただの夢だ。そんな事実は存在しない。オルティスは頭を軽く振りながら、茶会までにこなさねばならないことを済ませるべく身支度を始めた。
◇ ◇ ◇
その日の午後。本日の婚約者との茶会はフォルテナ家の庭園で行われる。時間通りに到着した婚約者を迎えたオルティスは硬直した。
今日のエルミアの服装は、見覚えのあるくるぶし丈の青のドレスに、薄青の花飾りが控えめな白のボンネット。そう、あの夢に出てきた、青いドレス。ーーつまりは、その中には、
「……、」
思わず脚の辺りを凝視してしまった。
「オルティス様?どうか、なさいまして?」
首を傾げるエルミアの肩を、さらりと淡い金糸が滑る。淑女の脚を見詰めるなどという不躾な真似をしたことに気づく間もなく。どくり、と耳慣れない音が己の胸から聞こえた。
はたと気付けば時は夕暮れ、とうにエルミアは帰った後。頭の端にはいつもの様にそつなく当たり障りの無い話を交わしたような記憶が無くもないが、オルティスにとってこんなことは初めてだった。
(……薄青、だったな)
ドレスの裾からちらりと覗いたタイツの色は白に近い薄青、それは夢で見たものと酷似した色味と生地。そうであればその上には。
「……っ、」
ぶんぶんと首を振り、今し方脳裏を過ったイメージを追い出す。
良くない。とても良くない。節度を保つべしということとはまた別の点で、何がかは分からないがこれは良くない。明日は朝早くから登城の予定があるのだから、そんな事に思考を割かれていてはいけないのだ。こんなもの、たかが服装のことなどきっとその内忘れるに違いない。
何時もに無いしかめ面を侍従が困惑した表情で見守っているのも気付かないまま、彼は自室に引き返したのだった。
◇ ◇ ◇
それから二週間と少し。その間、王城の魔導院にて魔女の呪いに詳しい者に見てもらったが、魔女の眼と呼ばれる呪具の一種だろうという見解を得た。持ち主の視界を魔女が時折覗き見る為のものというそれは、大して害のない代物だと聞いて伯父が安堵のあまり崩れ落ちていた。悪夢は恐らく魔女に視界を借りられている弊害だろうとのことだ。オルティスも表情こそ変えないものの安堵した。あの訳のわからない夢はただの偶然で、婚約者の様子がおかしいなんてことはないのだと。少し残念に思う気持ちは見ないふりをして。
しかし。
(これは……本当に……どうしたものか……)
どうしたもこうしたもないのだが、一向に夢の光景が脳裏から消える気配がないオルティスは文字通り頭を抱えていた。ここ暫く多忙だったことを差し引いても、茶会の日以降寝つきが悪く眠りも浅い。あれ以来それらしき悪夢は見ていないので呪いの所為というわけではなく、単純に夢のことを繰り返し考えてしまうためだ。仕事の最中もふとした瞬間に思い出す。あのびっくり箱のような衣装部屋と、とっておきなのだと嬉しげにタイツをひらめかせていたエルミアの姿を。
頭を抱えている理由はもう一つある。来週末に迫っている王宮での夜会に、パートナーとしてエルミアを同伴するのだ。前々から決まっていたことで、衣装の打ち合わせも済んでいる。特段問題はない、彼の意識以外は。
(このままではまた、不審な行動をとってしまいそうだ)
