深緋
お前はわたくしのものなのだから。
お前の声はわたくしのものなのだから。
お嬢様に与えられたその言葉は、生まれて初めての贈り物でありました。
お嬢様に拾っていただいたその日に与えられた言葉は、ともすれば呪いの如く私を縛っていたのかもしれません。
私はお嬢様によって救われ、お嬢様といることを許され、最期までお嬢様とともにあることが叶ったのです。
私の中に生まれていた感情はお嬢様への感謝と尊敬と憧れと親愛、それだけでは語り尽くすことなどできません。
お嬢様ほど私を想ってくださり、お嬢様ほど私が想った方はただ一人として存在しなかったでしょう。
お嬢様との生活は安穏で、朗らかで、静かでありながらも刺激的で、心地好く、楽しいものであり、私には勿体ないほどに満ち満ちたものでありました。この時間が永遠に続くように思われる一方で、やがて訪れ得る終焉が不意に頭を過っては得も云われぬ寂しさと苦しさに苛まれるのでありました。
それでもお嬢様と過ごした幾許かの時間は、私にとって最上の幸いであり、私ほど恵まれた人間はいなかったと、火中に取り残された今振り返っても断言できるのです。
「お父様。お母様。この娘をわたくしの世話人にしたいのですけれど」
お嬢様に連れられた私は拾われたままのみすぼらしい格好で、お嬢様のご両親へ顔を合わせることになったのでした。
正面に座る旦那様と奥様が私に向けた視線には様々な感情が混ざっているように思われました。軽蔑、呆れ、諦観、嫌悪。すべてが私に向いているわけではないようでしたが、その理由も後に理解することができました。
お嬢様、私、一人の女中が横並びになるのを一瞥し、わかったから早く出て行けと聞こえぬほどの掠れ声とともに手を払う旦那様の反応を予め知っていたようなお嬢様の片頬笑みが印象的に美しく残っております。事実そこまで含んでお嬢様は私を拾ったと仰っておりました。退室する際、女中に残るよう告げたのも部屋を掃除しておくように、ということだったと聞かされました。それほど私の格好は惨憺たるものでした。襤褸には汗や泥や埃が染みを作っており、私自身お屋敷へ立ち入ることに躊躇いを覚えるほどでありましたから、家人にとっては一層のことでしょう。
お嬢様は過去にも同様の突飛な行動をなさったことがあるようでした。以前には書物の類であり、時には抱え切れぬほどの植物であり、別の日には犬猫などの生き物であり、今回は人間でありました。それを詮無しと受け入れてしまう旦那様方もお変わりと云えばお変わりかもしれませんでした。
とまれ、聡いお嬢様でありますから、身寄りのある者や雇い主のある者を浚ってくるはずはないと、信用はされていらっしゃったのでしょう。そもそも私ほどみすぼらしい格好をしたものであれば、心配は別のことに及ぶと想像に難くありません。
それでも可愛い末っ子たるお嬢様の機嫌を損なわぬよう、お二人も頭が痛いようでありました。
斯くして身寄りなくあった私はお嬢様のいらっしゃるお屋敷で生活することを許されたのでありました。
初めに命じられたことは身を綺麗にすることでした。しかし昼から湯を沸かすわけには参りませんから、汲んだままの井戸水を湯殿に運び、手拭い、浴びるという程度でありました。池の水とは異なり、たったそれだけでも身体が綺麗になるに連れ心まで濯がれるような気が致しました。
水浴びの間にお嬢様は私の襤褸を処分し、ご自身の美しい衣を宛がってくださいました。私には過ぎたものでありましたが、一着すら衣を持っていない私は恐縮し申し訳なさを抱きながらも、ありがたく頂戴致しました。
身を清め、幽かに香りの移った衣に袖を通す中でお嬢様は、あの言葉を私に囁いたのでありました。
お前はわたくしのものなのだから。
お前の声はわたくしのものなのだから。
だからわたくしと二人の時でない限り、周りに人がいる時に、お前は声を出してはなりませんよ。
耳朶を打つ朗らかな声に呆けているとお嬢様の硝子玉めいた瞳が眼前で煌めき、私を捕らえ絡めるのでした。
自分が誰かに必要とされたことをぼんやりと理解し、仄かに頬が緩んでいたのを見つかっていたのかもしれませんが、お嬢様は変わらず静かな笑みを浮かべていらっしゃいました。
