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嘉兵衛

 俺たちは、息を切らせて走った。筑後町を通り過ぎ、橋を渡ったところで、東北の方面に折れる。その先は、なるべく早足に歩き、中紺屋町の通りまで出た。

「ちょっと待て。この辺でよいだろう」

 俺が藤馬を振り向くと、藤馬は膝に手をつき、荒い息をしていた。

「はぁ疲れた。水が欲しい」と言いながら、道を通りかかった水売りを呼び止める。

 藤馬は水売りから、水の入った椀を二つ受け取り、一つを俺に手渡す。それから、一気に水を飲み干した。

 俺も水を飲み干し、懐から財布を探る。だが藤馬は掌を出し、それをやんわりと制した。

「礼を言うぞ。お前がいてくれたおかげで、助かった」

 俺は一瞬、何のことか分からなかった。だが、すぐに藤馬が同心の杖から守った件について言っていると気が付いた。俺は小鬢を掻き、目を下に向ける。

「いや――俺はあまり役に立っておらん」

「役に立ってくれたぞ。頑強な人物が傍にいると、遺体から発せられる邪気を跳ね返してくれるような気がするしな」

「俺は、お守りか何かか? そんな効力はないぞ」

 俺たちは互いに、暫し何も言わず、きらきら光る海をただ見ていた。俺たちがいる道の、一本裏の通りの本大工町から、金槌の音が、絶え間なく聞こえていた。

水の冷たさが、喉に心地よい。

「それにしても」と、藤馬が目を眇めて、ぽつりと呟く。

「『諳厄利亜アンゲリアの船だ』とお前が叫んだ時は、俺も驚いたぞ。見たか? お前の声を聴いて、家屋から子を背負い、外に出てきた女もいたぞ」

 二年前のフェートン号事件の傷跡は、今も長崎の人々の心に生々しく刻まれている。国防の脆さが露呈し、長崎奉行が切腹したあの戦慄は、忘れようとも忘れることはできない。

 藤馬がおもむろに手で顔を覆った。肩が細かく震えている。

 俺はふと不安になった。事件を間近で見ていたであろう藤馬にとっては、思い出すことさえ酷だったのかもしれない。俺は藤馬を案じた。

「悪かったな。大丈夫か」

「いや、いいんだ。そうではなくてな――」

と、最後まで言い終わらぬうちに、藤馬が盛大に噴き出した。

「お前が『諳厄利亜アンゲリアの船だ』と叫んだ時の、町司の顔が、あまりにも可笑しくて……最早、この世の終わりのような、恐怖におののいた顔をしていてなあ」

 藤馬はさも可笑しそうに笑い続ける。俺は、呆気に取られたが、藤馬があまりに可笑しそうに笑うものだから、不謹慎とは思いつつも、俺も釣られて笑ってしまう。

 ひとしきり笑った後、俺は尋ねた。

「それより、何か分かったことは、あったか?」

「うむ。やはり、周防は殺されたようだ。事故ではない」

 それはどういうことだ、と俺は言いかけたが、ふと、背後に気配を感じ、振り向いた。

 そこには、身長五・五寸(一六六㎝)ほどの、長身で猫背の若者が立っていた。

 月代は毛が生えており、乱れた鬢が目立つ。どんよりとした目は一か所に定まらず、きょろきょろと常に動いている。

 男は口の片側だけを上げて、俺に笑いかけた。

「鉄杖の兄貴、こんなところにいたのか」

「嘉兵衛。どうした」

 俺はその男の顔を知っていた。同じ小川町に住む平山嘉兵衛かへえだ。

「聞いてくれ。最悪の事体が起こったんだ、うちの組に」

「組? 小川町のペーロン組のことか?」

「ほう、鉄杖、お前はペーロン船を漕ぐのか」

 藤馬が口を挟むと、嘉兵衛はぎょっとしたように藤馬を見詰めた。俺は簡単に、互いを互いに紹介する。

「嘉兵衛、こいつは藤馬。通詞だ。藤馬、こっちは嘉兵衛だ。嘉兵衛は、一四の時から、小川町のペーロン船を、ずっと漕いできた仲間だ」

「それは、すごい。ペーロンは長崎の初夏の楽しみだからな。小川町は、なかなかに強いと聞いた事があるぞ。俺たち陸手町おかてまちの者は、見るのが専門だが、あれを漕ぐのは、さぞ気持ちが良いのだろうな。今年も出るのか?」

「そうでもない。漕ぐのはひたすら辛いぞ。今年は、俺は――」

 その時、嘉兵衛が俺の袖を引っ張った。もどかし気に、藤馬のほうをちらりと見る。

「兄貴、ちょっと……」

 どうやら、藤馬がいると話しづらい内容らしい。藤馬は軽く頷き、右掌を上に向けて差し出す。話してこい、という意味だろう。

 俺と嘉兵衛は、荒物屋と紺屋の間にある、小路の蔭に身を寄せた。道に人は疎らで、子供がきゃあきゃあ言いながら、猫を追いかけて走っていた。紺屋の、藍染の独特の匂いが鼻を突く。

 嘉兵衛は下を向いていたが、ちらと俺を見ると、呻くように言った。

「鉄杖の兄貴。小川組に戻って、ペーロン舟をこいでくれ」

 俺は言葉に詰まった。

「それは、俺一人では決められん。なんだ、何があったんだ?」

「まず、辰吉の兄貴が組を抜けた。しばらく前から、腕の調子が悪かったらしい。五日前の練習の時、もう櫂は握れないと」

 俺は些か驚いた。辰吉は五年もの長い間、舵取かじとりという、ペーロン船の操縦役を担ってきた。辰吉のお陰で、俺たちは安心して漕ぐことに集中できていた。

「--大丈夫だ。孫次郎が舵取りを習っていただろう。あいつならきっと上手くやる」

 嘉兵衛はごくりと唾を飲み込む。その刹那、俺はなぜか、背筋がひやりとした。

「ああ、解ってる。俺だって、勿論、勝つつもりだ。だけど……でも、もし負けたら……西濱町の連中に五十両、払わなきゃならねえ」

「まさか、賭博か?」

 嘉兵衛は、かっと目を見開くと、俺の両腕を掴んだ。急に、子供じみた声で喚き立てる。

「五日前、俺が飲み屋で、今年は最高の布陣だと。そう仲間と喋ってたんだ。そこに西濱組が来て――それであいつら、小川町の組は腰抜けだと言いやがった。それで、喧嘩になって……結局、賭けをさせられた」


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