ただでさえ睡眠不足の頭ではいつもより回転が鈍っておかしなことを口走らないとも限らない。ひとまず来週までは睡眠と休養をきっちり取ろうと決意し、早めにベッドに入ったその日の夜。二度目の夢がやってきた。
◇ ◇ ◇
(……またか)
前回同様に身動きの取れない体。辺りを見渡せば、窓際に置かれた優美な曲線を描く椅子に座ったエルミアがいた。一見してゆったりと読書でもしていそうな光景だが、その手元は凄まじい速度で動いている。
(何を……、ああ、刺繍か)
淑女の教養として刺繍を嗜む令嬢は多い。婚約者への贈り物として、刺繍を施したハンカチやタイを渡すのはよくあることだ。
オルティスも例に漏れず、エルミアから刺繍入りのハンカチを貰ったことがある。オルティスのイニシャルと簡素な蔓草の紋様が縫い込まれたそれは、凝った図案でこそ無いものの、縫い目の揃った素人目にも良い出来だった。
しかし、改めて刺繍をするエルミアの様子を見て思う。令嬢の嗜みにしては妙に手捌きが速すぎないだろうか、と。
目を凝らせばその手元には十数枚の色味が微妙に異なるハンカチがある。刺繍のことは詳しくないのだが、ちょっと多くないか。更に視線を少しずらせば、窓際に置かれた作業台のようなものには艶やかな薄青色の糸が干しているかのように掛けられている。糸の掛かった木枠はご令嬢の部屋に似つかわしくない染みや細かいキズが見え、さながら工房から持ってきたかのようだ。
首を捻っていると、エルミアの手が止まった。どうやら切りの良い所まで作業を終えたようだ。
「ねぇミリネ、オルティス様のお誕生日がもう直ぐでしょう?贈り物は用意してあるけれど、刺繍入りのハンカチも添えたいの。幾つか刺繍してみたのだけれど、どれが良いかしら?」
「拝見させていただきますね。……お嬢様、この図案はどのようなものなのでしょう?」
「これはね、古代ルミガムの遺跡で発見された壁画を基にした図案なの」
「なるほど……、その、普通の……、馬や鷹などの動物や植物などの図案などは……」
「あら、この壁画の図案は植物と星を描いたものよ」
「いえ……そう、なのですね。……この中ではこちらが控えめな佇まいで、男性の方でも使いやすいかと」
オルティスの位置からでは刺繍の図案はエルミアの陰になって見えないが、侍女の様子を窺えば困惑しているようだった。それはそうだろう。古代ルミガムの壁画と言えば、古の人々が重要視していた動植物や天体を形容する抽象的な図形がびっしりと描き込まれたものが有名だ。昔伯父がプレゼントとして持ってきた壺の紋様も古代ルミガムの図形がモチーフだったはず。一部を参考にするだけだとしても、婚約者へ贈るハンカチの図案としては中々斬新なチョイスだと言える。
「やっぱりグレドネリの根が一番いい色が出るわね。オルティス様の瞳の色に近づけることができたと思うの」
考え込むオルティスを他所に、エルミアは楽しげに話を続けている。彼女の言うグレドネリの根は高級な染料として使われるもの。適度な塩梅で染めると出る、凍り付いたような薄青色は確かにオルティスの瞳の色に近いと言える。しかし、エルミアの言い方。
(……まさか、自分で染めたとでも?)