お屋敷の内をお嬢様に付き添って巡る間にも、幾人かの女中と擦れ違い、興味深げに、はたまた素っ気なく、眼を向けられるのは些か以上に落ち着きませんでした。
「お客様でいらっしゃいますか?」
一人が尋ねた折に新しい世話人だと紹介され、口が利けませんからお前たちにも迷惑を掛けるかもしれませんけれど容赦なさい、と有無を云わせぬ言葉に、彼女らは恭しく頭を下げておりました。
先程同席していた女中とも出逢い、お礼を述べていらっしゃいました。私が仕事を憶えるにあたって面倒を見てくださったのがこの由果さんであり、彼女は常々私を気に掛けてくださいました。
しかしながら最終的に私の仕事は家人のお世話と云うよりも寧ろ、お嬢様の話し相手と云う方が正鵠を射ているかもしれません。聞けばお嬢様は聡明ながらも大いに気分屋の気質があり、その気紛れのために様々のことを起こした過去があったそうです。
お嬢様に傅く女中は複数ありましたが、お嬢様に苦手意識を持っている方もいらっしゃいました。お嬢様の眼差しが苦手、少しの沈黙も怖いのにずっと黙りきりのことがある、気紛れがまさか自分に向かないだろうか。やはりお嬢様への畏怖が大きかったようでした。
有無を云わせない鋭さに加え、嘘をつこうものならば非常にお怒りであり、淡々と事実を述べることをお嬢様は好みました。女中が言葉や表現を十重二十重に繕うとするのを好まず、それ故お嬢様と対した際の苦手意識が絶えることはなかったそうですが、由果さんは器用に立ち回っていらっしゃいました。
私がお嬢様に声を気に入っていただいたように、由果さんもまたお嬢様にとっての特別をお持ちの方のように見えました。
当初こそ家内のことについてもお手伝い致しましたけれど、要領の悪さと意思疎通の困難からすぐにお役御免となり、ある日聞こえてくる女中たちの会話には、私が雇われた理由を疑う声が少なくはありませんでした。一方で、お嬢様に会う機会が減ったのは物怪の幸いと云う者もありました。
嫌でも聞こえてくる由無し事をお嬢様はくすくすと声を立て上品に笑っていらっしゃいました。
あらあら、そんなことが。楽し気にも見え、呆れているようにも見え、所在無げにしていた私を傍に引き寄せて慰めてくださいました。
謂れのないことで傷つく必要はないのだよ。
はたとお嬢様の美しい顔が私の眼前へと迫り、思わず逸らせた頤に白魚の指が回り私の視線を奪いました。
お前は女中たちとわたくしのどちらを選ぶのだ?
それはお嬢様の気遣いであったのでしょう。
女中たちの話や過去の出来事から、お嬢様は苛烈で口数が多く賑やかな方かと思っておりましたけれど、お嬢様は口数が多い方ではありませんでした、どころか寡黙な方でいらっしゃいました。
文机に向かって本を読んでいることが多く、時には縁側に出て、時には静かな庭を歩くことを好む方でありました。お嬢様の部屋は旦那様方のいらっしゃる母屋から離れたところであり、母屋よりも蔵が近く、雪見障子を閉ざしてしまえば生活音すら届かない静かな場所でありました。そこでお嬢様は鳥の囀りを、木の葉のそよぎを、小鳥の羽音を、漂う花の香を、揺蕩う鯉の鰭を楽しんでいらっしゃいました。
私は隣に並び、あるいは正面に控え、あるいは別室に控えておりました。
こちらの離れに部屋を与えられている者は由果さんと私の二人だけであり、それを含めてお嬢様の気紛れ相手と云うことが伺えるやもしれません。
お嬢様は夜の早い方でしたけれど、屋敷中の灯りが消える頃、部屋に訪うよう私に告げることが度々ございました。由果さんはお屋敷へ通っている方でしたから、この時刻になれば私の声を他の者に聞かれる心配もなく、周囲に気を遣る必要がなかったのです。
障子戸を小さく叩きお嬢様の回答を待ちますが、行燈の灯が揺らめく室内からお嬢様の声は聞こえませんでした。以前にも同様のことがあり、今後は返事がなくても入って構わないと伺っておりましたので、今宵も私はお嬢様の返答を待たずに入室し、蒲団で御寝るお嬢様の姿を認めました。眼を閉じ身動ぎもせず、既に眠っていらっしゃるのかと傍に膝行り寄り、様子を窺っておりました。
行燈の揺らぎに合わせて長い睫毛の影が伸び、すっきりとした頬の輪郭を静々と見つめるのです。明滅する灯火が届くお嬢様の顔は普段の顔よりも妖艶に映り、照らされながら夜に浮かぶ白い膚は蒼褪めながらも婀娜めいて見えました。
