・・・・・・おなか、すいた
バスの窓からビル街を眺めながら、思いついたお話。
とある少女と、世界の終わり。
いつものように、過ぎていた日々。
変わらぬように、思えていた日々。
それは、とても残酷で。
それでも、多分幸福で。
そんな事は、わかりきってたはずなのに。
それでも、そんな事に気が付いたのは、
全部が終わった後だった。
これは、ただのお伽話。
何処にでもある、終わりのお話。
何処にも居なかった、私のお話。
まるでそれは悲劇のようで。
けれど多分、これは喜劇で。
それでも、私にふさわしいものではあったのだろう。
こんなありきたりの何処にでもある言葉で飾れる結末が……
私に与えられた、最後の時間だったのだから。
だからこの物語は、きっとこんな、ありきたりな定型句で始めるべきだ。
あの日、私達の世界は、横向きになった。
◇
またあの日の、夢を見ていた。
もう帰ってこない日々を思うほど、センチメンタルな人間では無いと思っていたのだけれど……案外そうでもなかったらしい。
朝の陽ざしを受けそんな事を考えながら、ビルの壁面で、
彼女――メイは目を覚ました。
「………おなか、すいた」
そう言いながらメイは、自分のお腹にロープを巻きつけ、ロープの先に作った輪っかに片足をひっかけて、ビルの一階にあったコンビニの自動ドアの中に飛び込む。
急いで、といった意味の比喩表現、ではない。
文字どうり、飛び込んだのだ。
何しろ彼女が入ろうとしているコンビニは彼女の足元にあり、当然その自動ドアをくぐって中に入るには垂直に落下するしかないのだから。彼女がロープを巻いたのは、そうしないと二度と上がって来れないからだ。
つい数週間前まで挑戦しようとも思わなかった、ロッククライミングじみた芸当に、慣れきってしまった自分に乾いた笑みが漏れる。
世界の終わり、なんて夢物語だと思ってたけど。起こってしまえば単なる日常でしかなかったようだ。
どんな世界だって、どんな日々だって、生きているなら「日常」ではあるはずだから、当たり前だろうか?
随分と長く続いたらしい人間の世界だが、終わるのは一瞬だった。ある日、唐突に、人類は滅びたのだから。まるでお伽話のように。
想像もしなかった程に滑稽で、それでいて残酷な方法で。
世界が、横向きになったあの日から、もう何日たったのだろう?
かつて沢山の人が歩いていたアスファルトの道は左側に壁のようにそびえたち、足元にはビルの壁面があり、頭上には同じく沢山のビルが並んでいるのが見える。
もし右側にまっすぐ行って、そのまま落ちてしまったら、きっと戻ってはこれないだろう。文字どうり、どこまでも落下する事になるのだから。
まるでたちの悪い夢みたいなこの世界が、メイの生きる現実だ。
夢だったらと、そんな事を思い描くのはもうやめた。そんなことしても、何にも変わらなかったから。
何より、真上から差し込む朝日が、この現実が夢じゃないと教えてくれる。
本当に、滑稽だ。
まるで物語みたいだと、いつものようにそんな事を思う。
どうして、と問う事は、きっと無価値だ。
そもそも頑張って理屈を並べた所で、
下にしか働かないと言われていた重力が横向きに働いている時点で、
人の理屈がどこまで正しかったのかも怪しいものだ。
人は長い時間をかけて、
いったい何を見つけたのだろう?
いったい何を探したのだろう?