いやいや、まさか。どこに自分自身で刺繍糸を染色までする高位貴族の令嬢が居るというのか。
それにエルミアの手を見れば、その細くすべらかな指先には少しのしみもない。まさに深窓の令嬢の手である。
恐らく職人に依頼を出した程度だろう。いかに彼女の趣味が変わっていようと、行動までそんな面白……令嬢らしからぬ変わったことはしないはず。そもそも貴族らしい貴族である彼女の親がそんなことを許すわけもない。
「エルミア様が急にパストリスの職人市へ出掛けたいと仰った時には何事かと思いました……」
「だって折角ですもの、上質なものを選びたいじゃない。匂いは中々強かったけれど、お父様が裏庭の作業小屋を使わせてくださったおかげで良い色の糸が出来たわ」
「あの薄手の防水布の長手袋もようございましたね」
「ええ!お父様にもお礼を兼ねてハンカチをお贈りするわ、どんな図案が良いかしら?」
……、……。
「……そんな訳があるか?!」
はたと目を開けば、そこは自室。前も同じような感じで目を覚ましたな……と遠い目になりつつ夢を振り返る。そんな訳があるか。夢だ夢。
メルディエラ家の当主である彼女の父は王城や議会で関わることもあるが、正直な印象を述べるならば厳格かつ食えない高位貴族といったところである。その彼が、娘に王都の邸宅で職人よろしく染色作業に勤しむことを許すイメージが全くできない。夢だ。これも、前と同じく。
(前と同じく……、)
脳裏に翻るのは奇天烈なタイツを手に衣裳部屋から戻ってくるエルミアの姿。そして、昼下がりの庭を背景に、青いドレスと薄青のタイツを身に着け、首を傾げたエルミアの姿。
ぐしゃりと髪をかき混ぜた。
「……やめだやめ、考えないからな」
唸るように零した言葉は、人の機微に鈍い伯父でも恐らく分かるだろうと思えるほどに、動揺の色が拭えていなかった。
◇ ◇ ◇
夜会までの一週間は半ば茫然としたまま過ごせばあっという間だった。やや心ここに在らずだったかも知れないが、たかがその程度のことで任された仕事でミスなどするはずもない。つまりまたもやオルティスが頭を抱えているのは、それ以外の理由である。
(どんな話をすれば良い……)
オルティスは今、フォルテナ家の馬車に乗りメルディエラ家の屋敷へ向かっている。これから始まる夜会に向け、エルミアを迎えに行くためだ。
メルディエラ家の屋敷が近づくごとに、緊張が加速していく。オルティスはこれまでにもエルミアと夜会や大規模な茶会に出たことはあるが、このように緊張したことなど一度として無かった。
自分でも一体何に張り詰めているのかわからず、緊張の解し方が掴めない。強いて言えば、どんな顔でエルミアに会えば良いのだろう、どんな話をすれば良いのだろう、といったこと。どんな顔も何も、いつも通りこなせば良いはずだ。それなのに、そのいつも通りがどうしていたのか思い出せない。
焦るオルティスを乗せた馬車は程なくしてメルディエラ家の屋敷に到着してしまった。腹を括り損ね、普段よりやや挙動不審な態度のままホールに通されたオルティスは、そこでエルミアと対面した。
「……エルミア嬢。今日のドレスもよくお似合いです。可憐な貴女であれば何でも着こなしてしまうとは思いますが」
「ふふ、ありがとうございます。オルティス様もとても素敵です」
くすりと微笑んだエルミアに少し緊張が解れる。実際、今日のドレスも彼女にとても似合っていた。今日は首元の詰まった鮮やかな青緑のドレス。しかし裾に行くに従い淡い色に移り変わるそれは、淡い青の貴石をあしらった装飾品も相まって清らかな泉に住まう精霊のようだった。
ーー何故、会話の内容が浮かばないなど困っていたのだろう。素直に褒めれば良いのだ、エルミアはこんなに素敵なのだから。
慣れない緊張状態が続き疲弊したオルティスはそう結論付けた。そうだ、何も困ることはない。