動きを待ち、言葉を待ち、どれだけの時間が経過したでしょうか。
この第一章を読みなさい。
不意に可愛らしい口唇が開かれるとともに、お嬢様が蒲団から取り出したのは一冊の本でありました。年季のいった、陽に焼けて表は色褪せ、少々黴っぽい匂いを漂わせ、処処解れも見られ、さらりと指に馴染む、布めいた滑らかさがありました。最近の本でないことは明瞭でした。題名すら判然とせず、表紙に描かれたのが緑と赤の手毬らしいことは知れましたが、それすら当初の鮮やかさからは懸け離れていたことでしょう。
お嬢様は再び蒲団に腕を潜らせて眼を閉じていらっしゃいます。他には何も云わず、私を待っていらっしゃいました。
「何をしているのですか。早く読みなさい。お前の声で聞きたいのです」
本を受け取ったものの口を噤んだままの私に痺れを切らしたようにお嬢様が眼を開き、そこにあったのはいつにも増して鋭い、射貫くほどの冷たさでした。私はお嬢様の言葉を受けても応えることができず、しかし眼を逸らして逃げることもできず、お嬢様のお顔を静視することしかできませんでした。
身を起こし、顔に垂れた艶やかな緑髪が透ける膚に美しい対比を描いておりました。
「何を黙っているのです?」
蒲団からずいと這い出て私の顔を覗き込むお嬢様から漂う高貴な芳しさに、私はどきりとし、幽かに覗く白歯には寒いものを感じました。
「わたくしの言葉が聞こえないのですか?」
嘘を嫌うお嬢様に対し、私は沈黙の果てに、なにゆえ口を噤んでいるのかを白状致しました。
暫しの静寂の明けに大きく息を吐いたのは、考えを整理するためか、あるいは落胆でしょうか。私にはわかりかねますが、今一度静かに顔を上げたお嬢様は鋭さを消した柔和な調子で私に囁いたのでした。
そういうことは早く云いなさい。
そして明くる日から、お嬢様による手習いが始まったのです。
初めはいろはから、お嬢様が言葉にしながら筆を運び、一つ一つ示してくださいました。筆捌きの妙はうっとりするほど鮮やかであり、濃い墨の色が映るかと思われる白魚の指には官能的な趣がありました。さらさらと滑る筆は幻想そのものであり、私は文字を憶えることを忘れ、美しい所作に魅入っておりました。
一巡書き終えたお嬢様は自身の文字を隣へ、私へ筆を持たせると背に回り、弐人羽織よろしく手取り足取り筆の運びを教えてくださいました。添えられた手は雪のようにひんやりと熱を奪って私の手を導き、紙の上に文字を綴って参りました。
二人で綴り、やがて一人で綴り。
お嬢様の導きを失った私の筆は行方に惑い、ぎこちなく紙に広がる黒墨は時には文字とも呼べない染みを広げておりました。
同じ筆にも関わらず一人での取り扱いは難しく、一向に思い通りに動いてはくれませんでした。
女中が走り回り、由果さんがお嬢様の世話をし、片や私はお嬢様に面倒を見ていただくという倒錯した状況でありました。手習いの最中に由果さんがいらっしゃった時には、自分が代わりましょうと提案されたものの、お嬢様は首を縦に振ることはなく、私の先生は終始お嬢様であったのです。その後も私への手習いは長きに亘って続き、それ故に私も一層熱心に文字を憶えることに励みました。
仮名を読めるようになった私にお嬢様は改めて読み物を差し出しました。それは草双紙や絵本をお嬢様が自らの文字に置き換えた手製の綴じ本でありました。
読むよう命を受けた私は、お嬢様の文字に指を重ね、慈しむよう一文字一文字なぞって音を紡いでおりました。
まずは一巡通しで読んで。もう一度通しで読み直し。お嬢様の良しが出るまで、私は繰り返し繰り返し同じ一冊を読み続けておりました。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目に至るほど自分の声が滑らかになるのがわかり、お嬢様の指導に報うことができた誇らしさがありました。
やがて部屋に戻るよう申しつけられた私は、お嬢様の書き物とともに蒲団に潜り、何度も何度もお嬢様の文字に指を重ねては、幽かに残る墨の匂いを感じながら朝を迎えるのでした。
