――螺旋⑦ 喫茶店
2024年6月20日 修正。
――螺旋⑦ 喫茶店
――カラン、カラン。
大学の放課後、利佳子と待ち合わせた喫茶店へ入る。扉を開けると、懐かしい香りが広がる。
昔ながらのレトロな空間だ。
「ゆず葉〜」
利佳子が席について手を振っている。店内の客足は少なく、静かなジャズが涼しげだ。利佳子がみつけた隠れ家的カフェである。
「利佳子、ごめんね。遅くなっちゃった」
図書館へ本の返却をしてまっすぐここまで来たが、やはりすこし遅れてしまった。
「大丈夫、いま来たところ」
「サークル、今日は早く終わったんだね」
「うん。筋トレとストレッチだけだったからね」
利佳子は幼いころからダンスを習っていたそうで、高校でも大学でもダンス部に所属している。
「利佳子は、もう注文した?」
そう問いながら、椅子へ腰かける。
「うん、パフェ頼んじゃった。動いた後って、甘い物めっちゃ食べたくなる」
「わかるかも。私も絵を描いたあと糖分ほしくなる」
私はアイスティーとプリンを注文した。
「与那春樹さんのミュージカル、予約が9月からはじまるんだって!」
「そうなんだ、なんかワクワクしちゃうね」
利佳子も何氣に与那春樹さんに夢中なのかもしれない。いろいろ私の知らない情報を先取りしている。よほど楽しみなのだろう。
「ゆず葉、あんなにかっこいい人と目の前で会話できたなんて、超ラッキーだよね」
「利佳子も、すっかり与那春樹さんのファンだね」
「うん、彼はけっこう好きかも。ゆず葉もオーケーしてくれると思わなかったよ、公演見に行くの。やっぱり間近で会っちゃったから一目惚れした?」
「うん……そうかもしれない。もし、彼が俳優じゃなかったら、お茶に誘いたかったくらい」
彼のことを想像したら自然と照れた表情になっていた。
利佳子は、嬉しそうな声で、
「え? ゆず葉がそんな風に思うのって、すっごくめずらしくない⁉」
「たしかに男の人にドキドキしたの初めてだった」
目線を横にズラしながらそう答える。自分の正直な氣持ちを話すのは恥ずかしい。
「いいじゃん、いいじゃん‼ 俳優さんだって知らないでそう感じたんだから、ゆず葉はお目が高いね」
初めて好きな人ができた子から恋バナを聞いているかのように、利佳子ははしゃいでいた。実際、そうなのだが。
お目が高いわけでなく、好きになってしまうのは自然なことのように思えた。
「彼のこと、誰もが "いいな "って思うんじゃないかな。なんだか雰囲気が、すごく特別な感じした。一度会えば、忘れられないよ」
「な・る・ほ・ど♡ もうそれは、ゆず葉の初恋だね」
利佳子も、颯馬と同じ意見のようだ。
「やっぱりこれって、初恋なの?」
「そういうことにしておこう。それじゃあ、初恋の人に会いに行くために、早速、打ち合わせ開始♫」
「ふふ……そういうことにしておきましょうか」
利佳子はルンルンなまま、
「ゆず葉は、なにかバイト探してみた?」
「うん、探してみたよ。でも、そのまえに颯馬がいいお仕事紹介してくれて……」
のどが渇いてしまったので、ここで氷水を口に含んだ。
「え、そうなの⁉ どんなバイト?」
利佳子は興味津々だ。
「画材店のアルバイト。ただ、場所が大阪なの」
「大阪かあ……通うの難しそうだけど、どうするの?」
私はすこし窓の外を眺めて、考えながら答える。
「颯馬がうちに泊まって通えばって提案してくれたんだけど、もしそのお仕事が不採用になったら、こっちでアイスショップのアルバイトしようかと思ってる」
「え⁉ お、お泊り⁉⁉ 颯馬くんのうちに⁉⁉⁉」
「う、うん……」
利佳子が大声を出したので、すこし驚いてしまった。
それから彼女はさらに輝いた瞳で、
「きゃあああ、ついに、ついに♡ 颯馬くんといつの間に進展してたの!」
なぜか嬉しそうに両手を顔の横で組んでいる。まるで乙女だ。
「な、何が?」
私は彼女の喜ぶわけがわからなかった。
「何って、お泊りするってことは、ついに付き合うことになったんでしょ⁉ 初恋の人がどうのこうの言ってる場合じゃないじゃない。颯馬くんとラブラブだなんて」
利佳子は、おばちゃんがやりそうな「あら、やだ」といった仕草をする。
「え? そんなんじゃないよ。なんか颯馬、お仕事忙しくなるから夕飯作ってくれるなら来ていいぞ~みたいな感じだよ」
そう告げると、彼女のキラキラオーラが一気にトーンダウンしたのがわかった。