そこからはいつも通りーーいや、エルミア相手にだけはいつもより少し素直に会話を楽しみつつ、隣国の要人の接待という今回の主目的もそつなくこなしたオルティス。何事もなく夜会を終えて、エルミアを送り届け、フォルテナ家の屋敷に戻り礼装を解いた。そうして落ち着いてから、今宵のことに想いを馳せる。
(エルミアは……、いつも通り、だったな)
華美すぎず、しかし煌びやかに装った彼女はやはりお手本のように完璧な令嬢だった。楚々とした振る舞い、ひけらかすでもないが確かな知識に裏打ちされた受け答え。
それを、今までならつまらないと思ったかもしれない。だのに、今宵。程よく疲弊し少し素直になったオルティスの頭はそれを、寂しい、と思ってしまったのだ。
ーー俺に見せている以外の顔が、表情があるのではないか。
どうせこんなものだと思い込み、理想的な婚約者という仮面での対応しかしてこなかったのに今更何をと言われても仕方ない。けれど、いずれ家族になる相手だ。当たり障りのない交流からもう少し踏み込んでも良いのかもしれない。
(……そうだな)
あれは夢だろうが、それとは関係なく。エルミアともう少し真摯に向き合ってみよう。そう決めればここ暫くオルティスを悩ましていた困惑はすっと波が引くように収まった気がする。今日はよく眠れそうだ、そう心地よい疲れと共にベッドに潜った。
その日から一週間。一時よりましであるものの、オルティスの寝不足が完全に解消されることはなかった。夢見が悪いわけではない。むしろ良い方だろう。ただ内容がほぼほぼエルミア一色なだけで。
いつもの茶会で、いつかの夢のような屈託の無い笑みを浮かべて楽しそうにしているエルミア。夜会用に美しく着飾った姿で、いつもより楽しそうに踊るエルミア。びっくり箱のような彼女の衣装部屋で、真剣な顔をしながら衣装を合わせるエルミアーー。
そういうわけで、オルティスはやっぱり頭を抱えていた。つい昨日が彼の誕生日だったのだが、エルミアからは祝いの言葉を記したカードが届いている。美しい筆跡で、明後日の婚約者との茶会で贈り物をさせていただきますと記されたそれ。いつもなら箱に早々に仕舞ってしまうのだがなんとなくそんな気になれず、自室の机の隅に立て掛け、何故だか落ち着かずにまた頭を抱えていた。
そうして、いよいよ明日がエルミアとの茶会だという、その日の夜。三度目の夢がやってきた。
◇ ◇ ◇
「オルティス様、喜んで下さるかしら」
「お嬢様からの贈り物なのですから、喜ばない殿方なんて居ませんよ」
「ミリネはわたくしに甘すぎるわ。オルティス様は今ひとつ、どんなものがお好きか掴みきれていないから心配なの」
ついと視線を滑らせたエルミアにつられて目をやれば、窓際の机の上に包みが二つある。大きさから言って、用意したといっていた贈り物と刺繍入りのハンカチだろう。
物憂げな様子でそれをしばらく見つめるエルミアだったが、突然長椅子から立ち上がり、壁際へーーオルティスの方へーーエルミアが歩み寄ってきた。
(……え、は……?!)
オルティスが戸惑っているうちにエルミアは彼の目の前で立ち止まり、ひょいとオルティスの目になっている何ものかを持ち上げた。そしてそのまま窓際の机に取って返すと、ことりとそれを机に置いてため息をついたのだ。
「こんなに素敵なものを下さったオルティス様なのだから、とてもお洒落なものを好まれるのじゃないかしら。……わたくし、オルティス様のことをもっと知りたいの」
エルミアの言葉は聞こえていたが、その時オルティスはそれどころでない状況に置かれていた。
窓際の机には小さな鏡が置かれており、オルティスの目になっているだろう物がちょうどそれに映り込む位置に置かれた。それはつまり、鏡で自身の姿が見えるわけで。
そこにいたのは、耳が大きく、黒々とした大きな石が目に嵌め込まれた人形のようなものだった。気のせいかやや既視感を覚えるが、エルミアの衣装部屋の中にでももう一体いたのだろうか。人形用の可愛らしい服を身に纏っているが、正直その顔は直視していると喉が引き攣りそうになる。端的に言えばものすごく不気味だ。
(これを……俺が、エルミアにあげただと……?)
