表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/11

役者な藤馬

「ちょっとした細工だ。俺がこれから、遺体を見てくる。お前はここにいて、周防の顔を視認してくれ。頼むぞ」

 藤馬はそれだけ言い残し、さっさと人だかりの中心へ向かう。

「何用だっ、無暗に近づくんじゃない!」

 藤馬と遺体との間隔が半間ほどになったとき、町司が慌てて杖を向けた。分厚い体つきをしていて、眉が太く、唇の厚い男だ。

「無礼をお許しください。この女、某の妹かもしれないのです。どうか、傍に行かせてください。顔を一目なりとも見たいのです」

 藤馬はそう訴えた。見者衆たちは、事の成り行きに関心を惹かれたように、藤馬と町司のやり取りに聞き耳を立てている。しかし、町司は、にべもなかった。

「退けっ、身勝手な行いは許さぬ!」

 だが藤馬も、一歩もその場を引こうとはしない。きっと町詞を見上げると、嘆願の声を上げる。

「貴方にも、肉親を思う気持ちはありましょう。妹とは、同じ場所で育ち、同じ月を見、同じ山を見、成長してまいりました。しかし貧しい身の上、兄の某は貸本屋で見習いを、妹は遊女に身を窶すしか無かったのです、生きる術なく――どうか、顔だけでも」

 藤馬の演技は、なかなかに、真に迫っていた。草臥れた服装も、貸本屋という身分を演出するために一役買っている。町詞は、唸り、散司に目を遣った。

「――解った。少しだけだぞ」

 俺は周防の顔を見れるように、少し川上へ寄る。見者衆に交じり、ぐっと身を乗りだす。

 藤馬が、ゆっくりと筵を開く。

 女は、赤い襦袢姿だった。女の顔は赤黒く、右目の上には、何かをぶつけたような、二寸ほどの傷があった。しかしその女が周防であることは、誰の目にも明らかだった。

 刹那、周防の、生前の穏やかな微笑みが思い出された。

 不意に、虚しさが心に沁みる。遺体を見て初めて、俺はやっと、実感を伴って、一人の人間が亡くなったことの重さを感じた。

 藤馬が、こちらを、ちらりと見た。俺は、小さく頷いて見せる。

 と、今度は、藤馬は声を上げて泣き真似を始めた。ぎょっとしている町使に、藤馬は尋ねた。

「なぜ、この子は、死んでしまったのですか? 町使様、これは、事故ですか? まさか、殺されたのではないのでしょう」

 見者衆から、藤馬を憐れむような声が漏れた。町使も周りの気配に押され、藤馬に杖を構えながらも、困ったように太い眉を寄せた。割に、情にほだされやすい質なのかもしれない。

「わからないが、俺は、事故死ではないかと思っている。土手から落ちて亡くなったのだ」

「土手から落ちて?」

 藤馬が、遺体を見ながら呟く。

「落ちたなら、足や腕に、打ったり擦ったりした傷があるはずでしょう? ここのところ、雨が降っていないですから、土手から川底まで、三間(五・四m)はある」

 町使は眉根を寄せた。

「落ちていないなら――大切なものを落としたとかで、女は土手を下りた、というのはどうだ。その後、転んで、川岸で亡くなった」

 町使は、少し得意げに鼻を鳴らした。藤馬はさり気無く、遺体の襦袢の袖や裾を捲る。

「それはどうでしょう。この額の傷が死因なら、娘は前に転んだはずです。その場合、人は身を庇うために、手を前に出します。それなら、腕や掌に傷があってもおかしくはないはずですが、それがない」

 憤慨したような様子で、町使は遺体を指さす。

「それは、あるじゃないか。両の爪先と、両膝、両肘に、生々しい擦り傷と、痣が」

 その時、海側の道から、数人の話し声が聞こえて、俺は、はっとそちらを振り向いた。左手に石塀が続く道を、同心が他の町使二人を引き連れて、こちらに歩いて来る。

、同心まで来てしまったら、藤馬の行為は厳しく咎められ、面倒な事態になりかねない。

 藤馬まだ、遺体を熱心に見ている。藤馬は遺体の下瞼を引っ張りながら言った。

「膝に傷があるのはわかりますが、両方というのが変です。肘に傷があるのも解せません。それに、顔にある細かい擦り傷と、目の中の粟粒のような血の跡――」

「おいお前! 何をしている!」

 同心が叫び、俺は再び同心のほうに顔を向ける。その間隔は、およそ半町(五十五m)。

 遺体の傍にいた町使は、上司である同心の声を聴き、驚いて声のする方を見た。藤馬はすぐに立ち上がろうとしたが、町司が藤馬を、杖で押し戻す方が早かった。藤馬は身体の均衡を崩し、地に肩を留められたように、起き上がれなくなっている。

 俺は、咄嗟に大声で叫んだ。

「あ! あすこに諳厄利亜アンゲリアの船が!」

 町司も同心も見者衆も、ぎょっとして、俺の指さした沖の方向に目を凝らした。刹那、その場の皆が、何もない凪いだ海を凝視していた。

 前にいた男が、困ったように俺を振り向く。

「どこだ? 何も見えねえが」

 その隙に、藤馬が身をよじり、杖から逃れて起き上がった。

「沖のほうです」と俺は答えながら、藤馬の手を掴み、一目散に駆け出した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