それすらも、分からないのだから。
だから、理屈なんて、分かるわけない。
分かっても、意味がない。価値もない。
そんなものじゃ、何にも変わらないから。
なんで、と嘆くことも、きっと無価値だ。
そんなことしてたって、何にも変わりやしない。
そんなこと言ったって、主人公にしかなれやしない。
たった一人で悲劇のエンドロールを飾ったところで、何の価値もないだろう。
観客すら居ないのだから。
かつて少年少女が一度は望んだ終末世界は、笑えてくるくらいに不幸に満ちていて。
けれど私は生きていて。
どんな世界になろうとも、やっぱり世界は残酷で。けれど、それでも多分、多分私は、幸福なのだ。
まだ生きているのだから。
生きている事は、きっととても幸福な事なのだから。
きっと―――きっと……。
◇
ロープを伝いコンビニから這い上がって、賞味期限切れのサンドイッチを齧る。
賞味期限が切れて何週間もたっているくせに、全く腐っていないこのサンドイッチには何が入ってるのだろう?そんなどうでもいいことを考えながら。
どうせ腐ってても、ほかに食べるもの無いんだから、と考えない事にした。精神衛生上、その方が良いだろう。
ここのコンビニの食べ物も、このサンドイッチで最後だ。
そろそろ、移動しなきゃいけないらしい。
どの建物が壊れそうかなんて分からないし、足元のビルが壊れた時が、多分私が死ぬ時だ。だからあんまり移動したくはないのだけれど…
移動せずに餓死するよりはましだろう。
たとえ次の数秒を生きている確率も分からない移動なのだとしても。ここにいたってその確率は変わないのだから。
そう考えて、すぐにメイは歩き出した。
荷物なんて、ロープと小さなリュックくらいのものだ。
荷物は少ない方がいい。
どんな時でも。どんな場所でも。
背負うものがたくさんあると、人は歩けなくなってしまうものだから。
◇
太陽が真横にやってきた、どうやら昼間になったようだ。
この時間帯になったら、次の日まであんまり移動はしたくない。前が良く見えない状況で移動したら、ほぼ間違いなく足場のビルから落下して死ぬ。
この時間帯を過ぎると、足元から光がさすようになるから、もっと危険だ。下から光がさすと、足元が見えなくなる。もし足元の窓を踏み抜きでもしたら、まず上がってはこれない。そのまま建物の中から出られずに餓死する羽目になる。
今日の移動はここまでにしておくべきだろう。
「………おなか、すいた」
拠点にしていたコンビニのあるビルを出発してから数日たった。
ご飯はまだ見つからない。
途中雨が降ってくれたおかげで渇き死にはせずに済んでいるけれど、このままだと死ぬのはもうすぐだろう。
焦燥もなくそんな事を思う。
自分の生死がかかってるくせに、随分他人事のようだと自分でもそう思うけど、
そうとしか思えないのだから仕方ない。
そもそも、感情の起伏はあまり無い性分なのだ。
世界が終わった時には随分たくさんいたはずの人が、今ではほとんど見かけない。
多分、死んでいっているのだろう。
死体でも転がっていたらいいのだけれど……と考えて、人間離れした自分の感性に苦笑する。死体を食べ物としか見ていなかったからだ。そもそも死体があったとしても火が起こせないのだから意味がないし、腐っている可能性の方が高い。
世界が終わってすぐの頃には、人肉だって食べた。それしか食べるものが無かったし、食べなかったら多分死んでた。
食べたかったわけでは決してないし、おいしいものでもなかったけれど。
食べる前に随分悩んだのは、人間らしい感性がまだ残ってた証拠だろう。
とは言え、食べた後に吐き気も罪悪感もあんまり感じなかった時点で手遅れかも知れないが。
生来、あまり人間らしい方ではないのだと思う。
世界が終わる前からそうだった。
世界が終わる前から、メイは一人ぼっちだった。
一人ぼっちで、居場所のない世界で生きていた。メイの感性は、多分あまり人間らしくはなかったから。メイは誰にも分かってもらえなかったし、誰の事も分からなかった。