そんな記憶は無い。人違いじゃないだろうか。もっとよく見ようと鏡に意識を集中させたその時、人形と目が合った、気がした。
「……っ!」
ばっ!と布団を蹴立てるようにして起き上がり、呆然と辺りを見渡す。日が昇って少しした時刻の、仄暗い自室。壁掛けの鏡を見てぎくりとし、しかし意を決して歩み寄った。
(……当たり前だろう)
そこに映っていたのは見慣れた己の姿だった。少し乱れた黒髪に、冷たそうだとよく言われる薄水色の瞳。間違っても不気味な人形の姿ではない。
寝直す気にもなれず、ベッドサイドの机に置かれた水差しから水を注いで飲む。初めて悪夢らしい悪夢を見たかも知れない。勿論人形のくだりだ。だがしかし、それをさておけば。
(知りたいと、思ってくれていたのだろうか)
オルティスが彼女のことを知りたいと思ったように、エルミアも彼のことを知りたいと言っていた。夢のことだがもしかしたら、現実でも。そう思えば、何やらそわそわとした感覚に包まれた。落ち着かない、さりとて嫌な気分ではない。
あの夜会を経て、知ってみようと思った。だから今日はいつもとは違う会話をしてみよう。何を聞けばいいか、何を話せばいいか。あれこれと考え始めれば、悪夢のことなどはすっかり頭から消え去っていた。
◇ ◇ ◇
今日の茶会はメルディエラ家で行われる。昼過ぎ頃に馬車にて訪れたメルディエラ家の屋敷は、よく整えられた庭園が見事な様子だ。
「ようこそいらっしゃいました」
出迎えてくれたエルミアは、薄青のドレスを着ている。前回の茶会とはまた異なるもので、襟と袖にあしらわれたレースが彼女の可憐さをよく引き立てていた。当然ながら予想を裏切る要素はどこにも見当たらない。それでも、可憐な容姿と楚々としつつも芯のある所作が目を引いた。
出会った頃から変わらぬそれは、目新しいものではない。けれど改めて見れば、そのさり気無い足捌きから視線の動かし方まで計算され、身に染み込むまでに繰り返した努力を窺い知ることはできる。知識として知ってはいたが、その向こうに積み重ねる人の姿を思えば見え方は変わってくる。
(ーー俺は、表面的なことだけを見て知った気になっていたのだろうな)
オルティスは招待への礼を告げながらも、しみじみと自身のこれまでの感じ方を振り返っていた。だって、先入観を捨てて見つめたエルミアは、こんなにも。
(……こんなにも、何だ?)
「オルティス様、本日はお庭に席をご用意しておりますの。……オルティス様?」
「っああ、今行く」
掴めそうだった何かの手掛かりは惜しいが、今はエルミアとの会話の方が重要だ。そう判断したオルティスは、足早にエルミアに続き庭園に出た。
「早速こちら、お誕生日の贈り物です。お気に召されるものだと良いのですが……」
東屋に誘われ、すでに用意されていた茶会の席にて、いつもの完璧な淑女の笑みより若干しおらしげな様子でエルミアが口を開いた。
贈り物は万年筆だった。オルティスの趣味に合う、艶のある濃紺に銀の金具が美しくも質実さを感じさせるデザインだ。仕事柄書き仕事が多いオルティスにとって、どこで使っても浮くことのないそれは無難ながらもありがたい品物だ。
「貴女が選んでくださったのですか?とても私好みです。ありがとうございます」
そう微笑んで返すと、微笑みが返されたのだが……その手元が不自然に動いた。つられて手元に視線をやったオルティスは、小さく息を呑んだ。
見て見ぬふりをすべきなのだろう。だが、それでも。
「……ところで、そちらは?」
「あっ……これ、は」
華奢な手元で隠しきれなかったそれは、小さな包みだった。万年筆と揃いの包装をされていて、さながらもう一つのプレゼントといった様子だ。
「もう一つ、用意は、してみたのですが、やはりお好みに合わないのではと……」
「折角貴女が手ずから用意して下さったのです、気に入らない訳がありません」