文字の手習いには少しずつ漢字も混ざり始め、お嬢様とともに街へ出た時の感動を私は忘れないでしょう。お嬢様に拾われてから未だ屋敷を出ていなかった私は、街に踊る文字を理解することができたのです。拾われる以前と世界は変わっていないはずが、私の世界は紛れもなく変わっていたのです。
私の瞳に爛々としたものを見たのでしょう。お嬢様は頬を緩め、そっと眦を下げたのでした。
とある店の軒先でお嬢様を待つ間、私は往来を眺めては市井の人々の様子を見遣り、両親に手を引かれる幼子を見ては、何かが違っていたならば自分も同じような道を歩むことができたのだろうかと、遠くなってしまった過去を思い返しておりました。
「しばらく見ないから野垂れ死んだかと思えば。その着物はどうした、どこかで盗んできたのか?」
不意に掛けられた声の先には肉の肥えた年寄りが立っており、上から下へ値踏みするように睨みつける下卑た視線は私をぞっとさせました。男の口振りは私のことを知っているらしく、余計に私を恐れさせました。太く短い指が握る煙草はしけもくと云うまでに燃え、嫌な臭いを吐き出しながら下品な笑みを貼り付け私へと歩み寄ってくるのでした。
先刻までの幸福な気持ちを台無しにするように厭らしい笑いを続け、私の眼前へと煙草を突き付けたのでした。煙の一流れが鼻腔を冒し、袖で口を覆えばお嬢様の香りが私を守ってくれる一方で、お嬢様さえ穢される思いがして、嫌悪を抱かずにはいられませんでした。
脂で黄ばんだすきっ歯から漏れる濁声に怖気立ちました。
呼吸が浅くなり、鼓動は速く、自分の身体が自分のものではないように雑踏が遠くなり、視界が霞み、身体と心が分かれてしまうような眩みによろめきました。
「今のお前なら俺がもらってやっても良いぞ。買ってやっても良い。親に似ず出来が良かったようだな」
男が伸ばす手には指が欠けていたこと、傷があることが私に男の正体を理解させました。
両親を、引いては自分の暮らしを壊し尽くした元凶の蝦蟇であると。
種々の感情が巡るとともに抑えきれない憎悪は吐き気と眩暈をもたらし、崩れ落ちんとする私に男の手が掴み掛かる頃、騒がしさに顔を覗かせたお嬢様が普段の淑やかさからは信じられない剣幕で男の腕を扇子で打ち、私との間に立ち塞がったのでした。
「私のともに何か御用かしら」
一寸の間、男は呆けたように眼を見開き、間の抜けた面をしておりました。
「いえなに、倒れそうになったこの娘を助けようとしただけですよ」
お嬢様と私の顔を交互に見遣り、合点がいったとばかりに一際嫌な顔で、打たれて血の滲む手を擦りながら、纏わり付くような陰湿な視線を再び私へと向けたのでした。
「そういうことかい。何もないお前がどうやって取り入ったんだ? まさかその身体を売ったわけでもねえだろう?」
くっくっと愉快げに顔を歪める男の眼前へ突き出された扇が眉間を打ち、眼を潰すことすら厭わない一閃に男が蹲りました。怯んだのも一瞬、男が怒りに任せてお嬢様に掴み掛かれば華奢な身体は一息に吹き飛び、馬乗りになろうという男をすんでのところで制したのは、私が軒先を借りていた店の主でした。事ここに至って漸く取り巻きの大人達も慌てて動き出したのでした。
熊を思わせる大きな身体に違わず軽々と男を組み伏せた店主はお嬢様に向き直ります。
「お嬢様もここはどうか……」
怒り冷めやらぬお嬢様は助けに入った店主すら睨み付け、ややともすれば店主にすら手を出しかねない気配を隠すこともなく息を荒らげておりました。
「その男を許せと仰る。私の共への侮辱が片眼程度で許されるとお思いか」
礼儀正しくおとなしやかなお嬢様の静かな怒りに誰もが言葉をなくし、野次馬も道行くも眼を丸く、あるいは何も見ていなかった視線を外して足早に過ぎ去ってゆきました。
お嬢様が怒りを顕わにするのは、自身に向けられる事物よりも、家族や連れの者、親しい者への悪意に対してでありました。渦中の私は気付く由もありませんでしたが、後に振り替えると、その中に私が含まれていることは非常に幸いであり、私などを庇ってくれたお嬢様への感謝は生涯を尽くしても、お返しできるものではありませんでした。
漸く動けるようになった私は未だ地に倒れたままのお嬢様へと駆け寄りましたが、手を取り、衣に付いた埃を払う最中、破れた袂の奥に広がる血溜まりを眼にした私の取り乱し様はありませんでした。冷静を失い慌てふためき、涙すら浮かべる私を撫でながら、大怪我をしたはずのお嬢様が労ってくださいました。