だから、まだ生きている。
一人ぼっちで、生きている。
これまで同じように。
一人ぼっちで、生きていられる。
変わり果てたこの世界で。
「なぜ君は生きようとするの?」とそう言ってビルから飛び降りた人を思い出す。
世界が終わった後も生きていた人の死因でもかなり多かったのが、自殺だった。
とは言っても、メイも世界が終わった後の最初期の記憶はあまりないから本当かは不確かなのだけれど。メイ自身も混乱していたのだから仕方ない。
死ぬことが確定しているのはどんな時でも一緒だが、その時が近いと突きつけられて冷静でいられる人は稀だ。
まして、どうあがいても生きていく事が不可能な事が明らかなこの状況で、パニックにならない人なんてまずいないだろう。
メイ自身は、自殺する事をおかしいとは思っていない。
人間らしい、自然な行動だとさえ思う。
どうあがいたところで、ひと月も生きていられたら上々、なんてことは、この状況になった時点で最初から明らかだった。どうせ苦しんで餓死するくらいなら、飛び降り自殺の方がいい、そう考える事は多分間違いじゃないし、早まった行動だとも思わない。
だって笑えてくるくらい絶望しかないんだし。生き残れる可能性なんてないんだし。
こんな世界で生きる事を無条件に強要するなんて、むしろ残酷な事でしかないだろう。
生きてる方がいい、なんて結局生きてる事が普通の世界でしか通じないものだから。
何が普通で何がおかしいか、何が正しくて何が間違ってるか。
そんな理屈は結局のところ、多数決を飾り立てただけの屁理屈だ。
じゃあ何故、自分は生きているのだろうか?
別に生きたいと思ったわけでもない。
死ぬなら、それでもいいとさえ思う。
そもそも、メイにとっては生死なんて初めからどうでもいい問題だ。
進んで死にたいわけではないので、死の危険は避けてるが。
結局の所メイがしている事は、
ご飯を食べてないから、おなかがすく。
おなかがすいたから、ご飯を探してる。
ご飯を探しているから、結果的に生きている。
ただ、それだけだ。
それだけの事を繰り返して、時々自分が生きてることを思い出す。そんなまるで機械みたいな生活を送っている。
かつてと何も変わらない。
やっぱり自分は人間らしくは無いのだろう。別に、人間らしくありたいと思った事も無いのだが。
別にそれでもいいかな、と思っていたら、少しずつ眠たくなってきた。
ご飯を食べてないせいで、少しずつ自分が衰弱していくのを感じる。
このまま眠ったら死ぬのかもしれないけれど、別にいいかな、とそう思った。
だって、眠たいし。
そう考えて目をつぶる。空腹感や倦怠感が意識と共に次第に薄れていく中でふと、
それだけだったかな?と思った。
◇
窓の向こうで、たくさんの人が流れ落ちて行くのが見えた。
怒号や悲鳴が鳴り響いて、建物が壊れていく音がした。
自分はただそれを、自室の壁にたたきつけられたまま呆然と眺めている。
壁にたたきつけられた体が痛む気がしてうめき声をあげるけれど、多分それは気のせいなのだろう。
分かっている。これは夢だ。
あの日の夢だ。
世界が終わった、あの日の。
やっぱり、自分はセンチメンタルな人間なのかな、と思う。
悲鳴や崩壊の音が鳴りやんでから、メイは壁に立ち、横にある窓を開け人々が流れ落ちていった先を覗き込んだ。あの時と同じだ。
突然の事に混乱していたのだろう。
あるいは、突然行われた大掛かりな映画の撮影みたいなもので、流れていった人もネットか何かに引っかかって笑ってるんじゃないかと、そんな現実離れした妄想もあったのだろう。
けれど、そこに広がってたのは、まっすぐ切り立った断崖だった。
所々に人が引っかかっているのは見えたけど、ピクリとも動かない。
映画の撮影じゃないんだと、そんな場違いな事を考えていた。
そしてその底の方には、たくさんの人が積み重なっているのがぼんやり見えた。
多分生きてないだろうな、と思えるくらい沢山の血が流れていた。