すんなりとそんな言葉が出た自分に驚くオルティス。そしてほぼほぼ中身を言い当てられて驚くエルミア。
「……その大きさの包みですから、ハンカチかそれに類するものなのでは、と思いまして」
先に立て直したオルティスが言い訳のようにそう続けると、エルミアは素直に感嘆したようだ。
「さすが、オルティス様ですわね。ええ、ハンカチに刺繍をしたのです。……以前のものより色味にも拘りましたので、宜しければ」
「ありがとうございます、開けて見ても?」
そろりと差し出された包みをありがたく受け取り、はやる気持ちを抑えて丁寧に包装を解く。
果たしてそこにあったのは、落ち着いた薄青の布地にきらきらとした薄水の糸で額縁のような刺繍が施されたハンカチだった。知らなければ細かな装飾としか見えないだろうそれは、古代ルミガムの縁起の良い紋様を連ねたもの。くっきり見えるようであれば違和感を覚えたかも知れないが、布と糸とが同系色のためさほどおかしな組み合わせとは感じない。
紳士の持ち物としてはやや華やかかも知れないが、礼装に合わせるには良い塩梅だ。
「素晴らしい刺繍ですね。ありがたく使わせていただきます」
そう返しつつもオルティスの内心は大変なことになっていた。この布地、この糸。夢と全く同じなのだから。そして極め付けは図案。ここまで揃えばもしや、と考えるのは不自然でないだろう。思わずまじまじとエルミアを見つめる。
見つめて……、おや、と小さく首を傾げた。気のせいか、いつものエルミアとは様子が違う。どことなく気落ちして見える、ような。
「エルミア嬢、……何か、ありましたか。今日の貴女は少し、悲しそうに見える」
はっと息を呑んだエルミアは、弱々しく微笑んだ。
「……折角の茶会ですのに、ごめんなさい。昨晩大事にしていたお人形に傷がついてしまって、少し落ち込んでいるだけなのです」
「人形、ですか」
そう聞くと、つい先の夜の悪夢が思い出される。黒々とした底知れぬそれと目が合った昨晩。思わず渋面になりつつも正面に座るエルミアの悲しげな様子を見て。
「……あ、」
ーー春の庭、王城での茶会。隅で蹲っていた少女、不気味な人形。
今まで忘れていた、随分と昔の光景が脳裏に甦った。
「……あの人形を、貰ってくれた、女の子」
「あら……、ええと、はい、そうです。覚えていて下さったのですか?」
「いや……、今、思い出した」
「そうなのですね。ええ、落ち込んでいたわたくしに、お人形をいただきましたわね」
先ほどとは打って変わってにこにこと嬉しそうに話すエルミアだが、オルティスはそれどころでは無い。
(そうだ……、王妃様ご主催の子供の茶会の前に、伯父が押し付けてきた人形……!)
あれは処遇に困ったが、茶会で誰かに……自分より小さな女の子に、押し付け……いや、渡した覚えがある。何も無理やりではない、気に入っていそうだったからあげただけだ。
思い出してみれば、昨日の夢でみた人形にも見覚えがあるはずだ。目と耳の大きいウサギのような人形、あれは確かに伯父から手渡されたもの。
(エルミア嬢だったのか……)
一つ思い出せば、次々と思い出す。
「……エルミア嬢は、泣いていましたね」
「な、泣いてはおりませんでしたわ、落ち込んでいただけですもの」
「そうでしたでしょうか?」
自分は当時9歳、であればエルミアは5歳。早くから教育を施され幼くも優秀な貴族令嬢として振る舞っていた彼女は、しかし茶会の会場である王城の庭の隅で涙を堪えていた。
一通り有力な貴族家の子息には挨拶をし、中位貴族でも利発そうな子息には声を掛け、ぐるりと庭園を回ってきたオルティスは、そこでエルミアに出会ったのだ。
彼女はこの茶会に、お気に入りだという自分で刺繍を刺した小さな布の鞄を持ってきていた。それを、周りの子息や令嬢に趣味が悪いと非難されたのだという。
『……わたくし、この刺繍はとっても可愛いと思うの』