お嬢様へ気を取られた店主の隙を突いて男は逃げ出し、憶えてやがれ、と敵意を剥き出した捨て台詞を寄越していきました。
「ご主人、お騒がせ致しまして」
「お嬢様に謝っていただくことではありません。今、手当を」
「いえ、この程度。あの娘に比べればどうということはありません」
手弱女の細腕から流れる雫は衣のみならず、地面へも垂れるかと思われましたが、当の本人はあっけらかんとして見えました。苛む私を傍から離そうともせず、掻き抱いたまま店主と言葉を交わしていらっしゃいました。
「そういうわけには参りません」
店主は奥から薬箱を持って来るなり手際よくお嬢様の腕を処置してくださいました。本来であれば世話人の私がお嬢様をお守りしなければならないはずが、逆に守られてしまうと云う体たらくであり、私は一層打ちひしがれたのです。
店主はお屋敷までの同伴を申し出ましたが、これ以上手間を取らせるわけにはいかないとお嬢様は丁重に断り、帰りの道でもぐずる私を労っている内にお屋敷へ辿り着いたのでした。この一件は我々がお屋敷に戻る頃には家人の耳にも届いており、私は元よりお嬢様までもが大目玉を食らうこととなりました。
家人の保護も含めて使用人の仕事であるはずなのに、それがために家人に怪我をさせるとはどういうことか。使えぬ使用人など捨ててしまえと険呑な言葉に私は針の筵と居たたまれなくなり、他方お嬢様はどこ吹く風と涼しいお顔でご両親の激怒を静観していらっしゃいました。
件の出来事についてあることないことが胸鰭、背鰭、尾鰭と加わり、想像に任せるに従い原型を留めないまでに話は大きく変わり、直接問い詰められても口を開かない私の態度も相俟って、余計に女中が私へ向ける感情も大きくなって参りました。
それでもお嬢様はご両親の話を笑顔で拒絶し、引き続き私を手元に置いてくださいました。なにゆえお嬢様が私に価値を見出しているのかは未だにわからず仕舞いでした。
「お嬢様。この度はご迷惑をお掛け致しまして、申し訳のしようもございません」
手を衝き深々と頭を下げた私に対するお嬢様は何も云わず、行燈の灯心が燃える音だけが妙に大きく耳に届きました。沈黙が重く、お嬢様の声を待つ私には一時すら永遠のように感じられました。
「顔をお上げなさい。何故お前が謝る必要があるのですか。悪いのはあの男なのです。お前に無礼を働いたならず者に、どうして私が怒らないはずがないでしょう。いいですか。お前が悪いのではないのです」
正面から見据えるお嬢様の眼に私を責める色は見えませんでした。
医者に手当を受けた右腕の傷は落ち着いておりましたが、袖の揺らぎにちらりと覗く包帯の影が否でも昼の一件を思い起こさせました。普段にも増して血の気のない蒼白い顔は一層美しく、妖艶であり、黒い瞳にはどこまでも落ちてしまいそうな深さがありました。
「どうしてお嬢様は……」
私を大切にしてくれるのですか。私には何の価値も、取り柄もないのに。剰えお嬢様の美しい腕に、みすみす傷をつけさせてしまいました。
幾度となく巡らせた言葉は音になる前にお嬢様に遮られ、自戒を含めた私の問いは霧散致しました。頤に添えられた白磁の指が私を縛り、愛用なさっている沈香が強く香りました。
「お前はわたくしのものなのだと云ったでしょう。わたくしがお前の価値を見ているのです。それとも、わたくしの眼を否定するつもりですか?」
お嬢様の言葉に応えられるほどの言葉を私は持ち合わせておりませんでした。
「つまらないことを考えるのはお止めなさい。お前は居るだけでわたくしのためになるのですから。だから、わたくしに声を聞かせなさい」
両親にすら褒められたことのない私の声の何がお嬢様の琴線に触れたのかは未だ判然としませんけれど、自分が存在して良いとお墨付きを与えられて嬉しくないはずがありませんでした。
「責任を感じているというのであれば、わたくしがお前の同じところに傷をつけてあげましょう。それでお前が罪悪感を抱かなくなるのであれば、わたくしはお前を傷つけることも厭いませんよ」
三面鏡の抽斗から匕首を取り出し、穏やかに苦しさを隠して告げるのでした。明滅を反す刀身は輝き、眼の覚めるような鋭さを孕んでおりました。
