136.哀れみ/クロス視点
殴られる痛みも、物乞いをする惨めさも、寒さと空腹で眠れない夜の辛さも知っている。
それは到底、アリアのような才能ある少女が受けていい痛みではない。
ましてや、冒険者でもない年頃の娘が、平気で自分自身を切り付けられるほどに、痛みに慣れていていいはずがない。
暴力と隣り合わせで育つ貧民街の子供や、殴られ慣れた獣人奴隷とは違う。
幼いころは伯爵家の令嬢として育てられ、三流の寄宿学校とはいえ学校にも通い、十分な教育を受けた娘である。
それが突然、物乞い同然の下働きに身を落とさねばならなかったとは、どれほどの苦痛だったことだろう。
(最初から富貴の生活など知らなければ、あるいは辛さも半減したかもしれないが──)
アリアは幸か不幸か伯爵家に生まれた。
無知な平民とは違う。
自分がどういう境遇に置かれているか、理解していたはずである。
それが、当たり前のように率先して雑用をこなし、冷めた目をして手に傷を拵え、たった一枚残された思い出のドレスさえ、躊躇なく処分しようとする。
(年頃の女なら、たとえ二度と着る機会がなくとも、取っておきたいと願うものではないのか……?)
普段着の一着や二着ではないのだ。
貴族令嬢としてデビュタント・パーティーに出たときの──最初で最後のパーティーの記念だというではないか。
少なくとも、オレの姉貴やお袋なら記念に取っておこうとするだろう。
そもそも、荷造りの上手い従者が、必要なものだと判断して持ち出したのだ。アリアにとって、大切なものであることは間違いないだろう。
虹色の魔石ビーズが散りばめられた、見事な出来栄えだった。
アリアの両親は、仕送りもドレスの準備も何もしてくれなかったから、全て自分で用意したのだと言っていた。
古着を取り扱っている市井の店で、傷んだ安いドレスを買い、自分で仕立て直し、取れてしまったガラスビーズの代わりに、自分で生成した色付きの魔石を代用品として補ったのだ、と。
どれもこれも、まともな伯爵令嬢がやることではない。
百歩譲って、貧乏男爵家辺りならあり得なくもないかもしれないが、それでも乳母かメイドか、誰かしらが手を貸してくれたはずだ。
アリアは、オレが生成魔石について言及すると、魔石偽造の罪に問われると思ったらしい。
(販売目的でなければ、罪には問われないと言ったんだが……)
少しでも厄介事を呼び寄せる危険性があるのなら、とアリアは即座に焼き捨てることを決断した。
オレが魔法でシミ抜きをしてやったら、大事なものだからと喜んでいたのに、だ。
(哀れな娘だ)
大事なドレスの一枚さえ、持っておくことを許されない。
苦労して仕立て直しただろうに、身の安全のためには呆気なく処分せざるを得なくなる。
何より、そこで躊躇なく処分するという選択ができてしまう精神こそが哀れだった。
思い出の品を慈しむ余裕など、自分にはないことを、とっくに飲み込んで割り切ってしまっている。
継母に付け入る隙を与えないためだけに、魔石偽造の容疑をかけられそうなビーズを、思い出のドレスごと焼き捨てようとした──そんな少女を哀れまずして、何が貴族だ。
オレは生粋の貴族ではないが、幸いにして今なら、金と身分がある。孤児だった子供のころ、魔法の才能を買われて侯爵家に引き取られたからだ。
オレ以上の魔力と才能があるアリアには、同等かそれ以上の待遇が与えられて然るべきだ。
ひっそりと辺境で一生を終えるなど、あってはならない。
(何より──)
あれは、放っておいたら死んでしまう。
この娘は、歴戦の戦士にも似た気構えを持っている。負傷した手足が動かなくなれば、腐り落ちる前に自ら切り落とす覚悟がある人種だ。
暴走した魔力を制御できないとなれば、自ら命を絶つことも辞さないだろう。
正しく導いてやらなければ、天属性という才能に振り回されるか、騙されて都合よく利用されるのがオチである。
最悪なのは、邪教徒どもに目を付けられることだ。
邪神復活の依り代にされ、世界に災厄を振り撒く存在になるくらいならば、アリアは確実に死を選ぶだろう。
それだけは避けなければならない。
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