『そうですか』
『でも、みんなおかしいっていうの。エルミア嬢は趣味がよろしくないのですねって。そんなものを可愛いだなんて、おかしいですよって。わたくし、わたくしのすきなものは、おかしいのかしら、だめなのかしら』
そう、涙に濡れた目でいう彼女に、自分は何と返したのだったか。
「……おかしくても、だめだとは思わないが。そう仰って下さったおかげで、わたくし、とても救われましたのよ」
「……そう、でしたか」
そう言えばそうだった。必要な時に周りに合わせられるのならば、何が好きだろうと誰に迷惑をかけるでも無いのだから。そう続けたのだった。
実際のところ、オルティスは真実そう思っている。時と場所、場合に応じた選択が出来るのであれば、自身の役割をこなせるならば、誰が何を好きだろうと他者に関係はない。それが自宅での服や小物、調度品のことなら尚更に。他人に対してよく言えば鷹揚、悪く言えば無頓着と見えるかもしれない。ただ、彼があの夢を悪夢だと思わなかったのはそのためだ。
とは言え当時エルミアの持っていた布鞄の刺繍は相当に訳のわからない図案だったし、大衆受けはしないと思うとも付け加えたのだったか。
昔の記憶に想いを馳せているオルティスを見て、エルミアは少し緊張したように手を握りしめ、言った。
「わたくしが好きなものを好きでいること自体はだめではないのだと、必要に応えさえできれば良いのだと。それに、落ち込んでいた私を元気づけるために、伯父様に貰った素敵なお人形をくださって」
そう言って懐かしげにはにかむエルミアに、いつかの幼い淑女の姿が重なる。
なお、すまないが押し付け先を探していただけだなどと言える状況ではなかったし、この時のオルティスにそんなことを考えられる余裕もなかった。
「ずっと大事にしていたのに、目に傷がついてしまったのですけれど」
「人形は私の伯父からもらったものでしたから、修理ができないか伯父に相談してみましょう」
「宜しいのですか?!」
曇った彼女の表情を晴らしたい、その一心でそう告げると、ぱぁっと光が差したようにエルミアの顔が輝いた。
「とても可愛くて、ずっと大事にしていたので本当に悲しかったのです……!ありがとうございます!!」
「……相変わらず、そういったものがお好きなのですね」
思わずそう返せば、ぎくりとエルミアの表情が強張る。浮かれてうっかり喋りすぎた、と言いたげな気まずそうな顔。普段なら見せないその顔にも、どくりと鼓動が跳ねる。
「……ええ、そうなんですの。……とは言いましても、皆様が好まれている意匠の良さも分かりますのよ?ですからこれまで、特に公の場や他家の方のいらっしゃる場でわたくしの趣味を前面に出したことはございません。勿論これからも、きちんと淑女らしい意匠を選ぶつもりですわ」
ですから、どうか、これからも婚約者として。そう眉を下げて、慌てて弁明するかのように言葉を紡ぐエルミア。
「別に、私は気にしません。必要とされる折りに合わせていただけるのであれば、貴女が良いように」
(ーーそんなものは、今更だ)
そう、今更なのだ。どうやらあの夢は、ただの夢ではなかったようで。遠い日の刺繍を遥かに凌駕するそれを知ったというのに、オルティスには拒む気持ちなど微塵も起こらないのだから。
気にしないと返した彼に向けられたのは、混じり気のない喜びと、自惚れでなければ恥じらいと親愛、それからなにかきらきらとしたものに満ちた笑顔だった。
「わたくし、オルティス様の婚約者となることが決まったときには、とっても嬉しかったのです」
息も継げずに見入るオルティスに、彼女は重ねて語る。
「不束者ですがこれからも、どうぞ宜しくお願いいたしますね」
(ーーああ、これが)
そう告げたエルミアの言葉に、笑顔に、視界の隅に入る斬新な刺繍入りのハンカチにーー、この所自身を苛んでいた困惑と感情の正体を知ったオルティス。その右手中指で、指輪が笑うように煌めいたのだった。
