64.猫にごはん
ミルク粥――加工した麦の一種をミルクで煮たものだ。病人食としては珍しくはない。野菜や肉を足したり、出汁に何を使うかによって、作る人や家庭ごとの個性が出る。
もっとも、わたしは食べたことがない。
たぶん、レッドも食べたことはないだろう。
獣人は滅多なことでは風邪を引かないし、そもそもミルクも安くはない。
貧乏人は、病気になってもいつもと同じように、カビる寸前のパンや生水を飲んで過ごすしかないのだ。
(それだって、食べられればいいほう)
貧民街の住人は、怪我や病気の度に蓄えを使い果たしてしまうから、いつまで経っても生活を変えることができない。蓄えがないから今の仕事を休めない、辞められない、新しい仕事を探す余裕もない。ついでに引っ越し資金もないから、貧民街から抜け出すことができないのだ。
わたしが蓄えを作ってアトリエを借りられるようにまでなったのは、一重に健康な身体があったからだ。
子供のころに大病をしたのが嘘のように、今では丈夫で健康になった。
(健康と言っても限度があるでしょうけど……)
病魔と毒への強力な耐性と、異常なほどの回復力――を通り越して、欠損部位の再生までするとあっては、もはや化け物だ。
(お父様が「秘匿すべき化け物」として存在を隠そうとするのも無理ないわね……)
わたしは“恩寵の右目”を得てから、病気になったことがない。怪我も毒も病も、わたしを害することはできなかった。
十年以上かかってわかったことは、この“恩寵の右目”はあくまでも眼球であるということと、わたしを健全な状態に保ってくれる――守ってくれるものだということだ。
スキルのような特殊能力を秘めてはいるけれど、あくまでも“眼球”であるから、見えないものは見えない。索敵するにしても、遠見の能力を使うにしても、背後は見えない。左側も見づらい。そして視界の良好具合と視野がそのまま能力に影響する。
中途半端なこの能力は、普通の冒険者には必ず馬鹿にされた。
『はあ? 後ろが見えねえって何のための索敵能力だよ。そんな半端な能力あっても意味ねえだろ』とか『見えるだけで聞こえない? 何それ、意味なくない?』とか、散々言われた。
索敵スキルの一種だと説明するしかないから、どうしてもそうなる。
かと言って、テイム系のスキルだと説明しても、冒険者の間ではテイマー自体が底辺ジョブだから、どちらにせよ嫌われる。
本当はスキルでもないのかもしれないけれど、それを判別するためには高い料金を払って教会で鑑定魔法をかけてもらうしかない。
わたしは子供のころの“鑑定の儀”で一度見てもらったきり、再鑑定を受けていないから、右目の能力が本当は何という名前かも知らない。“恩寵”というのは、わたしが勝手に名付けた名称だ。
(お祖母様が授けてくださったというから、感謝の意味を込めてそう名付けてはみたけれど……)
だから、辺境へ行ったらお祖母様に会いたい。会って、お礼を言いたかった。
(お父様がハーフエルフの特徴を持っていない理由も、聞いてみたい……)
辺境のお屋敷まで行ったら、優しいお祖父様とお祖母様がいるのだろうか……?
だったらいいな、という期待が辺境行きを命じられたわたしの唯一の心の支えであり、希望の縁でもあった。
リオンさんの――リオンの携帯用の焚き火台を借りて、一緒に小型の一人用の手鍋も借りてミルク粥を作った。
具なんて入っていないけれど、ミルクが使われているだけで十分だ。すでに加工されているロールドオーツだから、煮えるのも早い。
「ありがとう。リオンの魔法鞄には何でも入っているのね」
言われた通り、ファースト・ネームを呼び捨てにした。
もう仕方がないので、なるべく親しくならないよう、距離を置くことは諦めた。
条件の裏に何があったとしても、また騙されたとしても、レッドが楽になるならそれでいい。
「全部、実家から勝手に持ち出してきた物と、親の金で買ったような物ばかりだから、自慢できることじゃないけどな」
「こいつの小遣いの額、聞いたら驚くぞ」
部屋の端でコーヒーをすすっていたクロスが茶々を入れる。
「やめろよ。小遣い制っていうだけで、貴族の間では貧乏の象徴なんだぞ」
「ほらな。根本的に常識がおかしい」
そうかもしれない。
貧しい平民の子供は、小遣いさえもらえない。小遣いの概念さえないのが普通なのだ。
少し裕福な商人の子供で、ようやく屋台で買い食いできる程度の小銭をもらえる。
平民はミルクを配達はするものの、そのミルクが自分たちの口に入ることはない。ミルクを配達してもらって毎日のように飲むのは、貴族と裕福な商人の家くらいだ。