私は自身のためにお嬢様が傷ついたことに大きな罪悪感を抱きましたが、お嬢様が私を傷つけてくだされば、また耐えられないほどの罪悪感を抱くことに容易に思い至りました。
ですから私はお嬢様から匕首を奪い、躊躇いが出る前に、一息に、雑草を手折る程度の軽やかさで、自らの腕を裂いたのでありました。
「これで帳消しになるとは思いませんが、今回の件、お嬢様への罪悪感はこれきりに致します」
「お前の覚悟、しかと受け取りました」
音もなく流れ落ちる血液が一滴ごとに罪悪感を拭い去ってくれる気がして、手当も等閑に夜の井戸端にぼんやりと佇んでおりました。ねっとりとした雫が指先へと伝い、土を打ち鈍色の花を散らし、月影に色を深めました
お嬢様は一枚羽織物を増やして、縁側から私を見守ってくださいました。行燈も消え、灯籠の火もない、月だけが煌煌と世界を照らし、家人も寝静まり二人だけの夜を知る者はおりませんでした。
お嬢様と同じところに、同じ大きさの傷をつけ、そうすることで一緒になれるような気がした、児戯にも等しい行為でありましたけれども、永遠に消えることのない痕は明確に私の心境に変化をもたらしました。
あるいは以前からお嬢様に感じていた想いを理解できたのかもしれません。
お嬢様と同じところに傷を拵えた私に芽生えた感情は、お嬢様への親愛に由来するものだと意識するようになったのです。幸福感がすべてであり、罪悪感や申し訳なさは既に過去の物になっておりました。
家よりも、旦那様方よりも、お嬢様への感情が何にも先立つ、行動する根拠となったことも私の感情を物語ります。
「お前は馬鹿ですね。こんな傷をつけたところでわたくしの他に納得する者はありませんよ。本当に……わざわざ痛い思いをするなんて馬鹿な娘です」
お嬢様の慈しみの前には傷の一つなど些末なものでありました。
男の一件以降、お嬢様の外出時には別の女中が同伴するようになり、あの一日が私の唯一の外出になったのです。これまでと変わらず、お嬢様の不在時には庭の掃除などに努め、お帰りを今かと待ち侘びる生活へと戻りました。
幸いにしてお嬢様に襲い掛かった件の男が姿を見せることはなく、次第に平穏を取り返すお屋敷は年越しに向けての浮かれた空気が其処彼処に漂っておりました。使用人の多くが郷での団欒を楽しむために、仕事の残しがないようにこれまで以上に忙しなく、上を下への大わらわでありました。
「お嬢様。お屋敷で煙草をお吸いになる方はいらっしゃいますか」
庭掃除を行っていたある日、池の灯籠の足許に煙草殻が落ちているのを見つけ、お嬢様へ報告したことがありました。
「煙草ですか。 お父様も、お母様も嗜みませんし、使用人の中にも飲む者はいないはずですが、どうしました」
火鉢を挟んで百人一首の札を繰るお嬢様は顔も上げずに静かに答え、冬の澄んだ空気に心地好く声が抜けました。
「それは険呑ですね。使用人にはわたくしからも尋ねておきましょう。これからは特に用心せねばなりませんから。そう云えば昨日など、普段こちらに来ることのない御用聞きが参りましたよ。年の瀬のあれやこれで、誰も見当たらぬからと。まさか余所の者ではあるまいとは思いますけれど、いずれにせよ大事になりかねません」
本日よりお嬢様の腕からは包帯が解かれ、本人も清々としていらっしゃいましたが、私の腕には未だ包帯が残っておりました。躊躇わなかったのが悪かったらしく、私の方が重症と診断を受けておりました。
「では次はお前から始めなさい」
一束伏せた上の句を一枚読んではお嬢様が下の句を歌い、次の一枚をお嬢様が読んでは私が下の句を答える。私、お嬢様、私、お嬢様、私。二人の声が絶えずに響く夜の和室はさながら鳥籠めいて見えたでしょう。しかし我々の声は夕刻から降り止まぬ雪に吸われ、誰の耳にも届くことなく、溶けてゆくのです。
やがて二巡目を終える頃には火鉢の炭も尽き、一際冷えた今宵はお嬢様の蒲団に入るように命じられました。
「傷の具合は如何ですか」
「もうよいはずなのだけれどね、たまに厭な痛み方をする」
雪の膚に残る痕は紅く、お医者様のお話では元通りの繊細な膚を取り戻すことはないとのことでした。その言葉を耳にした瞬間の私の嘆きは恐らく家族も家も失ったあの瞬間よりも大きかったのです。今の私にはお嬢様がすべてでありましたから。