〜登場人物等紹介〜
■エルミア・ディネ=メルディエラ
淡い金糸の髪、春の青空色の瞳を持つ令嬢。高位貴族であるメルディエラ家の次女。可憐な容姿と品の良い立ち居振る舞い、理知的な性格で評判の良い淑女。
趣味が悪いと言われているが、世間で良いとされるデザインの良さは分かる。ただ一般的に『ちょっとそれは無い』とされるデザインにも良いなと思う意匠が多く含まれる。
下位の者にも気配りを忘れず意見を大らかに聞き入れる性格。自身の審美眼が一般とはズレていることを理解はしているため、特に公の場に出る際の服飾品については家族や侍女の意見を採用することが多い。ただし部屋着や自室の装飾など、問題ない範囲では自身の好みを譲らない部分もある。自身の好みに合わせて室内着をリメイクしたり自室に飾る小物入れをデコったりするのが趣味。趣味が高じて刺繍に留まらない裁縫技能、染色技能等を身に着けた。
成人後はオルティスと婚姻し、いつも冷静沈着な夫が思っていたよりも彼女に甘いことに首を傾げつつ素直に喜んでいる。婚家の伝手で美術商の仕事を手伝うことになり毎日が楽しい。
■オルティス・ディル=フォルテナ
黒髪に氷雪のごとき薄水色の瞳を持つ青年。高位貴族であるフォルテナ家の次男。涼やかな容姿と何でもそつなくこなす優秀さ、あらゆることの流れを的確に読み解く能力が高く評価されている。
比較的幼い頃から優秀すぎた彼は、予想外の驚きや興奮とは縁遠かったゆえに薄らとした厭世の念を抱いていた。やや斜に構えた部分はあるものの根は至って誠実かつ公平な性格。家族や主、同僚など周囲の人間との仲は良好。婚約者のことも、どこかでこんなものだろうとは思いながらもきちんと信頼関係を築いていた。
とばっちりという名の魔女の悪戯の結果エルミアにどハマりし、ただ一人彼女にだけはぶんぶんと振り回される生涯を送ることになった。自覚はないがおもしれー女が好き。
最近の悩みは伯父と妻がめちゃくちゃ意気投合して繰り広げる美術品・工芸品トークについていけないこと。ちょっと寂しい。
■ルーベン・ノル=フォルテナ
艶のある金茶の髪に薄い青色の瞳を持つ男性。歳の頃は四十代も終わりだが、幼児並みに落ち着きがなくフットワーク軽く、楽観的で人の機微に疎い。根は善人だが押しが強い。甥っ子が可愛くて仕方ないおじさん。この度とばっちりでオルティスに呪いを押し付けてしまい心底反省し、人との距離を詰める前に許可を取るようになった。
オルティスの呪いを解いてもらうよう魔女の庭に週に一度は訪れるようになり、鬱陶しくなった魔女からそのうち解くから安心しろと宥められた。
自分の審美眼を理解してくれる義理の姪が仕事を手伝ってくれるようになりとっても嬉しい。甥っ子共々めちゃくちゃに可愛がっている。
■魔女
創世の時代より存在する。時たま代替わりはあるものの明確な寿命はなく、人のそれより遥かに長い時を過ごしている。基本的に楽しいことが好きな者が多い。古代には精霊とも呼ばれていた。
■夢路の魔女
割と善き魔女。珍しい植物や生物、あと人の恋路を出歯亀するのが好き。人間のことは脆弱だが面白い小動物だと思っている。ぜひ多種多様なラブコメを展開して欲しい、かぶりつきで見に行くので。なおオルティスに鞍替えした指輪の呪いは婚姻式の誓いに合わせて解除し、ついでに光の花びらが降る魔法の演出をプレゼントした。良いもの(普段冷めた男が初恋に振り回される姿)を見せてもらった礼。
■趣味の悪い意匠
魔女と魔法が存在するこの世界、実際にほんのり幸運を呼び寄せる紋様だったりちょっぴり運気が上がるデザインだったり厄を遠ざけたりする音楽だったり、というものは存在する。ただ、それらは人の美的感覚とはそぐわないことがほとんど。人類には早すぎたデザインである。