小遣いを与えられている時点で、冨貴なのだ。
寄宿学校でもそれは同じで、金額の単位が違うだけだった。
小遣いの額で実家の格や財力を競うのは平民出身の生徒だけで、貴族の子女は小遣いを持たないのが普通だった。上下関係を示したいなら、爵位(実家の)がある。
貴族は現金を持ち歩かないものだ。買い物をするなら、お金のやり取りは側仕えの従者にさせるか、全部ツケで支払う。
身分が上がれば上がるほど、ショッピングという行為自体も珍しいものになり、屋敷に御用商人を呼びつけるのが当たり前になる。
食器類などの最低限の日用品は持って出てきていたので、愛用の木椀によそってレッドの側へ持っていく。
この木椀も匙もレッドのお手製だ。
わたしがレッドに与えていた仕事は、アトリエの警備だったから、空いた時間で色々と内職をしていたらしい。
レッドは手先がとても器用なのだ。学はないけど、気が利くし賢い。盗賊は戦闘向きのジョブではないけれど、わたしにとっては十分だ。レッドを従者にすることができたのは、わたしの人生で一番の幸運だった。
「レッド、ごはんできたよ。起きられる?」
「腹減って死にそう……」
弱々しい声が返ってきた。
「待たせてごめんね」
木椀と匙を渡そうとして、はたと気づいた。
「レッド、爪が……」
両手の爪が、半獣化で鋭利に伸びたままだった。これは戦闘の役には立つけれど、匙を握って食事をするのには不向きだった。
「……」
難しい顔をしてレッドが自分の指先を睨みつけ、黙り込んでしまった。
そう簡単には引っ込められないようだ。
「大丈夫……なんとか……」
匙を握ろうと試みて、確かになんとか握れて――というより摘むことはできているけれど、とても不安のある持ち方だった。
「見てられないわね」
わたしはレッドから椀と匙を取り上げた。
「貸して。――ほら、あーん」
食べさせてあげるから、大人しく口を開けと命令した。
一匙分の粥を掬って、ふーふーと息をふきかける。
レッドは「え」とか「う……」とか言ってたけれど、十分に冷ました粥を口元に突き付けると、空腹には勝てなかったのか、無言で匙を口に含んだ。
「はい、よくできました」
「……」
その後も黙々と粥を掬って、冷まして、レッドの口元へ運ぶ作業を繰り返した。
「アリアは……食事は……?」
「わたしはもういただいたわ」
「そう……か。なら、いいか」
宿に入ってから夜を越し、朝を迎え、昼になった。
その間、レッドは何も食べていなかった。
正確には、盗賊の襲撃があった日――前日の朝に、頂き物の果物を少し食べただけだ。昨日のお昼は食べ損ねた。
丸一日以上、何も食べていないのだ。
よほどお腹が空いていたのか、レッドはミルク粥をぺろりと完食した。
そのとき、リオンがとんでもないことを言い出した。
「ねえ、君たち、付き合ってるの?」
食後に水を飲んでいたレッドが、激しくむせた。
粥を食べている最中でなくてよかったと、ちょっと思った。
「あんた、何バカなこと言ってんだよ……!」
「違うのかい?」
「当たり前……だっ」
大声を出したせいか、レッドは再び脱力したように寝台へ倒れ込んだ。
「甲斐甲斐しく世話されてるから、てっきりそうなのかと」
言外に「奴隷のくせに」と聞こえた気がした。
リオンに悪気はないのだろうけれど、やはり一般的にはそう見えるのだろうか。
主人が手ずから奴隷を世話するというのは、かなり異常なことなのだろう。
愛玩用の奴隷でも、その世話をするのは別の奴隷の仕事であり、主人が自ら看病するようなことはないと聞く。
(ましてや……)
主人に対して「腹が減った」と食事を強請る奴隷も珍しければ、主人の手を煩わせ、看病までさせていることを自然に受け入れる奴隷も珍しいのだろう。普通は熱があっても怪我をしていても、意識がある限り激しく遠慮するものだそうだ。
(わたしはレッド以外の奴隷を持ったことがないから、よく知らないけれど)
「俺は奴隷だ。そんなこと、あるわけ……」
長く喋るのは、息が苦しいようだった。
「なんだ、駆け落ちでもしてきたのかと思ったのに」
「てめ……っ、そんなこと、あるわけねえだろっ! 舐めたこと言ってんじゃねえよ!! そんっな……そんな主人に対して失礼なこと、二度と言うなよ!!」
動けるようになったら覚えてろよ、とレッドは怒った猫のようにまだ唸っていたけれど、それ以上の言い合いはわたしが止めた。これ以上はレッドの負担になる。
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