並べた枕の間に擡げられた細腕は氷点の夜気に冷え切っており、掌を大切に包み込み、やがて手首へ、腕へと場所を変えて温めておりました。戯れに襟口からしなやかな指が差し込まれた瞬間など、驚きのあまり上げたあられもない嬌声が、どうにもそれがお気に召したご様子で、妖しく可憐な笑みを浮かべるお顔は心底楽し気でいらっしゃいました。
灯の揺らぎが映った、赤子のように澄んだ瞳は黒く、姿人形めいた容貌に改めてどきりと胸が高鳴るのです。柳の眉に頬のすっきりと、鼻梁の通った、頤細く、小作りな造形はいよいよ人形めいており、ちろりと舌先の撫でた口唇の色っぽさは正に傾城の美女も斯くや、というお姿でした。そっと覗いた白歯には今夜は血潮が映えることでしょう。
よからぬ想像をしたことを咎めるようにお嬢様の掌が私の首に触れました。
左手を慈しみ、お嬢様の右手を取ると嫌でも眼に入るのが、私がために拵えてしまった痕でした。手当というものがどれだけ意味を成すかを試すように、私はお嬢様の痕へと指を添わせるのです。
元から低い体温は深々と重なる雪夜に晒され、さらに冷えていらっしゃいました。
お嬢様の痕に重ねた指が止まります。艶やかな膚には肉の引き攣れが新雪を穢すように一条走っておりました。躊躇いを含んだまま手首から肘へと、指先を重ねてゆきます。膨らんだ肉の、明確に感触の異なる境界を、撫でても元通りにはならないとわかっていながら、触れずにはいられませんでした。ゆっくりと肘へ、倍の時間をかけて手首へ。申し訳無さだけではない感情が込み上げては遣る瀬無さに心が沈みます。
「泣く必要などありません。寧ろわたくしは誇らしくすらあるのですよ。お前を守ることができたのですから」
涙の枯れるまで泣き続け、鼻を鳴らし、感情の吐露に疲弊の重なった私は、お嬢様と指を絡め、腕を絡め、袂を絡め、四つの袖の色が混ざり合うように朝を迎えていたのでした。腕を回された私の眼前には抜けるように白いお嬢様の咽喉があり、沈香に混ざるお嬢様の香りは私を再びの微睡へと誘うのでした。お嬢様の温もり心地よく、香りは儚く、静かに私を慰めてくれました
「お前は暖かいね。おかげでよく眠れたよ」
ずっと早くに眼を覚ましていたお嬢様は私の髪を撫で付けながら頭を抱き、密着することで一層強くなったお嬢様の華やぎに、私は夢を見る心地でお嬢様の声を聞いたのです。
「お前はかつて池の畔で手鞠歌を歌っていたでしょう。わたくしはその声を聴いたことがあるのです」
思わぬ言葉に私は息を潜め、次の言葉を待っておりました。まさかお嬢様が私のことを知っていたなど、露ほども知らず、お嬢様も悟らせることはありませんでした。
「雨の降る中で傘もささず、髪も衣もしとどに濡れて、池ではなく、山ではなく、もっと遥かを見つめてホオジロの美しさで歌っていました。細い咽喉から響く音色はとても澄んで、聞くほどに心地よく耳を打ち、永遠に聞いていたいと思わせたのです」
私はかつて誰に聞かせることのない手鞠歌を歌っておりました。よくしてくれた近所のお姉さんから口伝えに憶え、その想い出に浸るように、人の気配のない瞬間を狙って歌ったことがありました。
続くお嬢様の言葉に私は驚くばかりであり、私の幸福は、私が思うよりも遥かに稀な巡り会わせの果てにあったのです。
わたくしの知っている手鞠歌とは別かと思われるほど、お前の音調は軽やかで明珍にも負けず、絶え間ない雫に落とされることもなく、天へと昇り、厚い雲を縫って晴れ間が覗くかという爽やかな奏でありました。それだけならば、わたくしもそれきりだったでしょう。
けれど、去り際にちらりと覗いたお前の表情に、わたくしははっとしたのですよ。
わたくしの理想を見つけたと。
お前の声は、お前の姿は、お前の瞳は、瞬く内に私を虜にしたのです。
密やかに佇み、清かに歌う姿を木の陰から見遣り、すっかり見惚れていたのです。
しかしお前は直に隠れてしまい、あの日以来、わたくしはお前の姿を探すようになったのです。
やがて人伝に知りました。お前によく似た娘が孤家にあると。あの娘であればいいと思いました。けれどもその娘は家族も失っており、其の日暮らしさえままならないというのです。