まだこの時は、夢を見ているような感覚だったのだろう。
起ったことがあまりにも非現実的だったから。
けれど、泣き声が聞こえたのだ。
覗き込んでいた人の山の中から。
目を凝らすと、幼稚園児くらいの血まみれの小さな子が泣いているのが見えた。
手も届かない断崖の底で。
その子が助からない事は明白だった。
あんな深いところから、上がってこられるわけがない。
まして、助けに行けるわけもない。
生きていられるわけもない。あんなに血を流しているのだから。
あの子は、あそこで誰にも看取られずに死ぬのだと、そんな事実を直視した。
その時初めて、メイは死を意識した。
この世界で、人が死ぬのだと、そんな当たり前を意識した。
これから自分も死ぬのだと、それは避けようがないのだと、そんな当たり前を直視した。
慌てて窓から離れた。
まるで死から逃げようとでもするかのように。
まるで、生きようとでもするかのように。
怖いと思った。
悲しいと思った。
辛いと思った。
理不尽だと思った。
あり得ないと思った。
そんな感情に体が震えて、まともに立つことすら出来なかった。
自分がこんなに人間らしいなんて、考えても見なかった。
そのまま部屋の壁にへたり込んで、ずっと……ずっとふるえていた。
けれど、
何も変わってない事に気が付いた。
日が沈んで、また昇りかけてくる頃に。
怖い事も、悲しい事も、理不尽な事も、元の世界とおんなじだ。
世界が終わっただけで、何も変わってなんかないんだと、そんな当たり前のことに気が付いた。
真上から、朝日がさしたから。
世界が終わったって。人が滅んだって。私が死ぬことになったって。
朝日は昇ってくるのだと。
明日はやって来るのだと。
そんな当たり前に、気が付いた。
それは、とても残酷で。
けれど、とても幸福で。
それは、とてつもなく理不尽だったけど。
それでも、泣きたくなるくらい優しくて。
だから、何にも変わってないんだと、そんな当たり前に、気が付いた。
だから、生きてみようと思った。
これまでと同じように。
これからも同じように。
何にも変わっちゃいないんだから。
何一つ、変えられちゃいないんだから。
このままで。
私のままで。
ずっと……ずっと。
家具を足場にして、アパートの壁面によじ登った。見渡す景色は、すっかり変わってしまっていたけれど……やっぱり、何にも変わっちゃいなかった。
世界は、とても残酷で。
けれど、多分優しくて。
そんな当たり前は、
やっぱり、当たり前のままだった。
その時、メイは確かに思ったのだ。
きれいだ、と。
変わってしまった世界の事を。
それでも、変わらない世界の事を。
それでも、変われない世界の事を。
やっぱり、終わらない世界の事を。
だから、私も変わらずに生きてやると、そう決めたのだ。
そう生きられたなら……それがとても残酷な生き方なのだとしても……どんなに、間違った生き方なのだとしても……
それでも、きっと、きれいなんだと、そう思えたから。
忘れてしまった自分の事は、
やっぱりちょっとすっぱくて。
それでも、とてもまぶしくて。
それでも、とてもきれいだと、そう思えた。
生きてみたいと、そう思えるものだった。
だから私は、幸福なのだ。
生きてる限り、幸福なのだ。
幸福なのだと、私が決めた。
何にも変わらずに生きてやると、そう決めた。
そう生きる事は幸福なのだと、そう決めた。
そう決める事が出来たのだから……
やっぱりメイは、ちょっと変わった人間なのかも知れない。
◇
朝焼けに、目を覚ます。
どうやらあのまま死にはしなかったらしい。ここが天国や地獄じゃない可能性を否定できないので、本当に死んでないかは不明だが。
まあ、それはどんな時だって同じだ。
起き上がって、背伸びをすると、おなかが鳴った。
「………おなか、すいた」
さあ、ご飯を探しに行こう。
いつもと同じように。
この、ありきたりな終末世界で。
いつか終わるから生きていく。