「そうなの? 本当にそれだけ? 颯馬くん、お仕事の紹介と、お泊りの提案してくれただけ?」
「うん」
ここで、利佳子のアイスコーヒーとパフェが登場してきた。
なんとも良い香りだ。
「わあ、おいしそう」
利佳子は、またキラキラする。
それから続けて、
「ゆず葉は、付き合っていない男の子の部屋へ泊まるのは平氣なの?」
「そういえば、昔はよく颯馬の部屋に泊まったり、うちに泊まりに来たりしてたけど、最近はないかな。たぶん高校のあの事件以来、一緒に寝たりしてないかも。でも、颯馬なら平氣だと思う」
私はあごに手をあて、考え込むようなポーズになっていた。
「え⁉ 一緒に寝たことあるの⁉」
と、利佳子がまたビックリ発言した際に、ちょうど私の注文も届いた。
私たちの会話が聞こえたのか、店員さんはニコニコしている。
その表情をみて、すこし恥ずかしくなった。
「うん、まあ、一応……。でも、そんなに変なことなのかな、それって?」
利佳子はパフェに手をつけたまま、ポカーンとしている。何かまたおかしなことを言ってしまったのだろうか。
「ゆず葉、ちょっと耳貸して」
利佳子が、こっちへ耳を寄こして、と手招きしている。
私は不思議そうに、彼女へ横顔を近づけると、
「もしかして、颯馬くんと初体験しちゃったの?」
と、利佳子が静かにささやいた。
私はその言葉で、ジャズが鳴り響いていることも忘れるほど、フリーズした。
「な、な、なに言ってるの⁉ 利佳子。そんなことするわけないよ‼」
利佳子は自分で質問しておきながら赤面しており、私もそれにつられて真っ赤になった。
「与那春樹さんのことより、まず颯馬くんとの問題のほうが先かもしれないわ……。もしかして、ゆず葉を部屋に誘ってるのもバイトを紹介したのも、本当は愛の告白が目的なんじゃない⁉」
「えええ⁉ そ、そんなこと……ないよ、たぶん。きっと……うん! ないない‼」
「でも、付き合う前に颯馬くんが手を出してくることも……」
今度は利佳子があごに手をあて、何やら一人でぶつぶつ考えている。
「だから~本当にそんなことないんだってば……」
私も利佳子も、デザートを楽しんでいる場合ではない。いろいろな妄想シーンが浮かび上がり、半分のぼせ状態だ。
「まあでも、颯馬くんてモテモテだけど、高校の時とか変な噂聞いたことないよね。けっこう硬派なのかも」
利佳子の言葉に頷けた。
颯馬は幼馴染という古い付き合いだけど、恋愛感情を抱いたことがない。もちろん、彼が本当はとてもかっこよくて魅力的な人物だということはわかっている。
いつもそばにいるのが当たり前で、なんでも互いのことを知っていて、私の好きなものまで、手にとるようにわかっているはず。
彼はむしろ、家族なのだ。お兄ちゃんなのか弟なのか、わからない。もしかしたら家族とはまたちがった感覚で、うまく言葉にできないけど、私の血が半分、彼に流れているのではないかと思うような、そんな存在。
だから、一緒のベッドで隣り合って眠りについても、夏の暑さで裸で過ごす彼が近づいてきても、大人がするような恋愛関係に落ちたことは今までなかった。
そしてそれは、これから先もそうだと、私は思っている――。
「ねえねえ、ゆず葉。颯馬くんのこと、本当はどう思ってるの?」
「どうって、幼馴染だよ」
利佳子がすこし真剣になっている氣がした。
「与那春樹さんと会ったときみたいに、颯馬くんにドキドキしたことある?」
「まあ、たまに頼りになるときはかっこいいなって思ったことはあるけど、与那春樹さんみたいに雷が落ちてきたような刺激やドキドキは感じたことないかも」
颯馬にドキドキしたこと……本当にあるのだろうか? 衝撃的なことはなかったとしても、きっと、どこかで彼とドキドキしたことは、胸の内にしまい込んだままなのかもしれない。
「なるほどね~。じゃあ、お風呂は一緒に入ったことある?」
「な、なに急にその質問」
「もうこの際だから、全部聞いてみたくなって♡」
利佳子にはさきほどの恥じらいや真剣さは微塵も残っておらず、むしろ楽しそうに質問しはじめた。
「まあ、入ってたことはあるよ」
「いつまで一緒に入ってたの?」
何を期待しているのか、彼女の周りにはハートがたくさん飛び交っている(そんな氣がする)。
「小三のときに数回だけだよ。颯馬がクラスの男子に、”女子と一緒にお風呂入ってる”ってからかわれて以来、入ってないかな」
「な~んだ、つまんない」
