役者な藤馬
「ちょっとした細工だ。俺がこれから、遺体を見てくる。お前はここにいて、周防の顔を視認してくれ。頼むぞ」
藤馬はそれだけ言い残し、さっさと人だかりの中心へ向かう。
「何用だっ、無暗に近づくんじゃない!」
藤馬と遺体との間隔が半間ほどになったとき、町司が慌てて杖を向けた。分厚い体つきをしていて、眉が太く、唇の厚い男だ。
「無礼をお許しください。この女、某の妹かもしれないのです。どうか、傍に行かせてください。顔を一目なりとも見たいのです」
藤馬はそう訴えた。見者衆たちは、事の成り行きに関心を惹かれたように、藤馬と町司のやり取りに聞き耳を立てている。しかし、町司は、にべもなかった。
「退けっ、身勝手な行いは許さぬ!」
だが藤馬も、一歩もその場を引こうとはしない。きっと町詞を見上げると、嘆願の声を上げる。
「貴方にも、肉親を思う気持ちはありましょう。妹とは、同じ場所で育ち、同じ月を見、同じ山を見、成長してまいりました。しかし貧しい身の上、兄の某は貸本屋で見習いを、妹は遊女に身を窶すしか無かったのです、生きる術なく――どうか、顔だけでも」
藤馬の演技は、なかなかに、真に迫っていた。草臥れた服装も、貸本屋という身分を演出するために一役買っている。町詞は、唸り、散司に目を遣った。
「――解った。少しだけだぞ」
俺は周防の顔を見れるように、少し川上へ寄る。見者衆に交じり、ぐっと身を乗りだす。
藤馬が、ゆっくりと筵を開く。
女は、赤い襦袢姿だった。女の顔は赤黒く、右目の上には、何かをぶつけたような、二寸ほどの傷があった。しかしその女が周防であることは、誰の目にも明らかだった。
刹那、周防の、生前の穏やかな微笑みが思い出された。
不意に、虚しさが心に沁みる。遺体を見て初めて、俺はやっと、実感を伴って、一人の人間が亡くなったことの重さを感じた。
藤馬が、こちらを、ちらりと見た。俺は、小さく頷いて見せる。
と、今度は、藤馬は声を上げて泣き真似を始めた。ぎょっとしている町使に、藤馬は尋ねた。
「なぜ、この子は、死んでしまったのですか? 町使様、これは、事故ですか? まさか、殺されたのではないのでしょう」
見者衆から、藤馬を憐れむような声が漏れた。町使も周りの気配に押され、藤馬に杖を構えながらも、困ったように太い眉を寄せた。割に、情に絆されやすい質なのかもしれない。
「わからないが、俺は、事故死ではないかと思っている。土手から落ちて亡くなったのだ」
「土手から落ちて?」
藤馬が、遺体を見ながら呟く。
「落ちたなら、足や腕に、打ったり擦ったりした傷があるはずでしょう? ここのところ、雨が降っていないですから、土手から川底まで、三間(五・四m)はある」
町使は眉根を寄せた。
「落ちていないなら――大切なものを落としたとかで、女は土手を下りた、というのはどうだ。その後、転んで、川岸で亡くなった」
町使は、少し得意げに鼻を鳴らした。藤馬はさり気無く、遺体の襦袢の袖や裾を捲る。
「それはどうでしょう。この額の傷が死因なら、娘は前に転んだはずです。その場合、人は身を庇うために、手を前に出します。それなら、腕や掌に傷があってもおかしくはないはずですが、それがない」
憤慨したような様子で、町使は遺体を指さす。
「それは、あるじゃないか。両の爪先と、両膝、両肘に、生々しい擦り傷と、痣が」
その時、海側の道から、数人の話し声が聞こえて、俺は、はっとそちらを振り向いた。左手に石塀が続く道を、同心が他の町使二人を引き連れて、こちらに歩いて来る。
、同心まで来てしまったら、藤馬の行為は厳しく咎められ、面倒な事態になりかねない。
藤馬まだ、遺体を熱心に見ている。藤馬は遺体の下瞼を引っ張りながら言った。
「膝に傷があるのはわかりますが、両方というのが変です。肘に傷があるのも解せません。それに、顔にある細かい擦り傷と、目の中の粟粒のような血の跡――」
「おいお前! 何をしている!」
同心が叫び、俺は再び同心のほうに顔を向ける。その間隔は、およそ半町(五十五m)。
遺体の傍にいた町使は、上司である同心の声を聴き、驚いて声のする方を見た。藤馬はすぐに立ち上がろうとしたが、町司が藤馬を、杖で押し戻す方が早かった。藤馬は身体の均衡を崩し、地に肩を留められたように、起き上がれなくなっている。
俺は、咄嗟に大声で叫んだ。
「あ! あすこに諳厄利亜の船が!」
町司も同心も見者衆も、ぎょっとして、俺の指さした沖の方向に目を凝らした。刹那、その場の皆が、何もない凪いだ海を凝視していた。
前にいた男が、困ったように俺を振り向く。
「どこだ? 何も見えねえが」
その隙に、藤馬が身をよじり、杖から逃れて起き上がった。
「沖のほうです」と俺は答えながら、藤馬の手を掴み、一目散に駆け出した。