わたくしはお前の声を、お前を失いたくはなかったのです。
その一心で根回しをして、抜かりなく整え、お前を迎えました。他の者に声を聞かせるなというのは、わたくしの醜い独占欲の現れです。
微睡の中で初めて聞くお嬢様の独白に、私の中で様々の事柄が繋がりました。
住む世界の異なるお嬢様が私の前に現れたことを。
みすぼらしい浮浪児めいた私を疑うことなく迎えたことを。
お嬢様が私の声を気に入ったという経緯を。
口を利けないことにして、お嬢様以外には口を塞いだ理由を。
自身を顧みず、暴漢に立ち向かったことを。
私がお嬢様への感情を抱くよりも先に、お嬢様は私へ同様の感情を抱いていたと知ったのです。
年明けの喧騒にも一段落がつき、遠方からやって来ていたお嬢様のご兄弟も、それぞれの家に戻られました。お盆以来久し振りに戻っていらしたご兄弟方が滞在の間、ほとんどの時間私は自室に籠もっておりました。
ご家族、ご親族でのお食事の間も、お嬢様は度々私の部屋を訪ねては溜息を零し、珍しく疲れた顔をしていらっしゃいました。宴の気配は凍てる風に乗り、あるいはお嬢様の衣に染み、私の元へと運ばれるのでした。
「お疲れでいらっしゃいますか」
「そうね。わたくしはお兄様たちと馬が合わないの。それに人に酔ったのかもしれないわ。だから少しだけ、こうさせなさい……」
云ってお嬢様は私の身体に手を回し、私も同じようにお嬢様を抱き締め、互いの存在を静かに確かめるのでした。
あの朝以来、私とお嬢様の関係は少しく変わったように思われました。理由もなく私の部屋を訪れ、何をするでもなく同じ時を過ごすのです。それは主従と云うよりも、友人、姉妹、あるいは……。
そして酷く草臥れたお嬢様が寝入るのを見届けて、私も床に就いたのです。
夢の世界を泳いでいた私を現実へと引き戻したのは、熱と息苦しさ、めまぐるしい明るさの強襲でした。微睡む暇もなく覚醒し、考えるよりも早く、隣室を目指しました。既に私の部屋にも煙は及び、袖を口元に覆いますが、今は懐かしい香りは消え、煤けた重さがあるばかりでした。自分の居場所さえ失ってしまう赤い闇の中、隣室で眠っているはずのお嬢様を目指したのです。
障子紙などとうに燃え落ち欄間の彫刻も朽ちゆく中、降り注ぐ火の粉にも、着物に溢れ火が移るのにも構わず、お嬢様を目指しました。
辿り着いたお嬢様の部屋は私の部屋よりも火勢いが強く、燃えていないものがないと思われるほどであり、この部屋が火元かと思われました。特別燃えていたのは縁側の方向であり、そちらからは逃げ出せようもありませんでした。
部屋の中央、蒲団から這い出る途中で力尽きたようにお嬢様が臥せており、傍らには私がお嬢様に聞いていただいた読み物の欠片が散らかっておりました。
「お嬢様っ。お嬢様、お嬢様。お返事をしてくださいませ」
口唇が触れんばかりに近寄る頬に感じるのは、爛れたお屋敷から吹き寄せる熱波のみであり、私の求めるお嬢様の吐息が掛かることは終ぞありませんでした。
お嬢様の身体を抱えた私の眼の前で、和室の天井が落ち、廊下への導線は断たれたのです。
けれどこの瞬間の私の感情を理解できる者などおりませんでしょう。私は紛れもない安堵を覚えていたのですから。
お嬢様との離別をほんの数瞬、永らえることができたと。
炎が唸り火の粉は赤々と弾ける、灼熱が壁を作る地獄には蜘蛛の糸すら垂れては来ませんが、お嬢様を一人残すことなく、私一人が残ることもない今は、地獄にあってなお、幸いであったのです。
四方を囲まれた私は、僅か残された空間へと伏せ、容赦のない火炎にお嬢様を晒すまいと覆い被さり、お嬢様へ感謝と想い出を語るのです。
一枚炎を隔てた向こう側で旦那様がお嬢様を呼ぶ声が幽かに聞こえた気が致しました。
お嬢様に褒めそやされた私の声で旦那様を呼べば、きっと助けに来てくださるでしょう。
しかし。
それでも。
衰えを知らぬ炎の中であっても。
助かる可能性があったとしても。
私は口を開くことはないのです。
私はお嬢様のものなのですから。
私の声はお嬢様のものなのですから。
命を迫られていても、約束を違えることなどできようもありません。
ねぇ、お嬢様。
まだご一緒してもよろしいですか。