今度は不服そうにほっぺを膨らませていて、可愛らしい。
「つまらないって、利佳子……」
思わず笑ってしまった。
利佳子の質問攻撃は続いた。
「キスは⁉」
「したことないよ」
「手を繋いだことは?」
「ん~あるかな?」
「じゃあ、抱きしめ合ったことは?」
「う~ん、ないと思う。あるかな? わからない」
「それで、一緒に寝たことはもちろん?」
「何回もあるよ」
あ……でも、これは私の勘違いかもしれないけど――。
夏の暑い日、颯馬の部屋にはクーラーがないからと、彼はしょっちゅう私の部屋へ転がり込んできた。
体育の授業が終わった日の夕方は特に疲れていて、私はシャワーを浴びた後、ベッドでよくうたた寝をしていた。颯馬はいつの間にか現れて、私の隣にくる。
記憶も曖昧なまどろみに沈んでいく中で、彼は私の額にキスをしてくれた。おでこに触れたやわらかな感触がそのまま、残っていたように思える。
あの額のキスは、夢だったのかな? それとも――。
「あんたたち、本当に非常識コンビよね。与那さんにはときめいて、颯馬くんとそれだけのことしておいてドキドキしないんだから、いろいろめちゃめちゃだわ」
「幼馴染ならよくある話だよ」
「幼馴染以上、恋人未満って感じ? 幼馴染もある意味、やっかいな関係だよね」
もし颯馬を好きな子がいたら、私の存在は曖昧過ぎて迷惑なのかもしれない。
「颯馬は、家族みたいなものだから」
私はまた窓の外へ視線を送りながら、アイスティーでほてりを冷やす。
「でも、これから先はどうなるかわからないから、また颯馬くんと何か進展あったら教えてね♡」
利佳子は、可愛らしくウインクした。
彼女が期待するような何かはきっとこの先ないと思う。でも、それは私だけがそう感じているのかもしれない。それよりも、与那春樹さんへの漠然とした期待が小さく光っていること、これも胸の内に留めておいた。
「アルバイト計画の打合せだったのに、なんだか別の話になっちゃったね。ごめん」
私はここでようやく落ち着いてプリンを一口食べた。
「いいの、今日はいろいろおもしろネタが大収穫だったから! 颯馬くんのこと夏休みに、い〜っぱい揶揄ってあげるんだ♪」
利佳子がなにか不敵な笑みを浮かべて、いつにも増して楽しそうだ。「くくく」と心の声が聴こえそうなほどに。颯馬が彼女にいじられている光景が目に浮かんでくる。
利佳子は、颯馬とは仲が良いけど、他の誰かと特別な関係を聞いたことがない。
「利佳子は、誰か特別な人はいないの?」
彼女は一瞬とまって、アイスコーヒーに手をかけた。
「うん、いまのところいないかな。でも、もう大学生になったし、来年は成人でしょ? だから、きっと素敵な恋をみつけようと思ってるよ」
「ふふ、そっか。良い人みつかるといいね」
互いに微笑んだ。利佳子は静かにうなずいて、アイスコーヒーを一口。
「じゃあ、とりあえずゆず葉は画材店でバイトするかもしれないってことだね~」
「うん。利佳子は、なにかいいお仕事みつかりそう?」
彼女はニコっとしながら、
「私は、レストランで踊らせてもらえるかもしれなくて、いま交渉中」
「レストランで踊り子⁉ すごくいいね♫」
「へへ、でしょ〜。実はこのあと、ここのオーナーさんとも交渉するつもりなの」
彼女はすでにパフェを平らげていた。いつの間に……。
「あ、じゃあ私急いで食べないとだね。ごめんね」
私は慌ててプリンを口に運ぶ。
「大丈夫だよ、ゆず葉はゆっくり食べてて。たぶん私、交渉するのに時間かかると思うから、先に帰っててね」
利佳子は腕時計をみると、肩に鞄をかけ、席から立ちあがった。
「それじゃあ、またね。ゆず葉」
「うん、頑張ってね。お仕事決まったら私も連絡するね」
「ありがとう! 颯馬くんとがんばってね♡」
「ふふ。何もないよ」
「期待してる、バイバイ」
利佳子はそれから、店の奥へと姿を消す。
私はしばらく、外の景色を眺めた。夕に染まった店内には、やはり静かにジャズが流れているだけだった。
美しいと思えた。この切り取られた時間と、夏の空と、私の瞳と。
あのときのようだ、与那春樹さんと一緒に流れた――。
テーブルを彩る赤い光をそっと手にとった。もしカウンター側から、与那春樹さんが私を眺めているならば、この掌をゆっくり開いていくことで、その中に燃える太陽と放射するまばゆさが描かれていただろう。
そのまま自分の鼓動を確かめ、天井を仰ぎながら、深く深く呼吸を繰り返した。