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「変わった図柄の、茶碗だなあ」

 俺は眉を顰めた。これもまた、悪餓鬼たちの悪戯に違いない。しばらく放っておいたが、今度の奴は諦めが悪いようで、門を叩く音は、なかなか止まなかった。

 もしかしたら、古町の善吉だろうか、と、俺は思い至った。善吉は、遠い親戚だ。賭博好きな男で、手持ちの銭をほとんどった時などに、俺の所へ、小金や食べ物をせびりに来る。

 戸を叩く音は止まない。俺は観念し、引き戸を少しだけ開けた。

「やめろ。俺は今、蟄居中で――」

 俺は言いかけて、止めた。引き戸の隙間から見えたのは、悪餓鬼でも善吉でもなかった。

 薄群青の単衣。結った総髪、垂れ目に釣り眉。落ち着いた表情でこちらを見つめているのは、通詞の神谷藤馬だった。

 藤馬は俺の手元をじっと見て、出し抜けに言った。

「変わった図柄の茶碗だな」

「いや、何の用だ?」

 神谷は、面食らっている俺を尻目に、するりと部屋の中に入ってきた。

「お前が蟄居中なのは知っている。だが、今すぐ出る支度をしてくれ。お前の身の潔白を示すために、行かなくてはならぬ場所がある」

「身の潔白だと? まさか、周防の件か」

 俺が眉間に皺を寄せると、神谷は軽く頷いて見せた。

「周防と思しき女が、今朝がた、岩原川の橋の下で死んでいるのが見つかった」

 藤馬から伝えられた事実に、胸がずきりと痛んだ。善良な人間が不意に亡くなるのは、どんな理由であれ、憐れを誘う。

 と、同時に、俺は自分の置かれた状況を、改めて鑑みる。

「――そうか。ではまだ、事故か殺人かもわかっていないのか」

「ああ。ただ、もし殺人と目されたのなら、お前ともう一人の番士が疑われるのは必定だ」

 俺は 周りの音が、一段、遠くなったように感じた。解ってはいたことだが、俺の立場は極めて不安定だ。

殺人犯は切腹か斬首、のみならず家族も連座で、切腹か遠島だ。頭の中に、次々に親兄妹の顔が浮かぶ。

 しかし、俺は、藤馬の落ち着き払った顔を見、ふと我に返った。

「出掛けると言ったが、どこへ行くつもりだ?」

大黒町だいこくちょうだ。遊女の遺体が上がっているから、まずそこへ行く。俺はあまり周防と関わりがなかったから、お前に顔を確認してもらいたい」

「それは、俺でなくてもよかろう」

「下手人は出島にいると、俺は踏んでいる。となれば、内密に事を運ぶ必用がある。それに、誠の下手人を見つけられれば、お前の猜疑も晴れる」

 猜疑、という言葉に、俺はどきりとする。我知らず、頬が少し引き攣る。

 藤馬はそれに気が付いたのか、下から俺を覗き込むようにして、俺を見詰めた。

「大丈夫。俺は、お前の身の潔白を、信じている。それに、eb je geen paard, gebruik dan een ezel.『馬がなければロバを使えばいい』。お前の嫌疑を晴らす方法は、いくらでもある」

 言い終わると、神谷は破顔した。それは、場に不相応なほど軽やかで、自信に満ちた笑みだった。

 何を根拠に、この男が、俺を信じると言っているのかは、不明だった。しかし、嘘をついているようにも、見えなかった。

 俺は、張り詰めていた自分の気持ちが、少しだけ緩むを感じた。いつの間にか俺は、周りの総てに疎外されているような気になっていたらしい。蟄居を命じられたあの日、俺は、心の底で、誰かが、俺を信じてくれることを願っていたのかもしれない。

 とはいえ、神谷に対する疑惑の念の総てが、消えたわけではなかった。通詞の藤馬にとっては、俺が罪人となる顛末のほうが、自分達に矛先が向かない分、都合がいいはずだ。

「お前の言い分は、解った。しかし、悪いが、そう易々とは助力できん」

 神谷は一つ息をくと、両肩を竦めた。妙な仕草だ。

「俺を信用できない気持ちもわかる。だが、岡っ引きに駄賃をやって、お前の場所を突き止め、ここまでやって来た俺の努力も、鑑みてもらえれば嬉しい」

「一刻ごとに、町司が見回りに来る。その時に、俺が家を空けているわけにはいかぬ」

「そうか。それは困ったな」

藤馬は、全く、何も困っていないような、のんびりした口調で言った。この気楽さは、生来のものなのだろうか。

 その時、不意に、扉を叩く音が聞こえ、俺と藤馬は、同時に、戸を注視した。戸の隙間から漏れ聞こえてきたのは、躊躇いがちな、蚊細い声だ。

「あのう……俺です、善吉です。賭博で負けちまって……へへ、鉄杖兄貴ぃ、飯、ありますか」

 神谷が俺に顔を向け、にやっと笑った。我が意を得たり、といった表情だ。

「ちょうど身代わりが来た。さあ、行こう」


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